吸血鬼

著 : 秋山 恵

逃走



 静まり返った遼二の部屋の中、携帯のバイブレータが机を振動させ、浅野の携帯にメールが入った。

 教会からの増員連絡である。それも、過去にあまり例がない、海外から8名を呼び寄せるという、大規模なものだった。

「教会は戦争でもするつもりか?」

 浅野は鼻で笑った。蔑みが感じられる。自分達だけで駆除出来ないと判断された事への不満もあるだろうが、そもそも上の人間には好意的ではないようだ。

「繁殖を懸念してるんだろう。少なくとも三人確認しているわけだからな」

 里見はライフルを分解している手を止め、浅野の方を見た。目が血走っている。この生真面目は、目標のポイントに照準を合わせたまま数時間構え続けていたらしい。

 合図をすれば気付かれやすい。なのでスナイパーは常に張り付いていなければならない。今回のチームでこれが出来るのは、里見のみであった。

 集中力、判断力、持久力、精密さのキャパシティが高くなければ、そうそう出来る事ではない。スナイパーとして里見のレベルに達するハンターは国内には居ない。

「お前の精神力、畏れ入るぜ。気が短い俺には出来ない芸当だ」

 浅野の称賛に里見が首を横に振る。

「今回の俺のポジションは命の危険がないからな。これぐらいはどうと言う事もない」

 そんなやり取りをしている二人を眺めながら、遼二は手にした酒のビンを口へ運んだ。

 強いアルコールが喉を焼く。

 里見はあの頃と変わらない。吸血鬼と初めて出くわしたあの日から。


 五年前だった。

 日曜日、夏の夕方、雨が激しく降っていた。

 ジョギングから戻った遼二は実家の玄関に飛び込み、雨水でぐしゃぐしゃになっていた靴を脱ぎ捨てると、早く乾かすのに新聞紙を探した。

 キッチンへ行き昨日の新聞を見つけると、一枚を手に取り、半分ずつにしてくしゃくしゃに丸めて玄関へ向かう。水分を含んで色が変わった靴の中に詰め込むと、着ていたTシャツを脱いで洗濯籠に放り込む。

 二階の自分の部屋に入ると、遼二の姉が畳んでベッドの上に置いておいてくれたであろう、真新しいTシャツを着る。遼二の姉は、不良のような見掛けだが、意外と家庭的な部分が多い。

 家から少し離れたところから、犬の鳴き声が聞こえてきた。近所の犬が、散歩中の別の犬にでも吠えたのだろう。

 ややあってから、向かいの部屋で

「ドサッ」と、物が倒れるような音がする。

 姉の部屋だった。

 部屋に居れば、真夜中以外は大体何らかの音が飛び交っている。派手な音楽だったり、楽器の音だったり。静かだったから外出中だと思い込んでいた遼二は、少し驚いた顔をした。

「姉さん?」

 遼二は扉越しに呼びかけた。

 よく見ると扉が少し開いている。

 雨音に混じり、何かを引きずる音が聞こえてきた。

 本能か、何か危険なものを感じ、寒気が遼二の身体に広がる。

 姉の部屋の扉が開いた。

 薄暗い中に、姉では無い別の人影が立っている。

 醜悪であった。

 目を大きく開き、牙を剥き出し、引き裂いた“人間だったもの”を引きずりながら、低い声で唸っていた。

 人の形はしていたが、完全に化け物だと感じた。

 数年経った今でも、遼二の記憶には、鮮明にその姿が焼き付いている。

 生臭い血の臭いが発せられてきた。

 引きずられた“人間だったもの”がこちらを見ている。

 よく知った顔だ。

 数時間前まで笑っていた、血の繋がった女性。4つ年の離れた姉。

 遼二の姿を暫く見た後、化け物は近付いてきた。

 今までの人生の中で出会ったことも無いような恐ろしい状況だった。遼二はそれを見て腰を抜かしてしまった。

 何を考えているのだろうか、ギラギラとした目が部屋の前で、視線を遼二に向けている。物色でもしているようだ。

 引き裂かれた姉の死体が、ゴミくずのように放り捨てられる。化け物が一歩踏み出した。遼二は一瞬死を予感しかかる。その時、低い破裂音のような音が鳴り響き、化け物の頭が、スイカをハンマーで力いっぱい殴ったようにのように弾け飛び、人間の血の色と同じ脳髄が散った。

 それとほぼ時を同じくして駆け込んでくる数人の男、その中に里見の生真面目そうな顔があった。

 里見は遼二に気が付くと、足早に近付いてきて顔を覗き込んできた。

「大丈夫か?」

 たった一言だけだった。だが、自分が助かった実感があった。

 腰を抜かしたものの、その程度には冷静だった。パニックにすらならない。姉に対して申し訳無く感じられ、それが原因で悲しくなり涙が出てきた。

 首の飛んだ化け物の身体が痙攣しているのが見える。死んだ姉の光を失った瞳が自分を見つめている。遼二の記憶にはそこまでが確りと残っていたが、ここからは鮮明さは失われて断片化していった。

 死体袋に包まれた2つが運ばれるところ。なぜか事情を理解している刑事との会話。駆け付けた両親の泣き崩れる様。その後は思い出せない。気が付くと酒浸りの毎日を過ごしていた。

 ハンターになる為に教会の門を叩いたのは、この半年後になる。理由は本人にも分からなかった。


「大丈夫か?」

 里見の血走った目が覗き込んでいた。表情はあの時と変わらない。

「ああ、少し昔を思い出していた。大丈夫だ」

 酒のビンを床に置くと、煙草をくわえて火をつけ、深く吸った。

 口の中に、辛味の混じった甘さに似たような風味が拡がり、喉を刺激しながら肺臓に染み渡っていく。少し留め、上に向けて吹き出した。白い煙が空間に薄っすらと広がり、室内の空気に臭いを残して消えた。

「山県、止めてくれ。犬の鼻がききづらくなる」

 心底嫌そうな顔をしながら、浅野が煙から遠ざかる。そもそも嫌いなのだろう。見える一番遠くに座ったが、またすぐに立ち上がり部屋を出た。

 遼二はそれを見て笑顔を覗かせた。普段から冗談の少ない男だから、珍しいことであった。

 最初の一息は、多少浅野に遠慮していたのだろう。遼二はくわえたタバコを大きく吸った。先端の数ミリが灰になる。大きく吐き出した後、視線を里見に戻した。

 笑顔はもう消えている。

「里見。今回の標的は何かが違う。いつものような禍々しい雰囲気がなかった。過去にそんな奴はいたか?」

「・・・いないと思うが。今回の標的を見ていないから何とも言えないが、皆一緒だろう。追い詰めれば正体を見せるものだ。・・・経験上な」

 遼二は、ハンターとなってから多くの吸血鬼を殺してきた。大概殺してきた吸血鬼は皆何らかの闇を持っていたものだが、今回の標的は違う。暗いものが全く感じられなかった。

 美しく、強く、そして慈悲のようなものがあった。

 あの時浴びた殺気は紛れもなく人外のものだったが、内に秘めたものは人のそれである。それを直感した。遼二の感覚はそういったものをよく当てる。

 だから、経験豊富な里見の言うことに間違いはないと信じてはいたが、やはりどこか引っ掛かった。

 もしまた会う機会があれば、次は言葉を交わしてみよう。遼二はそう心に決めた。

 だが、増員の事を考えるとそれも難しいだろうと思われるが。

「・・・里見。今回の作戦、俺達はお役御免か?」

 と聞きながら、壁に掛けてある時計の方を見る。時刻は午前2時半を指している。

「だろうな。増員されるのは本部の連中になるだろうから、我々の出番はなくなるだろう。・・・正式な通達があるまでは待機になると思うが、今日中に結果が分かるだろう」

 遼二は言葉もなく頷くと、手近な酒の空ビンでタバコの火を消し、横になって目を閉じた。

「連絡が来たら起こしてくれ」

 と言うと、数秒後には寝息を立てる。隣の部屋からは浅野のイビキも聞こえてきた。里見は、何も言わずにライフルの手入れに戻る。

 三人のミッションは、ここで一旦の終わりを告げた。



top