エレナは紗季を担いで走った。体力も力もある吸血鬼だったが、それでも息切れし始めていた。
細い路地裏を走っていたが、それが途切れる。表の広めの通りに出たところで紗季を下ろし、手を引いて更に走った。
ハンターは犬を連れていたから、下手をするとどこまでも追ってくるだろう。出来るだけ遠くに離れたかった。
追跡するに当たり、もっと増員する可能性もある。一人ずつなら何とかなるが、二人以上が同時に来れば苦戦するだろう。今はお荷物が居るのだ。不注意で作ってしまった仲間だが、危険にさらすわけにはいかないと考えていた。
どれくらい走ったか分からない。幹線道路まで出たところでようやく走る速度を落とした。切れ間なく走る車の音と、排気ガスの臭いに不快感を感じる。二人とも、暫くの間肩で息をしていた。
紗季もエレナも、何も話さずに歩く。どこまでも続く幹線道路が、無限回廊のように感じられた。
先程の急に襲われた件など、分からない事が残っていて気持ち悪く感じていたが、紗季もそれとなく今の現状をそれとなく理解しつつあったし、エレナが辛い立場に居るであろう事も察していた。不安で泣きじゃくりたい気分になっていたが、何とか押し殺した。
どこまで行くんだろう?そう紗季が考えた時、エレナが足を止めて振り返った。
その眼には涙がたまっていた。
「ゴメンね」
涙は溢れ、頬を伝って流れ落ちた。
車のヘッドライトに照らされ、涙が宝石のようにキラキラと光る。
それが物語る現状、不安にさせまいとしてきたエレナの気持ち、互いの血が交ざり合ってしまった今は、何となくだったがそれが感じられてしまう。理不尽な今の状況にも関わらず、涙を流す目の前の吸血鬼を責めるような気分にはなれなかった。
絶望感、想像も付かない未来、変わってしまった肉体。そんな状況なのにも関わらず、紗季は首を横に振った。
ただ、それだけしか出来なかった。
静まり返った遼二の部屋の中、携帯のバイブレータが机を振動させ、浅野の携帯にメールが入った。
教会からの増員連絡である。それも、過去にあまり例がない、海外から8名を呼び寄せるという、大規模なものだった。
「教会は戦争でもするつもりか?」
浅野は鼻で笑った。蔑みが感じられる。自分達だけで駆除出来ないと判断された事への不満もあるだろうが、そもそも上の人間には好意的ではないようだ。
「繁殖を懸念してるんだろう。少なくとも三人確認しているわけだからな」
里見はライフルを分解している手を止め、浅野の方を見た。目が血走っている。この生真面目は、目標のポイントに照準を合わせたまま数時間構え続けていたらしい。
合図をすれば気付かれやすい。なのでスナイパーは常に張り付いていなければならない。今回のチームでこれが出来るのは、里見のみであった。
集中力、判断力、持久力、精密さのキャパシティが高くなければ、そうそう出来る事ではない。スナイパーとして里見のレベルに達するハンターは国内には居ない。
「お前の精神力、畏れ入るぜ。気が短い俺には出来ない芸当だ」
浅野の称賛に里見が首を横に振る。
「今回の俺のポジションは命の危険がないからな。これぐらいはどうと言う事もない」
そんなやり取りをしている二人を眺めながら、遼二は手にした酒のビンを口へ運んだ。
強いアルコールが喉を焼く。
里見はあの頃と変わらない。吸血鬼と初めて出くわしたあの日から。
五年前だった。
日曜日、夏の夕方、雨が激しく降っていた。
ジョギングから戻った遼二は実家の玄関に飛び込み、雨水でぐしゃぐしゃになっていた靴を脱ぎ捨てると、早く乾かすのに新聞紙を探した。
キッチンへ行き昨日の新聞を見つけると、一枚を手に取り、半分ずつにしてくしゃくしゃに丸めて玄関へ向かう。水分を含んで色が変わった靴の中に詰め込むと、着ていたTシャツを脱いで洗濯籠に放り込む。
二階の自分の部屋に入ると、遼二の姉が畳んでベッドの上に置いておいてくれたであろう、真新しいTシャツを着る。遼二の姉は、不良のような見掛けだが、意外と家庭的な部分が多い。
家から少し離れたところから、犬の鳴き声が聞こえてきた。近所の犬が、散歩中の別の犬にでも吠えたのだろう。
ややあってから、向かいの部屋で
「ドサッ」と、物が倒れるような音がする。
姉の部屋だった。
部屋に居れば、真夜中以外は大体何らかの音が飛び交っている。派手な音楽だったり、楽器の音だったり。静かだったから外出中だと思い込んでいた遼二は、少し驚いた顔をした。
「姉さん?」
遼二は扉越しに呼びかけた。
よく見ると扉が少し開いている。
雨音に混じり、何かを引きずる音が聞こえてきた。
本能か、何か危険なものを感じ、寒気が遼二の身体に広がる。
姉の部屋の扉が開いた。
薄暗い中に、姉では無い別の人影が立っている。
醜悪であった。
目を大きく開き、牙を剥き出し、引き裂いた“人間だったもの”を引きずりながら、低い声で唸っていた。
人の形はしていたが、完全に化け物だと感じた。
数年経った今でも、遼二の記憶には、鮮明にその姿が焼き付いている。
生臭い血の臭いが発せられてきた。
引きずられた“人間だったもの”がこちらを見ている。
よく知った顔だ。
数時間前まで笑っていた、血の繋がった女性。4つ年の離れた姉。
遼二の姿を暫く見た後、化け物は近付いてきた。
今までの人生の中で出会ったことも無いような恐ろしい状況だった。遼二はそれを見て腰を抜かしてしまった。
何を考えているのだろうか、ギラギラとした目が部屋の前で、視線を遼二に向けている。物色でもしているようだ。
引き裂かれた姉の死体が、ゴミくずのように放り捨てられる。化け物が一歩踏み出した。遼二は一瞬死を予感しかかる。その時、低い破裂音のような音が鳴り響き、化け物の頭が、スイカをハンマーで力いっぱい殴ったようにのように弾け飛び、人間の血の色と同じ脳髄が散った。
それとほぼ時を同じくして駆け込んでくる数人の男、その中に里見の生真面目そうな顔があった。
里見は遼二に気が付くと、足早に近付いてきて顔を覗き込んできた。
「大丈夫か?」
たった一言だけだった。だが、自分が助かった実感があった。
腰を抜かしたものの、その程度には冷静だった。パニックにすらならない。姉に対して申し訳無く感じられ、それが原因で悲しくなり涙が出てきた。
首の飛んだ化け物の身体が痙攣しているのが見える。死んだ姉の光を失った瞳が自分を見つめている。遼二の記憶にはそこまでが確りと残っていたが、ここからは鮮明さは失われて断片化していった。
死体袋に包まれた2つが運ばれるところ。なぜか事情を理解している刑事との会話。駆け付けた両親の泣き崩れる様。その後は思い出せない。気が付くと酒浸りの毎日を過ごしていた。
ハンターになる為に教会の門を叩いたのは、この半年後になる。理由は本人にも分からなかった。
「大丈夫か?」
里見の血走った目が覗き込んでいた。表情はあの時と変わらない。
「ああ、少し昔を思い出していた。大丈夫だ」
酒のビンを床に置くと、煙草をくわえて火をつけ、深く吸った。
口の中に、辛味の混じった甘さに似たような風味が拡がり、喉を刺激しながら肺臓に染み渡っていく。少し留め、上に向けて吹き出した。白い煙が空間に薄っすらと広がり、室内の空気に臭いを残して消えた。
「山県、止めてくれ。犬の鼻がききづらくなる」
心底嫌そうな顔をしながら、浅野が煙から遠ざかる。そもそも嫌いなのだろう。見える一番遠くに座ったが、またすぐに立ち上がり部屋を出た。
遼二はそれを見て笑顔を覗かせた。普段から冗談の少ない男だから、珍しいことであった。
最初の一息は、多少浅野に遠慮していたのだろう。遼二はくわえたタバコを大きく吸った。先端の数ミリが灰になる。大きく吐き出した後、視線を里見に戻した。
笑顔はもう消えている。
「里見。今回の標的は何かが違う。いつものような禍々しい雰囲気がなかった。過去にそんな奴はいたか?」
「・・・いないと思うが。今回の標的を見ていないから何とも言えないが、皆一緒だろう。追い詰めれば正体を見せるものだ。・・・経験上な」
遼二は、ハンターとなってから多くの吸血鬼を殺してきた。大概殺してきた吸血鬼は皆何らかの闇を持っていたものだが、今回の標的は違う。暗いものが全く感じられなかった。
美しく、強く、そして慈悲のようなものがあった。
あの時浴びた殺気は紛れもなく人外のものだったが、内に秘めたものは人のそれである。それを直感した。遼二の感覚はそういったものをよく当てる。
だから、経験豊富な里見の言うことに間違いはないと信じてはいたが、やはりどこか引っ掛かった。
もしまた会う機会があれば、次は言葉を交わしてみよう。遼二はそう心に決めた。
だが、増員の事を考えるとそれも難しいだろうと思われるが。
「・・・里見。今回の作戦、俺達はお役御免か?」
と聞きながら、壁に掛けてある時計の方を見る。時刻は午前2時半を指している。
「だろうな。増員されるのは本部の連中になるだろうから、我々の出番はなくなるだろう。・・・正式な通達があるまでは待機になると思うが、今日中に結果が分かるだろう」
遼二は言葉もなく頷くと、手近な酒の空ビンでタバコの火を消し、横になって目を閉じた。
「連絡が来たら起こしてくれ」
と言うと、数秒後には寝息を立てる。隣の部屋からは浅野のイビキも聞こえてきた。里見は、何も言わずにライフルの手入れに戻る。
三人のミッションは、ここで一旦の終わりを告げた。
エレナが昔馴染みに連絡を取ろうと試みたのは、県境のコンビニ前の公衆電話からだった。
深夜を過ぎたあたりから雪が降り始めていたので、世界が白く染まりつつある。それを見ながら、相手が出るのをひたすら待った。
三回程かけなおししたところで、眠そうな声が出た。
「誰だよ、こんな時間に」
台詞とは逆に、機嫌は悪くなさそうだ。生業のわりには温厚な性格である。
「・・・エレナです」
多少間を開けて続ける。
「力を借りたくて電話しました」
暫く沈黙が続いた。電話が切れたようにすら感じる。
雪が降る音と、思い出したように走ってくる車の走行音だけが聞こえた。
不安そうにする紗季の視線が突き刺さるようにすら感じられる。
「・・・悪い。夢でも見てるのかと。現実だよな?」
その反応に、エレナは安堵した。
電話の相手は、過去にエレナを執拗に追跡していた男だ。教会とは別の組織に所属しており、商売敵でもある。同じような事をしているが、範囲は狭い。また、クライアントは一切持たず、国の支援でひっそりと成り立っている。
経緯についてはまた別の機会にでもするとして、一時は間違いなく敵であったが、最終的には理解者となってくれた者だ。
人柄も良く、エレナにしてみれば日本国内では唯一助けを求める事が出来る人物だった。
「5年ぶりだな。音信不通で心配したぞ」
連絡を止め、姿を消したのには理由はなかった。色々と出来事が多すぎたのか、あまり考えていなかったような記憶がある。
「ごめんなさい・・・」
「いや、構わないよ。理由はともかく、ちゃんとまた連絡してきてくれたわけだしな」
優しさが沁みる。甘えてしまいそうだ。エレナはそう考え、受話器を少し耳から離した。
「何をどうすれば良い?」
優しげな声が、降りしきる雪の音に溶け込むようだ。
「会えますか?保護してもらいたい人がいるんです。場所は・・・」
いつしか大雪になっていた。車がその中を滑るように駐車場へ入ってくる。中にはエレナの知った顔が乗っていた。
男は、長尾壮介と言う。
年齢は30台半ば頃だろう。笑うと目じりにシワが寄る。
身長は少し高めで、身体は引き締まっている。アスリートのような体格と言えば容易に想像が付くだろう。
いわゆる
「イケメン」ではないが、清潔感が有り、愛嬌のある顔のため接しやすい雰囲気がある。
夜中に突然起されて迎えに呼ばれたにも関わらず、髭はキレイ剃られていた。
優しげな表情と落ち着いた物腰のせいか人からは好かれるような傾向にあり、交友関係は広いようだ。車を止めた直後に一度携帯のメールを確認している。
この、一般的に言うと
「優男」に見える壮介だが、実際の職務を遂行する際には別人のようになる。
エレナは今回遭遇した教会のハンターを虎に例えていたが、それと同様の見方をすれば巨大な狼のようなものだ。
この、通常時とのギャップが、エレナには今もって疑問の一つになっていた。普段の姿を見るとどうやっても同じ人物とは考えられない。
あの獣は、どこにどう眠っているのだろうか。
車を降りた壮介は、手を吐息で温めながら小走りにエレナの元へやってくる。
壮介本人からすると、嬉しい再会になるのだろう、満面の笑みを見せていた。その表情を見て少し悲しそうな顔をしたエレナに対し、壮介は少し面倒な事態を想像した。
肩眉を上げて、
「何があったんだ?」
と問い、エレナの頭をクシャクシャにした。
と、タイミング良く隣家の屋根の雪か何かが音を立てて落ちる。壮介だけはワンテンポ遅れていたが、三人ともが一旦そちらに意識を取られた。
「髪、染めたんだな。キレイじゃないか」
クシャクシャにした髪の毛を撫でて元に戻すと、エレナの悲しそうな顔は困った顔に変わっていた。
話をする準備が整ったかもしれない。壮介はそう感じ取り、車の方に向かった。
「“君ら”は寒くないかもしれないが、こちとら人間なもんでね。冷えるから車に乗ろう」
ほとんど目を向けてもいなかったが、壮介は、紗季をエレナの同族と判断した。
髪や目の色素が日本人離れしていたからではない。落ちた雪の音に対する反応速度が異常だったからだ。
壮介自身、色々な吸血鬼と出会っている。人間との区別は見かけではなく、その行動等から判断が出来るようになっていた。
「この5年で、三人の吸血鬼に会ったよ。エレナ、君の言うとおりだった。その内の二人は節制に勤めている“安全な”吸血鬼だった」
車が走り始める。
徐行しつつ環状線に入ると、少しスピードが上がった。
「若く吸血鬼に慣れていない連中は、やはり野放しにされていると危険なんだが・・・」
後部座席に座って俯いていた紗季が顔を上げる。疑われて不安になっている小学生のような顔をしていた。
「やはりそうか」
吸血鬼の年齢は、見た目ではあまり分からない。成り立てではソワソワした雰囲気があるはずだが、紗季にはそれがなかったから測りかねていた。今時の風貌から見て、それ程年を食っているとは考えにくくはあったが。
「私の不注意なんです。偶然でもあったのですが」
エレナの声にも、申し訳なさそうな声が混じっている。
壮介は、バックミラー越しに紗季を見た。神経過敏になっているのか、多少脅えた様相が伺える。まだまだ精神が不安定なのだろう。そう判断した。
「安心してくれ。取って食ったりはしないから」
壮介の言葉に、紗季はまた俯いた。
「とりあえず何があったのかを聞きたい。後、どうすれば良いか。この後どうするのか」
壮介の言葉に、エレナはゆっくりと話始めた。
教会のハンターと思われる者に追われている事。
最初の遭遇で被弾し、その血液が蚊を媒介にして紗季に偶然の感染をした事。
もしかすると、まだ数人の感染者が居るかもしれない事。
今後、更に増員して仕掛けてくる可能性が大きい事、過去の経験から、一度追われるといつまでも追跡される事。
知りうる限りの詳細を纏めて話した。
「それで、彼女を預けて一人で戦おうって?」
「他に・・・、方法が思い付かないんです」
「教会が相手だろ?倒しても次のハンターが投入されるだけだし、どんどん過激になっていく。良い方法だとは思わないな。それに、状況が状況とは言え、人が死んでいくのは見過ごせない。戦うって事であれば、それについては力は貸せないよ」
「それは分かってます。・・・紗季を守ってあげたいの。でも、良い方法が思い付かなくて」
エレナは後部座席を見た。外を見ていた紗季がエレナの方を見る。
街灯の明かりが定期的な間隔を開けて若く美しい吸血鬼の姿を照らしている。暗くなる度に、そのまま紗季が消えてしまうのではないかと感じられた。
過去に作った仲間が消えていった時の事を思い出す。
壮介はエレナの責任感の強さを知っている。だから、今の言葉でエレナの気持ちが手に取るように分かった。
「良い方法なんてのはそうそう出てくるもんじゃないさ。今、俺から提供出来る事は、そうだな・・・」
壮介は思い付いたようにハンドルを切り、環状線から東西へ伸びる街道へ入った。
「ほとぼりが冷めるまで、暫く俺のセーフハウスに隠れてると良い」
降りしきる雪の中、車は西へ向かい始める。
僅かに下り坂になっており、遠く向こうが長い上り坂になっていた。この後、急な坂を上るような、そんな錯覚を覚える。まるで、これからの事を暗示するかのような、そんな気持ちに迫られた。
「着いたら起すよ。寝ててくれ」
壮介の言葉にハッと気が付き後ろを見ると、紗季が窓にもたれ掛かりながら寝息を立てていた。それを見て、エレナも目を閉じる事にする。
久々に安心感を得たエレナは、深い眠りに付いた。
「おい、山県。起きろ」
浅野の無粋な呼び声に意識が現実世界へと戻った。
遼二が薄っすらと目を開けると、カーテンは閉まっているものの、外は明るくなっていた。
時計を見ると、針は8時半を指していた。
浅野の手には酒の空瓶が握られている。
「それ、飲んだのか?」
遼二は何か違和感を感じながら、大きく欠伸をした。
「知ってんだろ、俺はアルコールに弱いんだよ。・・・起きなかったらこれでブン殴ろうと思ってたんだがな」
浅野はニヤニヤしながら遼二を見下ろしている。
「酒もタバコもダメ。お子様みたいでなんか可哀想だな」
浅野の額に青筋が立つのを見ながら、遼二は身体を起した。
ライフルのケースは置いてあるが、持ち主である生真面目の姿が見当たらない。
先ほど感じた違和感は、遼二を起した人間が、里見ではなく浅野だったからだろう。
「里見はどうした?」
浅野は酒の空瓶を放り出すと、不機嫌そうにして
「お前を起しとけとだけ言って、さっき出てったよ」
と答えた。
「起してから出掛けてくれよ・・・」
遼二はそう呟きながらキッチンに向かうと、洗ってあるのかも分からないコップを手に取り、一息吹きかけて埃を吹き飛ばし、水を注ぎ、1杯を一気に飲み干した。
そのまま食べる物を探して辺りを見回すが、黒くなったいつのだか分からないバナナが目に入るだけで、何も見当たらない。
腹の虫が鳴る。
「そう言えば教会から連絡が来てるぞ。意気込んで人数揃えた割に連中のんびりだ。来るのは6日後になると。で、それまでの間、引き続き捜索を続けてろとの事だ。つまり、俺達には何も期待してないって事だな。6日じゃ遭遇する事も無いだろうし、フリだけして遊んで待ってるか?」
後を付いてきた子犬のような浅野の言葉に、手をヒラヒラとさせて応える。
多分、標的はもうこの近辺には居ない。普通に探しても見付かる事は無いだろう。偶然でもなければ・・・。
遼二の心の中からは標的に対する恐怖は無くなっていたから、何とかして会いたいと考え始めていた。
6日後には本部で選ばれた精鋭が来る。そうすれば、標的はすぐにも見付けられ、恐らくすぐに刈り取られる。
それまでに会えるかどうか。
遼二はヤカンに目一杯水を入れ、火を掛け、ついでにタバコをくわえて火をつける。浅野はそれを見て部屋に戻っていった。
窓の外に目をやると、いつの間に積もったのか銀世界が広がっていた。
まだまだ積もりそうだ。大粒の雪が、何かをひっくり返したかのような勢いで降り注いでいた。
遠くに、里見が近所のスーパーで買ったであろう袋を提げて歩いてくるのが見える。
長ネギが飛び出ているところを見ると、何か作るつもりなのだろう。体中に雪が積もっており、顔をマフラーで覆っている為、モノトーンのテレビ画面を観ているように感じる。
「傘ぐらいさせよ・・・」
遼二はタバコを大きく吸い、遠く見える里見へ向けて吹き付けるようにして吐き出した。
「ここは俺のプライベートな部屋だから、組織の人間も含めて危険な者は来ない。電気、ガス、水道、使いすぎなければ好きにして良いよ」
壮介がセーフハウスと称した部屋は、マンションの1室だった。
1DKで、風呂とトイレが分かれている。ベッドとテレビとノートパソコン、小さなソファとラグマットの上にガラス製のテーブルが置いてあるだけで生活観はあまりない。壁面を埋めるような収納家具があったが、中身は殆ど入っていなかった。
都心から電車で1時間程のところだろう。窓の外を眺めると、木が多く、今は真っ白だが雪が溶ければ辺りに緑と戸建の住宅街が見えると思われる。
「どうせ隠しても探すだろうから出しておくが・・・」
壮介はクローゼットを開けて、ダンボールを取り出す。中には色んな精密機器らしきものが詰まっていた。それを無造作に箱から出して、一番底に入っていたケースを引っ張り出すと、ガラステーブルの上に置いて開ける。
「無いと思うけど、必要になったら遠慮なく使ってくれ。“自衛の手段”としてな」
紗季が興味津々な面持ちで、恐る恐る覗き込む。女の手には余るような、大きめの黒い拳銃が入っているのが見えた。こんな物騒な物はテレビゲームや映画の世界でしか馴染みがなかったのでギョッとした。
「ははは・・・、45口径で自衛ですか」
映画で俳優が持っているのやモデルガンとの区別が付かず、エレナの苦笑いも手伝ってかリアリティに欠けて見えてしまったが、間違いなく本物なのだろう。ケースの中に無秩序に入っている弾には鈍い光沢があり、見紛うこと無く金属の質感がある。テーブルの上に置いた時に感じた重量感には嘘が無い。
「後はこれくらいかな」
壮介がベッドの下から引っ張り出した箱を漁り、スタンガンを取り出してベッドの上に放り出した。父親が使っていた電気シェーバーに似ている。紗季はそう思った。
こんな小さなものでも人を行動不能にするくらいの事は出来る。そう思うと触るのが怖かった。ベッドの上に置かれたそれを、遠巻きに見つめる。
壮介が上着を手に取り、立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行くよ。夜に食料買い込んでまた来る。何か食べたければ、悪いけどシンク下のカップ麺で我慢してくれ」
上着を着ると、足早に玄関へ向かった。エレナがその後を追う。
玄関先で何か話しているのが聞こえ、そちらの方を見ると、エレナが壮介にキスしているのが見えた。困ったような照れたような、そんな表情で壮介が部屋の方を見ながら扉を開ける。紗季と目が合うとバツの悪い顔をして出て行った。
二人はどんな関係だったのだろう。鍵を閉めて戻ってくるエレナの顔を見ながらそう考えた。浮ついた顔をしていないから、ただのサービスだったのかもしれない。
「お腹、空かないでしょ」
部屋に戻ってきたエレナが、優しい表情で語りかけてきた。そう言えば、全く空腹感が無いような気がする。昨日の夕方から何も食べていないはずだったのにも関わらず。
「なんか、平気です」
意識しなかったので、食事の事も忘れていた。
空腹感が無いということは、食事を気にしなくなるということだと、今更ながら痛感した。もしここで言われなければ、どれくらいの間この状況が続けば食事の事を思い出したろう。
「吸血鬼はね、普通通りに食べても良いけど、暫く食べなくても平気。下手すると、血を飲んでれば永遠に生きていけるんじゃないかと思う。けど、前にも話したと思うけど血は我慢するべきで・・・、でもいつか我慢が出来なくなる時が来ると思う。その時は教えて」
まだ平気だが、血への欲求が少しずつ大きくなりつつある。紗季も、それだけは感じていた。
近隣の駐車場で会った怯えた猫の瞳が脳裏に過ってしまう。
「我慢、出来るものなんですか?初めて我慢した時って、辛かったのです?」
「どうだろう。忘れてしまったな・・・」
エレナの表情から、過去に苦しんだのだろうなということが感じられた。あまり顔に出さない人だと感じていたから、尚更そのイメージが作りやすい。
この先どうなるのだろうか。その不安はいつまでも同じ大きさのまま、紗季を包んでいた。
抜け出せる日が来るのか、いつかは慣れてしまうのか。全く見えない未来に恐怖した。
暫くの間沈黙があった。
聞きたいことが山ほどあるはずなのだが、会話の始め方が分からない。それに耐えられなくなり、とりあえずテレビを付けて眺めてみる。
エレナが拳銃をケースから取り出すのが、視界に入った。
マガジンを抜いて中が空なのを確認すると、金色の円柱を一つ一つ丁寧に詰めた。弾の先が平たくなっているのが不思議に感じられる。
マガジンを拳銃に戻した後、クローゼットの中を漁ってカバンを取り出す。中に入っている物を確認して小銭入れを見付けると、入っている金額を数え、拳銃と一緒に中に放り込んだ。
「紗季。留守番しててくれる?私、ちょっと出掛けて来るから」
「あ、・・・はい」
一人にされてしまう。それが不安に感じたが、口に出せなかった。
「帰ってきたらドアの前に立ってチャイム鳴らすから、私だって確認した上で鍵を開けて」
それだけ言うと、出て行ってしまった。慌てて追いかけて扉を開けて外を見たが、もう姿は無い。諦めて鍵を閉めて部屋に戻ることにした。
膝を抱えてテレビに向かう。
お笑い芸人が何かに挑戦しようとしているところだった。
テレビの中からは爆笑しているのが聞こえてくるが、ちっとも面白いと感じられなかった。普段は止め処なく笑っているのにも関わらず。
未来の不透明さへの不安を感じる。今まで自分がどれだけ安定した生活をしていたのかが、身に染みるように感じられる。
降りしきる窓の外の雪に視線を移し、紗季は一筋の涙を頬に伝わせた。