伝説や書物に残る妖怪にも変遷があり、鎌倉時代以前は龍、蛇、狐がほとんどで、大自然を具現化したような存在として描かれている。平安時代あたりから、鬼や天狗の記述が始まっていく。
カリスマ的陰陽師が多数輩出された平安中期頃の妖怪は鬼が多く、各種の伝説が残されている。
日本三大悪妖怪「酒呑童子」「白面金毛九尾の狐」「崇徳天皇」がいたのも平安時代だ。
酒呑童子は日本各地に出生の伝説があり、酒顛童子、酒天童子、朱点童子と書くこともある。本拠地を大江山に置き、数多くの鬼を従えた鬼の頭領であり、日本最強の鬼と言われる。部下であり副頭領の茨城童子と熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四天王を従え、京都で悪行の限りを尽くしたと言われている。
本拠地の大江山は京都北部(大江山)と京都南部(大枝山)に2カ所あり、どちらも鬼に関する伝説が残されている。どちらが酒呑童子の本拠だったのか明確になっていない。
京都南部の大枝山は交通・軍事の要所として知られている。
大枝山の峠は大江坂(おおえのさか)と呼ばれ、それが変化して老の坂(老ノ坂)と呼ばれるようになった。
著名な武将が通過したことでも知られ、一ノ谷の戦いでは源義経、六波羅探題攻撃では足利尊氏、本能寺の変では明智光秀がここを通って戦地に向かったとされる。
また、ここは平安京外部の穢れ(けがれ)から平安京を防禦し、中で起きた穢れを排除する地として四堺(しさかい。大枝、山崎、逢坂、和邇の4地点。外部からの穢れが平安京へ侵入する経路と考えられていた)の一つに定められていた。
このため、大枝山周辺は京都から放逐された盗賊の住み処として知られ、鬼が住まう地として信じられていた。
酒呑童子の最後は、源頼光に首を切られ、その首を京に持ち帰ったが、不浄なものを京に持ち込んではならないと老ノ坂の地蔵尊に忠告されたため、その場に首を埋葬した。
死に際にこれまでの罪を悔い、死後、首から上の病を持つ人を助けることを望んだとされ、大明神として祀られた。
これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神である(明神とは神道における神の称号の一つ。明神は明らかな姿を持って現れる神という意味。似た言葉で権現があるが、これは仏が権(かり)に神の形を取って現れたを意味する)。
京都北部の大江山は3つの鬼退治伝説を持つ山である。
一つめは古事記に記された、崇神天皇(すじんてんのう)の弟、彦坐王(ひこいますのみこ)が土蜘蛛「陸耳三笠(くぐみみのみかさ。玖賀耳之御笠と書いて、くがみみのみかさと読む場合もある)」を退治した話(ここで言う土蜘蛛はクモの妖怪ではなく鬼のこと)。
二つめは聖徳太子の弟、麻呂子親王が英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)の3人の鬼を退治した話(英胡、軽足は討ち取られ、土熊は生け捕りされた)。
そして、三つめが酒呑童子の伝説である。
一つめと三つ目はそれぞれ土蜘蛛と大江山の演目名で能にもなっている。
酒呑童子は日本各地に伝説があり、出生に関しても不明確だが、越後国の伝説によれば平安初期に生まれたとされている。
越後国の伝説では、越後で生まれ、国上寺の稚児となった。
12、3歳でありながら絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩いで全員死んでしまった。
酒呑童子は、女性から貰った恋文を全て焼いてしまったところ、思いを遂げられなかった女性達の恨みによって、恋文を燃やした煙にまかれ鬼になったという。
もう一つの越後国の伝説では、鍛冶屋の息子として生まれるが、母親の胎内で16ヶ月を過ごし、生まれながらにして歯と髪が生え揃っており、すぐに歩くことができたという。
生まれてすぐに5~6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を持っていた。気性も荒く、その異常さから鬼っ子と疎まれていたという。
その後、6歳の時に母親に捨てられ、各地を放浪して鬼の道を歩んでいったという。
捨てられる前に、鬼っ子と蔑まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法の使い手であった。そこで外法を習ったために鬼と化したという伝承もある。
大和国の伝説では、白毫寺の稚児が近くの山で死体を見つけ、好奇心からその肉を持ち帰り、人肉と言わずに師の住職に食べさせた。
その後も稚児は頻繁に肉を持って帰り、やがて死体の肉だけでなく、生きている人間を襲って殺し、その肉を持ち帰るようになった。
不審に思った住職が稚児の後をつけて真相を知り、稚児を激しく責めたあと山に捨てた。
この稚児が酒呑童子となったとされている。
この他にも、日本書紀に出てくる八岐大蛇がスサノオとの戦いに敗れ、出雲から近江に逃げ、そこで富豪の娘との間に作った子供が酒呑童子とする説もある。
八岐大蛇も酒呑童子も無類の酒好きとされ、親子で共通の点があることになる。
また、どちらも討伐されるときに、八岐大蛇は八塩折之酒を飲まされ酔いつぶれ、酒呑童子は神便鬼毒酒という酒を飲み体の自由が奪われた後に斬り殺されている。
京に上った酒呑童子はしばしば京都に出没し、若い貴族の姫を連れ去って側に仕えさせたり、斬り殺して生肉を喰らったりしたという。
この酒呑童子を退治したのが、帝の命を受けた源頼光と配下の頼光四天王で、頼光四天王の一人、坂田金時が童謡童話で有名な金太郎である。
また、頼光四天王の筆頭、渡辺綱は京都の一条戻り橋の上で茨城童子の腕を源氏の名刀「髭切」で切り落とした話もある。(一条戻り橋と羅生門の説があるが、どちらも腕を切り落としているのは同じ)
さらに髭切とともに源氏重代の刀として「膝丸」があるが、こちらは頼光自身を熱病で苦しめた妖怪土蜘蛛を切ったとされ、その際名前を蜘蛛切と改めている。
この刀は名を次々と変えられ、源義経が使っていた刀「薄緑」は膝丸である。
現在、国宝に指定され、東京国立博物館に所蔵されている「童子切安綱」は、酒呑童子の首を切り落とした刀として有名。その切れ味は凄まじく、江戸時代に行われた試し切りでは、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切りを振り下ろしたところ、6人の死体を切断しただけでなく、刃が土台まで達したという逸話が残っている。
同じく東京国立博物館に所蔵されている「大包平(おおかねひら)」と合わせて日本刀の東西両横綱と言われ、童子切は天下五剣の一つとされている。
他にも現存する刀で鬼を切ったとされるものに「鬼丸」もある。
配下の茨城童子は酒呑童子の最も重要な家来とされ、出自も非常に似ている。酒呑童子と茨城童子の関係について、一説には、茨城童子は女の鬼であり、彼の恋人だったという話もある。
白面金毛九尾の狐は平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた絶世の美女のこと。
最初は藻女(みずくめ)と呼ばれ、子供のいない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。18歳で宮中に仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となったときに玉藻前(たまものまえ)と名乗った。
この玉藻前を寵愛し始めると、上皇は次第に病に伏せるようになる。これを陰陽師の阿部泰成が玉藻前が原因と見破ると、白面金毛九尾の狐の姿に変え、宮中を脱走した。
その後、那須野(現在の栃木県那須郡あたり)で婦女子をさらうなどの行為が宮中に伝わり、鳥羽上皇は8万の兵を編制。阿部泰成を軍師とし、討伐軍の派遣を行った。
那須野で既に白面金毛九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を開始。しかし九尾狐の術などによって多くの兵が倒され撃退される。
この敗戦に教訓を得た討伐軍は、犬追物(いぬおうもの)で騎射を訓練し、再び戦いを挑む。十分に訓練をされた兵は活躍し、次第に白面金毛九尾の狐を追い込んでいった。
追い込まれた白面金毛九尾の狐は、那須野領主須藤権守貞信(藤原資家。ふじわらすけいえ)の夢に娘の姿で現れ許しを請う。
しかし、貞信はこれを狐が弱っていると読み、総攻撃に出て見事討ち取ることに成功する。息絶えた九尾の狐は直後、巨大な毒石に姿を変え、近づいた人間や動物の命を奪った。村人はこの石を殺生石と呼び恐れた。
鳥羽上皇の死後も殺生石は存在し続け、鎮魂のために訪れた高僧ですら、その毒気によって次々と殺されたという。
1385年8月、玄翁(げんのう)和尚が殺生石を破壊し、壊された殺生石は全国三カ所の高田と呼ばれる地へ飛散したと言われている。
このときに殺生石を砕くために大きな金槌を用いた。現代でもトンカチのことを「げんのう」と言うが、その呼び方の由来はここから来ている。
砕かれた殺生石が飛来した場所は多数あるが、一般的には美作国高田、越後国高田、安芸国高田、または、豊後国高田と言われている。または、四国に飛来したものが犬神になり、上野国に飛来したものがオサキになったとも言われている。
玉藻前も殺生石の演目名で能になっている。
崇徳天皇は保元の乱で讃岐に流された第75代天皇のこと。
流刑先での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒した崇徳天皇は、五部大乗経(法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経)の写本作りに専念し、乱による戦死者供養と反省のために、完成した五つの写本を京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出す。
しかし後白河天皇は「呪詛が込められた本であるに違いない」と疑ってこれを拒否。写本を崇徳天皇に送り返してきた。
これに檄高した崇徳天皇は舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と写本に書き込み、爪や髪を伸ばし続け、生きながら大天狗になったとされている。
この魔縁とは仏教用語で、障魔となる縁のことを指す。
特に第六天魔王波旬(はじゅん)を指す。
また、魔界である天狗道に堕ちた者たちを総称していう場合もある。
障魔となる縁は、三障四魔のこと。三障は聖道を妨げ、善根を生ずることを障害する三つ(煩悩障、業障、報障)、四魔は生命を奪い、またはその因縁となる四つ(陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔)のことを指す。
本来、天狗は中国において彗星などを指す言葉であり、仏教とは全く無縁のものだった。
しかし、日本に天狗が伝わると古神道と密教が加わり、さらに仏教と山岳信仰が混ざったことで、全く別のものに変わっていく。
平安時代以降は、名利をむさぼって慢心する傲慢で自我に捉われた修験僧(山伏)のこととされるようになった。
今でも高慢な人を天狗になっていると言うことがあるが、その由来はここにある。そういった修験僧は、死後に天狗道という魔界に転生すると考えられるようになった。
仏教の知識があるため人間道には戻れず、宗教上の罪を犯してはいないので修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道には堕ちず、信心には無縁であるため天道にも行けず、天狗道に堕ちるとされている。
天狗道は仏教の六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の範疇にないことから外道と俗称される。
天狗の種類として、天狗として世にあだなし、業尽きて後、再び人身を得ようとする者を波旬。自尊心と驕慢を縁として集うものを魔縁と分類することもある。天狗はしばしば輝く鳥として描かれ、これも魔縁と呼ばれた。
崇徳天皇は、天狗の王として金色の鷲として描かれている。
天狗が成立した背景には複数の流れがあるため、その種類や姿もさまざまである。
一般的な天狗は修験僧の姿をし、顔は赤く、翼を持ち、空を飛べる。
天狗の中でも特に鼻が高いものを大天狗、鼻先が尖ったものを小天狗、もしくは烏天狗と呼ぶ。大天狗は、通常の天狗より強力な神通力を操るとされている。
大天狗は崇徳天皇だけではなく、江戸時代中期に書かれた天狗経に登場する大天狗は四十八にもおよぶ。
妖怪ではあるが大天狗は信仰の対象となるものも多く、中でも飯縄権現の烏天狗は戦勝の神とされ、上杉謙信や武田信玄も熱心に信仰し、上杉謙信の兜の前立てが飯縄権現像なのは有名である。
信仰の対象となる大天狗は名がついており、鞍馬山の僧正坊は鞍馬天狗として特に有名な大天狗である。先の飯縄権現は飯縄三郎の名で、鳥の姿をしている。
崇徳天皇は後に、四国の守護神として崇められる。
室町幕府の管領、細川頼之が崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出し、これに成功。以後、細川家代々の守護神として崇敬されたと言われる。
このように日本三大悪妖怪のうち二つは神として崇められる存在になっている。
これは荒御魂と和御魂の考え方が、やはり根底にあると感じられる。妖怪として恐れられていた存在が、和御魂になることで信仰の対象になる。
妖怪も人に災いを与えるものもあれば、幸を与えてくれるものもある。古神道が妖怪のベースになっていると言えるのではないだろうか。
このように、妖怪の世界を古神道とそれにまつわるエピソードから観察してみると、どろろや妖怪人間ベムが妖怪物ではないという感覚が少しずつ強くなってこないだろうか。
妖怪というのは論理性で語れないと筆者自身が書いていて思ってしまう。
信仰という人の気持ちの曖昧さが、一定の、かつ規範のかなり緩い世界観の中で発露するのが妖怪ではないだろうか。言い換えれば、人の心の闇の部分。論理性を越えた感情の産物と言い換えても良いだろう。
明確すぎる起承転結の中から生まれるのではなく、起は人の心から発し、結すらも曖昧。
そんな組み立てが妖怪物の条件ではないだろうか。