幻影隧道

著 : 中村 一朗


A-3

 足元が崩れた!

 そう気づいたときには既に、山本浩太は真っ暗い穴の中に落ち込んでいた。

 闇の中を、どこまでも落ちていく浮遊感覚。

 次の衝撃に備えて身構えたが、気がついたときには仰向きで横たわっていた。

 意識はすぐに、冷たい水面のように冴えわたった。

 ぼんやりとして歩いていた先ほどまでの調子と打って変わったと自覚する。

 慌てて身を起こして立ち上がった。

 いや、立ち上がったものと思った。

 見回すと、周囲の様子が一変していた。

 前方には、人の身長ほどの高さの薄暗い洞窟がぽっかりと口を広げていた。

 淡い光が、表面を荒く掘りぬかれた洞窟の奥から漏れてくる。

 背後には、磨かれたような黒い壁がある。

 落ちている岩で叩いてみても、小さな傷ひとつつけることが出来なかった。

 浩太は聡子とサブローの名を叫んでみたが、残響のこだまが返ってくるだけだった。

 自分の体を両手で探りながら、痛いところや怪我をしている様子もないことを確かめた。

 小さなすり傷さえない。

 腕時計を見て、仲間たちとはぐれてから五分も過ぎていないことを知った。

 大規模な落盤事故が起きた様子もない。

 浩太は意を決して、前方の明かりが漏れてくる方向に歩き始めた。

 洞窟に潜んでいるのは、圧倒的な孤独感。

 それが浩太の意識に中心にある。

 しかし不思議に、恐怖はあまり感じなかった。

 不安がないといえば、嘘になる。

 しかし、恐怖を生み出すほどのものではなかった。

 何が起きたのか解らないが、少なくとも聡子たちは、浩太の窮状を知っているはずだ。

 三十メートルほど進むと、洞窟は少しだけ左に向かってやや下りながら曲がっていた。

 更に先に進むに連れ、洞窟は徐々に狭くなっていった。

 やがて、屈まねば先に進めなくなった。

 光は、その先の狭い空間からこぼれてくる。

 床と壁に手をつきながら、ちっぽけな光源に向かって、さらに二十メートルほど進んだ。

 先に進むために、浩太は腹ばいになっていた。

 肘と上腕の力だけで、狭い隙間のような中をゆっくりと前進していく。

 肘をついているところにはサメの歯のように尖った岩が連なっていて、浩太の衣服と皮膚を容赦なく破った。両肘とも血まみれだったが、不思議に痛みはなかった。

 と、やがて小さなランタンが見えた。

 洞窟の中央に置かれているそのランタンの中には、今にも消えそうな小さい蝋燭。

 そこで、行き止まり。ランタンの後ろには、粘土と岩の壁が行く手をさえぎっている。

 心のどこかから“引き返せ!”と警報が聞こえた。

 だが浩太はそれを拒絶して、必死で手を伸ばしてランタンを手にした。

 蝋燭を消さないように慎重に手繰り寄せ、目の前にかざした。

 真鍮製の古いランタンだった。

 泥と錆にまみれたそれには、無数の赤黒い染みが着いている。

 それが、乾いた血であることに直ぐに気づく。

 そして、“第三特区”と、すすけたガラス部の下にある墨の筆書き。

 浩太には、そのランタンに見覚えがあった。

 幾度も見た夢の中で。

 目が覚めると忘れてしまう、繰り返し見ている、あの不快な夢。

 手首に巻いている安物のデジタル時計が止まっていることに気づいた時、浩太はあの悪夢にとらわれていることを知った。

 間もなく蝋燭が燃え尽き、自分が完全な暗黒の中に、ひとり取り残されることになることを思い出した。

 肩越しに振り返ると、背後にある筈の暗闇の洞窟が消失していた。

 代わりに、ごつごつとした岩の壁がそこにある。

 子どものときに読んだ、墓穴に生き埋めにされた男の物語が脳裏に浮かんだ。

 手にしているランタンの炎は、砂時計。

 燃え尽きると時は止まり、浩太の心も停止する。

 何も感じず、何もわからず、暗黒に飲み込まれていくことになる。

 浩太は、間もなく自分が最後の悲鳴をあげることを知っていた。

 黒い波紋のようにゆっくりと広がる恐怖がピークを迎え、やがて微塵に砕け散った心が永遠の安息に沈んでいく瞬間がくるのを待って、小さな炎を見つめながらじっと待った。

 “少しずつ…少しずつ”と、浩太は喉の奥で呟いた。



B-3


 …少しずつ、…少しずつ。

 三田村は心の中でその言葉を、呪文のように呟き続けている。

 冷たい土の中に指を突き刺すたびに、その言葉を脳裏に浮かべた。

 右手で土塊を掴んでは後方に送るたびに、ひと言。

 左手で土塊を掴んでは後方に送るたびに、またひと言。

 三田村はこの作業を、果てしなく繰り返す。

 指先に食い込む小粒の石が爪を削ぎ、皮を破った。

 憲兵隊に捕獲された反戦活動家の中には、爪に竹串を突き刺す拷問を受けた者がいた。

 二ヶ月前にその体験を本人から聞いたときは、傷みを連想して顔をしかめたりした。

 しかし今の三田村には、遠い昔の出来事のように思える。

 痛かったのは、最初のころだけ。

 三田村の殆どの指先には、既に爪などなくなっている。

 三田村は、自分が壁にかけられた大時計になったような錯覚を抱いた。

 両腕は振り子だ。

 その振り子を動かすたびに、時が刻まれていく。

 振り子の歯車を動かしているのは、「…少しずつ」という呪文の力だ。

 振り子の腕を動かしてさえいれば、時は過ぎていく。

 時の流れの中にいるのではなく、腕を動かすときだけ、時が流れていくような気がした。

 そして時が流れ続ける限り、いつかは明かりのあるところにたどり着く筈。

 いつかは誰かが助けに来てくれる筈である。

 仲間や看守に期待しているわけではない。だがそれでも、いつかは必ず。

 何も見えない、完全な闇。

 目を閉じても開いても、何も変わるものはない。

 ただ、その暗闇の深遠に潜む何かが心の中に忍び込んでこようとしている。

 三田村が隙を見せれば、そいつは凶暴な牙をむき出して、三田村の意識に襲いかかり、食い尽くしてしまうだろう。

 “少しずつ…”という呪文の言葉だけが、その怪物を制圧する唯一の武器だ。

 怪物はずっと、三田村の耳元で囁き続けている。

 それは、幼いころの思い出であったり、工場勤務時代のことや、ここに囚われの身になった最近のものまで様々だった。

 三田村は、怪物の声に耳を貸さなかった。

 懐かしく暖かな思い出の風景が脳裏に浮かびかけるたびに、すぐに打ち消した。

 息苦しく、頭が朦朧としている。

 そのおかげで、何も痛みを感じていないのかもしれないと思った。

 出来れば、心も痛みを感じないでいてくれないか、とも思った。

 痛みを感じない分だけ、岩肌を掘り進んでいる実感も薄らいでいる。

 それでも、うつろな意識に鞭打って、三田村は振り子の両腕を動かし続ける…。



A-4


 山本浩太は、苛立ちながら待った。

 自分の中の恐怖を押さえ切れなくなって、悲鳴を上げる瞬間が来るのを待っていた。

 やがて蝋燭が消え、暗黒がすべてを包むとき、もう一人の自分が泣き叫ぶ瞬間を。

 そうすれば、いつものように、この夢に別れを告げることが出来る。

 そして、この一切を忘れることが出来る現実に帰還する瞬間を、ずっと待っている。

 今の浩太は、自分の心が二つに分裂していることを知っている。

 夢の記憶を持たずに、蝋燭が消える瞬間を恐れる無垢な自分と、これが夢であると知っているもう一人の自分。

 後者の自分は卑怯者であり、前者の自分は臆病者だ。

 そしてその両者の狭間に、そんなことを茫漠と考えている本当の自分がいる。

 前者も後者も過去の影。

 本当の自分が、安全なところにいる現在の浩太なのだと自覚している。

 だから、苛立っていた。

 なぜ、蝋燭は尽きないのだ、と。

 いつもと違うパターンが、浩太の心を苛立ちから不安へとゆっくりシフトしていく。

 蝋燭をじっと見つめた。

 いくら見つめていても、蝋燭に減る様子はない。

 蝋は同じ高さのままで燃えているのだ。

 夢だから何があっても不思議はないが、もしこのまま蝋燭が永遠に灯り続けるなら…

 つまり、この夢には終わりがこないのかもしれない…。

 浩太は蝋燭を吹き消そうとしたが、別の浩太たちが支配する身体は大きく息を吸い込もうとさえしない。

 恐怖に駆られながら、時が過ぎていくのをじっと待っている。

 現在の浩太は、観望者だ。

 視界にあるものに注意を向け、聞こえてくる音に意識を向けることしか出来ない。

 不安は更に増していく。

 その時、浩太は遠いところから何かが聞こえてくるのを聞いた。

 それが自分の喉の奥からつぶやかれているささやき声であることに気づくまでしばらくかかった。

「…少しずつ、…少しずつ」と、“声”は言った。

 “声”は自分の声だった。

 だが言葉の響きは、自分のものではないことを直感した。

 過去の、即ち臆病者の浩太が、無意識に呟く声だった。

 卑怯者の浩太も、その“声”には気づいていない。

 同じ“声”を聞いていると、浩太の意識はここに至る直前の出来事に思いを馳せた。

 仲間たちはどうしているのだろう。

 少なくとも彼らの目の前で穴に落ちたわけだから、直ぐに助け出してくれたはずだ。

 二人だけで手が足りなければ、誰かを呼びに言っているのかもしれない。

 しかし、背後は既に絶たれ、戻ることも出来ない。

 “…或いは”と浩太は考えて、背筋がゾクリとした。

 或いは既に自分は洞窟から助け出されており、病院のベッドの上にいるのかもしれない。

 しかし意識はなく、植物状態で眠り続けているのかも。

 肉体が目覚めなければ、自分は永遠にこの洞窟の中で、過去の自分が見ている夢の空間に閉じ込められているとしたら、…。

 思考を保ったまま、この閉鎖空間の中で永遠に…

 浩太の不安は、じわじわと暗闇色に染まり始めていった。

 ふいに、浩太の身体がランタンの照らす奥の薄暗い空間に向けられた。

 じっと見つめているその視界の中に、浩太自身の両手が伸びてくる。

 “もう少し…、もう少し…”と、呟く“声”が少しだけ強くなった。

 浩太たちは、岩肌を掘り始めた。

 掘り始めてみたら、必死になった。



B-4


 あれは、よく晴れた正月の朝のことだったのか。

 冬なのに暖かい日だった。

 開け放たれた縁側からは日差しが家の中を輝かせている。

 家族が囲む卓袱台(ちゃぶだい)の真ん中には、つきたての餅が山盛りになっている。

 その傍らには、砂糖の皿と大根おろしの皿があり、鰹節やネギ、タクワンに醤油を入れた土瓶が傍らに並べられていた。

 祖父母や弟や妹たちが賑やかに笑い、餅に手を伸ばそうとしている末っ子の藤吉の手を、母の美佐子がにこやかに抓った。

「もうすぐ、父ちゃんが帰ってくるから、まちなよ」と言った直後に、父の憲吾が帰った。

 堀の深い農民らしい顔立ちが、きょとんとした表情で家族に向けられていた。

 皆が笑い、まだ二十歳前だった三田村源蔵も笑った。

 父が笑い返し、藤吉が持ちに手を伸ばし、美佐子がまた笑った。

 そして闇の中で蠢いている三田村も、その思い出に笑いかけた。

 視界が少しだけ明るくなったような気がしたのは、その直後だった。

 目の前の岩肌が、ぼんやりと見える。

 胸に抱えたランタンは既に消えており、光源ではない。

 三田村を押し包む小さな空間自体が、淡い光をまとっている。

 苔か、微生物。夜光虫のように発光するものがある、と以前に聞いたことがある。

 恐らく、その地層に当たったのかもしれない、と三田村は思った。

 つかの間の夢から目を覚ましたような三田村は、両腕を再び動かし始めた。

 きっと、眠ってしまったのだろう。

 どれほど寝ていたのかは解らない。

 だが、その睡眠で腕の疲労は少しだけ回復し、軽くなったように感じられた。

 指先の鈍痛も消えている。

 鶴嘴(ツルハシ)のように指を岩肌につきたて、三田村は黙々と穴を掘り続けた。

 “…もう少し、…もう少し”と、呟きながら。

 振り子のように腕を動かすと、三田村の時計の秒針が少しだけ進んでいく。

 ゆっくりと、着実に。呪文の言葉を繰り返しながら。

 …

 どれほど時が流れたかは解らない。

 気がつくと、指先が、青白く鈍い光を放っていた。

 妙に細い指先から、いつの間にか肉が削げ落ちていた。

 十本の指は殆ど骨だけになっていて、それでも指先は岩肌を掘り続けている。

 やがて、ぽろりと、右の人差し指の骨が外れた。

 外れた骨はそのまま目前の地肌に突き刺さったまま。

 三田村はそれを、無感動にしばらく見ていた。

 そして再び、岩肌に挑むように腕を振るう。

 指先の骨は、次々に零れ落ちていく。

 骨や肉が失われるたびに、記憶も少しずつあやふやになっていく。

 その思い出たちは、周囲の土塊にまぎれて崩れ去っていく。

 少し前に見た、朝の食卓の風景を思い描こうとしたが、何もかもが不鮮明だった。

 もう親や兄弟の顔さえ、思い浮かべることが出来なかった。

 ぽろぽろと剥がれ落ちていく体の一部は、三田村自身の記憶。

 今がいつで、自分がなぜここにいるのかも思い出せなくなりつつあった。

 ただそれでも、三田村は先に進もうとしている。

 肉体や思い出を失っても、ここを掘りぬいて光の溢れるところに出ようとしている。

 その強烈な意思だけは、決して、全く、揺らぐことはない。



A-5


 山本浩太は半狂乱だった。

 背中を突き刺されるような焦燥感。

 それが、怒りや恐怖によるものではないことは確信できた。

 串に貫かれた団子のように、三つに分かれていた自我はひとつになり、夢中になって素手で土を掘っている。

 極寒の洞窟が、浩太の五感を生々しく攻め立てた。

 冷気は骨の髄にまでしみ入ってきている。

 指先が、ズキズキと痛んだ。

 どの爪も剥がれかけ、少なからぬ血が手首まで赤く染めた。

 爪下の肉に食い込む小石の粒子。

 激痛にうめきながら、ランタンの薄暗い光の中で必死に泥と石をかき分けていく。

 必死に耐えた。

 この痛みが、必ず自分を現実に戻してくれるものと信じて。

 腹ばいになり、肘と膝で少しずつ前に進みながら、…少しずつ、確実に。

 狭い空間。

 時間感覚が消失していて、どれほどの時間をかけているのか解らなくなった。

 聡子に会いたかった。

 仲間たちに会いたかった。

 つまらないと思っていた市役所の職場を、猛烈に愛おしく感じた。

 子どもの頃のことや学生時代の頃のいろいろな懐かしい思い出が次々と去来した。

 それらを見送るたびに、焦燥感はますます強くなっていく。

 気がつけば、おびただしい涙がほほを伝い、顎を濡らしていた。

 意外にも、思い出に涙しているのではないことにやがて気づいた。

 浩太の心が同調しているのは、時さえ越えてくるような激しい誰かの執念だった。

 何かを求めてやまない、光り輝くような強烈な衝動。

 それが、啓太の魂を震わせていた。

 そしてその源は、直ぐ近くまで来ている。

 掘れば掘るほど、自分は過去に向かって進んでいくのだと、感じている。

 自分のものではない、誰かの過去へ。

 暗闇の彼方に光る蛍の群れのように散らばった、無数の記憶の残骸がそこにある。

 もう少し…、もう少し…

 ランタンの光が、少しだけ強くなっていた。

 そして指先に丸い形の何かが触れ、浩太の心に強い記憶の光の奔流が押し寄せてきた。

 遠ざかる意識の中、浩太は夢の終わりを意識した。



B-5


 寒さも痛みも、何も感じない。

 それでも三田村は腕を動かし続けていた。

 もう何日も、何十日、或いは何十年も、自分は穴を掘り続けているのかもしれない。

 それでも三田村は

「…あと少し、…あと少し」とつぶやき続けている。

 既に、ひじから先の部分は消失していた。

 膝から下も、いつの間にか失われていた。

 穴を掘るために顎も使った。

 時には、口に土砂を頬張り、吐き出した。

 骨だけの姿。

 自分が何か別のものに変わり果てているのかもしれないが、もうどうでも良かった。

 夢も希望も、思い出さえ失っても、三田村の執念は不動のまま輝き続けていた。

 ただ、先に進むこと。

 それだけが三田村にとってのすべてだ。

 ひとつ、岩をどけて先に進むたびに、時計は未来に向かって進んでいく。

 失われた過去を振り向きもせずに、ただひたすら、先へ、先へと。

 …本当に、あと少しで…

 そして、その瞬間が訪れた。

 目の前にあった小さな岩を口に含み、首の力で弾いた時、不意に目の前が白い光に満たされた。

 柔らかい光は山本の身体を包み込み、緩やかに温めていく。

 三田村源蔵は、九十年ぶりに笑みを浮かべた。



A-6


 目を開いたとき最初に見えたのは、不安そうな顔の聡子だった。

 怯えた表情にも思えた。

 目が合ってしばらくすると、彼女の目の奥に安堵感が広がっていくのを感じた。

「よう。ただいま…」

 浩太の落ち着いた声に、聡子は戸惑い、やや怒りにも似た光を眼に宿らせた。

「何、言ってんだよ、さんざん心配させて…。あれ?あんた、泣いてるの?」

 そう言われて、浩太は自分の視界を滲ませているのが涙であることに気づいた。

 のろのろと上半身を起こし、周りを見回す。

 恐ろしく、全身がけだるいと感じつつ。

 清潔な、白い部屋。

 薄い消毒液の香りで、ここが病院の一室であることがわかった。

 右腕には、点滴の針が差し込まれている。

 上体を動かした反動で、その部分が小さく疼いた。

「…なにが、いったい、どうしたんだ、俺…」

 呆れたと言わんばかりに大きくため息をつきながら、聡子は長い解説を始めた。

 三日前、浩太は一緒に出かけた奥多摩・神戸岩近くの登山道の奥で倒れた。

 正確には、岩肌の片隅の藪に隠れていた穴に落ちて、気を失ったという。

 聡子とサブローが直ぐに穴から助け出したが、浩太は意識を失ったまま

「…もう少し…もう少し」と呟いていた。

 浩太は地元の消防団の青年たちの助けでふもとの病院に担ぎ込まれ、四日間眠り続けた。

 肘と膝のかすり傷を除いては、殆ど無傷。

 頭を打った様子もなかった。

 原因不明で眠り続ける浩太に、病院も手をこまねいていたという。

 明日には、脳神経診断の専門医のいる病院に移す手配もしていたらしい。

 聡子は四日間、バイトを休んで浩太に付き添っていた。

 その間、警察が何度も病室を訪ね、執拗に聡子たちに質問を浴びせていた。

 二人が最初に穴から浩太を引き上げたとき、その右手に大きな塊を握っていた。

 それが古い頭蓋骨だと、聡子たちも気づいたらしい。

 警察の質問は、その頭蓋骨に関してのものだった。

「で?今度は、あんたの番」

 聡子に促されて、今度は浩太がモゴモゴと口を開いた。

 小さな笑みを浮かべながら、濡れた瞳をじっと聡子に向けたまま。

 あやふやな記憶をつなぎ合わせながら、穴を掘り続けていた夢のことを話した。

 途中、看護師が顔を覗かせ、浩太が目を覚ましたのを確認して立ち去った。

 二十分ほどして夢の話を終えたころ、丸顔の中年男が病室に現れた。

 矢野原という名の刑事だった。

 矢野原は聡子に目礼し、浩太に穏やかな笑顔を向けた。

 何度かこの病室を訪ねてきた警察とは、彼のことと浩太にもすぐに判った。

「あなたが気がついた、と連絡を受けましてね。とにかく、良かった」

「三田村さんのことですね」と、落ち着いた声で浩太が応じた。

 矢野原は不思議そうな顔をして浩太を見つめた。

 大きく見開かれた瞳が、浩太の心の奥底まで見通そうとしていると、聡子は思った。

「あの、骸骨のことですよ。浩太は、あの“しゃれこうべ”さんをそう呼んでます」

 矢野原は同じ表情で、今度は聡子の目の奥を覗き込んだ。

 案外この人、優秀な刑事なのかもしれない、と聡子は直感した。

 浩太は、聡子に話したことを繰り返した。

 一度話していただけに、二度目は上手く語ることが出来た。

 ただ、話している浩太にとっては、細部の解説が合理的になった反面、夢のあやふやさが消えてしまい、リアリティが遠のいたように感じられた。

 矢野原は御伽噺のような夢物語を、

「なるほど、なるほど」と相槌を打ちながら先を促し、熱心に手帳にメモした。

 時折ちらちらと顔を上げ、浩太と聡子の表情を盗み見ていた。

 話し終えると、浩太は猛烈な眠気を感じ、矢野原の質問に答えながら眠りに落ちてしまった。心地よさげな小さな鼾が、聡子と矢野原に笑みを浮かばせた。

「まったく、もう…」と、聡子。

 矢野原は手帳を閉じて、大きくため息をついた。

「私、あの慰霊碑に記された犠牲者の名をこの手帳に書き写しておいてましてね。…でも、三田村源蔵という名前はありませんでしたな」

「慰霊碑にない犠牲者もいる、っていう噂話、聞いたことがありますよ」

 一瞬考え込んでから、聡子に目を向けた。

「本当は、捜査中のことを外部に語るのは職務規定違反なんですが…」

 矢野原は、浩太が頭蓋骨を発見してから後の経緯を聡子に語った。

 頭蓋骨は百年近い昔のもので、死亡時には推定二十代の男性であるらしいという。

 浩太が落ちた穴で現場検証が行われ、頭蓋骨以外に背骨や肩甲骨なども発見された。

 しかしそれらの骨は、頭蓋骨があったところから更に奥に掘り進んだ位置で発見されており、腕や足の骨は、更にずっと奥にあった。

「三十メートルほど、奥に小さな穴が続いておりましてね。骨はバラバラな状態で発見されております。山本さんの夢の話ではありませんが、きっと指の骨なんかは、一キロぐらい先まで掘らないと、見つけられないかもしれないなあ…」

 矢野原は、力なく笑った。

「警察の鑑識って、そこまで調べるんですか?」

「いや、まさか。事件性もなさそうなので、もうすぐ捜査は終了です。だから、捜査状況をお話しておくことにしました。山本さんの話は、報告書には載せません。ただ私、個人的にこの種の話に関心があります。私自身、霊感なんて全くないんですけど。川上さん?率直に言って、山本さんは三田村氏の生まれ変わりなんだと思いますか」

 今度は聡子が矢野原の目を覗き込んだ。

 戸惑うような無邪気な光をそこに認め、聡子は噴き出した。

 躊躇い気味ながら、矢野原が本気で答を知りたがっていることに気づいた。

「わかりませんよ。霊感なんて、あたしだってないし。でも、多分違うと思います。目を覚ましたとき、この人、泣いてたんですよ。いい映画見て感動したときと同じ顔つきでした。すごく、爽やかな顔して。笑っちゃうわ。きっと、自分の夢に感動してたんですよ。三田村源蔵って人の人生の夢に…」

 矢野原は神妙な顔で天井を見上げた。

 そして一分間、その一点をじっと見つめた後に、聡子に目を向けた。

「なるほど…。生き様、死に様か。真っ暗な闇の中を、死んでいることにも気づかないで、光を求めて掘り続けていた夢、ってことですか。私なんかの感じるところでは、最悪の夢にしか思えないが。上も下もわからない真っ暗な中に閉じ込められて、身動きも出来ないなんて。考えただけで、身の毛がよだちます」

 恐ろしい悪夢の筈が、きっと山本を感動させたのだと、川上聡子は言う。

 死して尚、百年の時の彼方に光を求めた三田村という登場人物の不屈の精神。

 山本浩太は、その残された心に触れたのかもしれない。

 全く無名のまま若くして死なねばならなかった、平凡な人生を送った男が、最後に示した強い意志に感動したと言った。

 その言葉の意味を、聡子もようやく理解した。

 あれほどのすがすがしい浩太の表情を、聡子は見たことがなかった。

 自分をじっと見つめる瞳の奥に、暖かく強い光があった。

 そんな浩太の心の深遠に初めて触れたことを感じ、不意に目頭が熱くなった。

 少しだけ、自分より先に行ってしまった浩太を思って。

「そう…そうかも、ね」と、聡子がつぶやく。

「残念だけど、私には想像もつかない」

 矢野原は小さな笑みを浮かべ、聡子に目礼して手帳を閉じた。



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