秀綱陰の剣・第十一章

著 : 中村 一朗

惜別


 この十日前。即ち〃月影〃が鋸引山に向かったその日。

 森の中で切り刻まれた屍を見て蒼白になった庄屋の藤兵衛は、夕刻にもう一度仰天することになった。赤目の襲来に怯える村人たちをなだめるための集会の帰り道、若衆たちと別れてひとり屋敷の勝手口に回った。ところが突然、目の前に血みどろの男が木戸裏から飛び出して来た。藤兵衛は一瞬棒立ちになった。長身の男の衣類を染める赤黒い血の跡よりも、血と泥の汚れの下にある険悪な目つきに息を飲んだ。誰だ、と問おうとした時。

「藤兵衛殿。お助けいただきいた」

 その声に耳を疑った。目前の男の顔と、声の主である顔見知りの男の顔が一致するまで寸刻を要したほどである。藤兵衛の驚愕はその時のものだった。

「あ、あんた、まさか。…伸介さんか」

 震える声で藤兵衛が問う。伸介は小さく頷いた。以前の記憶にある、少年のようにはにかむ面影は微塵もない。藤兵衛は、食人鬼のような伸介の眼光に思わず目を背けた。

「助けてほしいのは、おれではない。怪我人がおります」

 伸介は藤兵衛の返事も待たずに勝手口の木戸を開けて中に消えた。訳も判らずにその後を藤兵衛が追う。自宅の木戸を、他人の家の裏門をくぐる気分で。顔を向けると、伸介の背が北寄りの手前にある納屋に消えるところであった。開け放たれままの引き戸に誘われるように、藤兵衛は薄暗いその中に足を踏み入れた。

 厚く敷きつめられた藁の上に、背を丸めて横たわる若い娘がいた。衣服の大半を染める黒い汚れは乾いた血であることが容易に判る。浅黒い肌からは生気が失せ、唇は凍死者のように紫に変色していた。小刻みな痙攣が手足を震わせる。

「こりゃあ、…酷い」

「傷は縫い合わせたが、血を失い過ぎている。このままでは死にます」

 藤兵衛は娘の横に屈み込んだ。深い傷が腹にある。

「なぜ家の者に言わなかったんだ。手遅れになったら…」

「おれも今着いたところです。それに、ここでこの娘の命運が尽きたとしても、それはそれで仕方のないこと」

 藤兵衛は外に向き直り、大声で家の者たちを呼んだ。駆けて来た奉公人たちに、寝具と着替えを用意して部屋を暖めておくように言いつけた。治療が既に施されている以上、あとは弱った体に負担がかからぬように暖かい部屋で静かに寝かしておく事が大切である。奉公人たちは不安げな表情で納屋の中を覗いたが、すぐに言われた通りに従った。

「この娘、伸介さんのお仲間か」

「いや。仲間の敵でございました。でも、もうどうでもよい。後を頼みます」

 伸介は藤兵衛の傍らを通り過ぎる。藤兵衛はその背を見つめて苦い口を開いた。

「血の匂いがしますよ、伸介さん」

 伸介が足を止めた。肩越しに振り向いて。

「そうでしょうね。この匂いはいくら洗っても落ちません」

 そう呟いて力なく笑うと、そのまま去ろうとした。

「伸介さん!」

 藤兵衛が鋭い語調で呼び止めた。伸介が立ち止まる。だだし、もう振り返らない。

「今さら、全てを明かしてくれとは言わない。あんたの変わり様についてもだ。でも、ひとつだけ教えてくれないか。伸介さんは、赤目とはどういう関わりがあったんだね」

 伸介は僅かに躊躇い、やがて口を開いた。

「かつて、おれに術を仕込んだ旧家の主です。父を憎み、恐れ、しかしそれ以上に敬っておられた。その心も毒に冒されて死に、憎しみだけを宿す体は赤目となってしまわれた。何もかも、もう二度と元には戻りませぬ。人殺しの、今のおれみたいにね」

 最後は自嘲ぎみに伸介が答えた。しかし、声に纏いつく寂寥感は拭いきれない。

「じゃあ、なぜこの娘さんを助けようとなさる」

「…斬ることが出来ぬほど哀れだったから。赤目さまのことは〃月影〃さまが片をつけてくれることでしょう。お戻りになったら、宜しくお伝えください。嘘をついてすまなかった、と。真実を語れば、〃月影〃さまは赤目さまを斬れなくなると思ったので…」

 そう言い捨てると、藤兵衛が止める間もなく伸介は木戸を抜けて走り去った。藤兵衛が慌てて戸口に走り寄った時には、伸介の姿は消えていた。

 藤兵衛は間もなく戻って来た奉公人たちの手を借りて、準備のできた屋敷の客間に娘を運んだ。夜までもたないだろうという大方の予想とは裏腹に、娘の命は衰弱しきった肉体に縋りついていた。藤兵衛は娘の傍らに深夜まで付添った。まだあどけない寝顔が発熱と苦痛に歪む様に胸を痛めながら。この娘が〃くのいち〃である事は間違いない。恐らく今日も人を殺したのであろうと思った。腰に携えていた忍刀の柄についた新しい血糊がそれを証している。刀よりもまだ菓子が似合うような年ごろであった。今年で十七になる自分の娘よりもずっと若い。藤兵衛は、このような娘に斬人の技を教えた者たちを憎んだ。

 結局、娘は一命を取りとめた。次の日の昼近くに目を覚まし、憔悴した顔を上げようとした。が、突き上げてくる灼けるような激痛を呻きとともに飲み込んだ。娘が目を覚ましたことが藤兵衛に伝えられてると、すぐに部屋にやってきた。だが娘は何を聞いても答えず、差し出された重湯を飲むだけだった。目は、常に天井の一点を見つめた。

 明くる日の夜半、娘の姿が忽然と屋敷から消えた。

 ひとりではとても歩けぬはずの傷であることから何者かが連れ去ったものと考えた藤兵衛は、ふれを回して一晩じゅう村の中から街道まで奉公人や手のあいている者たちに捜させた。しかし娘の影さえ見たものはおらず、朝には諦めざるを得なかった。

 その日。月影が森に向かってから四日目に、雨が降った。山にかかっていた雨雲は朝には村の上空を覆い、小雨が乾いた土を徐々に濡らしてゆく。村人たちの願いに応えるように、雨足は時が経つごとに強くなり、やがて大雨になった。土を跳ね上げて降り注ぐ大粒の雨滴を見て、誰もが小躍りして喜んだ。濡れるのも構わずに畑に飛び出す若衆もいた。これで畑が潤う。冬の到来を前にした畑作にも何とか間に合う、と。

 藤兵衛も突然の雨に微笑みながらも、安否の判らぬ者たちの姿を雨に霞む彼方の山々に追っていた。昨夜屋敷から連れ去られた娘と、〃月影〃のことを。止めて止められるものではなかった事は知っている。それでも、折角この屋敷に招き入れた二人が、もう生きてはいないかも知れないと思うだけで胸が痛んだ。

 雨は夕方頃、十分に大地を潤わせて止んだ。村人たちは、野良仕事に精を出しながら月影や消えた娘の事を噂にした。彼等に纏わる森の惨殺体や赤目のことも。畑の作物に期待出来るため、もう無理をして赤目の森に冬の糧を求める必要がなくなった事から、逆に気軽にそれらの話を口にするようになったのである。藤兵衛だけが一切の噂から口を閉ざした。不安を口にしなければ無事に戻ってくるものと、そんな期待をしていたのだ。

 やがて十一日目。昼過ぎから小雪が舞い始めた。村にとっては初雪である。

 誰もが赤目の噂話さえしなくなった頃、月影が山から戻って来た。

 畦道を鋸引山の方角から庄屋の屋敷に向かって歩いてくる月影に最初に気づいたのは、小作人の太郎兵衛の家内お留だった。お留は幻と思って目を疑ったが、その月影に足があることを確かめてから藤兵衛に伝えようと駆け出した。知らせを聞いた藤兵衛は足袋のまま庭に飛び降り、門の前で月影を出迎えた。いつの間にか月影の後ろからは、ぞろぞろと村人たちがついて来ていた。月影の手を引く子ども等の姿もある。声もかけられずにいる藤兵衛と目が合うと、月影の目尻に笑い皺が寄った。穏やかなその笑みも、月影の痩せた体から滲み出ている疲労困憊の色は隠し切れない。

「よくぞ、ご無事で。本当に、よく…」

 藤兵衛が言葉を詰まらせる。月影は藤兵衛の前で小さく目礼した。

「庄屋殿には、何かとご心配を御掛けしたようです。無事に戻りました」

 すぐに藤兵衛は月影を庭から客間に上げた。少しでも早く畳の上で寛いでもらおうとの心遣いであった。火鉢の前の座布団に腰を下ろすと、さすがに月影の顔が緩む。間もなく甘酒が月影の前に運ばれ、庭に詰めかけた村人たちにも後からふるまわれた。

 藤兵衛が奥から現れ、客間の前で月影に一礼して中に入ると障子を閉めた。村人たちが固唾を飲んで見守る。寸刻後、藤兵衛が出て来て一同を見回した。障子を閉めながら。

「月影さまはお休みになられたから、多くは伺えなかったが」一旦言葉を切って笑みを浮かべる。

「赤目は、もう森にはいないそうだ」

 一瞬の間を置いて、歓声が轟く。それを藤兵衛が制した。

「静かに!月影さまがお休みなんだよ。真吾、隣村に使いに走ってくれ。今のことを金右衛門さんたちに伝えるんだ。もう安心して森に入って行けるとな」

 真吾が大急ぎで掛け出す。村人たちもざわめきながら急ぎ足で散っていった。ある者は畑に、ある者は自宅に。誰もが赤目が森から消えたことをふれ回った。月影さまが赤目を退治して戻って来た、と。半時後には村じゅうが大騒ぎになっていた。もう野良仕事どころではなかった。広場に庄屋の納屋から酒樽が運び出され、村のあちこちで酒盛りが始まった。女や子どもも解放感に浮かれ騒ぎ、祭りのような賑わいを見せた。夜になっても興奮は収まらず、誰もが集って話し合い、歌い、踊り、よく笑った。

 藤兵衛の屋敷にもひっきりなしに来客が詰めかけ、酒や肴がふるまわれて集会場のようになっていた。やがて隣村の庄屋までが言伝を聞いて半信半疑でやって来た。

「本当かね」と問う金右衛門に、藤兵衛は珍しく目を吊り上げて

「疑うなら、今からでも一緒に森に行ってもいいよ」と、逆に詰め寄った。

 そうした喧騒の合間にも、月影はずっと床柱に背を預けて眠り続けた。一時ごとに目を覚ましては運ばれてくる茶や酒で喉を湿らせては、また眠る。その繰り返しだった。藤兵衛のみならず近在の村の誰もがこの十一日間に起きた事について聞きたくても、主だった事は明日まで控えざるを得なかった。それでも茶を口にする合間に藤兵衛が聞いた話によると、月影は山奥にあった赤目の住み処から一日半がかりで歩いて戻って来たという事だった。その話が伝わると、また皆がどよめいた。

 村の騒ぎは深夜まで続いた。やがて一軒二軒と家の灯が消され、丑の刻限には祭りの後のように寝静まった。さすがに明くる日は、払暁から野良に出た者は少なかった。そのためという訳でもないが、知らぬ間に村を出て行った月影の姿を見た者はいなかった。

 最初に気づいたのは藤兵衛だった。

 朝の挨拶にと客間を訪れた時にはもう月影の姿はなかった。ひと目で藤衛兵は月影が既に屋敷を去ってしまった事に気づいた。使われなかった布団はきちんと折りたたまれて部屋の隅に片付けられていた。代わりに、記されたばかりの手紙が一通。地袋上の飾り棚に置いてあった。月影が藤兵衛に宛てて残したものであった。藤兵衛は手紙を手に取り、ひとつひとつの言葉の意味を噛み締めるように繰り返し繰り返し、何度も読み返した。

 突然この村に現れ、近在六か村の役災の種だった赤目の存在を自らの禍根とともに断ち切り、人知れず去っていった剣客〃月影〃。手紙にある本当の名は…

 やがて寂しげな視線を、手紙から彼方の山々に移して呟いた。

「それでもやはり、わしには〃月影〃さまでございますよ」

 唯一、伸介の言伝を語りそびれたことが悔やまれた。だが、月影はそのことに気づいていたのかも知れない、と紙面を読んで藤衛兵は感じた。赤目が伸介のかつての師であり、同時に上泉秀綱、いや月影の師の身内であった事を。

 だから月影は、赤目を倒しながらも殺さなかったのではないかと思った。それならこれで良かったのだ、と、静かな笑みが藤兵衛の頬に浮かぶ。

 そして、もう二度と会う事はないかも知れぬ友人に無言の別れを告げた。



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