夏の怪談

著 : 中村 一朗

自転車泥棒


 終電でホームに降りたのは、午前一時を少し過ぎたころだったと思う。

 ふらふらの千鳥足で改札を出て、自転車置き場に来たのはその十分後だったか。

 ロックを外した覚えはない。

 気がついたときには、僕は自転車に乗っていた。

 後輩の送別会と、その後の二次会での深酒。

 その結果、今の僕をさいなむ断片的な記憶と景色の連鎖。

 それと、若干の頭痛とめまい。

 駅から遠ざかっていたせいか、いつの間にか周囲から人の姿は消えていた。

 ゆっくり走っているのだが、風はあまり感じられない。

 七月終わり頃の、熱帯夜だ。

 薄靄のかかったような大気は、ぬるま湯のように身体に張りついてくる。

 いくらペダルをこいで振り払おうとしても無駄だ。

 人影の消えた街の、気だるい風景。

 車さえも消えている。

 影のような街。

 動くものの気配はない。

 ふらふらと自転車を走らせる僕だけが、その例外らしい。

 夏空の月と星は、よどんだ曇り空の中に隠れている。

 見慣れた暗がりの連続する景色が、次々に近づいては遠ざかっていく。

 じわじわと染み出てくる汗は、下着を内側から濡らしている。

 駅前の商店街から離れるにつれ、街灯の数はまばらになってきた。

 その時になって、自転車のヘッドライトが消えていることに気づいた。


 無灯火の、酔っ払い運転か…


 喉の奥で呟きながら、この先の交差点にある交番のことを思い出した。

 警官に見られたら、たぶん確実に職務質問をされる。

 同時に、小さな衝撃と一緒に、もっと悪いことに気がついた。

 ハンドルの形と色が、僕の自転車のものと少し違う。

 サドルの位置も、少し違っている。

 今、僕が乗っている自転車が、自分のものではない、ということだ。

 知らぬ間に、僕は自転車を盗んでしまっていた。


 顔を上げ、交番のあるほうに目を向けた。

 ぼんやりと映る視界は、色あせた灰色の夜。

 交番があるはずの辺りも、暗がりに沈んでいるような。

 幸か不幸か、交番の前に警官の姿はなかった。

 俺は何も考えず、いや、何も感じようとしないでその前を通り過ぎていく。

 交番の隣には、明かりの消えたコンビニ店がある。

 24時間営業のはずのコンビニ店と交番が、今夜は仲良く休業らしい。

 無論、そこにはだれもいない。

 ただ、真っ暗なコンビニ店内には、なぜか数体のマネキンが立っているのが見えた。

 今ふうの服を着せられた、若い男や女の姿をした不快な人形たち。

 よく見ると、交番の奥にも警官の姿をしたマネキンが、ぽつんと座っていた。

 俺は彼らの横顔をじっと見ながら、そこを通り過ぎていく。

 無表情なマネキンたちは、俺に似ている。

 他人の自転車を盗んで良心の呵責を感じるよりも、それが発覚することを恐れている自分の卑劣な愚鈍さと同じものが彼らの顔に浮かんでいるように思える。

 俺はマネキンたちから逃げるように、ペタルを強く踏んだ。

 突然マネキンどもが顔を上げ、俺を追いかけてくるんじゃないかと思いながら。

 いっそ立ち止まり、コンビニ店と交番に戻って、マネキン共をずたずたに引き裂いてやろうか。そうすれば、自転車泥棒もなかったことになるかもしれないとも思いながら。

 マネキンをぶち壊している俺の姿を想像して、頬が緩む。


(醜い笑顔…おまえには、相応しい…)


 身体の内側から聞こえてきたその声には、悪意の含み笑いが潜んでいた。

 俺の頬は、まるでそれに同調するように、歪んだまま凍りついた。


 …だれだ、おまえ…


 無言の問いかけに、内側から再び含み笑いが聞こえてくる。

 止まろうとしたが、足は別の生き物のようにペタルをこぎ続ける。

 俺の身体は、俺の意思とは無関係に、動こうとしている。


(…意思、…どこに向かう意思だ…)


 誰かの声といっしょに、胸の奥に生じた小さな氷塊。

 そいつがビクリと蠢くたびに、冷や汗が額と頬をぬらしていく。

 そして気づいた。

 俺は、どこに向かおうとしているのか知らないのだ。

 家に帰ろうとしているはずなのに、家がどこにあるのか思い出せない。

 知っていると思っていたこの風景も、偽りの記憶なのか。

 今降りたはずの駅の名前が、思い出せない。

 それどころか、俺は俺の名前もわからない。

 自転車はさらにスピードを上げた。


 次の交差点が、ゴール…


 漠然と感じた。

 風の中の声。

 遠くから、何かが囁くような音が聞こえてくる。

 歩道には、マネキンたちの影がある。

 その狭間を縫うように走り抜けると、うつろな点滅を繰り返す信号が近づいてきた。

 やがて交差点に飛び出した瞬間、オーディオのボリュームを一気に上げたように、大音響で街の喧騒が蘇った。同時に、光の奔流。

 タイヤのスキール音が猛烈な勢いで接近してきた。

 誰かの悲鳴が耳の奥にこだました。

 その方向に振り向いたときに見た最後の光景は、驚愕と恐怖で引きつった小型ワゴン車のドライバーの顔。俺はそれを見て、ゲラゲラ笑った。

 続く獰猛な衝撃で、俺と自転車は宙を舞う。

 肉体から意識が引きちぎられた瞬間、顔のないマネキンたちがいっせいに俺を見た。

 暗がりから伸びてくる、無数の手と指。


(俺たちを盗んだお前の罪…だから、お前の思い出を貰う…お前の魂と一緒に…)


 深く、暗い穴の中へ。


 そして“私”はバラバラになりながら、“俺たち”の中に落ちていく…


*            *


「やだわ。昨日の夜、またここで自転車事故があったみたいよ」

「そうそう。10時ごろだよ。うちが店を閉めた直ぐ後さ。自転車の飛び出しでよ」

「私も聞いたわ。女の子でしょ。即死だったんですってね。かわいそうに…」



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