サブカルチャー考原セミナー

『どろろ』と“妖怪”

著 : 五十嵐 アキヒコ

c,神社と結界


 境界の先は神域。

 そう考えられていて、現世のものが常夜へ簡単に行き来して災いを招かないように禁足地とされていた。その禁足地との境界線を明確にするために結界が用いられる。

 その代表例が鎮守の森と呼ばれるものだ。

 歴史の非常に古い神社は、神社を囲むようにして森があることが多い。

 これは、森のように様相の変わる場所は依り代となるので、森の中央部より手前に社を配置し、礼拝するように作られている。

 現世と常世の境界に入り口として鳥居を設置し、そこをくぐって神域に入っていくように作られている。

 鎮守の森は中央の依り代が神域となるので、区別をわかりやすくし、結界のために使われていると考えられる。そう、神社は森の中に造られていることが多いのだ。

 神社は信仰を集めた依り代の付近に建てるのが昔の慣習だった。

 特に森は、一本の神木だけが依り代になるのではなく、無数に依り代があると考えられていた。これが神奈備と呼ばれ、自然そのものを敬う古神道の特徴とも言える。

 現存する神社で非常に歴史の長い神社と照らし合わせると、これらのことがわかりやすい。大神(おおみわ)神社が良い例だ。

 大神神社は、日本書紀に創建の由緒が説明されていることから、日本最古の神社の一つとされている。

 三輪山そのものをご神体としており、本殿を持たず、現在では拝殿から三輪山全体を仰ぎ見るような形になっている。

 この拝殿は江戸時代に造られたもので、それ以前は鳥居と瑞垣があるに過ぎなかった。山全体は森で覆われ、鎮守の森として結界を作り出している。

 大神神社には三ツ鳥居と呼ばれる三つの鳥居があるが、一の鳥居の前に立つと、ご神体の三輪山が一望できる。二の鳥居は鎮守の森の入り口に立っており、参道が森の中心に向かって伸びている。三の鳥居は三輪山中の禁足地に立てられている。

 三輪山信仰は非常に歴史が古く、縄文時代または弥生時代から神奈備として信仰されていた。江戸時代になっても、非常に厳しい政令が設けられ、簡単に入山することは許されなかったほどだ。

 現在は「入山者の心得」を遵守すれば誰でも入山することはできるが、しっかりしたルールが決められていて、今日でも信仰が続いているのを実感できる場所でもある。

 人工的に作られた鎮守の森を持つ神社もある。

 明治神宮がその代表例だ。あまりに有名な神社なので歴史があるように感じる人が多いが、祭神は明治天皇と昭憲皇太后(明治天皇の皇后)であり、創建されたのは1920(大正9)年に鎮座祭が執り行われ、その歴史がスタートする。

 この場所は彦根藩井伊家(藩祖は徳川四天王の一人、井伊直政)の下屋敷のあった所で、明治維新後に政府へ献上されたものである。

 造苑にあたっては、全国青年団の勤労奉仕によって行われ、この時に日本各地だけでなく、朝鮮半島や台湾から献木された木々を植樹したのが明治神宮を取り囲む深い森となっている。

 将来的には植生も配慮された鎮守の森となるように計画されて作られているが、鎮守の森の本来の姿は原生林であることを忘れてはいけない。

 さらには、祭神が実在の人物という点も見逃せない。

 先に書いたとおり、神域を持つ森が鎮守の森として結界の役割を果たし、中央部にある神域の神を信仰するために作られるのが神社とするならば、景観はともかく、本来の役割とは違うことがわかってもらえるだろう。

 明治神宮建立の背景には、明治維新から第二次世界大戦終戦まで政策として行われていた国家神道が強い影響を与えている。

 国家神道の詳細な内容は専門書に譲り、ここでは現人神(あらひとがみ)と国家神道における神社にポイントを絞ってふれておきたい。

 古来から天皇の神格性は多岐に渡って主張されてきた。

 さらに明治維新以前の尊皇攘夷思想と相まって、古事記、日本書紀などの記述を根拠とし、天皇の神格性を現人神として、国家がその思想を国民に強要していった。

 神社の整理も行われ、取り壊された多くの鎮守の森が伐採によって無くなり、その土地で古来から祀られていた神ではなく、皇統譜につながる神に祭神を強制的に変更するなどした。このため、地域で伝承が途絶えた場合には、その神社古来の祭神が不明になっている神社もあるほど大きな悪影響を与えた。

 生きている人を神として崇めるのは古神道の考え方には無いもので、古来からある神道の考え方をゆがめたものだ。

 この国家神道による天皇の神格化が戦後処理で問題視され、天皇の人間宣言やGHQによる神道指令によって、現在の神社のありかたに落ち着いている。

 国家神道では、神社にも社格と呼ばれる階級が決められ、新旧を問わず天皇や皇族を祭神とした神社は神宮の名が与えられ、古来からある神社と区別された。

 伊勢神宮のみ、神道の頂点に位置する神社として位置づけられているため、格付けはされなかった。伊勢神宮の名は日本書紀や古事記に記載があるほど歴史が長く、祭神は天照大神で、日本でも最古の神社の一つである。

 神社としての性格も変えられた代表例は、靖国神社と護国神社が挙げられる。

 靖国神社は御霊信仰を基盤とし、祭神は戦争などの国事に殉じた日本の軍人、軍属であり、それらの鎮魂を目的として建立された。

 それが時の流れと共に姿を変え、慰霊が目的に変わり、さらに顕彰へと変化していった。

 護国神社は、靖国神社と同じように国事に殉じた人々を祀るために各都道府県に建立され、その都道府県出身の戦死者や軍人(現在では殉職した自衛官)を祭神として祀っている。

 靖国神社も護国神社も、元々は招魂社の名称で各地に存在していた神社である。

 その中でも東京招魂社が1879(明治12)年に靖国神社と改名。地方の招魂社は1939(昭和14)年一斉に護国神社と改名した。夏目漱石の「吾輩は猫である」の中でも招魂社の名前は出てくるほど一般的な名称で、庶民に親しまれていた。

 国家神道によって天皇は神とされ、戦死者は英霊として神社に祀られる。

 自然崇拝の中から生まれてきた古神道の考え方はそこに無く、古い酒瓶に新しい酒を入れたようなことが行われていた。

 明治神宮は、そうした背景を持った神社なのだ。

 国家神道のような考え方を国民に強要させることができたのは、古神道の曖昧さと共に日本人の宗教に関する寛容さ、言い換えればいい加減さが影響していると考えられる。

 咄嗟の神頼みをしたときに「神様、仏様、どうかお願いします」と唱えたことはないだろうか。

 神と仏は別のものだが、一緒くたにお願いしてしまう。

 初詣に出かけたときに、観光地のお寺で買ったお守りを神社のお焚きあげの中に入れてしまう。

 この適当とも言えるような感性が古神道本来の大切さであり、さらには妖怪を楽しめる感性とも言える。

 八百万の神は離れた異界にではなく、どこにでもいることを改めて思い出させてくれる。(神社で手に入れたお守りは、神社に返して魂抜きをしてもらう方が良い。お寺のお守りを神社に返すのはいけない。寺と神社でお守りの中に入っている内符は全く別物である)


 古神道の考え方が伝わりやすいと思うので、もう少し神社について書いておきたい。


 現在の神社は、本殿に神が常にいるとされているが、古神道の時代はそうではなかった。

 例えば、先の大神神社を考えると、三輪山そのものに神が宿るとも考えられているし、皇大神宮では三種の神器の一つ、八咫鏡が神体とされている。

 自然崇拝と精霊崇拝が古神道の考え方なので、八百万の神はあらゆるものに宿っていると考えられ、古い神社がある場所は自然物のご神体を持っていた。(神が宿っている自然物を神代と言い、神体、依り代、神奈備は言葉が違うだけで意味は全て同じ)

 古神道の世界において、神は珍しい存在ではなく、身近に感じられる存在であった。

 神社で祭を行うのは現在でも続いているが、神社以外の場所で祭を行うときは臨時にその場所へ神を呼ぶため、神籬(ひもろぎ)と呼ばれる人工の依り代を作り、そこに磐座(いわくら)から神を降臨させ、祭を執り行った。

 この慣習は今でも残っていて、地鎮祭でその姿を見ることができる。

 神が絶対者として信仰されていれば、人間の都合で呼ぶことはできないだろう。

 しかし、古神道に端を発する日本の文化は、こういうことも許される。

 大らかで、ある意味では持ちつ持たれつな関係が、曖昧さを感覚として持たせてくれる。


 この様に身近に神を感じる文化が、九十九神を作り、妖怪信仰の土壌を作っていたのは間違いないと思われる。妖怪は神域に住む常夜の住人だが、その姿や行動は身近に感じられるものが多いのは、古神道の考え方に理由の一端を見つけることができる。



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