幻跡行ひと夜

著 : 中村 一朗

A-4


 さんざん泣き叫んだ後に茫然とした一時が過ぎると、ひとみは少しずつ冷静さを取り戻すことができた。

 どれほど泣き疲れても眠ることが出来ないのは幸いだった。

 ひとみは起き上がり、服についているほこりを払った。

 その時になって初めて、自分がパジャマ姿のまま逃げ回っていたことに気づいた。

 今までの悪夢では、ひとみはいつも学校に行く時の服装だったのだ。

 なぜ今日は、パジャマ姿で?

 狭い洞窟の中をもう一度見回してみる。

 天井の高さは学校の教室ほどで、広さはその半分ぐらいだった。

 壁も、床も、天井も、苦しげな灰色の顔の彫刻で埋めつくされていた。

 四方からひとみを囲む何千もの苦悶の視線。

 不思議に、もう恐怖は感じなかった。

 絶望を訴える者たちの顔をなぜか哀れにさえ思った。

 ふいに、ひとみはそれを知っている自分に気づいた。

 この部屋、この悪魔のようなその顔の群れをどこかで見たことがある。

 記憶の糸がゆっくりとほぐれ始めた。

 灰色の顔が静かに歌い始める。

 優しく、悲しく、絶望の声で。

 やがて夢の中で、もうひとつの幻が紡ぎ出されて…。

 違うだれかの意識の残像。

 …玄室の中に浮かぶ女の姿。

 ずっと年が上なのに、ひとみによく似ている…

 髪の長い、とてもきれいな人…

 でも、顔に大きな痣がある…

 記憶の彼方…

 遠い昔に戻ってゆく…

 ひとみが生まれるよりもずっと前…

 人知れず、命を賭けて戦っていた…

 子どもの魂を喰らうあの怪物を封じ込めるために。

 …でも、それだけではだめ

 …いつか目覚めてしまうから。

 だから…この洞窟を作って…

 ここは結界、血の中に隠れるための…

 さらに長い時を数えながら待ち続けた。

 …そしてここを去り、新しい肉の体へ…再会するために…

 でも、何のために?

 そう問いかけた時、洞窟から幻が消えた。

 ハッとして洞窟の外に出た。

 もう森を見ることは出来なかった。

 辺りには冷たく濃い霧がたちこめていた。

 その奥から、何かが近づいてきていた。

 ズル、ズル、と重い体を引きずるようにして。

 ひとみは霧に背を向けずにゆっくりと洞窟へ後退した。

 悪寒に耐えて、ゴンのいた泉に思いを馳せた。

 この洞窟と同じように、あの泉も記憶にあった。

 だからゴンはあそこでひとみを待っていた。

 あそこだからひとみを助けようとすることができたのだ。

 なぜならゴンはひとみの夢の住人であり、泉もまたひとみの意識の一部だったから。

 そして最後にゴンはここを、ひとみの夢の一部であるこの洞窟を指し示して死んだ。

 洞窟の外で渦巻いている霧を見ながら、ひとみは確信した。

 ここが最終地点なのだ。

 ひとみの夢と怪物の幻影が交錯する最後の砦であり、その要がひとみ自身だった。

 パジャマは現実の中にいた時の最後の姿だ。

 昨日の夜眠りについた時、ひとみの心は夢と一緒にこの森に取り込まれてしまった。

 ヘビに食べられてしまった卵みたいに。と、ひとみは思った。

 卵の中にはひとみがいる。ヘビは幻影を使って殻を破ろうとしている。

 卵の殻は、泉であり、この洞窟だ。

 一部はゴンに姿を変えてひとみを守ろうとした。

 この森の規則は怪物によって決められている。

 それでも怪物が無敵でないことはわかっていた。

 ゴンは鉄のカギ爪で怪物の一部を引き裂くことができたのだから。

 それに、怪物がひとみをまだ追いつめていないことからもそれが伺える。

 少し前、洞窟で泣いていた時が一番無防備だったのに、怪物は襲ってはこなかった。

 洞窟の入口に邪悪な影が迫っていた。

 ゴンを殺した無数の触手が揺らめいているのが見えた。

 そのうちの二本が入口を越えて中に伸びてきた。

 壁をつたいながら、触手の先が花弁のように開いてサメの牙を見せた。

 ズルッと洞窟のすぐ近くで大きな音がした。

 ひとみは目を閉じてじっと考えた。

 森の、いや幻影の終点であるこの洞窟。

 ここが最後の砦であれば、逃げ道などどこにもない。

 だが戦うことは出来ると確信した。

 逃げるのでもなければ、攻めるのでもない。

 ただ耐えるのだ。

 この洞窟でずっと耐え続けることがひとみにとっての戦いになる。

 あきらめない限り、きっと助かると信じて。

「負けない」と、歯を食いしばって宣言した。

 足に冷たい何かが触れた。

 それは絡みつくように足から下腹部へ、

 腹から胸に、

 さらに首にまで体に沿って這いあがってきた。

 耳のすぐ横で凶悪な意志が歓喜の咆哮を張り上げた。

 同時に、強い酸と肉の腐臭が鼻をついた。

 それがそのまま肌の中にまでしみ込んできた。

 生きながら怪物に喰われる血みどろの幻が再び目の奥に蘇る。

 生皮が剥され、

 血をすすられ、

 肉がえぐられ、

 内臓が引きずり出されて喰われる幻だった。

 手足をもぎ取られて頭も二つに割られて脳みそまで食べ尽くされる。

 最後のひとかけらまでなめ取られて。

 飢えたピラニアのいる河に落ちた牛みたいに。

 いや、もっと時間をかけて、徹底的に味わうのだろう。

 涎がひとみの肉を溶かし、

 牙が骨まで噛み砕いて、

 何もかも喰いつくそうとするのだ。

 苦痛は最後までずっと消えることはないはずだ。

 体をバラバラに引き裂かれても、ひとみは死ぬことは出来ないのだから。

 でもそうなったら、意識はどこに残るのだろうか。

 頭か、心臓か、あるいは目の中。いや、たぶんその全部なのかも…

 違う、騙されちゃだめ!

 と、おぞましさに崩れそうになっている自分に言い聞かせた。

 目を固く閉じ、何も感じまいとした。

 例外はただひとつだけ。

 右手首の上の方の古い傷が急に燃えるように熱くなった。

 ひとみの脳裏で小さな火花がはじけた。

 右腕に残る三本の傷跡。

 ゴンの手に現れた三本のカギ爪。

 そして黒々としていたビーズのような目。

 あの目は別の過去、別の場所でも見たことがある。

 三つの暗号がひとつに重なり、その意味に思い当たった時、ふと意識が揺らぐ。

 負けるもんか。と、ひとみはその言葉を強く心に焼きつけた。



C-7


 十日前。突然、死は歩み寄ってきた。

 住み処の暗がりに身を横たえ、まどろんでいる時に何の前ぶれもなく不意に知った。

 白猫はいつになくゆっくりと目を開き、身を起こしてきちんとしゃがんだ。

 右の前足で顔をぬぐい、まだ瑞々しい艶のある毛並みを繰り返しなめた。

 白猫は夜を待って町を出た。

 本能に従い、北へ。

 人間の作った道に沿って昼も夜も歩き続けた。

 幾つかの山を越え、幾つかの町を通り抜けた。

 町を過ぎる時は大抵そこを縄張りにしている猫たちが行く手に現れたが、白猫がそのまま進むと、彼らはうなり声もあげずに道を譲った。

 五日目の夜。

 白猫は人里を離れて見知らぬ深山の中に入っていった。

 丘を通り過ぎ、林を抜け、森の奥深くに踏み込んだ。

 その間ずっと白猫を警戒するものたちの視線がついてまわったが、進むにつれ、周囲から彼らの気配は消えていった。

 やがて夜が明け、日が昇り始めた頃、大きな杉の木の傍らにある岩だなの下に小さな洞穴を見つけた。

 そこは山の霊域の中心だった。

 白猫は穴の奥へ向かった。

 静寂。そして、完全な闇。

 意識の目でのみ辿ることができる霊脈に導かれて、白猫は複雑な迷路をさらに奥へ。

 さらに地下深くへと降りてゆく。

 やがて行き着いたところは骨の海だった。

 広大な洞窟の先に、どこまでも続く骨、骨、骨。

 古いものから新しいものまで、大小さまざまな動物たちの骨。

 ここは、動物でありながら異能力を身につけてしまった魔獣たちの墓場だった。

 数万年の時間が、この白骨の森を造りあげていた。

 彼らの多くは、ここで死を待つ。

 白猫は骨の間を縫って進んだ。

 適当な場所を見つけて、冷たく湿った土の上に身を横たえる。

 曲げた前足の間に顔を置き、目を閉じた。

 体の熱が大地の冷気と置き換わってゆくのを感じながら、間もなく訪れる虚無を迎えようとした。

 ふと、三年前の情景が脳裏に映った。

 オートバイにはね飛ばされた瞬間と、折れた肋骨の上に感じた暖かい掌。

 血を流しながら自分を見つめる寂しげな視線。

 幼女の顔…

 白猫は、意識のヒゲが今までにないほど鋭敏に研ぎ澄まされてゆくのを感じた。

 識相を操って、三年前の記憶から始まる幼女の時間を追ってみる。

 細い糸のような因果の軌跡を辿るようにして、その結び目を捉える事ができた。

 幼女を要にして結ばれた三つのもの。

 白猫と、“力”と、そして獲物を求めて動き始めた凶暴な影を見た。

 白猫は目を開き、身を起こした。

 前足をなめて地につけ、顎を突き出しながら背を丸めた。

 顔を何度か拭ってから踵を返すと、闇の中を走り出した。

 白猫は骨の森を後にした。もう二度とここに戻れないこともわかっていた。

 そして、住み慣れた町へ向かった。

 恐らく最強の敵に、最後の戦いに挑むために。

 幼女のためではなく、白猫自身のために。



B-7


 原田は島村の家の玄関扉を閉めると、声もかけずに靴を脱ぎ捨ててあがり込んだ。

 そのままひとみの部屋に向かおうとした原田は、廊下で静子と鉢合わせになった。

 静子は目を丸くした。

「叔父さん、よかった!今、電話をしようと思っていたところ」

「どうした」

「ひとみちゃんが、また痙攣を」

「湯を沸かして洗面器に持ってきてくれ」

 静子は台所に向かい、原田は足早にひとみの部屋に急いだ。

 家全体を覆う死の匂いは先程よりも更に増していた。

 心の一角を麻痺させて、空気の澱みを振り払う。

 部屋に入ると、良平と小夜子が泣きはらしたような目を原田に向けた。

 原田と同様に、ひとみの死を予感している絶望の狂気が宿っていた。

 原田は無言のまま後ろ手で襖を閉めて、ひとみの傍らに座った。

 ほんの数時間で、ひとみの病状はさらに悪化していた。

 小刻みな痙攣が全身を走っていた。

 皮膚の下を虫の群れが這い回っているように、体のそれぞれの部分が勝手に動いている。

 死病の末期患者のような鉛色の皮膚。

 それに穿たれた薄茶色の発疹が全身を覆っている。

 呼吸は鞴のように荒く速い。脈も乱れている。

 額に手を置いて、四十度近い熱があることを確認した。

 原田は唇をかみしめた。

 ひとみの死は確実に近づきつつある。

 長く伸びた黒々とした髪が異様だった。

「先生、ひとみはどうなるんです?」

 良平が声を震わせた。

 すがるような、あるいは怒りを抑えるような表情で、原田の袖に手をかけながら。

 原田はその上から手を重ねた。

「落ち着いて。やれることは、みんなやるから」

 原田はそれだけのことをやっと言った。

 気安めの言葉さえ浮かばなかった。

 本当は、何を言おうが慰めにもならないことはわかっている。

「ひとみにもしものことがあったら…わたし…」

 小夜子がうつろな声でつぶやくのを、

「よしなさい。めったなことを…」

 と、力なく良平がさとす。

 肩を抱き寄せようとした良平の手を小夜子が振り払った。

 そして、原田に詰め寄りながら。

「大丈夫ですよね、先生。ひとみ、助かりますよね。だって、先生が救急車なんか呼ばなくても大丈夫だって言ったんでしょ。だから、大丈夫なんでしょ!」

「小夜子…」と良平。

「そんな言い方をしたら、先生が看てくれなくなるよ…」

 小夜子は良平の方を振り向いて首をうなだれ、良平は沈黙を守った。

 二人の一言一言が原田の胸を抉った。

 自分も良平や小夜子と何ら変わりはない。

 そのいたたまれない無力感が原田の顔を能面のようにした。

 静子が洗面器に湯をはって戻った頃には、ひとみの痙攣はおさまっていた。

 しかし、危険な状態であることに変わりはなかった。

 ひとみは荒い呼吸のまま、時々うめいた。

 紫色の唇が何かを訴えるように小刻みに震えている。

 治療を続けながら、原田はひとみの回復を祈った。

 神仏の顔を思い描くことなく、ただそれだけを祈った。



C-8


 老いた男が柿の木の下を通り過ぎていった。

 白猫はその後ろ姿を薄目を開けて見下ろした。

 男は門を抜け、玄関の扉を開けて中に入った。

 カラカラと少し軋んだ音を立てて引き戸が閉まる。

 泣き声のようなその音が夜闇に消えると、白猫は背を丸めて再び眠るように目を閉じた。

 いつの間にか空は晴れ、月が出ていた。

 風は冷たい。

 白猫は気配を完全に絶ったまま、時の経過を静かに見守った。

 予め配置しておいた三つのネズミの頭が、正確には彼らの脳に記憶されている死の瞬間の怨念が、鬼脈に干渉して小さな歪みをつけている。

 もし内側からそこに“力”がかかれば、最初に崩れるのはその地点になるはずだった。

 必ず、そこに現れる。

 わき腹がチクリと熱く疼いた。

 間もなく敵が来ることはわかっている。

 理由もなく、そう確信できた。

 木枯らしが枯れ葉を吹き落とし、道の上で繰り返し弄んだ。

 やがて4時間後。

 ゆるやかな北風が白猫の上を通り過ぎた。

 その中に悪意があった。

 家の中にいる幼女に向けて放たれたものだった。

 白猫の意識のヒゲに、目に見えない何かが触れた。

 迫り来るものへの予感に、わき腹がまた小さく疼く。

 もうすぐ。もう少し…



A-5


 もうすぐ。もう少し…

 揺らぐ意識の中で、ひとみはその“声”を聞いた。

 外から心に聞こえてくる音にならない誰かの“声”。

 意思。

 ひとみに語りかけているのではなかったが、殺されてしまったゴンの目に映ったものによく似ている。

 ズキン、と腕の傷が熱く燃えるように痛んだ。

「もうすぐ、もう少し…」

 ひとみは口に出してつぶやいてみた。

 そして、同じ言葉を呪文のように繰り返す。

 負けない。負けない。負けない…



E-1


 怪物は苛立っていた。

 やっと収穫の瞬間を迎えたにもかかわらず、獲物が思いのほか強い抵抗を示している。

 まとわりついていた邪魔はすべて消えたのに、獲物の最後の自我が崩れない。

 恐怖を煽って美味く味をつけたはずなのに、どうしても思うように事が運ばなくなった。

 獲物は着実に弱りつつあった。

 途中で味わった夢のかけらは美味かった。

 触手に捕えている以上、いずれ魂も収穫できることは間違いない。

 だがこのままでは時間がかかり過ぎてしまう。

 今食えれば最高の糧となる命の輝きが、弱りきって死ぬ直前では干からびた石のかけらのようになってしまう。

 まるで、ただの大人たちの夢のように。

 怪物が目覚めたのは、人の暦で十日前。

 それまでは鬼脈の奥に封じ込まれていた。

 長い年月で、あの女の封印も綻んだらしい。

 怪物は飢えていた。

 飢えを満たそうと獲物を求めて近くの人間たちの意識を探った時、たまたま見つけた。

 怪物を鬼脈に封じたあの女の血を受け継ぐ者を。

 やがて同じ力を覚醒させるであろう末裔を。

 昔の傷を負わせたものに復讐する野獣のように、怪物は獲物の心に襲いかかった。

 夢をひとつずつ喰らい、時間をかけてゆっくりと味わおうとした。

 そして最後に魂を喰いつくせば、怪物はより強い力を獲得することができる。

 獲物に潜在する魔力を自分のものにすることができるのだ。

 だが、最後の最後でてこずった。

 怪物は仕方なく異なる方向に触手を向けた。

 獲物の意識と怪物が造り出す幻影の錯綜地点での収穫を諦め、獲物の肉体と心の因果を直接絶ち切ることを決めた。

 そうすればよけいな力を使うことにはなるが、確実に収穫を得ることができる。

 怪物は獲物の眠る周辺に触手を向けた。

 そして、一番抜け出しやすい所を探した。

 出口はすぐに見つかった。



C-9


 突然、白猫はカッと両眼を見開いた。

 来る!

 枯れかけた柿の葉の間を抜けて差し込んでくる月光を、白猫の黒い瞳がはじき返した。

 それでも殺意はまだ身の内に抑えている。

 白猫の凝視している島村の家の闇が、かげろうのようにゆらりと揺れた。

 大気の蒸気密度が変化したのではない。

 そこに流れる時間が歪み始めているのだ。

 人間や動物には捉えることのできない時空間の変移を、白猫は視覚に置き換えて識別することができた。

 今、島村の庭に〃扉〃が築かれつつあった。

 怨念の〃場〃によってつけられた小さな歪みが、鬼脈にある内側からの力によって押し広げられてゆく。

 二つの異なる世界をつなぐ目に見えない魔回廊。

 その中央から大きな影がゆっくりと浮上してきた。

 白猫の側の領域では幽霊のように実体を持たない。

 それでも、そいつが人を殺すことができることはわかっている。

 そいつが狙う幼女がその獲物であることも。

 わき腹の疼きが火のように熱くなった。

 白猫はその瞬間を待っていた。

 抑えていた殺気を解き放つと同時に、太い枝に沿って全力で走る。

 一気に跳躍し、塀の上で弾みをつけて灰色の影に向かった。

 瞬時に意識を肉体から離脱させながら。

 怪物も白猫の存在を察知した。

 奇襲に気づき、“扉”の中に身を引いこうとした。

 が、遅かった。

 それを追って、白猫の意識はすでに鬼脈の魔回廊に跳び込んでいた。

 最後の戦いが始まった。

 暗黒の虚空を挟んで対峙する、憎み合う二つの意識。

 無数の触手を全身に纏う大木のような怪物と、かつては猫だった小さな魔獣。

 先制攻撃を仕掛けたのは、大きさとパワーに勝る怪物の方だった。

 触手の群れが閃光の速さで白猫に伸びる。

 が、白猫のスピードはその上をいった。

 触手と触手の間隙を縫って、相手の懐に跳び込んだ。

 そのうちの幾本かを刃のような爪で断ち切り、更に本体に迫った。

 敵の急所の位置はわかっている。

 そこに、不意を突いて第二陣が四方から襲いかかってきた。

 口を開いた触手の群れ。

 かわし切れずに、白猫はサメのような牙に意識の一部を食い破られた。

 わずかな怯みが深手につながった。

 怪物から伸びた本体の一部が白猫の全身を包み込み、引き寄せる。

 同時に幾千もの針が白猫を貫いた。

 白猫の苦痛を感知し、怪物は狂喜した。

 怪物が白猫を吸収しようとした刹那、白猫は己が身の内に封じていたネズミたちの怨嗟の念を解放した。

 それらは、先ほど喰い殺したネズミたちの意識の骸だった。

 恐怖と絶望の残照が怪物に取り憑き、同化してゆく。

 表面を覆っていた鎧のような精神外皮の一部がその一瞬だけ消滅した。

 白猫はそこに全てを賭けた。

 白猫は針に刺し貫かれている自らの意識を引きちぎりながら、最後の力をふりしぼって跳んだ。

 崩れかける自我を必死でつなぎ止めて、無防備なそこから内部に潜り込んだ。

 怪物は初めて恐怖を覚えた。

 異物が体内に侵入し、喰い破りながら進んでいる。

 それをどうすることもできないでいた。

 怪物は、以前にも一度だけ似たような恐怖を感じたことがあった。

 怪物をここに封じ込めた女との戦いの中で。

 だが今度の方がずっと深く激しかった。

 恐怖を喰い続けて生きてきた怪物は、喰われるものの悲壮な絶叫を迸らせた。

 雷名のような轟音が漆黒の闇を震わせた。

 断末魔の叫びだった。

 白猫はズタズタになりながらも怪物の急所である“気”叢の中心に辿り着いた。

 それに取りつき、ただひとつだけ残った前足の爪で引き裂いていく。

 力の続くかぎり繰り返した。

 やがてそれは、大海に沈む船のように崩壊を始めた。

 白猫は怪物が死んだことを知った。

 薄らぎゆく意識の中で、白猫はふいにわき腹に残っていたあの疼きの意味を知った。

 三年前。

 あの事故の時、白猫はすでに死んでいた。

 それを生き返らせたのが、幼女の中に宿っていた“力”だった。

 白猫と“力”は融合し、成長した。

 すべてはこの怪物を倒すために仕組まれていた。

 そして幼女を守るために。

 だが白猫は、記憶の奥で別のものを見つけることができた。

 あの、ぬくもり。

 あれは、折れた骨の上に置かれた、暖かく柔らかな掌から伝わってきた。

 幼女の手が白猫に〃力〃を植えつけた時に、肌の下に残したもうひとつのもの。

 そして生まれて間もない時に感じて以来すっかり忘れ果て、以後、もう望みさえしなかった遠い記憶に残る暖かさと柔らかさ。

 白猫は歩んできた生涯を遡り、現在と、三年前と、生まれた直後の三つの情景を同時に見た。

 それ通して、十数年の歳月の彼方で心深く求め続けたもののかたちを探り当てた。

 失われた遠い記憶の柔らかなぬくもりと、かたちにならなかった暖かな安らぎ。

 それを知った時、白猫が怪物と戦わなければならなかったもうひとつの理由を理解した。

 そして次の瞬間、怪物の完全な消滅とともに、白猫の意識は四散した。



B-8


 原田が島村の家についてから約四時間後、大きな雷が近くに落ちたような音がした。

 その轟音もさることながら、直後に家全体が地震のように激しく揺れた。

 少し前まで晴れて月が出ていたはずなのに、どうして突然雷が落ちたのかと、後になって近所の者たちがいぶかしんだ。

 しばらくして、意識不明だったひとみが小さく

「あっ!」と声を上げた。

 小さいながらも生き生きとしていたその声に、原田だけでなく小夜子と良平もドキリとして顔を見合わせた。

 ひとみの目尻からまたひとしずくの涙が落ちた。

 それから間もなく、ひとみの熱が下がり始めた。

 一時は40度を超えていた熱も午前1時には38度を下回り、その2時間後には7度5分まで下がった。

 呼吸の乱れもほぼ正常に戻り、脈も徐々に落ち着いた。顔の腫れもひいていった。

 原田は医者らしい手際で処置を続けた。

 原田は、初めは疑ってみていた。

 これは一時的な小康状態であり、すぐに戻ってしまうのではないかと心配した。

 だがひとみの顔色も、急激な回復ぶりを裏付けるように頬や唇に赤みがさしてきた。

 不吉な色の発疹もいつの間にか消えていた。

 それ以上に、ひとみの表情が変わった。

 顔の上にべったりと張りついていたような死相が、時間がたつにつれてぬぐい去るように消えていった。

 常識では考えられないような急激な回復ぶりだった。

 島村ひとみは、助かる。

 午前4時を過ぎる頃には、原田はそう確信した。

 それを二人に伝えた時、小夜子は少し間を置いてから子どものように声を上げて泣いた。

 良平はウサギのような真っ赤な目で原田を見つめて、何度も繰り返し礼を言った。

 原田は戸惑いながら答えた。

「いいや。私の力なんかじゃない。あんまり認めたくはないが、これは奇跡だよ。ひとみや、あなた方の力さ」

 言いながら、本当にそう思っている自分に気がついた。

 神仏を信じない原田だったが、今ならば、祈りの力だけは信じてもいいような気がした。

 人が人のために行う祈りが通じることがあるのだと、原田は初めて素直にそう思えた。

 原田は二人に少し休むように促したが、二人とも頑として聞き入れなかった。

 代わりに小夜子が夜食を作ると言い出した。

 三人とも昼から何も口にしていなかったのだ。小夜子と良平は台所にいった。

 それから10分後の午前5時5分。

 ひとみが目を覚ました。

 枕元には原田がいた。

 ひとみは急にパッチリと目を開き、原田におずおずと微笑みかけた。

 原田は動揺を見透かされないように表情をつくろうとしたが、うまくいかなかった。

 その代わりに、原田が先に声をかけた。

「…おかえり、ひとみ」

 なぜ自分がそんな言葉を使ったのか、原田はわからなった。

 ひとみはもう一度にこりとした。

「うん。ありがとう…。ただいま」

 原田は台所に行き、食事の支度をしていた良平と小夜子に知らせた。

 二人は走る勢いでひとみの部屋にとんでいった。

 原田は台所に残って勝手にみそ汁を自分でつぎ、握り飯を頬張った。

 ひとみの部屋から安堵の涙声が聞こえてきた。

 もちろん、ひとみではなく、小夜子と良平のものだった。

 やはり似たもの夫婦だと笑いながら、二つ目の握り飯を口に運んだ。

 夜が明けてから、原田は島村の家を出た。

 小夜子と良平は、せめて門まで送ると言い張ったが、原田は断わった。

「少しでも、ひとみのそばにいてやりなさい。見送りなんていらないよ」

 そう言い残して玄関の扉を閉めた。

 明るくなりかけた空のオレンジ色に目を細めた。

 朝焼けは、昨日この家の前で見た夕闇と同じくらいの明るさで、同じような色だった。

 なのに似ても似つかない。

(奇跡…か)

 原田は喉の奥でつぶやいた。

 ため息をつきながら小さく首を横に振り、敷石の上を歩き始めた。

 と、門の横に落ちている白いものに目を留めた。

 それは大きな野良猫の死骸だった。

 白い猫の傍らに腰を落とし、冷たいわき腹をそっと撫でた。

 死んだ猫の毛は固く、艶を失って醜く汚れていた。

 毛が抜けてむき出しになった肌の皺が、年老いた猫であったことを示していた。

 恐らく車にでもはねられたのであろう、と原田は思った。

 猫のわき腹の骨はグズグズに砕けていた。

 口と耳と鼻から流れた血が、敷石の上に黒い血溜りを残していた。

 そして枯れ枝のように折れ曲がった前足からは三本の爪が飛び出ていた。

 それでも死に顔は穏やかだった。

 じっと見つめながら、原田はしばらくその体を撫でていた。

 やがて上着が血で汚れるのも構わずに、そっと両手で白猫の屍を抱き上げた。



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