ソフト考現学

著 : 中村 一朗

II : 「海底軍艦」


○『海底二万マイル』のDNA

 ジュール・ヴェルヌが「海底二万哩(リーグ)」を執筆したのは1869年。

 万能潜水艦“ノーチラス号”を主役に据えた、海洋冒険SFの古典的名作だ。

 まだ現実には潜水艦など発明されていない19世紀が、物語の舞台。

 天才的科学者でもあるネモ艦長は、妻子を殺した戦争を憎んで武器商人や軍艦に対してテロ攻撃を繰り返した。その一方で、愛する海原での自由な冒険の日々を送っていた。

 両刃の剣として揺れる新しい科学の可能性。そして憎悪と安らぎの狭間で歪んでいくネモの精神は、結局“ノーチラス号”の秘密を狙う戦争屋たちを引き寄せてしまう。その結末の果てに、作者のヴェルヌは続編「神秘の島」でその可能性の答を模索したけど…。


 最初の映画化は1916年。1954年にディズニー映画といて公開された。このリメイク作品の中に登場する“ノーチラス号”のデザイン美は、今なお全く色あせていない。

 60年代の前半、リバイバル上映でこれを観た幼い頃の僕は、衝撃的な印象を受けた。

 当時、テレビではネルソン提督とクレイン艦長を主人公にした本格海洋SF「原子力潜水艦シービュー号」や、万能潜水艦“スティングレー号”の活躍を描いたマペット(人形)ドラマの「海底大戦争」などが大人気だった。同じころ、漫画では「青の6号」や「サブマリン707」が子どもたちの冒険心を大いにくすぐってくれていた。また、スパイアクションの特撮ドラマ「マイティジャック」にも万能戦艦“マイティ号”が登場していた。

 自由な冒険を求めるためのアイテムとして、万能潜水艦は当時の子どもたちには憧れの対象だったのだろう。ある意味では、それらの冒険ドラマには「海底二万マイル」の遺伝子がある程度の密度で受け継がれていたような気がする。

 そんな中でも、1963年度製作の特撮SF映画『海底軍艦』は一線を画す。

 戦時中の日本海軍の大型潜水艦に巨大な削岩機を先端につけたような、グロテスクともとれる個性的なメカ・デザイン。一見バカバカしいようにも感じる設定と、地味な作風。

 「海底二万マイル」とは異なる類の作品などというつもりはない。

 いや寧ろ逆に、他の潜水艦ドラマよりもずっと濃密に、そのDNAの中枢を受け継いでいたのではないかとさえ思う。



○映画『海底軍艦』の“亡霊”たち

 物語の設定は、太平洋戦争から20年後。

 はるか古代に海に沈んだムー帝国の生き残りが、突然、全世界に対して覇権を宣言する。

 かつて全てを支配していたムー帝国。しかし今では、深海に暮らす滅びゆく民族だった。

 祖先の卓越した科学技術を受け継ぎながらも、既に帝国は崩壊の危機に瀕していて、絶え間ない地震に怯えていた。失われた優越意識が、地上支配を主張する根拠だった。

 たどり着くことさえ出来ない超深海と地底からの姑息な攻撃に、地上の人々には抗うすべはない。しかし、ムー帝国サイドが唯一の脅威と考えていたのが、旧日本海軍が設計したという謎の万能戦艦“海底軍艦”の幻影。ムー帝国は地上人の無条件降伏と“海底軍艦”の引渡しを要求してきた。“海底軍艦”は、終戦直後に失踪した天才技師・神宮寺大佐の手で、現在も世界のどこかで密かに建造されているという。

 神宮寺大佐の生存に驚いたかつての上官・楠見元中将は神宮寺の娘・まことを連れ、“海底軍艦”の謎を追って絶海の孤島に赴いた。そして神宮寺との再会後、彼らが目にしたのは完成したばかりの“海底軍艦・轟天”の圧倒的な戦闘能力だった。

 楠見は世界を救うために“轟天”の出撃を要請するが、神宮寺は日本のために“轟天”を建造したことを理由にこれを拒否した。戦争放棄を宣言した平和憲法が日本を変えたと語る楠見に対して、神宮時は“轟天”一隻が世界を変える可能性を主張。愛国心の名の下に、二つの信念がぶつかり合う。しかし結局、ムー帝国工作員の破壊活動とまことの誘拐をきっかけに、神宮寺はムー帝国撃滅のために“轟天”を深海の戦地へと出撃させた…


 …と、まあ、以降はお約束のストーリー展開だから、この先の話は記さない。

 本論で肝心な部分は、“轟天”の発進までに集約されていたように思える。

 滅びゆくムー帝国と、既に失われた大日本帝国海軍の夢。

 圧倒的科学兵器という錆びた鎧をまとったふたつの“亡霊”が、絶望の矜持を掲げてぶつかり合う。戦争への憎悪を捨てられないために、愛する海での自由な冒険を続けられなくなるネモ艦長の残像が、僕には、この“亡霊”たちに重なっているようにみえた。



○原作小説「海底軍艦」

 映画『海底軍艦』には原作小説がある。

 作者は、押川春浪。明治9年に生まれ、大正3年に急性肺炎で38歳の若さで没した。

 明治33年に「海底軍艦」でデビュー。たちまち大人気作家になった。

 物語の舞台は、明治時代中期。欧米の列強諸国がアジアでの派遣を狙って勢力の拡大を目論んでいた時代だ。この圧力に対抗しようと、日本海軍は世界水準を超越する新造海底戦闘艇の開発を進めた。そして桜木海軍大佐率いる技術部隊は、南海の孤島で密かに万能潜水艦“電光号”を開発する。海賊の襲撃から逃れて、偶然これに乗り合わせることになった主人公・柳川の目を通して、物語は綴られていくことになる。

 この序盤のストーリー展開は、「海底二万哩」を彷彿させるのは仕方がないかも。

 もちろん“電光号”の敵はムー帝国などではない。世相を反映して、海賊やロシア軍だ。

 桜木たちが戦う目的も、アジア全域での全ての民族の自由・独立・人権の擁護のため。軍令に従うというよりは、圧倒的戦力を有する独立義勇軍として行動する。飛行戦艦“自由号”が登場する続編の「武侠の日本」では、主人公たちは勝手にフィリピン独立運動を支援したりする。利己的な目的のためには他人の犠牲を厭わない帝国主義者を憎み、侵略者に対しては全てを捨てて戦いに挑む。自分たちが信じる正義のために。

 だからこそ、主人公たちは日本への愛国心を熱く語る。国粋主義とは全く異なるこの武侠主義こそ、日本の本当の精神と信じていた。天皇制を鵜呑みにして押し付けられる愛国心への無条件服従は、寧ろ断固として拒否するような主人公たちだ。

 押川の奉じる武侠主義は過激だ。信念のために命を捨てるものには、たとえ敵でも深い敬意を払う。その一方で、拷問で同胞を裏切った敵の捕虜に対しては、死を持ってその卑劣を償わせる。またそれ以前に、捕虜など基本的に死刑になる。

 現在の国際法的観点では、明らかに非人道的行為になってしまう。

 でも、明治維新革命直後に生まれた押川の感じていた時代の風潮には、恐らくまだそんな臭気が立ち込めていたんだろう。国家というよりは、国家の礎となる武侠精神への忠誠。

 そんな古き日の明治の気骨を、押川春浪は愛していた。


 明治44年、押川は自ら主宰として新娯楽雑誌「武侠世界」を創刊している。

 もしこの3年後の病死を避けることが出来たなら、小説家としての押川春浪の名は、思想家の肩書きに変わっていたかもしれない。結局、彼の死後も「海底軍艦」などの作品は戦意高揚のためのアイテムとして太平洋戦争中にも軍部によって利用され、大戦終了後にはGHQによって発禁図書に指定されてしまった。

 昭和初期から大戦終了までの日本の軍国主義は独善的な帝国主義に近く、押川の望んだ武侠主義とはまるで異なるものに変貌していた。戦意高揚に利用されたことも、GHQによる発禁図書扱いされたことも、生きていれば不本意だったのではないか、と思う。


 そして第二次世界大戦終了から18年。

 伝奇(当時の表現で)冒険小説「海底軍艦」はSF映画『海底軍艦』として蘇った。

 ストーリー内容はまるで違う。さらに、活字から映像メディアへ。

 しかし姿かたちこそ全く変わっても、押川が追い求めた武侠精神の片鱗はこの映像作品の中に着実に受け継がれていたように思う。

 だから平和憲法を纏った新しい武侠精神の輪郭を、“海底軍艦・轟天”の中に垣間見たような気がした僕は、つい、この続編が登場してくることに期待してしまう。

 だから、つい、“轟天”という名の万能戦艦が登場する作品だと聞くと、無駄とわかっていても映画館に足を向けてしまうのだ。そして、「惑星大戦争」や「ゴジラ・ファイナルウォーズ」などを観て、少しだけ肩を落として帰るのである。

 OVAとして創られた「新・海底軍艦」についても同様だったけど…。



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