2012-2057(45年の空白)
2057(現在)
頭が痛い。
細く伸びる光がまぶたにかかって眩しい。
朝焼けだか夕焼けだかわからない。
この窓はどの方角を向いて立て付けられていたっけ。
ひどく気だるく薄暗い部屋の遮光カーテンを潜り抜けた光が四角に縁取られる。知らず知らずのうちにまるごと一日睡眠に費やしてしまった後のような倦怠感が纏わりつく。
頭が働かずベッドから無意識にサイドボードの上に手を伸ばし、テーブルの上を探すが、ミネラルウォーターの瓶は見つからなかった。
張り付く喉を抑えてユウサクは上半身を起こした。
その人は、色褪せたラグの上に置いた革張りのソファの上で息を潜めてユウサクを見つめていた。
「…だれ?」
「わしは、トーマス。奇跡を起したのはお前で16人目じゃ」
初めてみる老人は一言一言丁寧に紡ぎだすが、息を詰めていたせいで喋る水分を全て飲み下してしまったかのようだった。
しゃがれていて、決して聴き心地の良い声ではなかったが、どこか安心できる声だった。
奇跡を起したのは16人目?
宝くじが当選した人数か?
寝ぼけていたせいで拡散していた思考が澄み渡る。
ここはどこだ。そう、俺の部屋。こいつはだれだ。いや、知らない。
「おはようユウ、いや、もうすぐこんばんはかな?」
「なんで俺の部屋にいるんだ、今すぐ出てってくれ。さもないと――」
「まあ落ち着け。危害を加えはせん、こんな老いぼれにそんなことはできるはずもなかろうて」
カカカと楽しそうに大きく笑った老人は綺麗に剃られた顎を撫で付けて、真ん丸いハシバミ色の目でユウサクをじっと見つめる。
確かに杖をついた体は引き金を引くのですら命を削りそうだ。張り詰めた嬉しさ、この世の幸福すべてをユウサクに分け与えてくれるかのような慈愛に満ちた表情でうんうんと頷いたあと。抑えきれないかのようにしゃがれた声を張り上げた。
そこで初めてこの場にもう一人いることに気づく。
「クリス!水を持っておいで!」
老人の向こう側に見えた赤毛を束ねた女はマリアにそっくりだった。思わず声を上げた。
「マリア?お前、マリーだろ?お前結婚式…」
「違うわ」
凛とした声で彼女は否定した。
白いシャツに黒のパンツ、シャツの中に仕舞い込んでいるチェーンがシャツの間から見え隠れしている。彼女はいつだってモノトーンの服が多かった。間違えるわけない、彼女がマリアでない筈がない。汚れたマグを手渡し、目を見つめる。
違うわ。
彼女はまた否定した。
「マリアは私の祖母の名前よ、ユウサク」
「………え?」
それにしても似すぎだ。
ドッペルゲンガーか。
世の中には似た人間が3人はいると言うが、まさかここまで似ている人間がいるとは。
逃避を始めていたユウサクの頭に老人が手を伸ばす。ぎょっと驚いて首をすくめる。
触れることを躊躇った老人の左手は宙をさまよい杖の上に再び戻った。
乾いた老人の目にぎらりと宿った意思が垣間見える。自分の生唾を飲む音がやたらと大きく響いて聞こえた。
「ユウ、落ち着いて聴いてくれ」
* * *
2012年(-45)
ロサンゼルス リトル東京
「あまりいいお母さんさんになれなかったらごめんね」
幸せは重いものだ。
マリアは抱き上げた赤子にキスを落とし、式中貸し出されている白を基調にした華やかなデザインのベビーカーに赤子を乗せた。5年前には思い浮かびもしなかった、家族を作ること。幸せの3キロの重みをマリアは1ヶ月前知ったばかりである。
緑色の目をそっと伏せ、これから訪れるであろう未来を噛みしめた。
「ああ、マリー。僕たちはもう家族だ」
「ふふ。そう、ね」
「問題はひとつひとつ時間をかけて解決していこう」
「ありがとう、ダーリン。お色直しまで時間がかかるからもう少し待っていてね。ミルクをあげたばかりだから、ジェニーもしばらく寝ているわ」
「オーケィ、待っているよ」
夜鳴きで時に疲れるけれど疲労も二人で背負っていけばいい。
これまでのようにこれからも。
疲労でうとうとしている男にすっかり熟睡してしまっているジェニーを託し、マリアは部屋を後にした。
「愛してるわ、トム」
愛の言葉はなんて心地よいのだろう。
トーマスは細めた青色の瞳でふにゃりと微笑み、まぶたをそっと閉じた。
*
皮肉にも結婚式当日だった。
孤児のトーマス・ガルシアと両親に見放されているマリア・ルイスは、大事な友だけを呼んで小さな結婚式を挙げるはずだった。
始まる前に終わったあの日。
“眠り”の拡散さえなければ、一日でも式の日程をずらしていれば、お色直しに行く彼女を引き止めていたら、居眠りしなければ。
その時、ロサンゼルスは眠りについた。
窓を開けっぱなしにしていたお色直し室とメイン会場にいた、マリアもユウサクもアンリもダニーも、みんな眠ってしまった。
親愛なる大切な人達は忙しいスケジュールを更に詰めてようやくここに集まってくれていた。リトル東京にユウサクの両親のタムラ夫妻が営む本屋があったのは不幸中の幸いだったが、ロサンゼルスは隔離され、更に細かく地区ごとに区切られた。
移住地域がスキッド・ロウでなくて良かった。ホームレスとジャンキーがあふれかえるところと区分された事も不幸中の幸い。
「マリー、起きてよ…ユウ…なんで……」
トーマスは両手で横たわるマリアの白い手を握り締める。
掴んだ掌はひどく冷たく、眠った体は忘れたころに小さく脈打つ。政府から一人ひとつずつ配布された点滴もゆっくり下へ落ちている。隣に眠ったユウサク、その隣のダニー、マリアを挟んでユウサクの反対側に眠るアンリ。
薄暗い部屋に付けっぱなしのテレビはどのチャンネルのキャスターも同じことばかり繰り返している。当初未知のウイルスだと思われていたものの全容がつい最近明らかになったからだ。
ロサンゼルス数十箇所で拡散された『長期睡眠薬』。
持ち運び用のスプリンクラーを吹き付けられた人々は眠りについた。
この薬は、初期症状はレム睡眠と一緒で衝撃を与えれば起こすことができる、稀にそんな初期症状の成功例もいたらしい。
しかしこの『長期睡眠薬』は第二段階に入ってから本領を発揮する。
第二段階に入った人々は深いノンレム睡眠状態になり、ちょっとやそっとのことじゃ起きない。しかもそれは日を置く毎に深く深く眠りにつく。
メディアで発表されたのは初日から二週間。ほぼ全ての眠り人が第二段階に入ってからであった。眠り人は判明しているだけでもおよそロサンゼルス人口の8割。
今やロサンゼルスはアメリカの中にある別の国家だ。
眠り病の死者は既にロサンゼルス市民の3割を超えた。
この数字は起こし方に失敗した数だった。
眠り人のベッドや点滴、これだけの人数になると対応が追い付かない。
長期睡眠薬の拡散から未だ感染する恐れがないと断定できないと発表した国は、ロサンゼルスを隔離した。
第二段階に入った人間で、起きることに成功した人間のことは風の噂ですら聞かない。この閉鎖的な空間で“失敗”の言葉以外聞かないということは、そういうことなのだろう。
第二段階で起きることに失敗した人間は、悲惨に死ぬ。
はすむかいのコーヒーショップ前のパラソルの下に横たえられた男の末路。
トーマスは忘れ去りたい記憶を彷彿させた。
思わず目を背けてしまうほど、ひどいありさまだった。大きくクマを作った女性が横たわる男の傍らにひざまずき、手を握りながらヒステリックに叫んでいる。
「っ…ぐえ゛、あが」
「大丈夫、大丈夫よ。きっと起きるわ!神様!」
「あ゛ぁ゛、」
悪夢を見ているかのように嗄れた声でうわ言を呟く。
充血した目を見開いて延々と涙を流し、涎や下を垂れ流して脱水症状を起し死んでいくのだ。起き上がってくれるならどんな症状だってトーマスは起しただろう。
しかし、目の前でそのままあの男は――。
ロスは各機能を停止しながらも有効な治療薬を作り出すことに専念している。
もちろん目処は立たず今日もまた死者が増えるだけ。国や権力者や独自機関独自に治療薬を開発しているが、やはりどうにもならないらしい。
「ジェニー」
彼女らよりずっと短く眠る娘の柔らかな頬に指を滑らす。
「早くお母さんにおかえりって言おうね」
眠る娘の小さな瞼がぴくぴく動いている。
それに泣けるほど安心した。
この子は僕が守らないと。
*
それから数日後のことだった、政府が治療薬の開発に成功したと発表したのは。
「間に合った。間に合ったんだ!」
「これでユウサクも起きるのよ!あなた!」
「ああ、神様…」
僕らの大声で寝ていたジェニーが起きてしまったようで泣き声が止まない。
でもそれどころじゃなかった。テレビから弾んだキャスターの声が響く。久しぶりにカラーテレビのRGBを認識できた気さえする。
僕は泣いた。
タムラ夫妻は歓喜してユウサクを抱擁したいのを押さえ込むように手を取り合って、ユウサク達を見つめている。まだ配布すらされていないのに。
大丈夫、無理に起こさなければ失敗して死ぬことはない。
最近電波の調子が悪くてこのチャンネルしか映らないから嫌になるくらいこのキャスターの顔を見ていた。あるときは憎しみでこのテレビを蜂の巣にしたくなったりもした。
キャスターは落ち着いたテノールで繰り返す。
「政府は治療薬を無料で配布すると公表しました。ようやくロサンゼルスは魔の眠りから開放されるのです!現在薬は生産が追い付かない為、政府は地域毎に治療薬を配布することを――」
みんな、助かるんだ。
いてもたってもいられず、タムラ夫妻を残しばたばたと騒がしく街へ走り出した。
*
「一人ずつ確実に起こそう」
僕と夫妻は運良く最初の方の指定地域にあった。
僕らにはすぐさま薬が届けられた。
点滴パックに直接注射する治療薬を早速開封する。
落ち着け、ゆっくりでいい、失敗しないように。彼女が起きますように。
祈るようにマリアの点滴パックの下へ注射針を押し込んで薬を注入した。
*
「マリー。早く起きてよ。マリー。ジェニーにおっぱいをあげておくれよ」
白い顔は更に青白く。腕の中の眠り人はいつの間にか鼓動を止めていた。
* * *
2057(現在)
「…一般に配布された例の薬は治療薬なんかではなく安楽死用の毒薬じゃった。あまりにも多い感染者に政府は、ロサンゼルスを捨てた。薬を拡散したと報道されとる国との戦争がおっぱじまったんじゃよ」
「………もういい」
「少数になればなるだけわしらに勝ち目はなく、人数分の生産を不可能と判断、眠り人を切り捨て、眠らぬ人間だけなら移住エリアの移動が可能になったと。ただし二度とロスに戻ることは許されぬ。あまりにも早くわかったロサンゼルス市民に隠すことをしなかった極秘事項じゃ」
「…もういいって」
「服毒する前に情報を漏洩しないよう、少しでも多くの眠り人が服毒するように」
「っ、うるせぇ!」
「――だから区分されたエリア外の移動は固く禁じられて、」
「黙れよじじい!もう黙ってくれって言ってるだろう!!」
これだけ叫んでも誰一人現れない。
耳が痛くなる静寂がユウサクの部屋を包む。
よくわからなかった。
キチガイだ。このじじいも、黙って突っ立ってるあの女もみんなキチガイ。
ユウサクはユウサクの部屋に似せた場所まで拉致されたのだ。そう思い立ったら居ても立ってもいられなくなり、ベッドを蹴り飛ばす勢いで立ち上がってサイドボードを開きユウサクは重いナイフを握り閉めた。
「…こんな小細工まで!」
「落ち着けと言ったじゃろう。ああ、それと」
良く見れば見覚えのある面影の老人は小さな幸せを仕方なく諦めたような表情でユウサクを見つめて、謝罪した。
「すまない、そいつの手入れは10年ほど前からしておらんのでな」
藁にもすがる気持ちで縋り付いたナイフは、ユウサクを更に絶望に叩き落す。
ああ、両親はきっともう死んでいる。2年前、父が柄の部分に彫ってくれた“勇作”がやけにくすんでいた。ラグが色褪せているのは夜が近いからではない。
ドッペルゲンガーが不安を滲ませた目でユウサクを見ている。その瞳は、青かった。津波のように押し寄せてくる残酷な真実にどうしようもなくなり真っ白になった頭でかろうじて折りたたまれたナイフを開く。
「刃こぼれ、しているな」
ユウサク自らの親指の先にナイフの先端を押し付けると女がひゅっと息を呑む音が聞こえた。
指を滑らせ、ぐっと自ら刃を食い込ませる。そこまでしてやっとつうと流れる色は当たり前にちゃんと赤く、黄ばんだシーツに零れ落ちた。
「おかえり、ユウ」
言いたくて言いたくて仕方がなかったのだろう。
老人と改めて目を合わせる。
サイドボードの上にナイフを置いて立ち上がり、ユウサクにとっては昨日の45年前に置き去りにしてしまった老人を強く抱きしめた。
彼は最早骨と皮だけになってしまった。
「ただいま――トム」