短編集

著 : 中村 一朗

渇望の果て


 今は、夏の夕暮れらしい。

 目覚めた瞬間に、おれは新しい怪物に生まれ変わったことを知った。

 とは言っても、おれはもともと怪物なのだ。

 いろいろな姿に擬態して人間どもと暮らし、その生き血を食らいつくしてきた。

 長い長い歳月の中を、幾度も幾度も、誕生と消滅を繰り返してきた。

 食物連鎖の頂点に君臨していたあの頃の日々。

 かしずく者共の中から贄を選び、選ばれた者は深く静かな喜びを胸に自らの血と命をおれに献上した。

 血を飲むことを、芸術の域にまで昇華していた栄光の時代。

 だがそれも、遠い昔のことだ。


 最初に覚えたのは、猛烈な渇望だった。

 生き血を求める、飢えと渇き。

 本能に抗しきれずに、生贄をむさぼろうとしている獣のような。

 そして眼下には、哀れな獲物が何も知らずに通り過ぎていこうとしている。


 全身を覆うようにびっしりと生えた、真っ黒い剛毛。

 獲物を突き刺し、その生き血を啜る鋭い牙。

 背中の羽は、自在に宙を舞うためのものだ。

 六本の手足には、それぞれ鈎爪が生えていて、獲物を狙って逆さに地上を見下ろしているおれの体を、ガッチリと大木の枝に軽々と繋ぎ止めている。

 これが、今のおれの姿だ。


 おれは、これから獲物に飛びかかる。

 真夏の太陽がアスファルトに落ちたひと雫の水を一瞬で蒸発させるような、生き血への激しい衝動。

 同時に感じたものは、欲望を満たそうとする狩猟への歓喜と、それと同量の獰猛な憎悪。


 …畜生!!


 獲物に向かってまっすぐ急降下しながら、おれは腹の中でつぶやく。

 獲物に向かって爪を向け、牙を突き出しながら。

 歓喜は、獲物を求める本能の衝動から。

 憎悪は、本能をねじ伏せることのできぬ弱さに対して。

 ふいに、獲物がこちらに顔を向けた。

 獲物は、幼い人間の子どもだ。

 正面から俺を凝視するその顔には、如何なる恐怖の欠片も浮かんではいない。

 一瞬、錆びついた記憶がよみがえる。

 喜びをもって自らの血を捧げた生贄どもでさえ、最後は常に恐怖の目でおれを見ていた。

 獲物の最後の恐怖こそ、最高のスパイスだった。

 恐怖のスパイスを使い分けて、さまざまなバリエーションの、最高の調理を心掛けていた。

 それなのに…


 巨大な両掌が、左右からおれを叩き潰したのはその直後のことだった。


 …畜生…


「ママ、見て!ほら!!おっきな蚊、やっつけたよ」

 

「まあ、マー君すごいわ。ホントに、大きな蚊ね。でも、少し変な形。汚いから手を洗うのよ」


 人間どもの声を聴きながら、おれはまた消滅しようとしている。

 かつて、意地の悪い”やつら”は、おれに言った。

 自らに似せて作った人間どもを弄んだ罪を償え、…と。

 永遠の絶望の中で、自らの罪を悔いるがいい、…と。

 おれは笑い飛ばした。

 おれだって、人間どもと同様に”おまえら”が創りだしたんだぞ、と言ってやった。

 だが、”やつら”はおれの言葉など無視して”この罰”をよこした。

 記憶と知性の継続する不滅の魂を、虫けらの体に繰り返し転生させること。

 虫けらの欲望におれの魂を蹂躙させ、挙句の果てに人間どもに叩き潰させること。

 だがおれは、絶対に絶望などしない。

 何一つ、悔いなどあるものか。

 何千万、何億回の転生でも受けて立ってやる。

 いつかは必ず、この輪廻の檻を食い破ってやる。

 そして、いつかは必ず、本当の怪物に生まれ変わってやるのだ。

 誇りを踏みにじり、虫けらの本能におれの魂を封じた”やつら”を、おれは許さない。


 おれは、”おまえら”を絶対に許さない…



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