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男は整っている黒髪を掻き毟った。
部屋の隅に設置されている液晶テレビからは、季節外れの台風上陸をキャスターが報じている。
男は指の間から、恨めしそうにテレビを睨みつけると、力なく目を伏せた。
数日前、男は行きつけのカフェで、ノートパソコンを開き書類を制作していた。最中、トイレに立って用をたしていると、一抹の不安が脳裏を過ぎった。
「・・・まぁ大丈夫だろ。日本だし」
男は自分に言い聞かせながらも、手に少しだけ水を付けると急いで席に戻った。
店内の喧騒は遠くなり、男の世界が歪んだ。
「嘘だろ・・・」
男は何をするべきかプライオリティが定まらず、吐き気をもよおした。
テーブルに置いていたはずのノートパソコンが盗まれていたからだった。
「出世は絶望的だな。データを無くしたなんて報告したら・・・」
男はゆっくりと立ち上がるとベランダに向かう。
「はぁ。俺が負け組みとは。夢にも思わなかったな・・・ヨイショッと」
男は妙に達観した自分を笑うと、吊るしておいたロープに首を通した。
ガタンッ
※
「由香ちゃん。ゴメンね」
帰り道、母親は娘を必死に励ましていた。
「明日の運動会、プリキュアのお弁当箱がよかったなぁ・・・」
今日、母親と娘は人気キャラクターの弁当箱を買いに出かけた。しかし、限定二百個というレアアイテムが故に、ライバルも多かった。ひと際にぎわう催事場の一角、人ごみの中から出てきた二人は、残念そうに肩を落としていた。
「お弁当箱は残念だったけど、ママ特製ハンバーグ入れてあげるから。ねっ」
「ほんと!?じゃあ由香頑張る」
「明日晴れるといいね」
「大丈夫だよ。だってほら見て」
娘は道路の向こう側に建っている、マンションを指差した。
「おかあさんあれみて。ほらっほらっ」
娘が指し示す先には、ベランダと大きな窓、そして・・・。
母親は息を飲んだ。
震えた手でハンドバックの中の携帯を探す。しかし携帯は見つからない。瞬間、脳裏にデパートでの記憶が蘇った。あの人ごみの中で、落としてしまったようだ。
急いで少女を抱きかかえると、母親は駆け出した。
「ママ!?どうしたの?ほらっあれ」
大きなてるてる坊主だよ。
※
男は鏡の前で、茶色の短い髪を整えていた。ポケットには二時間後に出発する、飛行機のチケットが入っている。
男は携帯で時間をチェックすると、大きなボストンバックを担ぎ玄関に向かった。
「そろそろ出ないと電車の時間に間に合わないな・・・」
今日、男は三年間付き合った彼女と、駆け落ちをする約束をしていた。正直、男は駆け落ちに反対だった。しかしデザイナーとして、未だ芽が出ない自分に自信が持てず、彼女からの提案を受けてしまったのだった。
ドンドンドン!!
木製のドアが壊れるかと思うほどの、強い打音が室内に響く。
男の筋肉は上方向に硬直し、跳ね上がった。
「なっなんだ!?」
「すみませんっ!」
ドア越しに、女性の悲痛ながらも怒り気味の声が聞こえた。
男は恐る恐る、玄関の扉を開ける。
「あっよかった!あの、電話を貸してもらえませんか?」
「すみません。急いでいますので、隣の人に借りてもらえないですかね?」
部屋の鍵を閉めて出かけようとする男の腕を、女性は必死で掴んで引き戻した。
「緊急事態なんです!お願いします!」
女性の鬼気迫る態度に圧倒され、渋々と男は携帯を渡す。女性は抱えていた少女を下ろすと、慎重にボタンを押し、電話を耳に当てた。
「(これは間に合わないな・・・まぁ分かってくれるだろう)」
男が小さなため息を漏らすその隣で、女性は声を荒げ、叫ぶように言った。
「マンションで、男の人が首吊り自殺をしてるんですっ!」
※
交番勤務の初老の警官に警察署から連絡が入った。
「ええ。はい。今から向かいます」
警官は壁に張られている、指名手配の写真をぼんやりと眺めながら、気の抜けた返事をした。白髪交じりの薄くなった髪の毛を掻き揚げ、制帽をかぶり直し、自転車にまたがる。
台風が近づいているせいか、少し風が強く吹いている。男は帽子が飛ばないように手を当て、ゆっくりとペダルを漕いだ。
「自殺か・・・」
警官はそう呟き、目を細める。
歳は四十代後半。未だ巡査部長である警官は、妻には愛想をつかされ、一人娘には情けない父親だと疎まれている。
淡々と職務質問と自転車の盗難を取り締まる日々。それは交番勤務の警察官にとって当たり前のことではあったが、娘の理想からは程遠かったようだ。父親の威厳は皆無だった。
警官が冗長な回想をしながら走っていると、交差点の角から突然男が飛び出してきた。
キキキッー!!
油の切れたブレーキが、甲高い声を上げる。同時に鈍い音がして、男は道路に倒れた。
「大丈夫かッ?」
警官が慌てて駆け寄ると、男は小さく「うぅ」と唸った。足を捻挫したようだ。男の持っていた鞄からは、衝撃で荷物が飛び出していた。ノートパソコン、財布が五つ、通帳が数枚。そのどれもが違う名義になっており、警官ははっとした。
「あっお前は!?」
警官は男の腕を掴み、しばらく考え込む。
「ええーと・・・確か・・・。そうだ!手配写真で見たぞ」
無線で連絡を入れると、すぐに同僚が駆けつけた。
「凄いじゃないですか。コイツ強盗殺人の容疑者ですよ」
警官は喜ぶ素振りも見せず、倒れた自転車を起こした。
「忘れてたけど、現場へ向かっている途中だったんだ。じゃあここは頼んだよ」
そう言い残し、警官はその場を後にした。
※
男はうっすらと目を開いた。そこは男が想像する天国とは大分違っていた。見慣れた自室の天井と、神様と呼ぶには程遠い、くたびれた白髪交じりの警官の顔。男は自殺に失敗した事を悟った。
「おぉ、気が付いたか。よかったよかった」
のん気に笑っている警官の手に、男はある物を発見する。落下の衝撃で痺れている右手を伸ばし、それに触れた。
見覚えのあるフォルムと、裏面に貼られた会社のロゴ入りシールに、男は確信した。
「こ、このノートパソコンは、どこで?」
「あっこれはさっきの事件の・・・しまった置いてくるのを忘れてた」
「これ、僕のです!!」
男は目を見開き、目の前にいる初老の警官に抱きついた。
「あぁ、貴方は神様だ!!」
※
「うん。うん。分かった。そういうことならしょうがないね」
ぶつけ所の無い怒りを込めて、携帯をベッドの枕に投げつける。
彼女は今まさに、駆け落ちをするべく、部屋を出ようとしていたのだった。
計画は以前からしていた。
彼女の母は専業主婦で、一度も働きに出た事はなかった。その反動か、出世しない父に愛想をつかし、たびたび愚痴を口にしていた。
彼女はそんな母のことも軽蔑していたが、何よりそんな事を言われながら、のんべんだらりと過ごす父が大嫌いだったのだ。
「良子!大ニュースよ!」
突然開いたドアから、電話を片手に、興奮した母が飛び込んできた。
「何?ちょっと、勝手に入ってこないでよ」
「お父さんが、強盗殺人の犯人を捕まえたんだって!」
「え、お父さん・・・怪我、してないよね?」
彼女は、自分の発した言葉に驚いた。
『強盗殺人』という物騒な単語を聞き、とっさに思い浮かんだのは父の身の安全だったからだ。
「大丈夫よ。呑気に電話なんてして来てるんだから」
母はそう言うと、「今晩はお祝いね」と部屋から出て行った。
「お父さん・・・やるじゃん」
彼女は、持って行くはずだったボストンバックを開くと、荷物を元あった場所に片付け始めた。
※
「大丈夫。生きていましたよ」
警察官の言葉に、母親はほっと胸をなでおろした。
「じゃあ、携帯取りにいこっか」
「うんっ」
母親と娘は、再びデパートへ、もと来た道を戻り始める。
催事場へ続くアーケードを抜け、大きなガラス張りの自動ドアを二人がくぐった瞬間、
カランカランと鐘が鳴らされた。
「おめでとうございます。あなた方は、当店の来場者一万人目のお客様です」
二人は驚き、無言で見つめ合った。
「これは、当店からのプレゼントでございます」
そう言って手渡されたのは、限定二百個のレアアイテム、人気のキャラクターの弁当箱だった。
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テレビから、キャスターの声が流れる。
『上陸予定だった台風九号は、海上へと反れました。
明日は全国的に快晴となるでしょう』