コマ図からの指示書による再スタート時刻は、SS6のスタート時刻の15分後。
“野良猫”は、とっとと先に進み、国道に出た。
噴出す汗をタオルで荒っぽく拭いながら、突然服部が大声で笑った。
「やっちまったよ!おいっ!!」
脈絡のない、よくわからない台詞だったけど、僕も釣られてゲラゲラ笑った。
「凄いぜ、服部!さっきより、31秒も速い」
ヒャッ、ホー!と、服部は南方の鳥みたいな声を張り上げた。
お互いに、もう今日はこんな気分になることは絶対にないと思っていたのに。
「おっと、いけね。小林んたちのタイム、確認し忘れた」
「ああ、そうか。俺も忘れてた。コーヒー、賭けてたっけな」
「“荒船”のノーチェック区間終了地点でわかるよ。十分以上は、時間があると思う」
「…小野先生たち、間に合わないかな」
「ああ。たぶん、無理じゃね」
「権藤先生たちも、な」
「ああ、ゼッケン2番の。やっぱ、ベテランでもリタイアするんだな」
「驚いた。まさかと思った」
「そうか。アキラ、おまえ、あの人と今朝話したんだっけな」
「うん。メチャ、紳士だった。ラリードライバーとは思えないくらい」
「どういう意味だよ。でも、何となく解るぜ」
僕も服部も、脳裏に浮かべたのはJリーグの魔人同盟の顔だった。
「申し訳ないけど、これで僕らの順位もひとつは上がる。小林さんたちに勝てれば最高だ」
国道を走り出してから3キロほど進んだ処に、冬用のチェーン脱着用のパークスペースがあった。話しながら何気なく目をやって、そこに黄色いインプレッサが停車しているのを見かけた。ドライバーは外に出ていて、携帯電話をかけていた。
ゼッケンは、6番。
最優勝候補の“ジャイアン”堀井選手だ。
僕は服部と目を見合わせた。
その瞳の奥に、ガッツポーズが輝いている。
「“やったぜ!これでまたひとつ、順位があがる”なんて言うと、バチが当たるかな」
その場を通り過ぎてから、矢も盾もたまらずもたまらずに僕は口を開いた。
「それで罰が当たるなら、“Jリーグ”のオジンたちは10回ぐらい死刑だ」
「そりゃ、そうだ!」
僕はまた大笑いし、服部は南方の怪鳥に変身した。
「7番だ!でも、小林さんたち次第か…」
「ノーチェック区間の終了ポイントでわかるさ。きっと、勝ってる」
「いや、わからない。ラリーって、ホントに何が起きるかわからねえ」
そう言いながらも、服部は上機嫌だった。
たぶん、小林さんたちに負けて8位だったとしても、もう落ち込んだりはしないと思う。
むしろ、それをバネにしてもっと速くなろうと頑張るはずだ。
だからこそ、僕は少し不安を抱えている。
だって、クラッシュして“野良猫”が潰れたり、僕自身が痛い目に会うのがいやなのだ
という信念に変わりはない。
「無理、するなよ。完走が至上命題なんだぜ」
「おう!わかってる」
どう聞いてもわかっていそうもない声で服部が答えた。
国道から荒船林道に入ったのは、0時18分頃。
長い一日。ついに起床から20時間を越えた。
風のおかげで、靄も消えている。
しばらく進み、ノーチェック区間終了地点に無数の競技車両のテールランプが見えてきた。その最後部に“野良猫”は停車する。
服部はペットボトルのお茶を飲みながら、チラチラとバックミラーに目をやる。
僕はCPカードの数値を確認しながら、サイドミラーに目をやりながら待った。
約2分後、この一晩ですっかり見慣れたランサーEvo.7のヘッドライトが互いのミラー越しに見えてきた。僕と服部は無言で外に出た。
ゼッケン17号車は、“野良猫”の後ろで止まった。
「やられた。まさか、負けたとは思わなかったぜ」
ドアを開けて出てきた小林さんが、ニヤリと笑いながら悔しそうに言った。
「じゃあ缶コーヒー、俺等がゲットですか!?」
「20秒以上詰めたから、絶対に勝ったと思ったのによ。でも、もう1本ある。次に俺たちが勝ったら、チャラだからな」
「僕らのタイム、知ってるんですか?」
「オフィシャルに聞いた。今度は、ちゃんと分までな。2秒差だってよ。こっちの区間タイムは、10分1秒だ。我ながら、良い走りだったんだけどなあ」
指で作ったVサインを振りながら、小林さんが言った。
「速いです。でも、俺の方が少しだけ、もっと速かったんですよ」
「この野郎!!」
小林さんは、楽しそうに怒鳴った。
「三本目で初めて勝てましたから、すげえ嬉しいです」
「次は、負けないぜ。ところで、エボ10と黄色のインプレッサが止まってたな」
「ゼッケン2番、クラッシュですよね。堀井さんのインプレッサが故障寸前だって噂は、中継で聞いてました。あと、井出さんのナビが風邪で熱を出してて大変だってことも」
僕は、つい余計なことまで口走った。
ついでに中継で聞いた余計なことも、補足して説明までした。
「へえ。さすがJリーグ情報だ。たしか“井出”って、ゼッケン7のエボ5だよな。さっきのとこ、ベストで上がったらしいぞ。9分24秒だってよ」
僕と服部は互いの目を睨みつけた。
「…あれだけ頑張って、まだ35秒差…」
「ケッ!バカじゃねえの?空でも、飛んでんのかよ」
服部が、むき出しの嫌気で吐き捨てた。
「あれ?ゼッケン7のナビって、岩下谷さんじゃないのか?」
小林さんが何かを思い出して、ふいに眉間にしわを寄せた。
「ええ。そうです。知ってるんですか」
「全日本のナビだ。いや、面識はない。去年の北海道ラリーで、派手なクラッシュのインカービデオがUチューブにアップされてて話題になったんだよ。その時のナビが、岩下谷さんだった。同じコーナーで5台が落ちたヤツだ」
「それは、すごいですね。帰ったら観てみます」
「あの岩下谷さんなら、風邪の熱くらいじゃリタイアしないな。根性あるから。北海道ののクラッシュで首を痛めたのに、一週間後のラリーに出場したっていうからなあ」
「そりゃあ、困りますね。消えてくれれば、俺らの順位も上がるのに」
服部は、すっかりラリードライバーらしくなった。
「少しぐらい、ドライバーが遠慮しないかな。ナビを気遣って」
“レーサー小林”さんも、服部たちと同類になってきたらしい。
「しませんよ、きっと。井出さんて、医者ですから。“後で治しますから”とか言って、騙して全開走行です。実際、今はそうしてるみたいだし」
「そうか。そうだよなあ。でもさ、少しぐらい車速を…」
「楽しそうな話に水を差すようで悪いけど」ランサー7の車内から石川さんが声をかけてきた。
「そろそろ時間だよ」
気がつけば、スタート予定時刻の2分前だった。
前にいたはずの車はいつの間にか消えていて、代わりに小林さんたちのEvo.7の後ろにはクラス違いの後続車両が5台ほど並んでいた。
僕らも慌てて“野良猫”に戻ってスタートの準備をした。
「視界は、さっきよりも良好。頂上までこの様子なら、ただの計算セクションだ」
ヘルメットを装着しながら、服部が宣言する。
「ファイナルは、補正済み。チェック・インは“ゼロ”で。その後は、アベ50だよ」
「楽勝だ」
やがてファイナル表示が“0”に近づき、“野良猫”は動き出す。
楽勝だ、と僕も思っていた。
強い風のおかげで、路面も少し乾きかけている様子だった。
「チェックまで、あと2キロくらいだっけ?」
と、服部が聞いてきた。
“ファイナル”の表示は“+10”秒前後。
「ああ。そんなもんだったね」
そう答えたのは、前方に見える右ヘアピンの直前。
“野良猫”は生真面目に、オンタイム走行のまま。
「ファイナルはゼロでいいな」
「そう。でも、1キロ先からオンタイム走行に切り替えて…」
ヘアピンの出口を通過した瞬間、ピー!と笛の音が聞こえた。
「え…?」
そう呟いたのは、僕だったのか服部だったのかわからない。
最初は何が起きたのか、解らなかった。
次の瞬間、僕は蒼白になった。服部の顔は見えなかったけど、同じ気配が弾けた。
しまった!
そう思ったときには手遅れだった。
“野良猫”は、“ひっかけCP”のトラップに引っかかってしまったのだ。
僕は慌ててCPボタンを押した。
服部が急ブレーキを踏んだ反動で、“野良猫”はピタリとエンストしてしまった。
直ぐにイグニッションをまわし、エンジンに火を入れる。
かろうじて再エンストを免れるぎこちないスタートを切り、じたばたともがく様にして計測車の横にたどり着いた。
「ゼッケン16番!」
そう口にするだけで精一杯だった。
まさか、こんなところにチェックが出てくるとは思ってもいなかった。
でも当然予想するべきだったのだ。
1ステのここのセクションでは、荒船林道のこちら側のチェック位置は二度とも違っていた。だとしたら、三度目も違うと考えるべきだった。
「はい、頑張って」
差し出されたCPカードを受け取り、服部に
「全開!」と声をかける。
“野良猫”が吼え、猛ダッシュをかけた。
「すまない。油断した!」
「いい。俺も、エンスト野郎だ!?」
「全開!!でも出来れば、ファイナルは“+4秒”で入ってくれ!」
「わかった。任せろ!?」
CPボタンを押すタイミングが3~4秒ずれたと思うから、更にその遅れ分だけ加算しなければならない。つまり、“+3~4”がチェックインのターゲットタイムになる。
その時になって、僕はようやく、まだラリコンの処理をしていなかったことに気づいた。
猛烈な加速と減速のGにさらされながら、僕はCPカードの記載時刻を見た。
モニターウインドーで明滅している時刻とは“+3.6”秒の差がある。
ファイナルは、“-2.6”のまま。
反射的に、“E(エンター)”キーを押して遅れながらのチェック処理をした。
スタート時刻を修正し、指示速度を入れ替えた。
モニターウインドーの“ファイナル”表示は、“-22.6”秒だ。
「たびたび、悪い!やっぱ、ファイナルは“ゼロ”でチェックイン!!」
「了解!?」
そう言いながら、服部の視線がチラリとファイナルの数値を捕らえたのに気づく。
ガクン!とした衝撃と共に、“野良猫”は更に加速した。
混乱している頭の奥から、小さな警報が鳴り響いてくる。
今の危機的状況への嫌な気配なのか、何かを勘違いしている予兆なのか判断が出来ない。
2ステのスタートのときの、“ドクター・マリオ”を見かけて感じた不吉な予感に似ているようにも思う。そしてその権藤さんは、ついさっきリタイアしてしまった。
ふいに、“野良猫”が前方の立ち木に向かって滑った。
ぶつかる!…と、思った直前に、カクンと左に曲がる。
「ウオッ、と!!」と、服部が叫ぶ。
「気をつけて!“ファイナル”は順調に減ってる!」
本当は、それほど順調でもなかった。
CPから1キロほど来たポイントでは、5秒くらい取り戻すことが出来た。
正確にはわからないけど、頂上までは1.2キロほど。
麓までなら3キロ程度を残しているが、下りのコースは走りやすいレイアウトのはず。
松姫峠に似ている、と先輩が言っていたのはその下り側のことだ。
だから麓まで走れば、たぶん遅れは取り戻せる。でももし、次のチェックが頂上に置かれていたら、恐らく10秒近く遅れることになる。
それでも無理はすべきではない、と僕は思った。
ストレートなど殆どない、中低速コーナーの連続する危険な道。
苛立ちと動揺を纏う服部の戦意は、そのまま運転技術に反映されている。
真横から伝わってくる熱気は、明らかにアグレッシブで荒っぽいものになっていた。
それでも、林道への慣れで“ファイナル”はみるみる減っていった。
「そろそろ峠だぞ!」
「おうっ!!」
“ファイナル”上は、まだ“-9.0”。即ち、9秒の遅れ。
頂上の右コーナーを越える直前、左脇のオープンスペースでカメラのフラッシュが光った。恐らく、雑誌の記者かギャラリーのカメラだ。
そのポイントは、2CPが置かれていたところだった。
「よし、チェックはない!」
「了解!」
頂上にはチェックは置かれていない。そして1ステのスタート地点以外に、この先のセクションでチェックポイントを設置できるところはない。
服部はリズムを取り戻し、頂上から1キロほどの地点で“ファイナル”は“0”に!
「のった!」
「はいよ!?」
そのまま“ファイナル”の増減を意識しながら、チェックラインを駆け抜けた。
ライン上で笛の音を聞くのCPボタンを押すタイミングは同時だった。
フリッカーしている“ファイナル”は、“+0.6”。
“野良猫”は計測車の横にたどり着いて、足を止めた。
「ゼッケン16。0時38分16秒」
僕の申告にオフィシャルが小さくうなずき、CPカードを差し出す。
それを受け取り、“野良猫”は再びコソコソと走り出した。
「やられたー」と、服部が吼えた。
「ああ」
僕は眉間に皺が寄るのを感じる。
真っ白だった脳細胞に血の気が戻ってくると、自分のミスに気づいた。
一瞬、告白するのをやめようかな、と、悪魔の心が囁いた。
でも、いずればれる事だし、正直に口にすることにした。
「同じ台詞ばかりで恐縮だけど、今のところと前のところのCPで3、4秒ずつくらったかもしれない。あわせて7、8秒やられたかも」
「あっ?」
「入りのCPラインで、ボタン押すのを遅れたんだ。滑空距離が20メートルくらいはあったから、その分、走行距離を加算しなければならなかったんだ。だから、3秒程度の遅れが正解だったんじゃないかと思う。ごめん」
「へえ、そう。じゃ、最悪、小林さんたちと並んだかもな。ま、いいんじゃね?」
「あんま、良くないと思うよ」
僕は率直に恐縮した。
「むしろ、感心する。おまえは、ミスをした直後にそれに気づいて次から対策を立てている。ペースノート読みでもそうだしな。初心者なのに、よくやるよ」
たまに僕は、服部が人格者なんじゃないかと感心することがある。
でもたぶん、本当はただの能天気な楽天家野郎なのだろうけど。
「ラリーってさ。舞い上がったり、落ち込んだり、急がしいったらないな」
「まったくだ。俺なんか、この24時間で、一年分の喜怒哀楽に振り回されてるみたいな気分だぜ。しかも、まだ終わっていない、…ってな」
「同感。そして今、後ろとの勝負が振り出しに戻った…かも、しれない」
「ゾクゾクするねえ。これで、最後のSSは危険がいっぱいだ」
もう僕には、痛いのは嫌だから慎重に走ってくれ、なんていう権利はなくなった。
服部は最後の一本に勝負をかけて、全力で走る腹を決めたのだ。
それならそれで、僕も腹を括るしかない。
「わかった。シートベルトは、強めに締めることにする。一蓮托生だ」
「そうこなくちゃ、よ!!」
国道に出て、“野良猫”は最後の戦場になる尾道峠へ向かう。
そして結局、“野良猫”は無事に最後まで走りきることが出来た。
尾道峠の入り口で小林さんたちと話し、殆ど同減点で並んでいることをお互いに知った。
小林さんたちは石川さんの機転で、ひっかけチェックの罠を回避できたのだそうだ。
小林さんとの順位争いは、最終SSで決まる。
無論、缶コーヒーの争奪戦も継続だった。
最高の緊張感の中で、“野良猫”は全力でSS4を走った。
服部は殴りこみでもかけるような勢いでアクセルを踏み続け、僕は大声でペースノートを読み続けたために最後には咽が破けて軽い出血までしていた。
最後のSS中、“野良猫”は二度コースアウトしかけ、一度側溝にタイヤを落とした。
それでも服部はアクセルを抜かずに切り抜けた。
せいぜい、2~3秒程度のロスだと思う。
これまでの中で最高に速かったと確信していたのに、走りきった後の区間タイムはSS6と全く同じ。少なくとも10秒は詰めたと思ったのに、意外だった。
「でも、そういうモンらしいぜ。以前、先輩からそんな話を聞いたことがあるよ」
汗まみれの服部はヘルメットを外しながら、そう言って、力なく笑った。
疲れきった顔をしていたけれど、その目がキラキラと輝いていた。
「服部。おまえ、なんか泣いてるみたいに見えるぜ」
僕もチェックカードをしまい、ヘルメットを外す。
これでしばらく、少なくとも今年はこのヘルメットをかぶることはないだろう。
「そうか?ま、そうかもな。正直、疲れたよ」
やるべきことを終えた者の開放感が、声に滲んでいる。
でも僕にはまだ、60進法の算数が残っている。
尾道峠の出口でオフィシャルから正解表を受け取った。
“野良猫”はこそこそと走り出し、“いろは坂”の上にあるゴール会場を目指した。
僕も服部も、小林さんたちのゴールを待つ気にはなれなかった。
その結果は、彼らの口からゴール会場で聞きたかったのだ。