秀綱陰の剣・第十章

著 : 中村 一朗

暗闘


 桐生は白面樹の下忍をひとり殺し、組頭に深手を負わせた。他の二人は〃聞き耳〃たちと差し違えて死んだ。もっとも、桐生は敵が白面樹と名乗っていることなど知らない。猿飛の残党に雇われた忍びと認識しているだけである。

 桐生は昨日、夜陰に乗じて森に潜入した。巳陰の忠告に従って、十分に注意を払いながら。藪の中に傀儡を仕掛け、十間離れた木の葉の中に身を横たえて朝を待った。やがて、〃聞き耳〃の二人が陣を出て薪を拾いに来た。上泉秀綱が赤目の森に向かった事を桐生に伝える合図である。陣にいる者たちもそれに応じて移動する手筈だった。その時、敵が視界に姿を現した。四人。三人が〃聞き耳〃たちに襲いかかり、ひとりは滑稽にも人形に斬りつけた。桐生は〃聞き耳〃に襲いかかった一番近くの敵に毒矢を吹きかけた。その男が首を抑えて倒れる様を目の隅に捉えると同時に、落ち葉の中から跳躍した。もっとも手強いと読んだ相手に手裏剣を投げつけながら斬りかかった。手裏剣が肩を掠め、剣が胸を貫いた。が、そいつは深手を負いながらも後方に退いた。乱戦はすぐに終了した。

 森を走りながら、桐生は現状を分析していた。四人を倒し、二人を失った。奇襲を奇襲で返したが、こちらの残存戦力を考えれば序盤は互いに五分の消耗と見てよいだろう。桐生は予め、森を見張る敵の布陣と痕跡から四ないしは五組が森に入っていると予想していた。一組が四人なら十六から二十の忍びと戦う勘定になる。一方、こちらの戦力は十人。ただし巳陰は単独で赤目の森に向かうから、事実上は自分を含めて九人。

 戦いから四半時後、やがて二又に枝分れした大木の前に辿り着いた。桐生が足を止める前に仲間たちが姿を見せた。五人。いずれも若い。その中に巳陰とお蝶の組の姿はない。お蝶たち三人は敵の背後を探りながら、森を大きく迂回している。

「八蜂たちは」

 仲間の一人が桐生に問う。名は、獅子丸。唯一、桐生と同じ年である。

「二人ともやられた」

 獅子丸のみならず、皆の顔から表情が消える。彼らは三人ずつ三方に別れた直後、再び合流していたのである。予め巳陰に指示されていたとおり、ここで桐生を待つ手はずであった。〃聞き耳〃の調べあげていた地形から周到に計画された事だった。

 桐生は先程のいきさつを語って聞かせた。

「で、桐生。そいつらは強いと思うか」

 皆の気持ちを代弁するように獅丸が尋ねた。

「恐らく一人一人なら、おまえたちと互角。だが、組んで争えば奴等の方が上だ」

 五人の顔が一様に、不安げに曇る。修業こそ桐生やお蝶たちと同等につんで来ているものの、彼らには実戦での経験が不足していた。

「奴等は組ごとに行動している。だから、個別に撃破する」桐生は一同の顔を見回して、

「奴等はおれたちが三人ひと組で動いているものと思ってる。つけこめる隙はそのあたりさ。とりあえず、お蝶たちとの合流地点に向かおう。その間に奴等と遭遇したら、初めに俺が仕掛ける。連携が乱れたところで、おまえたちの出番だ」

 桐生は歯を剥き出して壮絶な笑みを見せた。つられて彼らも小さく微笑んだ。

 ひとつだけ、桐生にも懸念があった。敵の中にいる猿飛の存在である。他の雇われ忍びなどとは比較にならぬ、格段の技量を持っていると考えられた。巷には自分より強い者はいくらでもいる。そんな一人と、これから戦わねばならないのだ。このひと月余りの出来事で、桐生は天下の広さを文字通り痛感した。特に、上泉の屋敷で遭遇したあの老人。侮ったために危なく命を落とすところだった。痛みこそ引いたものの今も脇腹には僅かな疼きが残っている。桐生は無意識に脇腹に掌を置いた。一瞬、お蝶の姿が脳裏に浮かんだ。お蝶が自分より先に猿飛に遭遇しないことを願いつつ。犬歯を剥き出して唇を咬むと、未知の敵に挑むように猛然と走り出した。その後を仲間たちが追ってゆく。


 陣を離れて半時後、お蝶と二人の仲間は森の北側にあるなだらかな斜面の下で足を止めた。中低木と藪の生い茂るその辺りは裏傀儡の仕掛けを施すには絶好の地である。

「桐生たちとまだ落ち合う刻限までには時がある。お蝶、からくりを造っておくか」

 虎太郎が杉木立を見上げながら問う。お蝶は地に片膝をついた姿勢のまま。

「まだ、だめ。桐生たちも近くを通る筈だから、勝手に仕掛けたら仲間に怪我をさせるかも知れない。それより、ぼんやり立っていちゃだめだよ」

 虎太郎と善蔵に向かってお蝶が強い口調で告げた。ふたりともお蝶よりひとつ年上だったが、実戦の場数は獅子丸たちと同程度だった。桐生と時雨には一目置いているが、お蝶に対しては自分たちの力量とあまり変わらぬものと思っていた。元締の贔屓で経験を積めるに過ぎない、と。が、今の頭はお蝶である。二人は苦い視線を見合わせた。

「随分と偉くなったもんだな、お蝶」と、善蔵が吐き捨てる。

「よせ。今日の頭はお蝶なんだ。巳陰様が決めた事に文句を言うなよ」

 言葉と裏腹に虎太郎は見下すように笑った。が、お蝶は無言のまま。視線を合わせようともしない。実際、彼等の不満などお蝶の眼中にはなかった。お蝶の意識には四人の敵の幻影がある。敵が四人一組で行動している事は桐生からの知らせで判っている。それが四ないしは五組。陣を脱出した直後に、鳥の声音に似せた忍び信号で伝えられた。

「二人とも早く伏せて。奴等が近くにいてもおかしくないんだから」

 敵の襲撃はその直後であった。何の前触れもなく、三本の矢が突然三人を狙った。最初の矢は虎太郎の左耳下から入り右蟀谷へと抜けた。虎太郎は唖然とした表情で矢尻を掴むと、がっくりと膝を折って倒れ込んだ。眼球が反転し、白目を剥いて絶命。善蔵は虎太郎の死を知る前に後方に弾き飛ばされて杉の木に叩きつけられた。左胸を貫いた矢は幹に突き刺さり、善蔵の体を縫い止める。善蔵は血を吐きながらも矢を引き抜こうと虫のように必死にもがいた。が、血糊で手が滑って巧く出来ない。苦痛と絶望だけが瞬く間に広がって行く。そこに、第二第三の矢が右胸に刺さった。

 お蝶だけが的確に反応した。叢に蹲っていたお蝶の輪郭に矢が届く前に跳躍し、手鞠のように地上を回転した。さらに深い藪に飛び込み、地に伏せる。両手をついた低い姿勢で横に数間移動すると、藪に沿って全力で合流地点の方角に走り出した。なぜ矢をかわせたのかはお蝶自身にも解らなかった。このひと月、修羅場を幾度もくぐり抜けた事で身についた生存への執念によるものとしか。仲間の二人が倒された事は気づいている。敵が四人一組で行動しているのなら、三人が弓を射り、残りの一人が接近してとどめを刺しに来る筈である。矢は三本とも斜面に向かう方向から飛来した。まだ囲まれていなかったなら、活路は前方にあると考えたのだ。中低木が群生する森の中なら、六間も離れれば木々が障害となって弓で狙う事は出来ない。後方から複雑な指笛が響いた。敵が仲間にこの事を知らせようとしていると気づいた。あるいは、別の組を呼び寄せようとしているのか、と。逆に言えば、今背後から迫る敵は一組だけであることを証している。

 冷たい風が枯れ葉を飛ばしてお蝶の頬を切る。お蝶は風上に向かっていた。


 白面樹の四人が先にお蝶たちを見つけたのは偶発的なことであった。組頭の名は石動。北の斜面に向かっていた彼らの方が、斜面に沿って移動していたお蝶たちよりも先に姿を見つけやすい位置にいた。裏傀儡の三人が立ち止まったところを偶然発見したのだ。石動はすかさず下忍たちに弓矢を射かけさせた。包囲してからでは遅れると判断したからである。結果二人を倒したが、ひとりを取り逃がした。三人の下忍に追撃させ、組頭だけがその場に残って二人の裏傀儡にとどめを刺した。指笛で二人を倒した信号を仲間に送ってから目印をつけてその後を追った。残り一人の裏傀儡が若い女であることは風の残り香で判った。いかに忍びとはいえ、脚力は男の方が勝る。三人は間もなく女に追いつくはずである。それ故に石動の気は逸った。気がかりは、彼らの若さであった。石動は先行している三人が女に余計な手出しをするのではないかと案じた。役得で抱こうなどと侮れば、三人は死ぬ。矢をかわした時の動きから、石動は女の力量を悟っていた。正確には、かわした後の挙動と判断を見てである。唯一の失点は風上に逃げたことだが、それとてあの地利の不運に寄るものだった。弓を避けるには、木々の密生する森の奥を選ばざるを得ない。

 全力で走破する者たちの追撃は容易だった。四人の足跡は一目で判る。枯れ葉を踏みしめ、地表を蹴ってさらに奥へと続いている。その中にひとつだけ、比較的狭い歩幅の跡が女のものであろう。忍びらしからぬ、まるでなりふり構わず逃げている落ち武者のような跡。獣とて追手を巻くための工夫をするものだ。その気配がまるでない。三人が女の力量を侮る理由がまたひとつ。だが、明確に区別の出来るその様が石動には不安を募らせた。あるいは、狡猾な狼がわざと跡を追わせるためにつけたような。

 五町ほどを飛ぶように走ると、それまでの森境を越えた。そこから先はまだ若い杉の森になっている。奥へ行くほど薄暗い。しばらく進んで、石動は風の中に血臭を嗅いだ。幽かに臓腑の匂いも混じっている。石動は歩足を緩めた。周囲に気を配りながら更に奥へ。そこに手下の一人が血まみれで倒れていた。右の頸動脈を断ち切られて死んでいる。眠るような表情。傷口は背後から切り開かれたものだった。真新しい大量の血が周囲の枯れ葉を赤黒く染める。それを風が舞い散らせた。石動は呼び笛を吹こうとしてやめた。他の二人も死んでいる可能性が強いと推察したためだった。その場合、近くに潜む敵にこちらの位置を知らせることになるからである。四間先の木の根元でその不安は的中した。ひとりは同じように頸動脈を切断されており、もうひとりは腹と背に傷を受けていた。腹は左下から右上に斜めに切り上げられて深々と断ち割られており、はみ出した灰色の腸が土で汚れていた。致命傷は背中の刺し傷。後ろから心臓を貫かれている。

 三人の手下の死については何の感情も覚えない。弱いから死んだ。それだけのことである。しかし、殺害の手口を知りたかった。風下にいたにも拘らず、石動は彼らの声を聞かなかった。三つの死は一瞬に訪れた事になる。腹を斬られた男は正面から挑んだことは明らかだった。頸動脈を斬られたふたりとは別に、その男だけが醜く歪んだ無念の死顔であった。己の力が及ばなかった様を雄弁に物語っていた。が、他の二人は違う。暗殺者である石動には見覚えがあった。まるで、寝首をかかれたようなその表情に…。

 石動はふいに目の裏側に軽い痺れを感じた。ハッとして後方に飛ぶ。一瞬前まで居た空間を音もなく何かが切り裂いた。傍らの幹に突き刺さったのは、畳針状の手裏剣だった。反転して木陰に隠れ、手裏剣の飛来した方角の暗がりを覗く。誰の姿も見当たらない。だが、十間と離れぬそこに敵が潜んでいることを忍びの直感が教えた。

 ふたりはこの技でやられたのだ。手裏剣ではなく、鼻腔に微かに残るこの甘い匂いに。噂には聞いたことがある。眠り香。風に乗せて少量ずつ、呼吸を通して体内に取り込ませるという幻術のひとつ。女はそのために風上に逃げていたのである。

 石動は懐中の小袋から丸薬を取り出して口に含んだ。強烈な苦みに顔を顰める。解毒と覚醒作用を持つ強精薬であった。薬効はすぐに表れ、眩暈は消えた。が、石動はじっとその姿勢で数を追う。相手が眠り香の効き具合を計っているものと考えながら。必ず先に敵が動くものと確信しつつ。意識を集中して百八十まで数えたころ、すぐ近くで枯れ葉を踏む小さな音を耳にした。石動の右手が蛇の速さで伸びた。穴蔵から顔を出した野鼠を捕える。その後ろ足を指先で素早くへし折って放った。野鼠は前足だけで体を引きずりながら必死に石動から逃げようともがいている。狙い通り、枯れ葉の上を蹣き歩く乾いた音は野鼠の小さな体とは思えぬ別の姿を連想させた。その音に応じて、彼方の暗がりに動く影。

 敵の意識が石動の潜む位置からそちらに逸れた次の瞬間、石動は木陰の反対側から弾ける勢いで打って出た。右手に十字手裏剣二つ。左手には抜刀した忍び刀。七間先で振り向く女の輪郭に、相手の一瞬の隙を突けた事を知った。女が身構える前に、石動は走りながら二つの手裏剣を同時に投げた。上下に。手裏剣の軌跡を分けることで、相手に左右どちらかへの移動を強制する。女が左へ身をかわした。崩れた態勢を立て直す前に、躊躇わず殺到して剣を左袈裟に打ち込んだ。女は咄嗟に小太刀を抜いて受け流したが、石動の返す太刀筋で払い飛ばされた。小太刀が手から放れると同時に、女は左上方向に大きく跳躍して剣の間境の外へ。石動の次の攻撃から逃れようとする。

 その刹那、石動は勝利を確信した。いかに敏捷であっても、虚空に身を置けば足場はなくなる。躊躇わずに剣を投げた。宙にある素手の女に避ける術はない。その筈であった。が、女の体が有り得ぬ角度で斜め下に動いて飛剣をかわした。木洩れ日に一瞬反射する細い銀の光。傀儡糸!それが女と木の幹を繋いでいたのだ。

 驚愕する石動の隙をついて、女は反転して三間半先の気の根元に足をかけると反撃に出た。地表を行く飛燕のごとき疾さに瞠目した。石動は小刀を抜いて後退しつつも、落ち葉に触れた女の右手にいつの間にか出現した新しい忍び刀を目の縁で捉える。そして女の剣が自分の腹を左から右斜め上に向かって斬りあげる様をぼんやりと見た。手下のひとりも同じ技で倒された事に気づきながら。それでも斬人の技が死を前にして起動した。すれ違い様に右手の小刀を女の腹に突き刺す。刃を身に埋め込んだまま女は三間先で倒れ、それを追うように石動も地に伏した。脇腹の動脈が断ち切られていることは確かめるまでもない。失血のために、もう首を上げることも出来なかった。右掌に残った女の返り血の滑りを指先で確かめると、石動は虚無を静かに受け入れた。


 同じ頃、桐生たちは最初の敵と遭遇した。先に発見したのは桐生の仲間の蒼気だった。

 遠目の利く蒼気は自分たちのいる方に向かってくる四人の影に気づくと、すぐに桐生に知らせた。桐生は四人を周囲に潜ませ、獅子丸と自分は異なる位置にある樹上に隠れた。程なく、相手が姿を現した。横に並ぶような布陣のまま、小走りで裏傀儡の四人が伏せる藪の前を駆け抜ける。弓の奇襲を避けるための早足での移動である。その前方にある二本の樹の上に桐生たちがいる。敵の一人が獅子丸のいる木の下にさしかかるところだった。

 獅子丸は六間ほど先の桐生が隠れる木の枝を見た。すると突然、桐生が水に飛び込むような勢いで下の藪に跳躍した。地表に向かって枝を蹴る。兎を狙う鷹の疾さで藪の裏に消えた。その残像を白面樹の四人も見逃さなかった。その辺りを凝視して身構える。そのうちの一人は獅子丸の真下で足を止めている。

 獅子丸も静かに構えた。いずれか一方、敵が下にいない方が囮になると予め打ち合わせていたのだ。囮の狙いは相手の足を止めること。またそれは攻撃開始の合図にもなる。敵の頭部は眼下、四間の位置。必殺の距離である。獅子丸は真下にいた下忍のひとりに向かって身を躍らせた。手には抜き身の忍刀。直前に気づいた男が剣と腕を頭上に掲げる。見開かれたその男の目に恐怖を見つけて、獅子丸の狂気が頬に悪鬼の形相を作りあげた。

 獅子丸の剣は腕と剣の間隙を縫って、その男の急所を抉った。右首のつけ根から真っ直ぐに心臓を貫いて左脇腹に突き抜けた。男は即死。だが、獅子丸も屍に深々と突き刺さった剣を抜くことが出来ず、素手のまま地に降り立った。両手をついて着地する。そこを間髪を入れずに白面樹の組頭が斬りつけてきた。初太刀こそ地を転がってかわしたが、第二撃を避ける術はなかった。木の幹にぶつかって次の動きを封じられた。懐から手裏剣を抜くより疾く、相手の剛刀が眉間を砕こうと振り下ろされてきた。

 その刹那、獅子丸は死を覚悟した。先に殺した者の目が脳裏で哂う。ところがその剣が直前で突然軌道を変えた。剣は肘から先の腕をつけたまま、獅子丸の傍らに転がった。見上げると、相手の剣を払った桐生がそこにいた。右腕を失った組頭は三歩退くと、一声も発せずに踵を返して走り出した。獅子丸は身を起こしてその様を見る一方、藪に隠れていた味方の四人が残りの二人に襲いかかるところを目の角で捉えた。桐生もまた既に敵の頭目を追って走り出していた。勝敗が既に決した事はすぐに判った。

 獅子丸はのろのろと殺した男に近づき、顔に足をかけて柄まで突き刺さっている刀を掴んだ。ズルズルと引き抜いて、男の衣で血油を拭う。顔を近づけると、死体からは糞尿の匂いがした。危ういところで自分がこうなっていたのだと、漠然と思った。今までにも人を殺したことはあるが、初めて殺されそうになった。

 足を退けて殺した男の死顔を見る。卵のような反転した真っ白な目と、だらりと開いたままの真っ赤な口。その口中は鮮血に満たされていた。恐怖と憎悪に彩られていたが、それはまだ若い男の顔だった。恐らく、自分と同じ年ごろである。右頬と口元に古い傷跡があった。左目の下に泣き黶がひとつ。首には赤い小さな御守袋を掛けていた。その御守袋はこの男のために誰かが縫ったものである。誰だろう、誰が縫ってやったものだろうか、母か、姉や妹か、あるいは惚れた女。どれも自分には無縁のものだった。いずれにせよ、守袋は役に立たなかった。この男は死に、赤い袋は同じ色の血で染められている。

(だって、おれがこいつを殺したからだ)

 獅子丸はその男をみつめていた。やがて組頭を仕留めた桐生が戻ってくるまで、ずっとそうしていた。どうやら仲間たちは殆ど無傷で四人の敵を倒したらしい。その成り行きを説明する桐生の声がどこか遠くから聞こえてくる。と、突然頬に衝撃を受けて獅子丸はひっくり返った。何が起きたか判らぬまま、茫然と桐生を見上げた。

「痛えな…」と、獅子丸は呟いた。

「目が覚めたか、獅子丸。しっかりしろ。おまえらしくもない」

 桐生が笑いかける。獅子丸はようやく自分が妙な白昼夢から覚めたことに気づいた。

「ああ、そうか。そうだった。おまえのおかげで助かったよ、桐生」

 頬をさすりながら獅子丸は起き上がろうとした。その腕を桐生たちが支える。彼らの手のぬくもりと力強さが心地よい。立ち上がると、無愛想に振り払った。

「殴って悪かったな。でも、おまえもよくやったよ。皆が怪我をしなかったのもおまえの手柄さ。これで腹が括れるだろう。頼りにしてるぜ」

「ああ。もう大丈夫だ」

 桐生が獅子丸の肩をポンと叩くと、獅子丸も軽く叩き返した。

「さあ、行こう。一度ぐらい勝ったからって油断するなよ」

 桐生は皆を見回すと、西に向かって歩き始めた。四人がそれに続き、殿には獅子丸。獅子丸は三つの屍に目をやり、もう大丈夫だ、ともう一度喉の奥で呟いた。



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