秀綱陰の剣・第七章

著 : 中村 一朗

”赤目”


 月が雲間に消えた半時後。赤目が襲撃をかけてきた。

 直前の予兆に気づいたのは茂吉であった。虫の音の中に、三間ほど先に何かが投げられた音を聞きつけた。茂吉は槍を手に、その方向に素早く移動した。ぼんやりと振り向いた源太を押しのけ、緊張の面持ちで前方の暗がりに目を凝らした。両眼を通して闇が体に入り込み、ゆっくりと肝を冷やしてゆくような錯覚を頭から振り払う。

「おい…」と茂吉。皆に警告を発しようとして。

 交代したばかりの由助と与一が振り返った。寝つけぬまま焚き火の傍らに寝ころんでいた蓑作と清造が身を起こす。伸介の姿だけが見当たらない。奴は一体、どこへ。一瞬その疑念が、なぜか赤目の奇襲と同等の大事に思えた。しかし、長く気を取られるだけの時間はなかった。森の奥から乾いた軽い音がした。枯れ葉の上を何かが走ってくる。が、鳴子が小さくカラリと響き、すぐに消えた。誰かがゴクリと固唾を呑む。

 虫の声と一緒に一切の音が止まった。静寂、あるいは沈黙が辺りをしめる。

 何の理由もなく、突然茂吉は顎を上げた。葉擦れの音を聞くより僅か前に、頭上に迫り来る黒い大きな影を見た。考えるより早く茂吉の体が動き、槍を突き上げていた。固い手ごたえに腕が押され、足場の均衡を大きく崩して転倒した。それは、茂吉の槍を刺したまま炎の中央に落ち、鈍い音を響かせて火の粉を周囲に振りまいた。隣の源太が喉の奥で笛に似た悲鳴を上げ、他の者たちは腰を抜かして飛びのいた。それでもこの場で何が起きているのかは、誰も理解してはいなかった。茂吉は茫然と振り返り、焚き火の中にある黒い塊と己の槍を視界に捉えた。それが一抱えもある大きな木の切り株であったことを理解するまで数度瞬くほどの時を要した。赤目が投げこんだものであることに間違いない。

 茂吉は慌てて槍を取り返そうと炎に手を突っ込んだ。柄を掴んで引き抜いた時、背筋を冷たい電光が駆け抜けた。振り向かずとも、何が襲って来ようとしているのかは明白であった。森の闇を引き裂く敵意と憎悪。抜いた槍を構え直す暇もなかった。茂吉は風の疾さで走り抜けてきた黒い影を見た瞬間、鈍い衝撃を左足と左腕に受けて弾き飛ばされた。さらに虚空で頭部と右肩に一撃。顔から地面に叩きつけられた時、だらりと開いた口元から垂れた舌が土を嘗めるのを感じながら、茂吉の意識は空白になった。

 束の間、茂吉は現実とも妄想とも区別のつかぬ朧な光景を垣間見たような気がした。炎の向こう側に二間ほどの距離を置いて対峙する黒い怪物〃赤目〃と伸介。その伸介の後ろでは既に殆ど意識のない源太たちが傷ついた虫のように地面でもがいていた。自分も似たような姿で呻いていることを漠然と意識しながら。それは明らかに人であった。が、毛皮を纏い、凶悪な形相で身構えるその姿は獣の野生すら凌ぐ。何よりも恐ろしいのは、凶暴な光を放つ真っ赤な目である。だが赤目を見つめる伸介の目に恐怖はない。寧ろ、念仏を唱える仏僧の悲哀の光が宿っている。赤目はやがて踵を返すと森に消えた。伸介は一瞬、それを止めようとするように手足を踏み出した。口が開き、聞き取れぬ小さな声で何かを呟いた。やがて茂吉の耳と目から音と光が遠ざかっていった。幻想が炎とともに揺らぎだし、茂吉の意識は全身の鈍い痛みを忘れて再び暗い眠りに落ちていった。

 次に茂吉が目を開いた時には日の出が近かった。うっすらと薄紫に変わりつつある空が目に映った。そして炭の爆ぜる音。焚き火の明かりと暖かさ。裏腹に、土の冷たさが背にしみ込んできた。炎のある方向に首を巡らそうとして、左腕と右肩と左足の焼けるような痛みに顔を顰めた。側頭部の痛みが更に続く。歯を食いしばって押し殺した。

「動くな。傷口が開くぞ」

 焚き火を見つめたまま、伸介が言った。茂吉は左腕に目をやった。腕は、ぼろ着を裂いた帯状の紐を幾重にも巻つけられたために倍以上にふくれ上がっていた。その下にはまっすぐな枯れ枝が二本、添え木代わりに当てられている。右肩と左足も同じ有様だった。

「あっちこっち、ひでえ折れ方をしているらしい」と、茂吉。

「骨だけじゃない。傷口もばっくり開いてる。運が良かったと思え。錆びた刃引きの刀でなけりゃあ、腕一本どころか胴体までまっぷたつになってたろうさ」

 傷の手当ては伸介が施した。茂吉だけではなく他の五人にも。

「…礼は言わねえ」

「ああ」

 鳥たちの囀りを聞きながら、茂吉は暫く目と口を閉ざした。やがて。

「源太たちは…」と、茂吉は伸介に目を向けて問う。

「まだ寝ている。おまえほどじゃないが、皆大怪我だ。まともに歩けるのは与一だけだ」

 伸介を除く全員が手足の骨を一二か所ほど折られていた。四か所を折られたのは自分だけであることを知らされ、茂吉は自虐的な笑みを洩らした。

「そうか…。赤目の野郎、おれが一番罪深いってこと、気づきやがった」

 伸介が初めて茂吉の方を見た。その目に炎と、まだ淡い朝の光が映っている。

「戦場自慢も昔話にするしかなさそうだ。その体、もう元通りにはならねえ」

 茂吉は目だけ動かして自分の体を見た後、再びゆるりと伸介に顔を向けた。

「…おれの槍はどこだ」

「気の毒だが、その腕と足じゃあもう槍は持てねえよ」

「いいさ。いらねえ。てめえにくれてやる。鍬なら片手片足だって大丈夫だ」

 意外な程穏やかな自分の声に茂吉が当惑した。伸介も不思議そうな表情を浮かべる。

「あの槍は赤目が持っていっちまった。残念だったな」

 茂吉が伸介の目の奥を覗き込んだ。簡単な答をそこに見つけて。

「…てめえ、あの化け物と知り合いだったんだろう。庄屋もそいつを分かっていててめえをおれ等に加えやがったな。だからてめえは、おれ等がやられた時にはその辺に隠れてやがったに違えねえ。おれ等がぶちのめされるのを見てやがったんだ」

 一瞬、二人は睨み合った。伸介の顔が険しくなり、茂吉は無表情のまま。

「だとしたら、おれを恨むか」と、伸介。

「別に。てめえは元々数の外だ。当てにしちゃあいなかったよ」

 伸介は小さく首を振りながらため息をついて炎に視線を戻した。

「藤兵衛さんは何も知らぬ。何となく気づいたろうが。それとなく匂わせるようなことを言ったからだ。あんた等の事を案じて、おれを同行させたのだ。本当はひとりで来るつもりだった。だがおれひとりだったら、〃赤目〃殿は出て来なかったかも知れぬ」

「おれ等をダシにしやがって」

「おれが望んだ訳じゃねえさ。あんた等の勝手につき合って来ただけだ」

「ずるい野郎だ」

「どうとでも言え」

 茂吉が力なく笑った。途端に苦痛が蘇り、頬を歪めて。

「罠は見破られていたらしいな。だが、どうやって…」

「赤目殿を知恵のない獣と侮ったからだ。火を落として耳を澄ましておれば、あんた等でも気づいたろう。忠告を素直に聞かないからだ」

 伸介が赤目の飛来した方角を顎で指した。茂吉は頭を巡らせて目を向けた。枯れ葉の上に一間ほどの間隔で点々と置かれた十数個の飛び石があった。個々の大きさは足を乗せるに丁度。陣に最も近い石だけは三間ほどの距離で、鳴子のある辺りまで続いていた。赤目はその石の上を走ることで蒔菱に触れずに陣に奇襲をかけた事を、茂吉は悟った。

「炎が夜陰を濃くし、炭の爆ぜる音が枯れ葉に石を投げる気配を消したのだろう。文字通り、奇襲の布石だ。先に切り株を焚き火に投げこみ、一番手強いとみたあんたの槍を封じた。後は烏合の衆だ。赤子の腕を捩るようにあっさりと片がついた」

「〃毒虫〃は何の役にも立たなかったのか」

「ああ、多分な。せいぜい、襲撃を少し遅らせる程度だったらしい」

 赤目が最初に鳴子に見つけた時、恐らくそれを跨いでさらに彼らに接近しようとした。そこで〃毒虫〃即ち蒔菱に気づいたのであろう。伸介は赤目が今でも地を摺るような独特の運歩法を用いるであろうと考えていた。昔からの習慣に従って。それ故に伸介だけは、蒔菱が赤目には通用せぬと密かに予想していたのである。

 茂吉は無表情のまま苦い唾を炎の中に吐き捨てた。目だけを動かし、伸介を睨む。

「おまえと赤目はどういう関係だ。会ってどうするつもりだった」

 僅かに躊躇うように間を置いてから、伸介は口を開いた。

「昔の知り合いだ。会って、確かめたかっただけだ。…あの頃は、あのお方はまだ人間だったよ。人間離れした強さだったが。姿は今と然程変わらぬ。だが、心は化生だ」

 その言葉の奥に苦痛がある。なぜか茂吉には感じ取れた。

「へえ…」

 と、茂吉が呟く。腕と肩と頭の後ろがズキズキと痛んだ。そこから湧き出した黒い渦が体の隅々にまで広がってゆく。茂吉は急に眠気を覚えて目を閉じた。昨日から今日にかけての出来事や人を殺してきたこれまでの全ての記憶が遠い夢のように感じられた。

 茂吉にはもう何もかもが、どうでもよかった。死のような眠りの奥に再びゆっくりと落ちてゆく。昇り来る朝日とは裏腹に、茂吉の瞼の裏側には濃い闇が広がってきた。それに応じて寝顔には、童子のように安らげな笑みがうっすらと広がった。

 明くる日の夕刻近く、伸介たちは村に戻った。

 帰路は六人にとり苦痛地獄の道行きであった。折れた骨の擦れる痛みに脂汗を流しながらの移動だった。一時に半里ずつ這うような速さで歩いては四半時休み、また歩いた。足を折っている茂吉と源太の歩調に皆が合わせた。それについて不満を口にするどころか、そう思う者さえいなかった。彼らは終始必要最小限のことしか口にしなかったが、不思議な程ごく自然に助け合って歩き続けた。夜が近づくと早めに足を止め、その場に野宿をした。幸い食料は十分残っており、ただひとり無傷の伸介が薪を拾って来て火を熾し、飯を炊き、傷を縛る帯を緩め、あるいは締め直したりと、こまめに皆の面倒を見た。やがて一日半をかけて討伐の出発地となった茂吉たちの村の入口に戻り着いた時、与一と蓑作は声を上げて泣いた。安堵の喜びによるものである以上に、短くも辛い旅の終わりを惜しむような奇妙な感動の涙であった。茂吉と源太はその場に崩れ落ち、清造と由助が抱き起こした。伸介は村の若い衆を呼び集め、怪我人たちを庄屋の番小屋に運んだ。

 村じゅうがすぐに蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。赤目の森での出来事については伸介が庄屋の藤兵衛に報告し、それを作兵衛が村の衆に伝えた。夜になると騒ぎは一層大きくなり、噂を聞きつけた隣村の名主までが慌てて飛んで来た。彼らの関心事は六人の怪我の具合よりも、これからどうすべきかという点である。もはや赤目をどうすべきかなどという事ではない。この水不足による飢饉の到来にどう対処すべきか。

 本来村人たちの意図としては赤目退治などどうでもよかったのである。理想は、茂吉たちが赤目に遭遇することなく山の幸を獲得して戻ってくることであった。赤目を怒らせないで動植物を得られるぎりぎりの境界を知ることの方がずっと重要であった。それを茂吉が強弁を揮って赤目討伐にすり替えた。少なくとも茂吉の怪我は自業自得であると、囁く者たちも多くいた。日頃から茂吉をよく思っていない者たちはあからさまな非難を口にした。もはや自分たちでは決して退治できないと分かった赤目よりも、傷ついて無様な姿になり果てた茂吉の方が容易に憎悪を向けられる。不安と苛立ちに対する手ごろな捌け口の人身御供である。それを振りかざして深夜に庄屋宅に押しかけた恥知らずな者たちも現れたが、さすがに藤兵衛に一括されてしおしおと引き下がった。

 怪我人たちの帰還は、今年の秋祭り以上に夜を賑わせた。空しい議論が村のあちこちで夜通し交され、その何処でも何の結論も得られぬまま絶望の朝を迎えた。

 落ち着かぬ騒動の中、いつの間にか伸介の姿は村から消えていた。それに藤兵衛が気づいたのは、明くる日の昼をたいぶ過ぎた頃であった。小作人たちに捜させたが、やはり見当たらなかった。この朝には既に見かけた者はいなかったらしい。藤兵衛は伸介が茂吉たちの命を救ったと思っている。人を見る目の肥えた藤兵衛は、最初の印象で伸介の並み外れた器量を見抜いていた。それ故に、十日前に村にやって来て突然赤目の討伐について行きたいと言い出した伸介の申し出に、ろくに訳も聞かずに承諾したのである。その判断は間違いではなかったと、今でも藤兵衛は信じている。

 寒風の吹き始めた村外れの畦道にひとり立ち、雲がゆったりと流れゆく秋空をぼんやりと見上げた。もう伸介に会うことはないであろうと漠然と考えながら、藤兵衛は伸介の身上を聞いておかなかったことを少しだけ後悔した。



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