秀綱陰の剣・第七章

著 : 中村 一朗

猿飛陰流


 甲斐・甲府、山本勘助の屋敷。

 夜半。跪いて茶室に入った尼僧は襖を閉めると館の主に顔を向けた。白い頭巾を取ると肩ほどの長さで切りそろえて後ろで束ねた髪が露になった。勘助にニコリと微笑み、両掌を床について丁重に頭を下げた。お久である。

「今日はまた、一段と派手やかな姿であるな」

 機嫌の良い勘助の声を伏せ目がちに聞きながら、お久は紫の僧衣の襟を整えた。

「ご冗談を。辛気臭いとお叱りを受けるのではないかと気が気ではございませんでした」

「いやいや、どうしてなかなか。その髪も、見慣れると女子らしゅうて良い。いっそ、暫くそのままでいたらどうじゃ。久が思うているよりずっと似合っておるぞ。わしがあと二十も若ければ、迷わず口説く。女子嫌いの看板などこの場で取り下げるところだ」

「お優しい言葉が今は身にしみまする。まだこの肌から返り血が消えませぬ故、余計に」

「話を聞いて驚いた。久は無茶をする。わしでも思いつかぬ策を企ておって」

「恐縮至極でございます。裏傀儡の性に従ったまでのこと。身内の長にも叱られまして。それでも手前ども下賤の浅知恵が功を奏しましたので、ご報告にまいりました」

 お久は十日前に襲撃してきた草薙一族を討ち滅ぼした時の様を詳細に語った。その後の黒夜叉の左門の不可解な行動から、百舌鳥の巳陰に話した天下を覆すことができる力〃草薙の宝〃に関する千吉の推論についても触れた。勘助は途中の質問も交えずに、最後まで静かに話を聞いていた。その後に暫く間を置いてから穏やかに口を開いた。

「黒夜叉は、草薙と裏傀儡の古き禍根を絶つために久を裏切ったという事か」

「結末を見る限りなら。奇眼坊さまがそうお考えになるのはご自由でございます。裏傀儡にとっては、ただの裏切り者です。掟に基づいて裁きます」

 勘助の明るさに対して、お久は涼やかな声で淡々と答えた。

「やはりまだ黒夜叉を許せぬ、そういう事か」

 お久は小さく首を横に振った。澄んだ目でじっと勘助を見つめ返しながら。

「理由はどうあれ、裏傀儡から足抜けた事に変わりはありません。わたしは掟に従うつもりです。左門もそれを望むことでございましょう。左門がわたしを殺めようとしたのは先代と草薙の間で取り決められた約定に従ったまでですから仕方がありません。先代の掟に従って琉元の手下を殺してもいます。掟を何よりも大切にする以上、左門はわたしに格別の融通を求めたりはしません。甲斐に来れば殺します」

「では、左門を地の果てまで苅りたてて殺すようなことはせぬのだな」

「そのような掟はございませぬので。新たに作るつもりもありません」

 勘助の意地の悪い質問に対しても、お久は落ち着いていた。うっすらと笑みさえ浮かべて答えた。このひと月の経験でお久は見違えるように変わったと勘助は改めて思う。裏傀儡の元締として、名実共に。勘助の案じていた善し悪しは別にして。

「なるほど。ところで、草薙陣内とやらからは何か聞き出せたか」

「いえ。今のところはまだ黙して何も語ろうとはしません。今少し、あの者の回復を待って問いただしてみるつもりでございます。たいして手間と暇はかからぬものか、と」

「だが恐らく、痛めつけても無駄であろうよな」

 お久は床板の節目を見つめて、スッと笑みを浮かべた。一瞬、勘助はその微笑に見蕩れた。世辞さえ言えぬほどの危険を孕む悽惨な美がお久の白い顔肌の下で脈動する。

「御案じなく。必要なら、今もまだ混乱している草薙の里に揺さぶりを掛けてみるつもりです。陣内の切り落とした腕を塩漬けにしておりまして。下準備に、明日にでも送りつけようかと。無論、前の持ち主は今暫くこの地で預かっておくつもりでございますが」

「陣内を人質に、草薙の里に残っておる者たちを脅すか」

「人聞きの悪いお言葉を。もっとも武家大名の間では我が子をも人質に差し出してお家の安泰を図ることもざらとか。それに比べれば可愛いものです」

「確かにそうだ。怪我の治療は甲斐でも出来ようからな」

「あるいは傷を増やすことも。お任せ頂ければ、ご期待には必ず添いまする」

 ゆっくりと落ち着いた声でお久が言った。顔を上げたお久の目には如何なる気負いもない。ただ、不動の自信のみが滲んでいる。それが草薙一族を葬ったことによる自信ではないであろうことは理解出来た。勘助はその目を見ながら頷いた。

「わかった。任せよう。ところで、わしも久に見せたいものがある。今朝、届いた」

 勘助は懐の厚い手紙をお久に差し出した。それを手に取って開いた。

 上泉から山本勘助宛てに出された塚原卜伝からの手紙であった。お久は一度ざっと目を通した後、二度三度と繰り返して読んだ。さらに紙面の各所を見ながら熟考する。暫くして勘助に目を向けた。勘助は石地蔵のようにじっとお久の様子を見ていた。

「上泉からこの甲府に飛脚が来るとは思えませぬ。箕輪から東に忍ばせた乱波はことごとく払われたとか。いったいどのような手立てで、これを」

 と、折りたたんだ手紙を翳した後に勘助に差し返す。勘助はそれを懐に収めた。因みに飛脚は、鎌倉の世には既にあった。ただ、専ら政の連絡のために用いられた。飛脚問屋などが通信の手段として発達したのは室町幕府末期の戦乱以降のことである。

 勘助の顔皺が深くなった。困惑とも微笑とも区別のつかぬ表情になった。

「久の言うとおりなのだ。実は、よく判らぬ。今朝方、門番が旅の僧受け取った。どうやら、何処ぞの乱波だったらしい。不審に思った庭番どもが追ったが、逃げられた」

「これは、確かに塚原卜伝さまのお書きになったものでございますか」

「確かだ。お師匠の字に間違いはない。お師匠は人は悪いが嘘はつかぬ。書かれていることも事実であろう。お師匠は無界峰琉元を斬って深手を与えた。その後に上泉秀綱の砦に逗留しておるというのも本当だろう。わしも呆れたが、あのお方ならやりかねん」

「…琉元が、余地峠に」

 そう呟くお久の顔からは表情が消えたままである。

「上州周辺の宿場町には乱波たちが目を光らせておる。だがどこからも、琉元を見かけたと知らせてきた者は居らぬ。箕輪の忍びからも身を隠しておったようだ」

「武田とわたしの網については琉元も知り尽くしております。事の直後に草薙に繋ぎを取ったなら既に西におり、遁走を図るなら北に逃げたはずと思っておりましたが」

「何か目的があったのだろう。琉元はただひとり、箕輪の様子を窺いながら山中にいたということらしい。長野の雇われ乱波を斬った事、さらにお師匠の前に単身で姿を現したこともその裏付けになる。そして、血迷ってお師匠を斬ろうとした」

「手紙に記されております琉元の言った事を、どこまで信じるおつもりですか」

「さあな。それで、これから二人で知恵を出し合ってみようと思ってな。恐らくまだお師匠から受けた深手のために大人しくしておろうが、いずれ動き出すじゃろう」

 楽しげな口調の勘助は、ゆっくりとした手際で茶をたてている。お久はその様を暫く無言で見つめた。やがて差し出された碗を手に取って。

「解せませぬ。琉元が、なぜ塚原さまに剣で挑んだりしたのか」

 お久は再び考え込んだ。お久の知る琉元の技量はお久にも劣る。まして卜伝には遠く及ばない。死を覚悟の立会であればいざ知らず、勝算を以て挑むなど片腹痛い。

「手紙の通り解釈するなら、上泉秀綱の太刀筋を確かめようとしてのことだ。陰流開祖愛洲移香斉の秘剣とお師匠の〃一の太刀〃が似ていることを聞いておったのであろう。上泉秀綱に挑むための小手調べのつもりであったらしいな。ところが、お師匠の剣は琉元の予想の遥か上をいった。まさか自分がそうも簡単に倒されるとは思いもしなかったに相違ない。琉元は久にも己が技を全て見せてはおらなかったようだが」

 お久は無表情のまま、差し出された茶を口に運んだ。

「それにしても、琉元めが猿飛陰流を学んでいたとは」

「それを元に、陰流について新しい推測を立てることが出来よう。猿飛陰流を学んだ者は陰流を知っていたが、唯一の陰流印可状を持つ上泉秀綱とは面識が無かった。同じ頃、共に月山で修業に励んでおった筈だが。…なぜだろうな」

 お久は答えようとしない。この問いが勘助自身に向けたものであることを知っているからであった。勘助は虚ろな目で天井の一点を見つめ続けている。

「草薙とは異なる生粋の猿飛か。愛洲一族の庭番であったという。猿飛は忍びの暗殺術だが、陰流は違う。唯一、上泉秀綱だけが学ぶことを許された戦場の剣だ。愛洲移香斉は一子小七郎を差し置いて、〃上野一本槍〃殿に奥義を授けた。陰流を相伝した秀綱は今日に至るまで陰流を名乗らずに上泉兵法として多くの者たちに技を教えておる。継承者であることを誰にも知られぬようにするためとは思えぬか。一方の小七郎は移香斉の死後、猿飛に陰流の名をつけて新たな流派を宣言した。猿飛陰流に纏わる噂がたったのもその頃からだったそうな。噂のもとは、恐らく小七郎自身…」

 勘助の視線が虚空からお久の瞳にゆっくりと移った。

「…憎しみと野心」と、ぽつりとお久が呟いた。勘助が頷く。

「そうだ。父移香斉への歪んだ思慕と憎悪が乱世の野心を大きく育て、闇に生きてきた猿飛を日のもとに晒したのだ。そして二百年以上受け継がれてきた愛洲一族の秘事を公にしようとした。恐らくそれが、小七郎惟修の命を絶たせたに違いない」

 お久の表情が僅かに変わる。疑問を素直に口にした。

「愛洲小七郎は既に死んでいるとお考えですか」

「愛洲の猿飛そのものが既に消えたのではないかと考えておる。もしこの数年の間に猿飛が某かの意図で天下の乱に乗じて動いておるなら、わしや久に噂のひとつも聞こえてこぬはずがない。何れの家に仕えていようと、琉元ほどの忍びを使うておれば尚更だ。現にわし自身が旅空で陰流の〃飛龍六道〃についての噂話を十数年前に聞いておったのにな」

「確かに、琉元が誰かの指示で五年も裏傀儡に身を置いていたとは思えませぬ。ですが、好んで暗殺を生業とする職を選ぶとも思えませぬ。何か理由があった筈です」

 軍師の眼光で勘助が頷いた。

「仮に小七郎が死んでいる、いや、殺されているとしたらどうだ。お師匠の手紙にもある通り、琉元の技は並の達人の域を超えていたそうだ。臍の曲がったお師匠としては最高の褒め言葉よ。お師匠に言わせれば、わしなど並み以下だそうじゃからな。奴を仕込んだ愛洲小七郎も只者ではあるまい。その乱波を束ねておった小七郎惟修を倒せる者もまたそう多くはいないであろう。小七郎を殺したものを捜すには、裏傀儡は良い隠れ簑になるのではないか。つまり、師を殺めた者を捜すために琉元は裏傀儡に身を置いた…」

「猿飛の師匠である愛洲小七郎の敵を討つためである、と」

 お久の声は冷たい。琉元の性根は仇討ちなどの義理人情や感傷で動く類のものではないことを知っているからである。お久の否定に気づいて、勘助は首を横に振った。

「そうではない。殺人者を捜しだせば、そこに猿飛の宝がある。奴は天下を覆す宝を探しておったのかも知れぬ。宝の何たるかについては、久の説にわしも賛同するぞ。後醍醐の血と権力に関わるものに違いない。だから琉元も草薙と裏傀儡に疑いを持った訳だ。さらに、顔も名も知らぬ陰流の継承者を特に疑っていたことであろう」

「なるほど…」と、お久。そう答えると、ふいに目の奥で何かが弾けた。

「琉元は草薙と裏傀儡の関わりは知っていた。愛洲一族の庭番であったなら当然だ。が、裏傀儡に琉元のかつての身元を知るものはいなかった。草薙一族さえも琉元の事は知らなかった。黒夜叉の左門が琉元の手下を殺したこともこれを裏付けている」

 勘助の話を聞きながらもお久の思考は勘助の筋道から外れて、直感が導く閃きを追っていた。見えぬ糸を手繰り寄せ、その先に繋がる琉元の思惑を捉えて呟いた。

「…さらに、裏傀儡と草薙を争わせて共倒れを狙った…」

「なるほど」と、同じ言葉で今度は勘助が答えた。

 隻眼が瞼の裏を見るようにスッと細くなる。すぐにお久の考えたことに思い至った。

「奴が姿を消した理由はそれも画策してのことか。猿飛の秘事を探ろうとするもの、知るものは世から消した方が良いと考えたなら、辻褄が合うな。宝を独占出来る訳だ」

「お陰で裏傀儡は、草薙のみならず身中の虫をも摘み取ることが出来ましたが」

「だが、黄金虫ではなかったであろう。天下を覆せるほどの宝は草薙裏傀儡のいずれの側にもない。お久の言う、後醍醐天皇の血を引く人柱もじゃ」

「…奇眼坊さまはその人柱を捕えて、天下をお狙いになりますか」

「武田信玄公晴信さまの御ためなら。だが、人柱の法力による。またそれ以前に、今までの話とて証拠は何ひとつない。わしと久の憶測に過ぎぬ。お館さまに言っても、笑い飛ばされるだけかも知れぬぞ。愉快な夢物語である、とか言われてな」

「されど、根拠はございましょう。奇眼坊さまの予感も」

 勘助が頷く。お久を見る隻眼が、悪戯を思いついた童子のように輝いていた。

「ある」と、短くきっぱりと宣言した。

「ところで、琉元は何処まで承知しておりますのでしょう。陰流の継承者が上泉秀綱であったことは知らなかったようでございますが」

「少なくとも猿飛陰流に纏わる秘事の何たるかを知っていた。草薙陣内の知らぬことさえもじゃ。だが、上泉秀綱については解らぬ。愛洲移香斉が何処まで伝えたかによるが」

「上泉秀綱の様子は。恥ずかしながら、このところの騒ぎで動向を捉えておりません」

「佐久に送った武田の忍びが旅の商人たちから聞き出して知らせてきた。印可状を奪われても、上泉秀綱の様子には取り乱す素振りもなかったらしい。挙げ句に仲間と連れ立って物見遊山の旅に出おったそうだわい。お師匠の手紙からも秀綱の脳天鬼な様が窺える。中山道から京の都を経て、堺に向かった。京と堺に忍ばせた手の者たちが彼らの到着と出発を確認した。同じ道を通っておれば、そろそろ上泉に戻る頃だ。道行きは、留守宅の者たちに言い残してきた通りじゃ。全く、長野一本槍の御仁は何を考えておるのやら」

 勘助が吐き捨てた。が、真実苛立っている素振りはない。寧ろこの稀有の個性を面白がってさえいる。加えて、秀綱に纏わるこうした出来事についても。

 勘助は秀綱探索のために武田乱波を京と堺に忍ばせた訳ではない。物流を掴むために以前から深くその地に根ざして聞き耳を立てている。合戦の決意は金や人、物品の流れから窺い知ることが出来る。特に堺には金銀の借用から兵糧や武器の大量買いつけまで、様々な目的でやって来る各地大名の抱える商人や使用人たちで常に賑っていた。

「上泉秀綱の行き方はともかく、陰流の秘事については、近々新しい報告ができることと思います。百舌鳥の巳陰を日向に送りました。今日の夕刻には着いていることと」

「巳陰をか。組頭自ら〃聞き耳〃ごときの任に当たらせたのか」

 先日一本松に赴いた時、勘助は巳陰に案内されて館に赴いている。その折、一番組組頭である巳陰の秀でた力量についてはお久に聞いて知っていた。間もなく草薙との駆け引きが始まるなら、側近として置いておいた方が良かったのではないかと考えた。同時に、お久に対して余計な心配をしている自分の甘さに内心苦笑しながら。

「草薙と愛洲の〃宝〃のこと、どうも面白可笑しく話をし過ぎましたようで。巳陰が自分で確かめに日向に行きたいと申しまして。止めるのも聞かずにひとり出立してしまいました。一番組の手下たちをわたしに預けまして」

「ほう。元締の面目も形無だな。鉄の掟はどこに消えた」

 勘助の皮肉な口調に、お久は小首を傾げながら微笑で答えた。

「手綱はわたしの掌に。掟よりも気心で縒った固い絆でございますれば、御安心を」

「うまく捜し当てればそれで良い。求むるものは琉元や上泉秀綱の首ではなく、愛洲一族と陰流に伝わる〃宝〃だ。何が出てくるか楽しみだな。後醍醐天皇の血を引く人柱か、三種の神器のひとつという草薙の剣か、あるいは飛龍六道」

「飛龍六道…。〃飛龍〃は人の世を滅ぼす力を持った神獣。〃六道〃は冥府に向かう死出の道とか。世継ぎに託すには、凶々しく響きますようで」

 勘助が頷く。皺深い肌の下から微笑が消えた。



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