秀綱陰の剣・第九章

著 : 中村 一朗

追撃


 伸介が立ち去って更に半時後。いつの間にか夜空から雲は消えていた。

 月光下の暗い木立の狭間に、闇の中をぞろぞろと動く影がある。三人四人と集い始め、やがて六人が焚火の跡を囲んだ。彼らは周囲の様子を窺い、忙しげに焚火跡を調べた。

「どうせそんなところにゃあ、何もありゃあしねえよ。寒いから火を熾せや。炭が残ってりゃあ、すぐに火もつくだろうぜ。奴等だって、もう近くにはいねえだろうぜ」

 暗がりから現れた巳陰の声に乱波たちの若い顔が振り返る。一瞬の遅滞の後、ひとりが焚火に火種を落とした。藁についた炎は炭に燃え移り、僅かなその明かりは周囲の闇を一層濃いものに変えた。巳陰を入れると、その場の人数は七人になった。

「いいのかい。こんな時は、どんなに気を遣っても遣い過ぎることはないって教えてくれたのは、百舌鳥のおじさんだぜ。後で元締に言いつけるのは無しだよ」

 八人目。桐生が反対側の木陰から姿を現した。一団の最外郭を見張っていたのだ。

「この際だ。鳥だっていつまでも寒い中にいたんじゃあ可哀想だからな」

 巳陰が桐生の傍らに立つお蝶に目配せる。お蝶で九人目。この総勢が張り込みの布陣であった。巳陰は彼らの監視役としてここに来ている。桐生とお蝶を除けばまだ未熟な下忍たちであったが、桐生に対して絶大な信頼を寄せていることは察せられた。

 お蝶は焚火に勢いがつき始める頃合いを待って、指笛を吹いた。小さく三度。更に長く一度。すると、頭上から羽音を鳴らして三羽の黒い鳥が舞い降りてきた。烏にしては小さい。滑らかに闇を滑空して来ると、そのままお蝶の腕と肩に留まる。草薙との戦い以後、あまり表情のないお蝶の頬が微かに緩むところを巳陰は見た。

 お蝶は鳥籠に三羽を入れると、上から厚手の黒い布をかけた。少しでも暖を取り易くするためと、鳥たちを落ち着かせるためである。

「南蛮の鳥は世話が面倒だね。もう少し野ざらしにしたら死んじまうとこだったよ」

 お蝶の傍らで桐生が呟いた。お蝶は無言で鳥籠を抱いている。

 焚火の周囲に残っているのは桐生、お蝶、巳陰の三人に加えて、三方を見張る下忍三人の六人。他の三人は薪と水を捜しに沢に降りている。やがて戻ってきた。

「何はともあれ、腹拵えだ」

 握り飯と味噌を並べ始めた下忍たちの手際を見ながら巳陰が笑みを浮かべる。

「本当に追わなくてもいいのかい。奴等の行き先だってまだ判らないんだよ」と桐生。

「大体判っている。後は、こいつが裏付けてくれりゃあいいんだ。何もかも人様から聞き出そう何て考えちゃあいけねえよ。それだけ危ねえ橋を渡ることになるからな」

 巳陰は鳥籠を指差した。〃語り〃と呼ばれる中の鳥は人の言葉を覚えてしゃべることが出来る。異国が産地であるらしい。その鳥にお蝶が忍びの技を仕込んだ。虚空から相手に近づき、話を聞いて帰って来る。そして気が静まると、鳥たちは聞いた話をぽつりぽつりと語りだすのだ。ただし、すべてを記憶していることはない。三羽合わせても、せいぜいの量である。しかしそれでも、十分な成果をあげて来た。不思議と鳥たちは話の中心を巧みに抑える。最も真剣に語っている部分を記憶するためであるからかも知れない。

 〃語り〃たちはお蝶に馴染んでいる。鳥たちに語りかけている時のお蝶の横顔には、桐生には見せたことのない安らかな表情が常にある。鳥だけではない。お蝶は犬、猫、馬から蛇などに至るまで、巧みに気持ちを通わせる事が出来るようにも見えた。或は良いけもの使いになれるかも知れない、と巳陰は密かに思っている。

「元締からは、上泉秀綱には手を出すなって言われたけど、あの猿飛は別に構わないんだろう。捕まえて締め上げた方がはやいんじゃない」

「そうかも知れねえ。だが、何となく気が引けるんだよ」

「ここが奴の縄張りだったからかい」

「それもあるが。…奴の底が知れねえあたりがな。少なくとも琉元と同等の力があると考えた方がいい。こっちの動きにも気づいてるはずだしな」

「気にし過ぎじゃない。それにどう見たって、今は奴には仲間はいないよ」

 桐生の指摘には根拠があることは巳陰も認めている。

 桐生が手下たちを率いて月山の麓に着いたのは秀綱と同じ頃の十日前。ただし、安易に山中に足を踏み入れるようなことは避け、逗留先の宿を陣にして遠目の利く者に見晴らせる程度にとどめていた。秀綱が山中の庵に入ったことは既に判っていた。妙な修業に励んでいるらしいが、そこで秀綱が何をしようが彼らには関心はない。彼らの関心は、秀綱が誰と接触し、何を受け取り、何を譲り渡そうとしているのかである。相手が現れるまではただじっと待っているだけでよかった。やがて彼らの網にかかる者が現れた。愛洲猿飛と覚しき何者かが、山岳の〃繋ぎ〃に仕事を依頼して来たのだ。男の名は今市の伸介。指定した日に上泉秀綱を庵から連れ出すことを依頼してきたという。ただし、決して秀綱の癇気を煽るような振舞いをしてはならない。逆鱗に触れればナマスに斬られる、と伸介は彼らを脅した。塚原卜伝に勝るとも劣らぬ剣の腕であると聞かされていたらしい。

 桐生は予め〃繋ぎ〃たちに金を蒔き、そうした事態に備えていた。彼らはその事を桐生たちに知らせてきた。桐生は約束通り残りの金を支払って、また次の段取りをつけた。

 そして三日前、巳陰とお蝶が桐生たちに合流した。〃繋ぎ〃に仕事を依頼した今市の伸介とやらが月山に入ったのはその明くる日。桐生たちはその動静も掴んでいた。月山に向かう山道の傍らの小屋で、彼らは男の姿を盗み見た。男は彼らの前を何の警戒もせぬ様子で通り過ぎた。腰には刀さえ携えていなかった。山伏でさえ身を守る短刀ぐらいは常に携帯している。もっとも彼らは志半ばで荒修業に挫けた時、自刃するためにそれを用いることもあると言われる。山伏たちは兵法者以上の厳しい肉体への試練と戒律を自らに課している。気質において、武士などより遥かに乱波に近い。数日間とは言えその姿をつぶさに見てきているだけに、つい山伏たちと比較してしまう。すると伸介の振舞いは如何にも軽薄に見えた。旅の町人風の出立ちで月山に入った伸介の余りに無防備な様を、桐生はあからさまに蔑んだ。ところが巳陰は逆に緊張した。巳陰の脳裏には常に日向の悪夢がある。伸介はその世界の住人だった。あの状況下で生還した強運は尋常なものではない、と確信している。生え抜きの猿飛は草薙とは違う。それ故、彼らは山中での伸介の監視を放棄した。代わりに、〃繋ぎ〃たちに後を託したのだ。やがて〃繋ぎ〃から伸介と秀綱とが邂逅すると知らせを受けて、お蝶は三羽の〃語り〃を放った。〃語り〃たちは秀綱を迎えに出た〃繋ぎ〃たちの頭上に常に影を落としていた。そして彼らが秀綱と接触すれば秀綱の影を追うように予め条件付けの指示を与えてられていた。〃繋ぎ〃が去っても話を記憶しながらその場に夜まで留まり、回収を待つ手はずであった。闇を飛べぬ彼らは夜間の行動に制約を受ける。ために、〃語り〃たちは逆に不必要な深追いをせずに済んだ。

 鳥籠に耳をつけて、聞き取れぬ小さな声で何かを鳥たちに囁いていたお蝶が、ふいに顔を上げた。巳陰と桐生に目配せで合図を送る。鳥たちが〃語り〃始めたのだ。

 それから四半時近く。彼らは握り飯を口に入れることさえ躊躇うほど静かに時を過ごした。お蝶だけがじっと聞き耳を立て、聞こえて来る赤子の呟きにも似た鳥の語りかけに頷いている。そして時折、何かを答えるように囁き返している。お蝶は鳥たちと会話をしている訳ではない。お蝶の声が鳥たちを促す呼び水になっているのだ。

 やがて鳥たちは〃語り〃を終えた。お蝶が疲れた顔を上げる。

「どうした。面白れえ話でも聞けたか」

 投げ遣りな調子だったが、巳陰の言葉には期待がある。

「二人は、奥州平泉に向かった。鋸引山に。〃赤目〃さまを斬るためだって」

 お蝶が答えた。桐生の虚ろな目がお蝶と巳陰の間を往復する。巳陰はにやりとした。

「その〃赤目さま〃ってのが、後醍醐の血筋な訳だな」

「うん。でも〃赤目さま〃を斬るのは上泉秀綱。伸介は見届けるだけなの。〃赤目さま〃の持っている飛龍六道をこの乱世から葬るために。上泉秀綱の持つ技と叢雲剣で」

「…なに」

 巳陰の両眼がギラリと底光りする。桐生さえも背筋に冷気を覚えるほどの気迫がそのひと言に込められていた。飛龍六道の所在が知れたことよりも天叢雲剣が上泉秀綱の手中にあったことが衝撃であった。秀綱が月山に赴いた理由は愛洲と猿飛の残党の粛清することとまでは予想していたが、自らを囮にするために叢雲剣を移香斉に託されていたとは。愛洲が天下を狙うためには、秀綱の持つ剣を奪わねばならない。両者の対決は必然となる。(あるいは…)と巳陰は思う。愛洲移香斉は実はそれを望んでいたのではないか。一族の暴走による飛龍六道の解放を阻止するためなどではなく、単に双方を競わせる目的で。移香斉は塚原卜伝さえ一目置いた兵法者であった。兵法者の求むる究極は地上最強の武名であろう。単に最強の兵法者になることではなく、如何なる極限状況からも生還する境地に立つこと。強運を従え、更に人の域を遥かに超えた心技体の統一により覚醒し得る天才の〃力〃を身につけることで。愛洲移香斉は多分、その証しを求めたのだ。暗殺に長けた愛洲猿飛をただ一人で屠れば、その最強の称号は自らの内において不動のものとなる。老いさらばえた移香斉がその狂気の夢を唯一の陰流継者に託したとしたら…

 真相は誰にも判らない。恐らく、上泉秀綱にも。

「それだけじゃないよ」と、お蝶。声音が微かに震えている。

「まだ話は続くの。最後に伸介が言い残したらしいの。〃これ以上おれたちを追って来るなら、命を貰う。どうしてもあれを手に入れたいなら、平泉の鋸引山に来い。決着をつけてやる。そう伝えろ〃」

 桐生が血相を変えた。キッと、巳陰に顔を向けて。

「百舌鳥のおじさん。あいつ、やっぱり知ってやがったんだ!最初からおれたちが見張っていたことも。〃語り〃の事も気づいてやがったんだよ」

 狼狽が桐生の言葉の端々に滲んでいる。

「ああ。どうやらそうらしい」

 そう答えながらも、実際には巳陰は伸介が〃語り〃の存在を察知していたとは考えていなかった。人語を記憶する鳥のことなど知るはずがない。それでも伸介は伝言を残した。裏傀儡が何らかの方法で自分を監視し、聞き耳をたてているものと理解していたのだ。その用心深さを裏打ちする伸介の鋼の自信に、巳陰は内心慄然としていた。

「平泉に行くのかい」

 と、桐生。緊張する一同をさっと見回して最後に巳陰に目を戻した。他の七つの視線もそれに従う。巳陰は無表情にそれらを受け止めていた。やがて。

「平泉に招くと向こうが言うなら、出向くのがこちらの礼儀だ。ただし、奴等の後は追わねえ。折角の警告だからな。素直に聞いてやるさ」

 この山岳路においては、猿飛に地の利がある。彼らは迂回して街道に抜けて、平泉に向かった。その目的は決戦ではなくあくまで飛龍六道の獲得である、と皆に言い含めて。


 三日後。巳陰たちは平泉に到着した。秀綱に遅れること一日。その間に〃聞き耳〃を使って〃赤目〃についての情報を収集させていた。秀綱がまだ麓の村にいるうちに、彼らは鋸引の山中に入った。その明くる日、秀綱の入山を合図に死闘が始まった。



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