カタッ。
島村小夜子は浅い眠りから目を覚ました。
部屋の肌寒さを感じながら、常夜灯の明かりで壁に掛けてある時計を見る。
文字盤と針に目の焦点が合うまで暫くかかった。
午前2時53分。
「ひとみか?今の」
隣の布団から良平の声がした。
「うん、たぶん…」
小夜子は立ち上がり、ひとみの寝ている六畳間とを仕切っている襖に手をかけた。
背後で寝室の蛍光灯がまたたいた。良平が明かりをつけたのだ。
「ひとみ?」
襖を開けて顔をのぞかせ、小さな声で暗がりに問いかけた。
返事はない。
「どうしたんだよ」
そう言いながら、良平が大きく襖を開けた。
寝室の明かりが一気にひとみの部屋に流れ込む。
二人の目はひとみの布団にくぎづけになった。
ひとみの姿は消えていた。
唖然としている小夜子を押しのけるようにして、良平が明かりをつけた。
やはりひとみの姿はなかった。
かけ布団は畳の上にあり、くしゃくしゃに乱れたシーツの上には無数の黒い蛇が這い回るような不気味な影が描かれていた。
「ひとみ…」
茫然と振り返った良平は小夜子を見て、その視線を追った。
大きく開いた押入れの下の段に目を向ける。
片膝をつき、中を覗き込んだ。
そこに、ひとみがいた。
押入れの奥で、ひとみは膝を抱えるようにして眠っていた。
大きなクマの縫いぐるみを抱きしめている。
ここに越してくる前まで、ひとみはその縫いぐるみを食事や寝る時にさえも手放さないで大切にしていた。
「なにをしているの…ひとみ?」
自分のものとは思えない虚ろな声に小夜子はゾクリとした。
さらに冷たいものが意識をよぎった。
クマの縫いぐるみを抱きしめて押入れの奥にうずくまるひとみと、それを見下ろしている自分自身の姿。
これはどこかで見たひとコマ…。夢で見たような気がした。
でも、決して思い出せない霧に霞むような遠い記憶…。
「おい、小夜子」
ひとみを抱き寄せながら、良平が呼びかけた。
夫とひとみに目を向けてみる。
良平の目が訴えるように小夜子を見つめ返していた。
その腕の中で眠り続けているひとみ。
制止した時間が作り出す不吉な影が小夜子の脳裏に去来する。
そして、ふたりが見知らぬ他人のように見えた。
「ひとみ、何だか熱っぽいよ。風邪じゃないかな」
ひとみの瞼が小さく痙攣した。
やがてうっすらと目を開ける。
仮面のような顔が二人を見上げた。
やはり、他人を見るように。
「どうした?ひとみ」と、遠くから聞こえてくるような夫の声。
「…なんでもない」と、遠くで答える表情のない娘の声。
小夜子の胸の中で凍りついていたものに亀裂が走った。
熱い憤りがそれに沿って込み上げてくる。
気がつけば、小夜子はひとみの細い両肩をわし掴みにしていた。
「…何をしていたの!」
小夜子がひとみに対して大きな声を出した事は今まで一度もない。
これが初めての事だった。
良平が驚いて顔を上げた。
「言いなさい!どうしたのよ!」
ひとみの人形のような表情が崩れた。
夢の破片のような幾つかの感情がその裂けめで錯綜する。
一瞬、目の奥に小さな光が宿った。
ひとみの心を包む霞が薄れ、母親に助けを求めて必死で手を伸ばすように。
すがるような目で、何かから懸命に逃れようとして。
「よせよ。怒鳴るような事じゃないだろ」
良平の声がひとみと小夜子を現実に引き戻した。
ひとみの目から光が消え、後には眠たげな娘の表情が残った。
十日前とは別人のように疲れた顔。虚ろな目。
日に日にひどくなっている事はもう否定のしようがなかった。
「なんでもないの…」と、ひとみはぽつりとつぶやいた。
小夜子の心は急速に萎えた。
夢遊病。そんな素人考えが、沈む気持ちに追い討ちをかけた。
まさか、ひとみが精神病にかかるなんてことが。
「きっと風邪だよ。明日は学校、休んだ方がいいな」
そうであれば。
そうであってくれれば、と小夜子は祈るように思った。
良平はひとみを布団の上に降ろした。
その傍らに縫いぐるみを置いた。
めくれ返ったパジャマを整えてやっていた。
その時、小夜子はひとみの右手首のやや上にある古い傷に目がいった。
肘の方から手首にかけて縦に引かれた五センチほどの小さな三本の傷跡。
周囲の青白い肌とは対照的に、それだけが奇妙に生々しく赤かった。
普段はそれほど目立つ事はないが、今は違った。
ひとみがこの傷をつけられたのは三年ほど前の今ごろの事だった。
あの時の事は決して忘れる事はできない。
傷口からたくさんの血を流しながら、もうすぐ四歳になろうとしていたひとみは…。
「電気、消すからな」と、良平が小夜子とひとみに言った。
ひとみがおやすみと言い、二人は同じ言葉を返した。
自分たちの部屋に戻り、襖を閉めた。明かりを消して、身を横たえる。
布団に残るぬくもりで、この騒ぎがほんの数分ほどの出来事であったと知らされた。
小夜子は深いため息をついた。
「あれくらいで癇癪を起こすなよって言いたいんでしょ」
「えっ?…ああ。まあ、そうだね」
「人の気も知らないで」
「それなりにはわかっているさ。このところひとみが夜中に目を醒ましていることぐらいはね。原田先生にも相談したんだろう?」
「…うん。でも、こんなこと初めて。押入れの中で寝ているなんて」
「おれだって、子どもの頃はやったさ」
「そういうんじゃないと思うの。あの縫いぐるみだって、もう小学生なんだからしまわなきゃって、自分で言って片付けたのよ。ひとみ、泣いた事だってめったにないのに…。ねえ。まさか、夢遊病なんかじゃ…」
良平は小さく笑った。小夜子を安心させようとした作り声で。
「テレビドラマじゃないんだからさ。子どもの頃はいろいろあるよ。今までがしっかりし過ぎていたんだ。これで普通なんだよ」
親のひいき目を除いても、ひとみは同年齢の子どもたちと比べて確かにしっかりしている、と小夜子は思っていた。
単に言う事を良く聞くというだけではない。
聞いた事の意味を自分で考えることができるのだ。
それに辛抱強い。
予防注射を打つ時でも、顔色ひとつ変えずにじっと針先を見ている。
神主の娘で強い霊感があったという小夜子の実の祖母である“桐生マナ”の血を濃く受け継いでいるせいなのかも知れないと、小夜子は思っている。
明治の終わり頃に四十代の若さで他界したマナとは小夜子は一面識もなかったが、彼女のいろいろなうわさ話は聞かされていた。
人を寄せつけぬ冷たい雰囲気によく似合う長い黒髪と美しい顔立ち。
右目から頬にかけて大きな痣があったという。
必ずしも良いうわさばかりではなかった。
いや、むしろ迷信深かった当時の町の者たちからは恐れられていたらしい。
特にマナの最後が覚悟の焼身自殺であったことが、それまでのうわさ話をよりおどろおどろしいものにした。ちょうどその頃は、流行り病で多くの子どもが死んだ不幸な時代でもあった。
マナの死以来、町外れにある神社は廃屋になってしまった。
小夜子の母は、ひとみの顔かたちがマナによく似ているといっていた。
「そうかもね。…ね。覚えている?あの右手の傷のこと」
「ああ。忘れるはずがないよ。きみは出張先のおれのところまで電話してきたんだから。ひとみがたいへんだった言ってさ」
「あの時ひとみ、腕から血がたらたら流れているのに、なんでもないよって平気な顔で言うんだもん。どうして怪我をしたのか、いくら聞いても最後まで言わなかったし」
「医者の話では、猫にでも引っ掻かれたってことだったな」
「傷、今でも腕に残っているのは知ってるでしょ」
「さっきも見た。猫の爪には毒があるって昔から言うけどね…」
良平はあくびをかみ殺した。
小夜子も目を閉じ、襖の向こう側で眠るひとみの様子をうかがった。
起きている気配はない。
昨日まではひとみが寝つくと安心できた。
だが、もうそうは思えなくなった。
胸騒ぎは消えることなく、小夜子の中で息づいていた。
白猫は明け方前に、住み処にしていた古い空き家に帰ってきた。
辺りの様子を伺いながら、床の上にうずくまった。
10日前にここを去ってから何一つ変わってはいなかった。
白猫はより深い闇を求めて目を閉じた。
意識を周囲の空間に拡散させ、生き物たちの気配を探る。
すぐに無数の昆虫たちと数匹のネズミの気配が伝わってきた。
目に見えない思念の牙が即座にネズミたちを捕らえ、己の影響下に従えた。
やがて七匹のネズミが部屋のあちこちから姿を見せた。
ふらふらとよろめきながら近づくと、白猫の前で足を止める。
白猫はそれらを一匹づつゆっくり喰い千切った。
頭を残してそのまま噛み砕き、生き血をなめ、生肉を味わった。
七つの肉を食べ終ると七つの頭が残った。
血まみれの頭を前足で寄せ集めてから、白猫は目を閉じた。
そして朝日が昇る頃、白猫は眠りについた。
夜を待つために。
「あれ、課長。今日の昼メシはそれだけですか?」
そう声をかけられて、島村良平は顔を上げた。
河辺という営業担当の若い男は、ぺこりと頭を下げて、フライを盛り合わせた昼定食の盆をテーブルに置いた。
良平の前には食べ残したキツネ蕎麦があった。
「どうも最近、寝不足でね。少し胃にきているみたいなんだ」
「それはよくないですね。まあ、転勤の直後にはいろいろ気を遣うだろうし」
そう言いながらも、河辺はこれ見よがしにどんぶり飯を掻っ込んだ。
良平は顔をしかめるように苦笑したが、河辺に悪気がないのはわかっていた。
つられて、残した蕎麦に箸をつけた。
「そうそう。〃喰えば喰い勝つ〃って奴ですよ」
「別に無理してまで勝ちたくはないんだけどさ」
「じゃあ、医者に看てもらえばいい。検診なんか簡単ですぜ。さもなきゃあ、休んで寝ることです。ストレス解消はそれでバッチリですよ」
「なかなかそうもいかないよ」
河辺はあれやこれやの話を一人でしゃべりながら、十分ほどで定食をたいらげた。
それじゃあお先に、と挨拶を残して慌ただしく席を立った。
良平は軽く手を振った。
無理に詰め込んだ蕎麦の残りを、胃の中に重く感じてため息をついた。
家で寝ている娘のことを考えた。
今日、ひとみは学校を休んでいる。
微熱があり、おそらくただの風邪であろうとは思う。
風邪だからと軽く考えているわけではないが、そうであれば後は医者に任せれば良い。
良平は、午後にでも原田先生に往診してもらうようにと小夜子に言って家を出ていた。
それでいいはずだった。
なのに、何か気になった。
今朝、良平は出勤する前にひとみに話しかけたが、寝ぼけたようにぼんやりとしていて布団から出てこようともしなかった。
ここ数日、ひとみは元気がない。
仕事で帰りが遅い良平にとり、朝食卓でのひとみとの短い会話は大切な時間だった。
学校でのちょっとしたことや友だちのことなど、どうでもいい話からでも、娘の成長をうかがい知る事ができた。
だから朝のひとみの顔の変わりようには、ある意味で小夜子以上に気になっていた。
ひとみは、一日の始まりに向かう楽しげな子どもらしい顔から、夜を終えた安堵が浮かぶ大人の顔に変わっていったように思えた。
小夜子が気にしていた事も知っていたが、あえて口にしなかった。
神経質なところがある小夜子の心配を助長させるような事は言いたくなかった。
昨夜はひとみの様子に小夜子と同じくらい動揺した。
だが、それを小夜子に感じさせないように振る舞った。
最後には、生あくびをかみ殺す真似までして。
良平は職場の第二設計室に戻った。
昼休みをまだ十五分ほど残しているため、部下たちはまだ誰も戻ってきていなかった。
部屋の中には書きかけの機械設計図が張りついた八台の製図板がある。
雑然としたその間を縫うように歩いて席に着こうとした時、良平の机の上にある黒い電話が鳴った。
家からの電話だった。
混乱している小夜子の声から、話の内容を聞く前に背筋が震えた。
ひとみに何かが起きた事を直感で悟った。
小夜子は、ひとみの様子がおかしいと言った。
いくら声をかけても目を醒まさないのだと。
熱は朝よりもずっと高い。さらに小夜子は異常なことを口走った。
ひとみの髪の毛や爪がみるみる伸びている。
顔にも大きな腫れ物が浮かび始めたという。
良平は原田診療所に連絡するように指示し、自分もすぐに帰ると告げて受話器を置いた。
午後1時10分前。
最初に昼食から戻った山之内は真っ青な顔で机の上を片付けている上司に気づいた。
どうしたんですか、と声をかけると、良平は慌てた様子で顔を上げた。
その怯えたような顔つきに、山之内の方が驚いた。
良平は山之内に午後の仕事の指示を言い残すと、娘の容体が急変したので早退する、と告げて設計室を出た。
お大事に、と言った山之内の声には気づきもしなかった。
小夜子は良平に連絡を入れてすぐに原田診療所に電話をするつもりでいた。
だが、ダイヤルを回し始めてから、もう一度ひとみの様子を確かめようと思い直した。
良平の声を聞いて少しだけ落ち着きを取り戻した事もあるが、それ以上に先程のうろたえていた自分を愚かしく感じたからだった。
やはりひとみはただの風邪で、よく寝ているだけなのかも知れない。
表情こそ虚ろだったが、午前中はひとりでトイレにも行った。
髪の毛や爪だって、そんなに早く伸びるわけがないではないか。
きっと自分の思い過ごしに違いない。
それに午後には原田が往診に来てくれる事になっている。
先走った電話などして、過保護な母親だと笑われたくなかった。
小夜子は受話器をフックに戻し、ひとみの布団の横に跪いた。
「ひとみ?」
小さな声でやさしく呼びかけた。
ひとみの青白い顔は何の反応も見せなかった。
小夜子はひとみの額に手を置いてみた。やはり熱は高い。
「ひとみ?」と、やや声を大きくしてもう一度呼びかけた。
ふいにひとみが目を開けた。
真っ白い眼球がせり出すように現れた。
無言のまま、からだが弓なりに反り返る。
手足が小刻みに震え出した。
そして、壊れたゼンマイ人形のように布団の上をでたらめに跳ね回った。
それでもひとみは目を醒まそうとせず、歯を食いしばっている以外は表情も変えずに激しく動き続けた。
その異様な光景を、小夜子は何もできずに茫然と見ていた。
やがて突然、ひとみの痙攣は止まった。
ほんの短い間のことだったが、小夜子には永遠に記憶に残る瞬間だった。
ひとみが動かなくなってから小夜子が我に返るまで暫くかかった。
いつの間にか部屋を出て、受話器を握りしめていた。
手の震えを見て、初めて戦慄が背筋を這い上がってくるのを感じた。
何かの悪意が小夜子の耳元でささやいた。
今あの部屋にいるのはもう、小夜子の子であるひとみではない。
姿は同じでも、煌めくような魂はすでに奪い去られてしまったのだ。
そして後に残った子どもの姿をしたあの肉はただ、死を待っているのだ、と。
小夜子は妄想の声に耳をふさぐ事もできぬまま、原田診療所のダイヤルを回した。
ひとみは森の中を走っていた。
背後からは、朝もやのような霧が追ってくる。
後方の森は濃い霧に包み込まれ、少し前に通り過ぎたところも霞に蝕まれ始めた。
森はゆっくりと霧に喰われていた。
灰色の闇となったその中心では、もう森はなくなってしまっている。
それでもひとみは諦めずに走っていた。
心に忍び込もうとする絶望の不安をねじ伏せて走った。
まだ大丈夫だ、距離は十分にある、と自分に言い聞かせる。
足はしっかりと大地を踏みしめ、力強く走ることができた。
呼吸の乱れもない。
ひとみが走り続けようとする限り体は気力に従うし、森はどこまでも先に広がっているように感じられた。
一歩先に進めば、その分だけ森も見えない彼方で広がるのだと信じた。
ひとみには、この森がどこであるのかはわからなかった。
恐らくは夢の世界。誰かの、あるいは自分自身の。
もしかしたら、大地に眠る古い記憶なのかも知れない。
いずれにしろ、ひとみの意識はここに引き込まれてしまった。
そして背後からは霧のかたちをした飢えた怪物が追ってきている。
もうどれほど走り続けているのかもわからない。
時間の経過を計る感覚はとっくに失われていた。
それでも森の様相は少しずつ変わってきた。
木もれ日は少しずつ薄れてゆき、背の高い針葉樹よりも中低木の広葉樹が目立つようになってきている。
やがて小さな陽だまりの小道を抜けると、急に視界が開けた。
森の中にぽっかりと開いたその空間の中央に、小さな泉があった。
そこにも、森の中と同様に生きものの気配はない。
泉の先にある前方の暗い森に向かおうとした時、背の高い葦の群生の中にうずくまっていたものが身を起こした。
葦を押し分けながら、茶色い大きな体を揺すりつつ近づいてくる。
やがてひとみは、その姿を認めた。
縫いぐるみの“ゴン”だった。
ゴンの右腕は千切れ、片方の耳はなくなっていた。
体の半分を黒い血が染めていた。
「…ゴン?」
ひとみの前まで来ると、ゴンは右手を上げて、ある方角を指し示した。
「あっちに行けって言ってるの?」
ゴンは小さくうなずいた。ひとみはゴンの手を引いた。
「いっしょに行こう!もうすぐあいつが来るよ」
ゴンはひとみを見たまま、ゆっくりと首を横に振った。
優しくひとみを突き放して、背を向けた。
「…どうして…」
シュッと音を立てて、ゴンの左手から大きな鉄のカギ爪が伸びた。
ひとみが行こうとしていた方向に進んでゆく。
途中でゴンは一度だけ振り返り、ひとみを見た。
やがてゴンは泉の辺りにあったコブシの木の前で立ち止まる。
次の瞬間、恐ろしい勢いでカギ爪をその幹に叩きつけた。
幹の一部がえぐれて飛び、そこから緑色の粘液が吹き出した。
コブシの木に化けていたものはみるみるかたちを変え、どろどろに溶けて崩れ落ちた。
直後、暗い森の奥から無数の触手がゴンに向かって伸びた。
鋭い槍のようにゴンの体を次々に貫く。
その度に、ゴンの体から黒い血しぶきが上がった。
もしその方向に逃げていたら、触手の群れはひとみに襲いかかってきたはずだった。
ゴンは、凍りついたように動けないでいるひとみの方に顔を向けていた。
…逃げて…
血みどろになりながら、ゴンの小さな目が懸命にひとみに訴えていた。
優しい声まで聞こえるような気がした。
…逃げて…早く…遠くまで…逃げて…
「ゴン!」
驚愕の拘束が解けて、ひとみが叫んだ。
その時、ゴンの後頭部に触手が突き刺さった。
それはそのまま右目を貫き、黒いボタンのような目を裏側から抉った。
それでも残ったもうひとつの目が、ひとみに逃げるように促していた。
無数の触手に貫かれてハリネズミのようになりながら、ズタズタに引き裂かれながら、左手のカギ爪を必死に振り回して。
ひとみが走ってきた方角から、青白い靄が迫っていた。
間もなく本体である灰色の霧がやって来る。もう時間はない。
ひとみは踵を返して、ゴンが示した方に向かって走り出した。
二三度振り返りながら、悽惨な姿になってゆくゴンの最後の姿を目に焼きつけ、その沈黙の声を心に刻んだ。
走りながら、ひとみの目に涙があふれた。
靄が泉全体を覆いつくそうとした直前、ゴンを貫いていた触手の先端が花が開くように二つに割れた。
中にはサメのような牙がびっしりと生えていた。
やがて、太い触手の一本がゴンの首をねじ切った。
それを合図に、触手たちは貪るようにゴンを喰い始めた。
原田が島村の家から連絡を受けたのは、午後1時を少しまわった頃だった。
電話口で取り乱している小夜子を落ち着かせ、すぐにそちらに向かうことを告げて受話器を置いた。
ひと通りの診療器具をそろえながら、ひとみの病気ついて考えた。
七歳児までは有りがちな熱性痙攣自体は大した問題ではない。
気になるのは、その原因だった。
小児疾病は大人以上に病因がつかみにくい。
ただ、一番気がかりな脳の血流障害である可能性は否定してもいいだろう、と原田は思った。
むろん、精密検査をしなければ断定できないが、三日前の診察からその兆候は一切認められなかった。
やはり、何らかの精神疾患なのであろうか。
誰にも理由を告げずに焼身自殺を遂げたというひとみの曾祖母のことからも、ヒステリーの家系であることは十分に考えられることだ。
二十分後、原田は島村家の門をくぐった。
緊張した面持ちで出迎えた小夜子に目礼だけして家に上がった。
病人のいる家が放つ独特の淀んだ空気が鼻をついた。
干からびた有機物の饐えたような匂い。先のない長患いの者のみが持つ死臭に似ていた。
なにをばかな、と原田は廊下を進みながら首を振って否定した。
ひとみの部屋は明るく暖かだった。
子どもらしくないほどきちんと片付けられた机と本棚が最初に目を引いた。
屑籠の中まで整理整頓が行き届いているようにすら感じられた。
几帳面な母親の影響なのだろう。
またこれはひとみが親の期待に応えようとしている結果でもあるにちがいない。
子を叱ることのない優しい親と、親の言うことをよく聞く賢いひとりっ子。
だが、神経質な両親と賢過ぎる子の場合は…。
昔、どこかの講義で聞いた言葉を思い出した。
『一見理想的に見える核家族の親子関係も、裏返された強迫観念が起因となって分裂症にまで発展しうるケースは決して珍しくない…』、と。
枕元には古い縫いぐるみと赤いランドセルがあった。
ひとみを気遣って小夜子が置いたのであろう。
特に縫いぐるみの方は、奇妙なくらい原田の気を引きつけた。
布団の横に座って、ひとみの顔をのぞき込む。
原田は息を呑んだ。
そこには、三日前とは別人となった少女が眠っていた。
子どもらしいふっくらとしていた頬は痩せこけ、瑞々しかった肌は土気色に変わっていた。
だが原田の目を見開かせたのは、それだけではなかった。
三日前よりも、髪の毛がずっと長く伸びていた。
恐らく、十センチ以上は間違いなく長い。
手足の爪も鋭く伸びていたというが、ひとみ自身が自分の体を傷つけてしまうことを恐れた小夜子が既に切りそろえていた。
それでも、また伸び始めている。
さらに、右目の下から顎にかけて大きくうっすらと浮かび上がっている紫の変色。
原田には見覚えがあった。
“マナ”の顔にあった痣とそっくりだった。
それらの異常は皆この数時間の内に起きたことであるという。
「…ゴン…」
かすれた声で、ひとみがつぶやいた。
閉じた瞼の下からうっすらと滲んだ涙が、目尻から細い銀の線を引いて枕を濡らした。
「先生。今、ひとみが…」
原田の後ろで小夜子が腰を浮かせた。
喜色の浮かんだ声を無視して診察を始めた。
原田には、ひとみの声が良い予兆には思えなかった。
ひとみは明らかに昏睡状態だった。
午後2時15分。
良平が帰宅した。真っ青な顔で原田にひとみの容態を問いかけた。
原田はそれまでの経過を淡々と伝えた。
熱性痙攣の症状は原田が来てからはまだ見受けられない。
子どもにとっては微熱の七度九分に、若干の血圧低下と不整脈が認められるが、小児の風邪にはありがちなことだと説明した。
今のところ危険な状態にあるわけではない、と。
だが、意識障害による昏睡の可能性があることはあえて語らなかった。
夢遊病や眠り病などを一般の病気のように口にする者にそれを理解させるのは今は困難だと判断したためだった。
だが、口ごもる原田に小夜子が強く詰め寄った。本当のことを聞かせて下さい、と。
原田は、まだ何もわからないと答えた。
少なくとも原田は、嘘はつかなかった。
医術に四十年以上も携わりながら、ひとみのような症例を看たのは初めてだった。
原田がここに着いてからも髪と爪はさらに伸び続け、頬の痣は一層濃くなっていた。
午後3時20分。
原田は一旦、診療所に戻ることにした。
いつまでも看護婦一人に留守を任せておくわけにはいかなかった。
原田はひとみの容態が変わったらすぐに自分に知らせるように良平と小夜子に告げた。
二つの疲れた顔が玄関で原田を見送った。
原田は門の外に出て、無感動に空を見上げた。
頭上には灰色の雲が流れ、沈み出した陽が彼方の山の稜線を紅色に染め始めていた。
やがて原田は、ひどくほっとしている自分に気づいた。
錆びた鉄をなめたような苦い味が口に広がった。