彼方からの脅威

著 : 中村 一朗

第六章


       対決・7


「ルナ・シークエンス。君は、本当におかしいと感じたことはないのか」

「何が?」

 ルナの挑むような問い返しに、ヨルデの目がスッと細くなる。

「地球誕生から46億年。人類のご先祖が生まれてからなら700万年だ。地球のスケールで考えれば、この彼方からの脅威に挑めるチャンスは、つまるところ、46臆分の1だった。一千万分の一の、さらにその460分の一だよ。もし亜空間レーダーの開発が10年遅ければ、間に合わなかった。いやそれどころか、人類の歴史を牽引してきたあらゆる科学知識の発見や発明が、どれかひとつ、何か少しでも遅れていれば間に合わなかったんだよ。地球は消滅し、バーサーカー彗星だって無事では済まないだろう。それが、ギリギリセーフで間に合う、なんていう偶然が本当に起こると思うのか?僕には信じられない」

 ルナは小さく首を振る。

「確率の問題ではない。危機的状況が目前に生じたから、私たちはベストの方策で対処しようと努力している。あなたたちは、足を引っ張ってきただけ」

「この数日のことも。僕が君の足を引っ張った結果、君は新しい亜空間原理を発見した。戦争が人類の進歩に大きく貢献してきたことと同じだ」

「酷い詭弁」

 ヨルデが力なく笑う。

「重力汚染の影響で人とは異なるものとして生まれるように、君は“何か”に仕向けられた。誤解を恐れずに言えば、“何か”とは、人類を滅亡に駆り立てようとする“彼方からの悪意”のことだ。そして君は、そいつが創りだした異能者の一人なのだ。社会は君を天才と呼んでいるけど、その力が宇宙からの絶対悪とシンクロする」

「では、その異能者とやらを作り出したのは誰?空飛ぶ円盤の宇宙人かしら?きっと、バーサーカー彗星に住んでいるんでしょうね」

 ヨルデはルナの瞳をじっと覗き込み、少し身を引いて大きく息を吸い込んだ。

「重力子知性。つまりは、グラビトロン・インテリジェンス」

「…なに、それ」

「時空を超越して、全宇宙を包み込む“悪意”。電磁信号で機能している僕らの脳やコンピュータとは全く異なる、情報秩序の無限連合体だ。あるいは、生命体とは呼べないのかもしれないな。ニューロ・ネットが電位差を利用して情報を伝えるように、彼らは重力変異で情報を伝える。マクロからミクロまで、全宇宙に広がる重力子のネットワークそのものだ。光を超えて拡散するこの宇宙は、成長を続けるひとつの脳としてアナロガスに理解してもいい。一つの統一された意思を持つのではなく、ランダムに破壊と創造を繰り返す“揺らぎ”のベクトル集合。またこれを複雑に絡み合う路線に例えるなら、物質やエネルギー、光さえその上を通り過ぎていく定期便の列車みたいなものさ。人類など、手押し車の車輪に寄生している雑菌だ。奴らは、線路そのものさ。必要に応じて近道を作り出すように、時空を操るために統一された四つの力を自在に操る。現在の技術で到達した程度のレベルと比べれば、奴らの力はまるで魔法だ。地球と生命体の存在に気づき、分子レベルで遥か古代から僕ら人類の脳に干渉してきていた。君は空飛ぶ円盤のことを口にしたが、あれは中世の人間がやつらによるマイクロ重力干渉波の影響で描き出したイメージを映像化した結果だ。古代人は、それを壁画に記した。ある程度正しく受け止められた科学者たちは、それぞれのレベルに応じてそれなりの方程式や理論の発見を導き出してきたのさ。科学という情報大系を信じることで、人間は心に描く望みを具現化できた。人の心は、信じて望むものを無から生み出すことができる。そして科学者という“悪”を作り出すことで、奴らは僕らの歴史にずっと干渉してきた。君は、」

 ヨルデはルナを指さしながら続ける。

「最後の“悪”だ。地球を滅亡に導くための」

「あなた…完全に常軌を逸している」

 ヨルデは空ろな目で不敵に笑う。

「それは、どうも恐縮だ。それでも僕の予言は、この時代の正鵠を射ていた」

「あなたの言う“奴ら”の目的は?」

「知らない。そんなものはないのかもしれないな。僕らが害虫だから、退治しようとしているのかもね。ずっと共食いをさせて、地球を潰そうとしてきた。バーサーカー彗星という幻影を、全人類が実在と信じることで宇宙空間に実体化させてしまった。そしてそれを、君が地球に導いている。微調整までして」

「あなたの夢物語と、私が見つけた亜空間原理は無関係」

「No、断じて」

「あなたは私を、あなたと同類の“悪”なのだ、と言った。では、あなたも“悪”の異能者ってことなのね。それとも、あなたと私は、いわゆる光と闇の関係だとでも言い張りたい訳?手垢のついたファンタジーみたいな」

 ヨルデは、ため息をつくように息を吸う。

 小さな笑みを浮かべながら。

「ひどい言い方をするんだな。僕は、世界が二元論で動いているなどとは言っていない。それでも、思想に殉じて死んでいった仲間たちは正義の戦いを完遂した。十日前まで、僕自身も彼らと同じ正義の側にいたと信じていたけど、少しだけ考えを改めざるを得ない。さっき、僕は君と同類なのだと言ったけど、ある意味では僕もまた“悪”なのかもしれない、と今は思っている」

「あら?心変りかしら」

「情報主義の由縁。僕たちの最後の攻撃は、君と刺し違えてでも目的を遂げるつもりだった。MRAの理想。それを貫くために狂信者の仲間たちは夢を抱いたまま死に、正義の戦いに終止符を打った。そして僕はその思いを利用して、君に接近した。君を殺すため。あるいは、君を説得するために」

 ヨルデは、変わらぬ笑みを浮かべたまま。

 しかしルナはその笑みの中に、空ろな陰がよぎるのを感じた。

「あなたの接近など、せいぜいこの程度。まさかその口車に乗せて、私を自殺にでも追い込めるとか考えていた訳でもないんでしょう」

「Yes。思想で君を殺すことは諦めている」

「では、なぜ私との接見を望んだの?」

「確かめたかったからだ。僕の心の中の変容と、殺意の本質を」

「情報主義を主張するなら、自分で解決すればいい」

「僕が君を殺そうとしたことで、君は新しい亜空間原理を完成させた。いや、正確には、僕が捕縛されて君との面会を望んだことで、“アグニ”の成功率は飛躍的に跳ね上がった、と聞かされた。僕は、心底驚いた。そして、激しく動揺した。恐らく、生まれて初めてのことだった」

「それが、どうしたの」

「…アインシュタインの平和運動は、懺悔だったのか…、君の言うように、祈りだったのか。いずれにしろ、大きな心変りがあった筈なんだ」

「何を言っているのか、と聞いているのよ」

 ヨルデは首を傾げ、ゆっくりと目を見開いていく。

「君への憎悪などないと言ったけど、その言葉も取り消さなければならないのかもしれない。僕はこれまで、他人に対してあからさまな感情を抱いたことなど皆無だったから気づかなかったのかもしれないな。つまり、心変わりだ」

 じっと見つめるルナの目の前で、ヨルデはふらっと椅子から立ち上がった。

「私の質問に答えなさい。さもなければ、話はこれで終わり」

 ルナはその姿を見上げながら淡々と言った。

 見開いた目と、引きつった口元。ヨルデの形相に狂気が滲む。

「僕と君の脳は、奴らの干渉によって進化を遂げた。何らかの形で、重力子を介して情報連動し得る。僕らが共有できる認識というトリガーを引くことで情報を物質化させることができるのさ。現在の科学の常識では錬金術や魔法のようなことに聞こえるかもしれないが、いずれこの原理も証明されるだろう。現象を引き起こすことは可能だ。つまり僕は、物理的に…」

 ヨルデの上体がわずかに縮む。

 修行僧のような双眸が一変した。

 目を見開いた瞬間、肉食獣の欲望がその奥でギラリと光るのをルナは見た。

 同時に、ヨルデの両腕が眼前の机の上を叩くように押し上げた。

弾む勢いで一直線にルナに向かう。毒蛇の牙が獲物を狙うように、十本の指がルナの細い首に襲い掛かる。

「君を殺せる!」

 恐怖よりも好奇心に心を支配されていたルナも大きく目を見開いたまま、憎悪を孕んだその指が自らの脛骨を粉砕しにくる刹那をじっと見ていた。



       ギャラリー・7


 バイガスは最初、何が起きているのか理解できずにいた。

 机を一気に飛び越して、ルナの喉笛に掴みかかるヨルデの姿。光子モデルによって映像化されているに過ぎないホログラムが、ルナを殺そうとしている。

「バカな!あり得ん」

 そう叫んだ時、ヨルデの指がルナの喉に食い込んだ。

 その一瞬の光景は、鮮明な記憶として彼の中に刻まれることになった。

 ほぼ同時に、横にいるシュミットに目をやる。

 シュミットは、硬い表情で食い入るようにモニターの一点を凝視していた。

 が、すぐにバイガスの視線に気づいて、パネル上の緊急パネルにタッチした。

 光子モデルだったパスカー・ヨルデは、瞬時に霧散した。

 無機的な部屋の中。机の片側には、何事もなかったような表情のルナ・シークエンスが座っている。右手で、首の辺りをさするように触れながら。

「申し訳ありません。副司令を驚かせてしまったようです」

 その言葉で、バイガスの顔が不快感に歪む。

「つまり、二人の座標は疑似接触(ランディング)ができる設定にしてあったということなのかね」

 イン・ビジョンを介して、疑似的な接触感覚を刺激するランディング効果。ある種の暗示を加えることで、肉体にそれなりの影響を及ぼすことも可能だ。真っ赤に焼いた疑似コインを掌に落とせば、肉体が火ぶくれを作る類の。

 しかしシュミットは首を振った。

「いいえ。机上辺りまでの近接設定でした。ランディング設定など論外です。ヨルデが、副司令の喉元まで手を伸ばすなど、不可能なはずでした」

 言いながら、バイガスに向き直って続ける。

「パスカー・ヨルデの捨て台詞は、あながち“はったり”ではなかったのかもしれません。自らを情報主義の異能者と主張した件についても、です」

「ではヨルデは、何らかの手段でこちら側のプログラムに干渉し、ランディング設定に切り替えていたという訳か」

 かつては、イン・ビジョンによる簡易コマンド入力の組み合わせで簡単なハッキングが可能だった頃もあった。不可聴域のヴォイスコマンドを応用して収監施設から脱走したテロリストもいた。しかし、最新制御システムで武装するアグニ計画エリア内でのセキュリティフィルターは、ほぼ完璧なものである。

「イン・ビジョンを除去したヨルデには、ハッキングなど不可能です」

「じゃあ、協力者がいるとでも言うのか」

 シュミットがこの接見を推進したのも、アグニ計画のスタッフとして潜入しているテロリストのあぶり出しを目的にしていたのではないかと、バイガスは考えていた。良くも悪くも、それならそれでシュミットらしい発想と思いつつ。

「それも考えにくいことです。スタッフの履歴管理には自信があります。MRAの協力者などいません。ですが…」

 シュミットはパネルに触れ、ヨルデがルナに襲い掛かったシーンを再生する。

「ヨルデの両腕は、設定座標を超えて副司令の首に伸びています。しかも、モニターで見る限り、奴の指が副司令の首に食い込んでいるようにさえ見える」

 録画シーンの最後で静止画に。

 ルナの首に絡みつくヨルデの両手が拡大して映し出されていた。

 その横のモニターでは、尋問室にいる現実のルナが席を立ったところだった。

「大丈夫かね、ルナ・シークエンス副司令」

 バイガスはイン・ビジョンのオープンチャンネルで呼びかけた。

 無論、シュミットもモニターリングしている。

「ええ。少し、驚きましたけど。何が起きたのか、後で考えたいと思います」

「副司令。医療センターに足をお運びいただけないでしょうか」

 シュミットの声に、モニター内のルナの視線が少しだけ険しくなった。

「了解」

 ひと言を残して、ルナは部屋を出た。

 その後姿を見届けながら、バイガスが呟く。

「ちょっとした、超常現象だな」

「物理的には不可能なことです。しかし、これは現象として記録されました」

「光子モデルのホロ映像など、所詮は3D視覚映像に過ぎん。考えられるのは転写プログラムへのハッキングだけだ」

「インターフェイスはありません」

「そうだ。脳内の意思を除いては、ね」

 シュミットの目が、スッと細くなる。現実はプログラム世界と同じだ、と言い切った先ほどのヨルデの言葉を脳裏で再生しつつ。

「本気でおっしゃってるんですか。科学者のお言葉とは思えませんが」

 バイガスは微笑んだ。

「俗っぽく言えば、テレパシーによるプログラムへの干渉だな。ただしここで言うテレパシーとは、SFで言い古された脳波の微弱電磁マップのことなどではないぞ。純粋な精神力による、時空パラメータへの干渉だ」

 シュミットは吹きだした。

「何だか楽しそうですよ、総司令官」

 バイガスは頷く。

「奴の言葉を借りるまでもないことだが、発達した科学は魔法と区別がつかなくなる、とは昔から言われ続けてきた。我々は、新しい錬金術の世界への扉を開こうとしているのだ。ルナが見つけ出した新しい亜空間原理など、今目の前でヨルデが引き起こした出来事よりもずっと高次の奇跡だぞ。一年前の常識なら、科学というよりも魔法に近い。宇宙は広い、と俺はしみじみ痛感しているところだ。ところで、パスカー・ヨルデはどうしている?」

「速やかに独房に戻しました。口を閉ざしたまま、大人しくしているそうです」

「直接会って、話してみたくなった。明日、俺との面会を手配してもらえるか」

 シュミットは少し考え、やがて頷いた。

「わかりました。明日の午後でよろしければ」


 しかし結局、バイガス・ホルン総司令官のこの望みは叶えられなかった。

 その三時間後。

 パスカー・ヨルデの姿は警務艦の独房から忽然と消えた。

 恐慌状態の警務艦内では懸命の捜索が行われたが、何の手掛かりも見つけることはできなかった。質量プローブによりヨルデの体重に相当する質量が消失していることが確認されたが、艦の装備品は何もなくなってはいなかった。少なくともヨルデが、生きたまま船外に脱出することは不可能だったと結論付けられた。船外に出て自殺したと推測する者もいたが、ハッチ解放を含むその一切の痕跡は記録されてはなかった。

 以後、ルナ・シークエンスには万全の警護体制が敷かれたが、彼女が警備ロボットへの不満を募らせる以外、何事も起こらずに時は過ぎていった。


 そして3年後。

“アグニ計画”スタッフは総力を挙げて、“バーサーカー”の予想軌道上に重力カタパルトを構築することに成功した。空間回廊の湾曲スケールについては、理想モデルの構築には程遠かったが、それでも太陽系内への突入角度を確実に変更させることができると判断された。

 それでも連邦政府は“箱舟計画”と“アグニ計画”の同時進行を継続した。結局、バーサーカーは太陽系内を通過しながらも地球直撃は回避された。

それでも最接近時には、地球環境に壊滅的な爪跡を残すことになった。

地球のみならず、太陽に最接近した際に“バーサーカー彗星”は無数の巨大黒点現象を引き起こして太陽フレアを頻発させた。

発生した強度の電磁波が大量に地球に降り注ぎ、生物圏全体に致命的ともいうほどの大きなダメージを与えた。

アグニ計画派の一部は、もう少し予算をつぎ込んでいれば地球環境も守れた筈だったと主張して、事件後の政治的発言力を強化しようとしていった。

一方の箱船計画派は、バーサーカー彗星の通過後も着々とコロニーの収容可能人口を増やし続けていった。生存さえ困難なほどの地球環境の劣悪化から、人類の多くが宇宙への移民を志向していたためである。

また副次的効果として、アグニ計画によって新しく開発されたテクノロジーはその後の宇宙開発と物流に革命をもたらしていた。政治的駆け引きとは裏腹に、双方の技術スタッフは協調してバーサーカー後の人類存亡の危機に挑んだ。

人類は瞬く間に太陽系全域に生活圏を拡大していった。逆に、疲弊した地球からは年を追うごとに人口が流出し、人類の生活基盤はいつの間にか宇宙空間へと移行していった。


やがて、300年。

地球から人類の殆どが消え、その多くは太陽系さえ後にして遥か彼方を目指して旅立っていった。いつの間にか彼らは、郷愁さえ失っていた。

地球を故郷として認識することさえなくなっていたのだ。


3,000年後。

地球から人類文明の痕跡は消えた。

太陽系にさえ、その痕跡をわずかにとどめるに過ぎないものになっていた。



top