ノベル用語解説

著 : 五十嵐 アキヒコ

「幻影隧道」の背景を遊ぶ


○隧道

 トンネルのこと。以前は、中国語と同じく隧道(ずいどう。または、すいどう)と呼ばれていました。今日ではトンネルと呼ばれることがほとんどですが、歴史のある物の正式名称は「○○隧道」のように表記され、今日でも死語になっていません。

 舞台となっている奥多摩は、小河内ダム建設時に橋と山岳トンネルが多く造られました。


○小河内ダム

 正式名称は小河内(おごうち)貯水池。奥多摩湖とも呼ばれ、東京都西多摩郡奥多摩町から山梨県にまたがる人造湖。

 明治維新以降の東京は、人口の急激な増大で水不足が深刻な問題になっていました。水資源の確保は、歴史的に見ても人口が大規模に増加した大都市が必ず抱える問題となっており、東京は江戸時代末期には100万人が居住する世界有数の大都市でした。明治維新後、人口はいったん減少しますが、昭和初期には都市人口が500万人を超え、太平洋戦争転換期である昭和十七年には700万人を突破していました。

 現在の東京の水源は利根川水系を主としていますが、当時は東京を流れる多摩川を主な水源としており、渇水期には飲み水の安定供給に不安がありました。そのため、1893(明治二十六)年には、それまで神奈川県だった現在の多摩地域を東京府(当時)に移管し、玉川上水と奥多摩地域の水資源確保を行いました。

 東京市(当時)は1913(大正二)年第一次水道拡張事業を開始し、1927(昭和二)年に村山貯水池(多摩湖)を完成させました。しかし、この拡張事業中にも関東大震災で淀橋浄水場が被害を受けたり、第一次世界大戦の影響で工事が遅れるなど、簡単には安定供給が実現できなかったのが実情です。この工事中の1924~1925(大正十三~大正十四)年には都内で渇水が起こり、村山貯水池だけでは足りないと判断されました。さらなる水源確保のために、1934(昭和九)年に山口貯水池(狭山湖)を追加施行することを決定し、飲み水の安定供給に腐心していました。1937(昭和十二)年に全ての工事が終わり、第一次水道拡張事業を完了させます。

 しかし、東京の人口増加はそのまま続き、第一次水道拡張事業が完了していない昭和初期には、このまま推移すれば二つの貯水池が完成したとしても、早期に深刻な水不足が起こるとの懸念が広がり、1938(昭和十三)年に第二次水道拡張事業をスタートさせることで増加する人口に対して水の安定供給を計ることになりました。

 多摩川上流にダムを建設し、新設される東村山浄水場へ送水することが決定されます。ダム建設予定地は1926(大正十五)年から調査が始まっており、最終的に好条件の揃った東京府(当時)西多摩郡小河内村が建設地に選ばれ、1938(昭和13)年に起工式が行われ建設が開始されました。

 しかし、1943(昭和十八)年に第二次世界大戦の激化により小河内ダム建設は中断されることが決定します。小河内ダム建設のために運び込まれていた資材は、村山貯水池と山口貯水池の爆撃に対する補強防護のために運び出され、人員はこれらの工事に従事することになりました。建設機材は海軍基地強化のために供出を余儀なくされ、ダム建設のためにはるばる奥多摩まで運び込まれた機材と資材は全て運び出されます。それから終戦後の1948(昭和二十三)年に都議会で工事再開が議決されるまで再開の目途は立たず、工事現場は数年に渡って放置されたままの状態になりました。

 終戦直後の東京は人口が300万人まで減少し、爆撃によって東京の水道施設は甚大な被害を受け、総水量の実に80%が漏水してしまうという状態で、ダム建設より先に都市の復旧作業が優先されるのは当然のことでした。時間が経つにつれ水道の応急復旧も進み、終戦直後のインフレも徐々に改善の方向へ向かうと、東京の人口は増加傾向を示し始めます。これらを背景に水需要の高まりから小河内ダム建設工事再開が決定されるのですが、再開後の建設は戦後復興の最中であり、改善傾向を示しつつも依然厳しい国内の経済状況下とあいまって、資材と資金の調達に苦しみながら、昼夜を問わない厳しい工事で急ピッチに進められました。1952(昭和二十七)年に、堤体のコンクリート打ちに使用する大量のセメントやその他資材を運び入れるための専用鉄道「東京都水道局小河内線」が開通し、1953(昭和二十八)年にダムコンクリート打ち込みが開始。その後、工事は順調に進み、着工から十九年の歳月と約145億円の巨費を投じて、1957(昭和三十二)年十一月に竣工式が執り行われました。

 ダム建設にあたり、湖底に水没した小河内村、山梨県丹波山村、小菅村の945世帯、約6000人の移住と、建設中に殉職した87名の尊い犠牲の下、現在でも夏の水需要期に東京都内へ安定給水の決め手となる重要な役割を果たし、都民の生活を支えています。


○小河内ダム資材輸送道路

 小河内ダム建設において、トラック輸送の重要な役割を果たした道は青梅(おうめ)街道でした。その歴史は江戸時代にまで遡ることができます。

 全国の城で見られる天守閣や城壁の白い壁を漆喰といい、石灰を用いて作られています。石灰岩を焼いたものを生石灰といい、これを粉末状にしたものを消石灰といいます。消石灰を水と混ぜ合わせ壁に塗ると、空気中の炭酸ガスと反応して硬化します。綺麗な白亜の壁を作るために、良質な消石灰は城を建築するにあたって不可欠な物でした。

 徳川家康は、1603(慶長八)年江戸城築城のため、青梅の成木村で生産されていた良質の石灰を供出するよう、八王子陣屋に詰める大久保長安に命じます。このため、青梅の成木村から江戸城へ石灰を運搬するため整備された道路が、青梅街道の始まりです。整備された当初の呼び名は成木(なりき)街道と呼ばれ、時代の流れと共に青梅街道へと呼び名が変わっていきました。

 当時の青梅街道起点は、内藤新宿と呼ばれる宿場(現在の新宿三丁目交差点付近で、この地点は五街道の一つ、甲州街道との分岐点であり新宿追分と呼ばれていた)で、甲州街道から分かれる形で整備されました。そのまま中野宿、田無宿へと続き、青梅宿、氷川宿を経て大菩薩峠(標高1897m、青梅街道最大の難所)を経由して丹波宿から現在の山梨県に入り、甲府の東に位置する酒折村(現在の山梨県酒折)で甲州街道に再び合流していました。甲州街道から分かれ、再度甲州街道に合流する青梅街道は、甲州裏街道とも呼ばれました。江戸から甲府へ出るにあたっては、甲州街道より道程が二里短く、関所が無く、越える峠は一つ(甲州街道の峠は二つだが、標高は二つとも大菩薩峠より低い)と利便性が高く、庶民にも頻繁に使われ、江戸時代から基幹道路として大きな役割を果たしていました。1869(明治二)年には、新宿-田無間に乗り合い馬車が開通し、多摩地区と都心部をつなぐ生活道路としての役割も果たしていくことになります。しかし、青梅以東のみ発達する形で、青梅以西は、1878(明治十一)年に難所であった大菩薩峠経由から柳沢峠(標高1472m)経由に道路開削が行われた程度で、明治大正時代に目立った開発は行われませんでした。

 小河内ダム建設の建設がスタートした1938(昭和十三)年頃の奥多摩は、多摩川の渓谷に沿って小さな集落が点在する静かな山村でした。鉄道も戦時買収が行われ国営化される前で、青梅電気鉄道が御嶽(みたけ)駅(現在のJR御嶽駅)までしか開通しておらず、輸送の根幹を担うであろう道路は、車で入れる幅に整備されていたのは氷川まで。青梅街道は氷川から小河内を抜け塩山(山梨県)まで延びていましたが、ダムの建設資材を運び入れるような大型の車が通れるようなものではありませんでした。(これらの旧道は「奥多摩むかしみち」の名称で、氷川から小河内までハイキングコースとして現存しています)

 設計された小河内ダムの堤高は150mで、昭和初期における他の国内ダムはせいぜい80m程度。この高さのダムはアメリカ以外では計画すら無く、国内最初の大規模ダム工事となり、正に国家威信をかけた大工事が予想されました。このクラスのダムは、設計などの技術面の難しさは当然のことながら、大量のセメントや骨材、鋼材などの生産と輸送手段、建設用重機械類の調達と輸送や設置と、綿密な事前工事が重要との結論が出ます。

 このため、ダムの建設を始める前に建築資材と重機を運搬する道路の整備が必要となり、検討の結果、輸送用道路と索道による輸送が決定。輸送用道路は青梅街道、古里村~氷川村間の拡幅工事と、氷川村からダム建設地までの付け替え工事が進めらました。氷川まで来ていた青梅街道を3kmに渡って延長し、小河内まで7本の隧道を建設(内6本は戦前施工)。さらに国道411号を湖畔に沿って伸ばし、ここに3本(最終的には9本、この3本は戦前施工)の隧道を建設しました。この輸送用道路は1938(昭和十三)年までに完成し、1936(昭和十一)年に竣工したアメリカのフーバーダム(建設当時の名称はボールダーダム、堤高221m)の建設に使われた大型重機の一部を格安で譲り受け、これらの重機輸送に使用。アメリカから奥多摩へ輸送されたそれらの重機は、輸送の途中でそれを見た沿道の見物客の度肝を抜き、腰が抜けるほど驚かせたというほど巨大なもので、これらの輸送に耐えうる青梅街道は、初期段階から輸送面で大きな成果を出すことになります。

 準備工事も終わり、重機や資材の輸送が始まり工事が本格化の兆しを見せた頃、太平洋戦争の激化により、ダム工事は一時中止(中止時における付け替え道路全体の工事進歩度は49%)され、再開時にはこの道路を使った建設資材運搬計画は、いったん白紙に戻されることになりました。検討の結果、より経済的かつ効率的な輸送を行うために資材運搬は専用鉄道で行うことが決定し、建設された道路は一般解放されました。

 この道路建設で作られた隧道は、戦前の未熟な建設技術を用いていて、険しい山を切り開きながら橋を架け、隧道を掘り進みというもので、非常に危険な工事でした。このとき作られた隧道には素堀の物もあることから、厳しい工事の状況が伝わります。


○東京都水道局小河内線

 小河内ダム建設開始時の奥多摩を取り巻く鉄道の様子は、青梅電気鉄道(当時の本社ビルが現在のJR青梅駅として使われている)が立川(現JR立川駅)~御嶽間(現JR御嶽駅)で運転を行っているだけで、鉄道の乗り入れそのものがありませんでした。この当時、日原(にっぱら)方面で産出する石灰石を運搬する目的で御嶽駅から氷川村まで約10kmに渡って電気鉄道を敷設する計画があり、この計画のために奥多摩電気鉄道株式会社が設立され、1938(昭和十三)年に工事を開始。この鉄道は、完成すれば小河内ダム建設に対して輸送の面で多くの利益があることから、東京市(当時)も完成を待ち望んでいましたが、資金繰りに行き詰まり、東京市が100万円の融資を行って建設の促進を助成し1943(昭和十八)年に開通。その翌年に戦時買収が行われ、国有鉄道となりました。この時点で、奥多摩の鉄道事情は現在のJR青梅線と同じ状況まで開発が進んだといえます。

 小河内ダム建設当初の輸送計画は、道路と索道による輸送となっており、セメントや砂の一部は国鉄氷川駅(現JR奥多摩駅)から工事現場まで索道を用いて輸送する計画でした。戦争激化により中止されていた小河内ダム建設が再開され、建設資材運搬計画が変更となり、輸送の確実性と費用を考慮した結果、専用鉄道が敷設されることが決定します。これが東京都水道局小河内線です。国鉄氷川駅から水根駅(現在の奥多摩水と緑のふれあい館付近)までの6.7kmの区間に、23本の隧道と23本の橋を通って資材運搬を行う。橋の長さ合計約1.1km、隧道の長さ約2.2km、最大勾配30%、起点と終点の高度差170mという難所を走る鉄道でした。

 鉄道の建設工事は国鉄に委託され、蒸気機関車(C11型蒸気機関車を使用。同車種のC111が青梅鉄道公園に現在も展示されている)を用いて輸送量は一日1000t以上の運搬能力を持ち、国鉄規格を用い将来電化可能する、などの条件が決定。さらに、急ピッチで進む小河内ダムの工事に合わせ、全線を8工区に分け8社による工事請負を行い、1950(昭和二十五)年5月に15ヶ月の工期を持って一斉に着工、1952(昭和二十七)年11月に全線開通を実現させました。小河内ダム自体の工事も大変な危険な工事でしたが、まだ開発が行われていない山岳地帯への道路や鉄道開発に伴う隧道工事はさらに危険が多く、工事が困難を極めたのは容易に予想できます。実際、8工区に分けられたこの工事は、山を切り出してスペースを作り、そこに作業所を設置して工事をするような箇所があり、切り出した崖の下に作られた作業所は落石が起これば作業所を直撃するような危険な場所で、工事に従事した人々は正に命がけだったといえます。

 開通後は、この専用鉄道の運転を東京都水道局直営とするか、国鉄に委託するかという問題点が浮上します。運転区間の約半分が隧道と橋梁という悪い路線条件。重ねて、多数の隧道を通過するため、蒸気機関車による輸送のため煤煙による乗務員の健康被害が心配され、国鉄職員の労働条件に対する不安が大きな問題点として取り上げられました。さらに、最大勾配30%はC11型蒸気機関車では登坂能力の限界に近いほど急な勾配で、輸送のために後ろに重い貨車を引いていることから車輪空転の危険も指摘されました。万が一空転が起こった場合はバックせざるおえなくなり、曲がりくねった路線を逆行する危険と、隧道内でこの様なことが起こった場合、蒸気機関車を用いていることもあり、長時間隧道内に留まれば乗務員が酸欠する可能性までありました。これらの要因から国鉄が業務委託に難色を示し、さらに費用の面からも東京都水道局直営で運転管理を行うことに決定します。

 こうして専用鉄道による輸送が始まったのですが、その後も苦労は絶えません。線路の保守点検を行うにあたっては、急勾配の上カーブが連続している路線で、山を切り出して敷設された部分が多く、竣工間もない頃という悪条件がいくつも重なり、土砂崩壊と落石に悩まされ続けることになります。資材輸送が完了するまでの5年半の間に148件もの土砂崩壊と落石が起き、運転されていた期間から計算すると、実に2週間に約1回という高い頻度だったことを物語っています。それでも頻繁な線路巡回を行い、関わる全ての人が事故防止に全力で取り組んでいたのですが、1956(昭和三十五)年11月4日奥多摩町氷川除ヶ沢397番地に差し掛かる場所で、大量の土砂崩壊が進行直前に起こり、運行していた機関車が土砂に乗り上げ脱線転覆事故が起こりました。この事故で機関車1両と貨車3両が約25m下の日原川に転落し大破。機関士や同乗の駅員ら合計6名が殉職する大惨事となりました。

 このような痛ましい事故を踏まえ、保線をさらに厳しくし、車両故障防止のための検査を厳重に行い(この結果、輸送に影響を与えた車両故障はわずか2件)、小河内ダム建設の要としての役割を担い続け、1957(昭和三十二)年5月10日に資材輸送を完了し、その役割を終えました。


○索道

 読み方は「さくどう」。空中を渡したロープを用いて輸送を行う交通機関のことを指します。身近な例では、ロープウェイ、ゴンドラリフト、スキー場などに設置されているリフトが索道にあたります。索道は二点間にワイヤーロープを渡して運用することから、地形の影響を受けにくく、急斜面に強いという特徴を持ち、現在でも山岳地における物資や人員輸送に多く用いられています。特に山岳地にある観光地では、高低差を体感でき、景観のダイナミックな変化から移動兼観光施設として高い価値を有します。

 小河内ダム建設開始当初は、建築資材の輸送に自動車道路と平行して索道の使用が決められました。建設地である奥多摩は山岳地で、建設が開始された段階では未開発に近い状態だったため、輸送の要として索道を用いる予定でした。設置予定区間は、国鉄氷川駅(現JR奥多摩駅)から工事現場までの区間。ダムの骨格となる鋼材は道路輸送を行い、鋼材建設後に行われる、コンクリート打ち込みの建築資材(コンクリートの材料となる砂利やセメント)を索道で輸送する予定だったため、道路の付け替え工事後、青梅線を氷川駅まで延長し、ここからダム工事現場まで索道を設置し、輸送を行う手順となっていました。しかし、戦争激化により索道設置前にダム工事そのものの中止が決定されます。

 終戦後、1948(昭和二十三)年に都議会で工事再開が議決されると、輸送手段の見直しが行われます。道路、索道、専用鉄道の三つが費用、輸送能力、確実性などの点で比較検討され、索道工事は中止となり、代わって専用鉄道の設置が決定されました。これによって、索道の建設は行われることなく、代わって同区間に敷設された専用鉄道が資材輸送に大きな役割を果たしていくことになります。

 このように小河内ダムで索道の輸送が行われることはありませんでしたが、ほぼ同時期に小河内ダムと同じような建設経緯を辿った丸山ダム(木曽川の上流、岐阜県加茂郡八百津町と可児郡御嵩町の境に位置するダム)では索道が輸送の要を担っていました。丸山ダムは1943(昭和十八)年に建設開始、1944(昭和十九)年に戦争激化により工事中止、1951(昭和26)年工事再開、1955(昭和三十)年に完成しています。資材運搬用専用線として丸山水力専用鉄道が敷設され、終点駅から工事現場まで索道を敷設。建築資材の輸送を行い、ダム建設の輸送において大いに力を発揮していました。

 小河内ダム建設資材の輸送に使われることのなかった索道ですが、完成後、別な形で復活することになります。小河内観光株式会社が川野ロープウェイ(通称、奥多摩湖ロープウェイ)の名称で観光利用のために索道を設置しました。奥多摩湖上を対岸に向けて渡されたその索道は、1962(昭和三十七)年に営業運転を開始し、関東方面の観光客を多く集めていたそうです。しかし、数年後には湖上横断の橋梁が完成し、自動車やバスで簡単に対岸まで渡れるようになると次第に利用客は減っていきました。奥多摩湖の対岸を渡りますが、その索道の高低差は60cm程度で、距離も600mほどのほぼ平坦で短い索道でした。他の索道が大きな高低差を持ち、景観の変化に富んでいる点と比べても観光施設としての価値が低く、営業開始からわずか4年11ヶ月が経った1966(昭和四十一)年12月に冬期休業の名目で運行を一時休止。その後再開することなく、1975(昭和五十)年に正式に運行休止申請が出され、その役割を終えています。

 山岳地帯でありながら、奥多摩と索道の縁は薄く、輸送は中止、観光施設としては短命に終わっています。


○奥多摩

 奥多摩湖を擁し、東京都に属する自治体で最大の面積を持つ奥多摩町周辺の呼び名。

 古くは多摩川の渓谷に沿って開けた土地に多くの集落が点在し、江戸時代には16の村が形成され、幕府の直轄領となっていました。特に御巣鷹山は幕府の直轄林とされ、鷹狩りに使う鷹の巣子を保護するためとして、一般民の立ち入りを禁止された山でした。この地には多くの温泉が湧き、昭和初期に刊行された当時の観光案内にも、小河内温泉という名で紹介されています。

 略歴は、1889(明治二十二)年に町村制施行により、氷川村、古里村、小河内村が発足。1940(昭和十五)年に、氷川村が町制施行し氷川町になり、1955(昭和三十)年に氷川町、古里村、小河内村が合併し、奥多摩町が誕生しました。

 都内からJR青梅線を使ったアクセスの良さもあり、登山者や観光客も多く、緑豊かな都民憩いの土地として愛されています。


○神戸岩

 読み方は「かのといわ」。昭和三十五年に指定された東京都指定天然記念物で、東京都西多摩郡檜原村神戸8020-2にあり、奥多摩の観光名所として有名です。

 神戸岩の名称から岩を想像しがちですが、実際は、神戸川が二つの堅い岩場にを挟まれて発達した渓谷のことを指します。長さ60メートル、幅約4メートル(谷底部)、両岸の高さは約100メートルの大きさを持っています。

 神戸とは大嶽(おおたけ)神社の入り口の意味を持っていて、その歴史についてもたいへん貴重ですが、渓谷として模範的な形状から学術的にも貴重とされています。


○鋸山

 読み方は「のこぎりやま」。同名の山は日本に複数あります。

 奥多摩の鋸山は、奥多摩湖東部に位置し標高1109m、御前山、大岳山、鍋割山と連なる尾根の一角を成しています。神戸岩の近くから林道鋸山線が頂上付近まで整備されていて、ハイキングコースとして有名です。

 御嶽駅方面からは登山電車も整備されており、都心部からのアクセスも良く、休日には日帰り登山に適した観光地として多くの人が訪れます。


○小河内ダム工事殉職者慰霊碑

 小河内ダムの建設工事で殉職した87名の供養のために建設された碑。小河内ダム展望塔の近くに建てられました。

 ダム建設工事は、当時の建設技術が未発達なこともあり、建設期間十九年の間にこれだけ多くの人が亡くなる非常に厳しく、危険な工事でした。


○屏風岩

 氷川渓谷にある岩のこと。同名の岩は日本に数多く見られ、奥多摩の物は氷川屏風岩と呼ばれています。JR奥多摩駅の裏側に位置し、都心部からのアクセスの良さから、ロッククライマーに好まれています。

 江戸時代の初めまでは、この屏風岩の横を通って山越えをするのが唯一の道でした。特産物輸送のために、元禄の頃に数馬の切り通しが開墾され、その後改修を続けて奥地との連絡が容易になったそうです。


○東京の歴史

 徳川家康が江戸幕府を開いたことにより、江戸時代における政治の中心地は江戸になりました。1868(慶応四、明治元年)年5月3日の江戸城開城によって、江戸は新政府の支配下に入り、同年7月1日に江戸府が設置されます。さらに、同年9月3日に江戸が東京に改称され、江戸府も東京府と名前を変えました。これが近代東京の始まりになります。

 1871(明治四)年に廃藩置県が行われ、京都府、大阪府と共に三府(三府は、首都あるいはその代替地と定義)の一つとして東京府が置かれます。同年の12月24日に旧東京府を廃し、現在の東京23区のうち世田谷区西部を除いた区域を管轄する東京府が発足しました(廃藩置県前と廃藩置県後で東京府という名称は同じだが、管轄区域が違う。一般的に東京府と言った場合、廃藩置県後の管轄区域を指す)。廃藩置県後も東京府の管轄区域は変化を続け、1872(明治五)年9月に多摩郡32村を編入したことで、管轄区域が定まりました。

 1878(明治十一)年になると郡区町村編制法が定まり、東京府が管轄していた区域は15区6郡に編制されます。さらに、1889年(明治二十二)年5月1日に市制特例により東京府下に東京市が発足。東京市の管轄区域は旧15区の区域となり、市制特例の特別市制該当区域ということで一般市とは違う行政が行われました(特別市制に該当する当時の市は東京府東京市、大阪府大阪市、京都府京都市の3つのみ。特徴として市長が置かれず、府知事がその職務を行った)。しかし、行政が一般市と違い、市会(現在の市議会)と行政が同一歩調を取りにくく、市会の多数意見が行政に反映されにくいという欠点と、地方自治が一般市より制限されていたことにより反対運動が大阪と東京で活発になり、1898年(明治三十一)年に市制特例撤廃法が成立し、東京市にも一般市制が施行されました。

 そして、1892(明治二十五)年に当時は神奈川県に属していた西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡(この三つをまとめて三多摩と呼称され、地域は現在の東京都市部にあたる)を水源確保のために東京都に編入することを建言。1893(明治二十六)年2月に法案が可決され、同年4月1日に公布され、ほぼ現在の東京都の境域が確定しました。東京府発足からめまぐるしく代わった管轄変化はここで一段落し、しばらくはこの境域内で東京府の行政が行われていきます。

 人口は、大正に入る頃には人口300万人を突破。この頃になると大東京という表現が頻繁に見られるようになりました。この大東京が指す地域は、従来の東京15区と5郡(東京府発足当時は6郡でしたが、この6郡のうち東多摩郡と南豊島郡は1896(明治二十九)年に合併して豊多摩郡となり、この時点で5郡に減っています)に北多摩郡砧(きぬた)村と千歳村を加えた地域を指し、これは現在の東京23区とほぼ同じ区域を指します。しかし、これは名称が指し示す地域なだけで、境域が変更になった訳ではありません。正式に大東京の境域が定められたのは、1932(昭和七)年に東京府へ属していた5郡を20区に編制、東京市へ編入させ35区を管轄することになります。さらに、1936(昭和十一)年には、北多摩郡砧村と千歳村を世田谷区に編入することで、現在の東京区部の範囲が確定し、呼称だった大東京が正式に東京市の管轄下に入りました。また、1917(大正六)年には、東京府南多摩郡八王寺町が市制を施行し、東京府八王子市になっています。そして、1940(昭和十五)年には、東京府北多摩郡立川町も市制を施行し、東京府立川市となりました。

 このように東京の区分はめまぐるしく変わっています。東京府立川市が成立した段階で、東京府は東京市、八王子市、立川市の3つの市がありました。中でも東京市は35区を抱える大規模な市であったというのが整理された事実になります。

 東京府に大きな変化が起こるのは日中戦争が始まったあたり。日本が戦争遂行を国家の最優先目標として据えた戦時体制構築が始まると、政府は東京府地域の政治や経済の統制強化を要求するようになりました。これらを背景に第二次世界大戦の最中である1943(昭和十八)年に東京都制案が可決され、東京府は東京都へと変化します。

 東京都制は、東京府と東京市の廃止を行い、新たに東京都という広域行政機関と地方公共団体を設置することを定めています。この東京都制の目的は、戦時体制下において効率的な行政を作り上げることが目的となっており、府の下に市があり、市の下に区があるという形で行われていた東京府の行政を、都の下に直接35区を置くことで、戦争遂行に向かって都の強力な監督下に置くことができるというものでした。特に経済活動の中心地になっていた廃止される東京市を、東京都直轄にするという点も特徴的です。また、東京都制において、東京都の長は公選ではなく官選による東京都長官でした。さらに、東京都長官と統治機構の官制は法律では無く、勅令によって定められていたのも現在と大きく異なります。これにより、東京都制が施行された段階で東京市に属していた35区はそのまま東京都区部となり、市制を施行していた東京府八王子市は東京都八王子市に、東京府立川市は東京都立川市に変わりました。しかし、東京都制によって生まれた東京都は、現在の東京都とは違ったものでした。

 現在の東京都が誕生するのは、第二次世界大戦終戦後の1947(昭和二十二)年になります。この年、地方自治法が施行され東京都制は廃止されました。この地方自治法は、戦時体制下で組み立てられた内容を大きく変えましたが、東京都の名称と境域に変更は加えられませんでした。しかし、35区あった区部は23区に編制され、同時に特別区に指定されています。この特別区の制度は、明治時代に定められた区政、市制などの制度を基としています。

 これが、江戸時代末期から現代までの簡単な東京都の流れです。東京都の歴史上、現在の市部において飛び地が存在したことはありません。東京府内に飛び地として存在していたのは1872(明治四)年まで長浜県(現在の滋賀県)世田谷飛地(旧彦根藩飛地領。彦根藩は徳川四天王の一人、井伊直政を祖とする藩)がありましたが、同年1月3日に廃され、一部を東京府に編入、残部を神奈川県に編入しました。わずかな期間だけ飛び地は存在したことになりますが、この飛び地編入の時期から見ても、廃藩置県における東京府境域編成の一部と考えることが自然です。このことから、東京府、東京市において飛び地は無かったと解釈するのが妥当と思われます。



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