短編集

著 : 会津 遊一

虫の息


 もうすぐ、俺は死ぬ。

 下水管に閉じこめられた一匹の野良猫のように、干からびて死ぬ。

 水が欲しい、飯が食べたい、何故こんな目にあったのだと、誰かを呪いながら死ぬ。

 それが俺にとっての事実。

 だが、このクソみたいな人生にトドメを刺せる。

 それも俺にとっての事実だった。


 今ならまだ、俺を閉じこめている部屋の壁に、爪痕ぐらい残せるかもしれない。

 しかし、やがてそれすらも出来なくなる。

 打ち棄てられ、腹からスポンジが飛び出している人形のように体が固まってしまう。

 なら、最後ぐらい養豚所で殺される為に列を作っている豚のように悲鳴でもあげてやろうかと思った。

 だが既に口の方が動かないらしい。

 俺をこんな目に合わせた糞餓鬼に、悪態一つも吐けない状況に苛立ちだけが募った。


 ドクンドクンと、血脈が激しく波打つ。

 これが最後の仕事だと言わんばかりに、体を責め立てている。

 俺は苦痛から逃れるため、何か楽しかった過去を思い返そうとした。

 だが朧気な意識の中、頭に浮かぶのは、あの女の事だけだった。


 特に愛を語り合ったこともないし、子を残そうと相談したこともない。

 ただ一夜だけ肉欲に溺れ、彼女を激しく責め立てた事があるだけだ。

 背後から力強く抱きしめ、あの艶やかな肉体に爪を立てた。

 その事だけを、俺の頭と体は覚えているようだった。


 最後に、名すら知らぬ、ゆきずりの女との情事を振り返る。

 それが実に自分らしいと笑いがこみ上げてきた。

 どうやら俺にとって、性欲は血縁よりも濃いようだ。


 腹の底から笑っていると、背脈管がねじ曲がる音がした。

 グリと体中に流れている体液を通じ、鈍い異音が頭に響く。

 俺にはまるで、細く白い命の糸が切れた音のようにも聞こえていた。

 今、目を閉じれば死ぬ予感があった。


 ふと、意外な事に気が付いた。

 それは自らの命が燃え尽きようとしているのに、口から呪う言葉が出ていないことだった。

 俺の最後は、麻布で頭を覆われるも首が切断されるまで暴れ続ける馬のように、命にしがみつくと思っていた。

 どう綺麗事を口にした所で、死ぬ間際にもなれば、死にたくない、と叫ぶと思ってた。


 だが今、胸中に溢れているのは、あの女にお礼が言えないという心残りだけだった。

 ああ、こんな死に方もあるんだな。

 俺はそう思い、瞳を閉じた。



 幼い少年が、台所で洗い物をしていた母親に声をかけた。

「ママー、虫かごのカブトムシが死んじゃってたー。これ、何処に捨てればいいのー?」



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