短編集

著 : 天野 光一

タバコやめて~


 夕暮れ。デパートの駐輪所で、帰り仕度をしている男がいた。自転車カゴの中には、値引きシールが貼ってある弁当と惣菜。そして汗をかいた発泡酒が、ビニール袋に一緒くたに入れられている。


 男は財布の小銭入れから鍵を取り出し差し込むと、自転車のスタンドをあげた。錆びた金属が軋むような音を立てる。サドルに跨り、身体を反らせ骨を鳴らす。


 男の歳は三十前後の壮年。しかし未だデパートの青果でのアルバイト。その為か、何処か卑屈そうでぱっとしていない。


 男はタバコに火をつけ、煙を深く吸い込む。そんな男を見て、通行人は迷惑そうな目を向けた。男は視線に気がつくと、ぼんやりと目を上に向け、笑みを浮かべた。歯は黄色い。男はフィルター部分を軽く噛み、ペダルを漕ぎ出す。大通りを少し走り路地に入っていった。


 路地は住宅街で、アパートや一軒家が立ち並んでいる。人はあまり見当たらない。男にとって、この時間にふかすタバコは、唯一の解放時間であった。男は自転車のスピードと同様に、ゆっくりと煙を味わう。そしてタバコの残りが二、三服程度になったことに気がつくと、視線を道路の先に移した。


 向こう側から、一台の自転車が近づいてくるのが見えた。乗っていたのはサンバイザーをかぶり、マスクをした女性。男は女性を確認すると、奥歯を擦り合わせる。女性のほうも男に気が付いたのか、サンバイザーのつばを片手で掴み、少し下げた。


 この女性と男は、今の時間に、この場所で必ずすれ違う。男はずっと、女性の存在など気にしていなかったが、一週間ほど前から嫌でも気に掛かるようになってしまっていた。男と女性がすれ違う。


「タバコやめて~」


 男を注意したその声は、何処か余所余所しい。まるで男に対しての不満が、偶々漏れてしまったような言い方。サンバイザーの女性は、視線を男には向けず、正面を見たままだった。


「タバコやめて~」


 再度後方から発せられた注意に、男は怒り、ハンドルに平手を叩きつけた。男は振り返りサンバイザーの女性を睨みつけるが、男のことなど見えていないように、女性は走り去った。毅然としないその態度と言い草が男は気に食わなかった。特にすれ違う一瞬で、一方的に鬱憤を晴らされていると考えると、寝る瞬間まで苛立ちが収まらなかった。


 次の日。男は時間通りに駐輪所を出た。口にはタバコが銜えられている。そして昨日と同じ時間、同じ場所でサンバイザーの女性を確認した。そしてすれ違う少し手前で、男は先手を取るように大声を上げた。


「うるせぇんだよ!!ババァ!!」


 サンバイザーの女性は大声に驚くと、慌ててハンドルをきった。バランスを崩す。そして斜めに転倒しながら、男とすれ違った。路地に衝撃音が響く。男は満足感と共にそのまま走り去ろうとした。しかし、後方から思いもよらない声が聞こえた。


「タバコやめて~」


 男は自転車のブレーキを慌てて握った。まさかと思われる声。全身に鳥肌が走る。男は恐る恐る首を回した。


 サンバイザーの女性は、地面と自転車に挟まれ倒れていた。首は地面に対して垂直に近いほど折れ曲がり、公共の花壇のブロックに横から押さえつけられている。運悪く、転んだ時に側頭部をぶつけ、そのままずり落ちたようだ。男は女性を見て絶句した。しかし、それは女性の怪我に対してではなかった。その、人間として不可解な動きにたいしてだった。


 女性の両手は、車のワイパーのように規則正しくブンブンと左右に振り動き、二本の足は針金の如くピンッと、突っ張っている。身体は痙攣し、圧し掛かっている自転車はガタガタと振動していた。マスクが外れた女性の口元は声を発せず、魚のようにパクパク開閉を繰り返す。通常の人ではない異常な動き。男は口がにやけたように開き、唇の両端が震えながら釣り上がった。


「フッフフフッはっはっフフフフッ!!」


 男は必死で自分の口を手で塞ぎ、呼吸を落ち着かせようとする。しかし自分で発しているはずの笑い声は収まらない。男は視線を女性から外そうとしたが、恐怖のあまり身体が動かなかった。そして次の瞬間、女性の目玉が男を捉えた


 首は折れているのか微動だもしていない。男は息を飲み、上体を反転させる。そしてペダルを漕ごうとした。しかし震えた足がペダルを空転させてしまい、中々捉える事が出来ない。ペダルの位置と女性を交互に確認する。女は未だ両手をバタつかせながら、男を見ていた。やっとのことで、ペダルに足を乗せると、男は逃げ帰った。


 その後、男はアパートの二階で、階段の足音がする度、毛布に包まり足音に集中する。結局、男は一睡も出来ないまま朝を迎えた。


 男は恐る恐るバイト先に向かった。勿論、途中で昨日の現場を通ったが、特に変わりは無い。男は安堵のため息を吐く。しかし帰り道。男は怯えていた。口にはタバコが銜えられている。まるでそれは、昨日を否定する、いわばお守りのようにみえる。


 いつもの帰路。男の視線は普段と違い、道の奥の奥に集中する。しかしサンバイザーの女性の姿は確認できない。男は震える手で煙をふかして見せる。何かをおびき出すような、何かを確かめるように。その時だった。


「タバコやめて~」


 昨日と全く同じ、場所、時間、そして声が路地に響き渡る。男は急ブレーキをかけた。辺りを見回すが、サンバイザーの女性は見当たらない。


「タバコやめて~」


 男の脳裏に、昨日の女性の姿が鮮明に写る。


「タバコやめて~」


 男はタバコを手の平に押し付け消すと、吸殻をポケットに入れた。


「ひっひっすいませんスイマセンでした!!」


 路地に面した、一軒家の二階のカーテンが揺れる。カーテンの隙間から、一人の女性が、自転車を必死で漕ぐ、男の姿を眺めていた。

「これでもう、ポイ捨てはしないかしら・・・」

 手にはポータブルプレイヤーが握られている。



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