G.そして第二ステージへ

午前二時一分、1号車スタート。
いよいよ、第2ステージの始まりだ。
1ステと異なり、旗振りスタートのようなセレモニーっぽい雰囲気はない。
時間が近づくと、各クルーは勝手にラインを超えてスタートしていく。
僕らも30秒前にスタートラインを超えた。
後続のクルー2台も、殆ど同時にスタートしてきた。
僕らは仲良し3人組だ。
1ステと同じ方向から、丹波山に向かう。
「お互い、同じミスはしない。…だな!」
妙に真剣な服部の声に、僕も素直にうなずいた。
それぞれのコマ図間の距離を“野良猫”で測ると、1ステのものと比べて数m前後の差が出ている。やはり服部のライン取りにバラつきがあるってことだ。
でも、すぐに直せるものでもないから、言わないことにした。
時間走行の終了地点は、先ほどと同じ。
ノーチェック区間の終了地点でもある。
既に並んでいる車は12台。その後ろに、僕らの3台が続いた。
さっそく車外で前後のクルーたちが集い、ワイワイと話し合った。
議題は無論、これからの展望について。
中継ポイントで関東工科のサービスに行ったときは、本当にただ遊びにいっただけになってしまった。世間話と第一ステージでの失敗談の暴露大会だった。
本来ならライバル関係にあるはずなのに、いつの間にか、なぜか同じ問題を共有している仲間意識が芽生えていた。ビギナー戦のラリーでは、“真の敵”は他の参加者たちではなくて、主催者の仕掛ける“状況”なのかもしれないと思うようになっていた。
「ここのアベ(指示速度)が50(㎞/h)以上なら、私たちは乗れません」
吉山さんが不安そうに呟いた。
柳沢さんも、同じ顔つきで頷いた。
「きっと大丈夫。ビギナー戦だから、ここで50は出さないだろう、ってうちの先輩たちが言ってます。先の、松姫なら、そのぐらいのアベになるかもしれないって話ですけど」
前ゼッケンのドライバー・山内さんが笑った。
「だけど、松姫の50でもキツいよなあ。下りのコーナー出口でCPを仕掛けられたら」
「青梅街道側の上りなら、楽勝なんだけどね」
「とにかく、ヘアピンの直前なら2、3秒、のせて(先行させて)いけばいいんだ。そうすりゃ、出口でちょうどファイナルはゼロになるから」
「松姫の頂上には、ひとつ。確実だよね」
これらは、ご近所だけどゼッケン不明の中年ドライバーやナビたちの台詞。
関東工科のサービステントで仲良くなった連中だ。
みんなの関心は、約3kmの丹波山より、15kmのラリー区間にあるようだ。
コマ図の設定では、15kmの往復で30km。
丹波の往復を入れれば36kmのやや高めの定速走行を求められることになる。
いつ現れるか判らないCPを探しながらの定速走行が、どれほどドライバーの特定の筋肉に負荷をかけるものだということを、ここにいる誰もが知っている。
服部と僕は、どちらかと言えば聞き役に回っていた。
今、この場でみんなが話している内容は、既に四谷先輩の“いいか!いいか!”の連続攻撃で頭に焼き付いていることだ。
でも、話を聞くことは、僕にとっては大事な確認行為だ。
で、服部が無口になったのは、緊張感から。
この二週間の練習の成果を、1ステでは大して出すことが出来なかった。
だからここからは、気合を入れて“一定の速度”で走るつもりなのだ。
ファイナルが5分を切ったころ、僕らは“野良猫”に戻ってヘルメットをかぶった。
前にいる四台のラリー車も、待機中。
1分ごとに、その1台ずつが林道の暗がりに向かって消えていく。
そして1分前。
僕らの前には、もう車はいない。
「多分、アベはあがると思うな」と、僕
「ホントは、50なら歓迎なんだけど」
服部はヘッドライトをハイビームに切り替えた。
そして、ファイナルのカウントダウンに従って“野良猫”は歩き出した。
今の指示速度は、30㎞/h。
1ステと同じ暗がりの風景の中を、同じ速度で上っていく。
630mほど先の右コーナーを抜けると、前方にチェックラインが見えた。
「チェックだ!」
獲物を見つけたハンターの声で服部が叫んだ。
やはり、さっきの位置ではない。だいぶ、手前だ。
「このまま。ファイナル・ゼロで!」
今度は、大丈夫。
僕も服部も落ち着いている。
服部は指示通りにラインを通過。笛の音が同時に響いた。
速やかにチェック車の横につけ、ゼッケンとタイムを申告した。
オフィシャルは無言で頷き、素早い手際でCPカードを差し出した。
「がんばって!」と、最後にひと言。
カードの指示速度を確認した。
「アベ(指示速度)48!」
そう読み上げると、服部は無言でアクセルを踏み込んだ。
ラリコンにアベ48を入力すると、ファイナルは“-16.4”を表示した。
「さっきの走り方で、取り返せると思う。落ち着いていけ!」
「了解!」
服部のコマンドは、チェックが出てくるまでに遅れを取り返すことではない。
出来れば、丹波山の頂上までに取り返すこと。
それが、“いいか!いいか!”からのアドバイスだ。
コーナーも幅員もタイトな下りセクションは、時間調整しながらの定速走行は難しい。
だから、少しでも“ゆとり”を稼ぐなら、上りのうちに限る。
先ほどとは打って変わって、服部の走りは別人のように落ち着いていた。
的確なリズムでステアリングを操作し、みるみるファイナルを削り落としていく。
ジタバタ走りの先ほどよりも、明らかに速い。
こんな走り方が出来るなら、さっきもやれば良かったのにと思った。
逆に言えば、服部はプレッシャーがかかると、ちゃんと走れなくなるということなのだ。
付け焼刃は付け焼刃らしく、使えばいいということなんだろうけど…。
いずれにせよ、頂上を通過したとき、“野良猫”のファイナルは+2.2になっていた。
それを機に、僕はファイナルのカウントを始めた。
コーナーの入り口で2秒先行し、その出口ではゼロにする。
ストレートでまた2秒先行に戻し、再び出口でゼロに。
いいリズムだ。
そう感じていると、1ステより手前のコーナー出口にCPラインが現れた。
直前で気づいて、慌ててCPボタンを押した。
同時に、笛の音が真横で響く。
ファイナルは、0.0!
コンマ1秒台でもオーダー通りにチェックインできたのは初めてだった。
CPカードを受け取ってからそれを服部に言うと、さすがに嬉しそうだった。
「次も、このリズムでいこう」
「了解。ところで、吉山さんたち。このアベ乗れたかな?」
「さあ。たぶん、乗れたんじゃないか。50以上なら無理だって言ってたんだから」
「そうだな。もし乗れなかったら気の毒だけど、…そうなら嬉しいよな」
僕は耳を疑った。
「後ろ、遅れればいい…ってか?」
「うん、そう。秒差の勝負だし。松姫よりもここの方が、差がつくかもしれない」
「…なるほど、確かに」
1ステでの合計減点の差は、後ろとは2点。
前ゼッケンとは、8点だった。
そしてその差がついてしまったのは、このセクションでの失敗からだった。
せめて2ステでは、このセクションで敵を討ちたいと思うのには僕も同意する。
スタートしたときは、完走すればいいと思っていただけだった。
でも1ステの結果を見た後は、せめて順位を少しでも上げたいと思うようになった。
前後の、いや、競い合っている全てのクルーへの仲間意識に変わりはない。
でも。
勝ちたい、というよりは、負けたくない、という思いは、1ステよりもずっと強い。
前後クルーのミスを望みつつも、致命的なトラブルには陥ってほしくないとも思う。
仲間意識と競争意識。
この二つが矛盾することなく同居している今の心理を、僕は不思議に感じている。
コマ図に到着し、“野良猫”を完全停止させてマップ間距離をメモった。
指示書の距離とは約40m、1ステの計測とでは8mの差。
もっとも指示書の距離は10m未満の数値は隠されていて表示されないので、正確には40m以上で49m以下の間の数字になるんだけど。
走り方で、ずいぶん差が出るものだと痛感する。
同時に、前のCPで1秒ほどの減点になったと予想した。
「さあ、ここからだ。ちょっと、ややこしくなるよ」
僕はPCボタンを押してこの地点の予定通過時刻をラリコンに記録した。
カーソルをトリップコマンドにあわせ、服部にスタートを指示。
ここから、コマ図をひとつ挟んで3kmごとに指示速度は3㎞/hが加算されていく。
今の指示速度は30㎞/h。
2km先では、33㎞/h。
4km先では、36㎞/hになる。
しばらくは民家が続くから、最低でも6kmはCPが出てこない。
そして、皆が予測する頂上までに手前のCPが出てこなければ、指示速度は50近くまで上がることになるのだ。
こういう設定は、初心者を大いに不安に陥れてくれる。
先へ進むほどに、何か間違いをしているんじゃないかと、僕は疑心暗鬼になっていった。
民家がなくなり、指示速度が42㎞/hになると、緊張は一気に高まった。
服部がヘッドライトをハイビームに切り替えたのはこの時からだ。
“いいか!いいか!”のアドバイスで、コマ図の脇に33㎞/hから48km/hまでの数字と距離を表にして書いておいたことが、とても役に立った。
やっぱ、四谷先輩は偉大なラリーストなのかもしれない。
強いプレッシャーの下で単純な作業を連続して行うということが、いかに神経を使うものかということを、ラリーという競技を通して、今、嫌というくらい思い知らされている。
そう感じているのは僕だけじゃなく、恐らく服部も同様だ。
ヘルメットをはずす余裕はないから、かぶったまま。
指示速度が上がるたびに、ステアリングとアクセル操作にはお得意のジタバタ現象が発生する。そして、2~300mも走らないと安定感は戻ってこない。
やがて指示速度が48㎞/hになる。
「おい。次は50を超えるぞ!」
服部の声に不安の焦りが滲む。
僕のミスを疑うつもりは全くない、と言えば嘘になるだろう。
実際、僕自身も何かの間違いじゃないかとも思った。
自分で自分が信じられないのだ。
これまでは、ビギナー戦では50以上の指示速度は出さないといわれてきた。
もしかしたら、今年からは方針が変わったのかも。
頂上にCPを置かず、そのまま下らせて指示速度を51から54へ、さらに57㎞/時まで上げてくるのかもしれない。
指示速度48㎞/hでは、2kmの距離など1分ちょっとでやってくる。
50㎞/時を超えたら、その可能性は高い。
そしてこの国道の法定制限速度は、60㎞/hだ。
「一応、覚悟しろ!頂上の先まで、ハイアベ(高速指示速度)で引っ張るかもしれない」
僕の言葉に、服部は反射的にアクセルを踏み込んだ。
当然の反応だった。
だが、2kmのポイントにたどり着く直後。
コーナー出口の影から笛の音が響いた。
えっ!と思いながらも、CPボタンを押す。
通り過ぎ様に振り返ると、そこにCPのラインマンが笛を加えて立っていた。
ファイナルは、“+3.5秒”を示している。
「しまった…」と、僕。
しかし服部は、すぐにCP車両の横に“野良猫”を寄せた。
そうだった!
次のセクションの勝負は既に始まっているのだ。
同じミスはしない、と宣言した服部が頼もしい。
ゼッケンを口にする間もなく、オフィシャルが素早くCPカードを差し出した。
「対向車に気をつけて!がんばって!」
CPカードを受け取ると、そこに書かれている指示速度は“50㎞/h”!
CP処理で背負ったファイナルは“-12.5秒”。
「アベ50!14秒遅れ!全開!」
全開!
無意識でそう口にした自分の言葉が、耳の中に残響している。
それは魔法の呪文のように僕の意思を、何か別のところへ引き上げた。
助手席に乗っているナビゲーターの僕は、“野良猫”の目になり、手足になった。
闇を見据え、アスファルトに爪を立てて、全力で駆け上がろうとする自分がここにいる。
服部の運転技術は関係ない。
一部の役割を担いつつも、全部。
その瞬間の僕は確かに、“野良猫”そのものになっていた。
青梅街道側の松姫峠の上り。
幅員は十分に広く、コーナーの角度も一定で走りやすい。
ここには前に来たこともあり、服部ならアベ50㎞/hでも無理なく走れる筈。
服部は期待通りに、背負った“遅れ秒”を取り返していった。
やがてCPから1kmを通過するころには、ファイナルはゼロに近づいた。
「よし!ファイナル・ゼロで定速走行だ」
「了解!」
前方は100m以上の直線。
力強いアクセルの踏み込み。
強烈な加速とともに、ファイナルは間もなくプラスに転じた。
さらに、どんどん先行していく。
しばらく様子を見ていたが、“+5.5”を過ぎると黙っている訳にはいかなくなった。
「速過ぎる!落とせ!」
服部も直ぐに反応し、アクセルを緩める。
たまたま次のコーナーに接近しており、そのまま減速しながら進入した。
結果、上り坂だったこともあって、コーナー出口で失速。
いつの間にか、ファイナルはマイナスに転じている。
しかし幸い、CPの看板はない。
僕が指摘する間もなく、“野良猫”は加速した。
ファイナルは再び、プラスへと。
以後、ファイナルはプラス・マイナス3秒の間で、行ったり来たりを繰り返した。
先ほどのジタバタ走りよりはだいぶマシだけど、やはり安定感はない。
やがて道路の幅員は少しずつ狭くなり、コーナーの角度もきつくなってきた。
「チェックだ」
落ち着いた声で服部が呟く。
確かに、前方の直線の彼方にCPの看板が見える。
場所は、“いいか!いいか!”先輩の予想通り、峠の頂上だ。
「ファイナルは、ゼロで。そのまま50のハイアベが続くかもしれない」
「了解」
ファイナルは“0”を中心に、古時計の振り子のように、プラスとマイナスを往復しながら、やがて一点に向かって収束していく。まるで、ゼンマイが切れる寸前のように…。
やがて、CPラインを通過するとホイッスルが響いた。
同時に僕はCPボタンを押した。
“野良猫”は主催者車両の横に急停車した。
ゼッケンの申告と同時に、オフィシャルの腕が素早く突き出された。
指先には当然、CPカード。
「はい。頑張って!」と、僕らに声をかけてくれた。
受け取ったカードに記されている指示速度は、“49km/h”。
「アベ49!全開!」
服部は“野良猫”を急発進させた。
僕は強烈な発進時のGに抗って、ラリコンにアベ49の数値を入力する。
このときのファイナルは“-11.1”。
チェック車からの離脱時間は、本日最短記録だ。
頭上を覆う真っ暗な木々のトンネルの先は、見通しの悪い下り坂。
フルブレーキとフルアクセルを繰り返しながら、“野良猫”は最初の右ヘアピンに突っ込んでいった。一瞬タイヤが、ブレーキロックしてスキール音をあげた。
僕自身も、思い切り両足を突っ張って踏ん張った。
僕は反射的にカーブミラーに目を向ける。
無論、ノープロブレム!
それでも、ふたつ前のCPでオフィシャルが口にしていた「対向車に気をつけて」という言葉が気になった。
イン側に着くためのステアリングの深い切り込みで、ボディがガクンと揺れる。
ひとつのコーナーに、予想以上の高低差がある。
ファイナルを盗み見ると、“-9.6”。
アクセルを踏んでいる割には、あまり“遅れ”を取り返してはいない。
でも。
「一つ目の右ヘアピンから次の左ヘアピンまでの間の400メートルで、無理なく稼げるのよね~」と“いいか!いいか!”が中継のときに言っていた。
恐らく、服部もあのアドバイスを覚えているはず。
実際、次のヘアピンまでに6秒詰めた。
コーナーの入り口でファイナルを見ながら、僕は再びカーブミラーを盗み見た。
またも脳裏に、「対向車に気をつけて」というオフィシャルの声。
何か少し胸焼けにも似ている、妙な感じが気になる。
別に、対向車が来て痛い思いをするという霊感って訳でもなさそうだけど…
ほぼ同時に、“いいか!いいか!”が「左ヘアピンの先からスノーシェッドまでの600メートルが、次の稼ぎどこなのよね~」と脳裏の別のところから囁いている。
左ヘアピンの出口では、少し遅れて“-5.8”。
直ぐにエンジンが咆哮し、側溝脇から伸びる夏草を踏み砕いて加速する。
ただでさえ狭い峠道は、伸び放題の雑草がはみ出ているせいでますます狭く見える。
ましてや、真っ暗闇の夜。その視認性の悪さを打ち消そうと、服部はコーナーの外側からのぞき見るように走行ラインを大きくとっている。
松姫峠に入ってから、ずっと。
やがてスノーシェッドが視界に入ったとき、ファイナルは“0.0”になった。
その勢いのまま、“野良猫”は暗くて狭いスノーシェッドの中を駆け抜けていく。
「よし、乗った!」
そう口にしたとき、また脳裏で声がした。「対向車に気をつけて」と。
「ファイナルはゼロでいいな!?」
オフィシャルの記憶の声に、服部の現実の声が重なった。
その時、僕の頭の中でカチリと小さな音がした。
まるで、ジクソーパズルのキーピースを見つけたように。
たぶん、妙な予感の正体を突き止めることが出来た。…と、思う。
「だめだ、服部!先行だ!」
「えっ!?どういうこと?」
「後で説明する!とにかく、5、6秒ぐらい。出来れば!」
ここから先は、狭くて小さい下りのコーナーが連続する。
カーブミラーは設置されているが、見通しは悪い。
僕は、直ぐにCPが来ないことを祈った。
「わかった!出来るだけ、やってみる!」
服部は気合を入れてアクセルを踏み込んだ。
とたんに、“野良猫”は足をくじいたように走り出した。
早い話が、付け焼刃が落ちた先ほどのギクシャク走りに戻った。
必死なむき出しの感情が、正確な運転操作の足元をすくってしまっている。
前後左右から、デタラメなGが襲いかかってきた。
シロウト目にも、危ないと思ったことが二度ほど。
それでも“野良猫”の底力で、2kmぐらいでファイナルは“+5.0”を超えた。
その直後。
「チェック!」
服部が叫んだ。
アクセルを踏んだまま、計測ラインを通過する。
CPボタンを押したときのファイナルは“+5.4”。
そのまま“野良猫”は、やや離れたところに駐車している主催者車両の横に急いだ。
ゼッケンを申告すると、窓越しにのんびりした声が返ってきた。
「はい、お疲れさま。しばらくは、ゆっくりね」
受け取ったCPカードで次の指示速度を確認した。
「アベ25だって」
「了解」
“野良猫”は、ノソノソとその場を離れた。
計測車両から少し離れたところで止まって、汗まみれのヘルメットを脱いだ。
滴り落ちる顔じゅうの汗を袖でぬぐい、思った以上に緊張していたことを自覚した。
最近は運動不足だったからか、両足と腹筋と背筋が、ささやかに不平を漏らしている。
僕らはペットボトルのお茶を一気に半分ほど飲み干して、再び動き出した。
「いやあ、楽勝かと思ってたけど、けっこうキツいな」
服部が、うなるようにつぶやいた。
「ああ。でもこれで、一番キツい区間は終了だよ。上りこそ、楽勝だな」
「ところで、アレ、どういうことだ?5秒も先行でよかったのか?」
「いやあ、5秒ってのは、カンだったんだけどさ」
“野良猫”は市街地の中をゆっくりと走行中。しばらくはコマ図も出てこないことを確認してから、僕はあのとき思いついたことを説明した。
ヒントは「対向車に気をつけて」だった。
対向車に気をつけるためには、キープレフトの走り方が大切。
そしてビギナー戦での試走車は、キープレフトを原則としている。
思い出してみると、ドライバーズミーティングでも誰かがそんな質問をしていたっけ。
「つまり、おれのライン取りがいけなかったってことか?」
「まあ、そうなんだけど、正確じゃないな。夏の丹波山や松姫じゃあ、道の両側に雑草がすごいだろ。それで先が見えにくいから、無意識に外側から見ようとする。車速が上がれば、なおさらだ。結果、走行ラインは大きくずれる。いや、キープレフトはしてるんだけど、小さく蛇行運転を続けているみたいな状態になっちゃってた。コマ図間距離を測ってたら、市街地やつなぎの区間は、ちゃんと同じ数字になったけど、峠だと大きく出るんだ。つまり、蛇行する分だけ長い距離を走っている。丹波山の峠だと、1キロに対してだいたい12メートルくらい。草の多かった区間は、5キロぐらいだったからね。僕もさっきまで気づかなかったけど、やっとわかったよ。二次補正の意味がさ」
今は、初夏。
雑草の伸びが早い。
でも二週間前は、まだ肌寒さを残す梅雨の時期だった。
ましてや、標高の高い山岳部では、都会の春先程度の気温だったはずだ。
オフィシャル試走車は、まだ雑草の生えそろっていない道を走っていたかも。
それに、ドライバーの技量も関係してくる。
上手いドライバーなら、キープレフトで正確に走っただろう。
やんちゃなドライバーなら、最速ラインをトレースしたかもしれない。
そして意地悪ドライバーなら、デタラメな走行ラインをとる。
ドライバーズミーティングで誰かがしていた無駄のような質問にも、意味があったのだ。
「じゃあ、5秒先行しろってことは、…5かける12で、60メートル。6秒なら、72メートルぐらいの補正が必要だったってことか?」
「うん、たぶんね」
そうこう話しているうちに、ゼッケンをつけている対向車とすれ違った。
ゼッケン1番のインプレッサを筆頭に、次々にすれ違った。
「そろそろ、コマ図。ほら、そこ」
信号もない狭い路地が、指示書のコマ図だ。
ミスコース防止用に、主催者の矢印看板が置かれていた。
その傍らにオフィシャルがひとり立っていて、赤色灯を振っている。
ここで市街地を抜けながら、ぐるりと回って松姫峠を逆走する設定だ。
マップコマンドを払い、距離をメモる。
今回の最長になるマップ間距離の、16.442km。
指示書の距離は“16.36”だから、約80mのズレがあったことになる。
時速49kmは、秒速に換算すると13.61m。
これで80mを割れば、だいたい、5.9秒。
6秒先行なら、正解だったかも…
「なるほど。でも、…アキラ。ちょっと、違うんじゃねえ?」
「えっ!?何が?」
「頂上にチェックがあったよな。その手前にも。前のズレはそこでリセットされるから、頂上から先の距離だけを補正するんじゃねえのか。マップ距離全部じゃなくてさ」
「…あっ、そうか…」
雑草が生い茂っていた区間は、峠の前後。特に下りの区間は、比較的狭くなってることもあって、それほどの蛇行運転にはなっていなかった。
それなら、補正すべき距離はせいぜい、マップ間距離のズレの3分の1。
正解は、2秒先行ぐらいだったのかも…
「ごめん。また間違えた。3、4秒、くらったかもしれない。その理屈なら、その手前のCPでも、2、3秒、やられたかも…」
「いいさ。面白いから、また間違えろよ」
そう言って、服部は笑った。
つられて、僕も笑った。
そのおかげで、さっきの失敗のことがあまり気にならなくなった。
無責任のようだけど、これでいいのかもしれない、と思った。
ラリーは常に、ひとつの終わりから同時に、次のセクションが始まっている。
反省や後悔は、今日の競技が終わってからすればいい。
市街地から少し離れた畑の真ん中で、CPが現れた。
特に何事もなく、対処できた。
やがて市街地から国道に戻り、松姫峠に向かう。
人家が周囲から消え、大きなダムサイドの先までいくと、時間走行区間が終了した。
僕らのスタートまでは、まだ10分程度の余裕がある。
すでに10台ほど止まっている前走車の後ろに停まって、車から降りた。
夜の空気を思い切り吸い込み、ペットボトルの残りのお茶を飲み干した。
服部も同様に深呼吸をしながら、背筋を伸ばしている。
続いて、後ろのクルーも到着し、吉山さんと柳原さんがそろって車から降りてきた。
「やあ、どうでした?」
今度は僕から先に声をかけた。
「まあまあ、かな。…でも、微妙」
吉山さんが、ニコッとしながら首をかしげる。
「丹波山は大丈夫だと思うけど、松姫の下りは捕まっちゃったかもしれません。補正が、裏目に出たみたいで。服部さんたちは、どうですか?」
「うちも、バッチリ、先行!たぶん3、4秒は捕まったけど。コイツの指示だったんだ」
服部が楽しげに笑いながら、僕を指差した。
気分的には笑いたかったけど、僕は我慢して仏頂面で首をかしげた。
「ところで、コマ図距離、多めに出ませんか?」と、柳原さん。
「ええ。16キロで80メートルぐらいズレました」
「私たちも、60メートル長く出ました。コマ図のところに、オフィシャルが立ってたでしょ。あれって、コマ図間距離に問題があること、わかってたんじゃないでしょうか」
つまり柳原さんは、オフィシャル側のコマ図間距離が間違っていると疑っている。
「実はウチも、松姫のコマ図距離がだいぶ違うんで悩んだんだよ」
いつの間にか、前ゼッケンのナビ・河野さんが傍らにいた。
窓越しに、聞き耳をそばだてていたらしい。
「どのくらい、違いました?」と、柳原さん。
「うん。73メートル。逆走のコマ図もだいたい同じ距離だから、キロあたりのズレを均等割りで補正するつもりだけど…。みなさんは、どうするの?」
「わたしたちは、適当に先行で入るつもりです。だって、どの部分のズレかわからないし」
僕はどう答えようか考えている間に、服部が先に口を開いた。
「おれたち、基本的にはオンタイム“ゼロ”で入るつもり」
毅然とした服部のその言葉の意味が理解できるまで、僕は数秒かかった。
「あら、そうなの?」
「僕も初耳で、今のところ、驚いてます」
僕の顔をしげしげと見ながら、柳原さんは不思議そうな顔をしている。
恐らく僕の顔にも、似たような表情が浮かんでいるのだろう。
「そうか、なるほど。じゃあ、オレらはそろそろ時間だから」
河野さんが車に戻った。
それを合図に、直前の井戸端会議はそれでお開きになった。
僕らも“野良猫”に戻った。
「なんか、空が明るくなってきたな」
ヘルメットをかぶりながら服部がつぶやいた。
言われてみれば、山の稜線が白みかけている。
「そうだね。ところで、本気?オンタイムで入るって」
「ああ。さっき、アキラに言われたことが気になってさ。ライン取りのことだぜ。お前の考え方は、基本的に正しい。だから、ファイナル・ゼロでチェックインする代わりに、走り方を変えようと思ったんだ。キープレフトのライン取りで、真っ直ぐ」
「つまり、ラリコン上じゃなくて、走行ラインで補正してみる、ってことだね?」
「まあ、そういうことかな。お前に補正を任せて指示通りのファイナルでチェックインしたほうが、結果は確実だと思うけど。…だめかな?」
僕は、前方に視線を遊ばせている服部の横顔をまじまじと見た。
「いや、OKだ!それで、いこう!キープレフトで、真っ直ぐだ」
この前の練ドラのときに、“いいか!いいか!”の先輩たちが言っていた。
初心者が道なりに走れるようになったら、次はブラインドコーナー先の走行ラインをイメージして走れるようになれ、…って。
服部にとってキープレフトで真っ直ぐ走ることは、イメージラインをトレースすること。
そしてもしそれができるようになれば、ドライバーとしてワンランク、アップする。
もちろん、恐らく、出来ないとは思う。
でも、それに本気で挑もうとすることは無条件に尊い。
実戦での技術学習量は、練習走行のそれの十倍に相当するのだそうだ。
順位を下げてでも技術を磨こうとするコイツの気合には、全面的に協力したい。
top < >