H.イメージライン

以前、何かの本で読んだことがある。
だいぶ前のニュースだが、ゲームセンターのレースゲームで高得点を出した高校生が、無免許運転で暴走して逮捕されたという事件が起きた。
リアルなレースゲームだったから、本物も自信を持って運転できると思ったそうだ。
ゲームと現実の違いもわからないのか、と彼らは大人たちから叱責・嘲笑された。
一方、富士スピードウェイでF1レースが初開催されたとき、プロドライバーたちはTVゲームでその攻略ラインを学習したという。
実際の本戦でも、そのシミュレーションは有効だった。
この高校生とプロドライバーの違いは、ドライブイメージの有無にある。
もっと正確に言えば、ビジュアルシーンでしかドライビングをイメージできない高校生と、五感+αで仮想現実の正確なイメージを構築できるプロドライバーとの違い。
経験豊かなベテランドライバーが目をつぶって集中すれば、彼または彼女の魂は架空のサーキットに命を吹き込む。エンジンの轟音を聞き、理想ラインをトレースし、同時に車両の軸線を自在にコントロールしようとする。操作ミスによるクラッシュさえ想起する。
その本の結論は、重力(G)制御のイメージこそ、ドライビングの本質と記されていた。
“野良猫”が三時五十二分にごそごそと動き出したとき、僕はこの話を思い出した。
そして、嫌な気分で同時に気づいた。
如何に強い決意でがんばろうとしていても、今の服部の運転に関するイメージの構築技術は、プロドライバーよりもあの高校生に近いんじゃないか、と。
「今のアベは?」
服部の声が不吉な物思いを中断した。
「ああ…28。チェックからは50前後になると思う。でも、無理に…」
そう言いかけた直後、前方のコーナーの傍らに人影が見えた。
「チェック!」と服部が叫んだ。
「このまま、ファイナル“ゼロ”で」
コーナーの入り口で2秒のせ、出口でファイナルは“0.4”に。
そのままチェックイン。
CPボタンを押したときのファイナルは“0.3”。
“野良猫”はすかさず、主催者車両の傍らに。
「はい、がんばって!」
差し出されたCPカードの指示速度は“50km/h”。
夜が終わりかけている薄明かりの中。
服部は既に、ハイビーム連動のドライビングライトを点灯させている。
「50だ!」
「了解!」
“野良猫”のエンジンが咆哮した。
左前輪が、側溝脇の雑草を踏みしめる。
助手席にいる僕側は、ゴツい岩肌がずっと先まで続いている。
先のコーナーの入り口では、側溝が口を開けているのが見える。
そのまま側溝に沿って、猛烈な勢いで加速しながら左コーナーに飛び込んだ。
明らかに、速過ぎる。
服部もそれに気づいて、深めにハンドルを切り込んだ。
急ブレーキで前につんのめりながら、耳にしたのは軽いスキール音!
服部はバタバタとハンドルと格闘しながら、何とか暴れる車を立て直した。
気をつけろ!と、声をかける間もなく次のコーナーが迫ってくる。
何を勘違いしているのか、アクセルは緩めようとしない。
同じ間違いを繰り返すように、またバタバタ操作でコーナーに飛び込んだ。
僕はぶつからないことを祈りながら、チェックカードをホルダーにしまった。
すぐにラリコンのグリップに指をかけて、デタラメなGに抗いながらスタート時刻の確認と指示速度の入力を終えた。この瞬間のファイナルは“-12.6”。
恐らく、発進直後と殆ど変わらない。
「何やってんだ!アクセル、踏み過ぎ!」
僕の声が服部の耳に届いたかどうかはわからない。
ようやく車の動きが落ち着いてきたのは、細かいコーナーを5つくらい通り過ぎた後。
やや長いストレートの区間になって、ファイナルは“-7.4”まで圧縮できた。
「思い出せ!キープレフトで、真っ直ぐだ」
「了解!」
服部がどんなイメージで走ろうとしているのかは正確にはわからない。
お世辞にも丁寧な運転操作とはいえなかったが、ストレートではそれほどアクセルを踏みこまず、逆にコーナーでは極力車速を落さないように頑張っていた。
もちろん、キープレフトを厳守して。
結局、ファイナルが“ゼロ”に戻ったのは、スタートから3km過ぎてからだった。
切りとおし部分を過ぎると、車の僕側に道のガードレールがくる。
ガードレールの支柱からはみ出ている雑草を無視して、キープレフトで走り続けている。
時折、“野良猫”のボディがガードレールぎりぎりに接近して、そのたびに僕は思わず身をよじった。無論、その動きはシートベルトに阻まれてしまったけど。
基本的には、常に道なりで。
雑草なんかに惑わされずに、キープレフトの範囲内で、真っ直ぐ。
さらに1kmを走破して右ヘアピンを過ぎると、再び左側は岩肌になった。
スタートから約5km地点までくると、ようやく服部のリズムも安定して来た。
緩やかな中速コーナーの連続する上り道を、滑らかな操作で通り過ぎていった。
一度だけ、ガッガーン!という大きな衝撃を受けた。
雑草を駆け抜けたとき、その中に隠れていた小さい岩を前後輪で踏んだのだ。
もちろん、ダメージはなし。
高低差の大きな左ヘアピンを駆け抜ける。
ここだけは明らかにイメージラインの取り違いで大きく失速した。
ある程度予想して3秒先行してアプローチしていたが、それでも遅れた。
ファイナルは“-2.5”。
幸いチェックはなかったので、ノープロブレム。
そのままゆっくり遅れを取り戻し、予想通り峠の頂上に設定されていたCPラインを、予定通りにファイナル“ゼロ”で通過した。
CPボタンを押したときのファイナルは“0.4”。
次の区間も高い指示速度が出るかもしれないので、速やかに主催者車両の傍らへ。
「ゼッケン38!」
「はい、お疲れさん。それなりに、がんばって」
オフィシャルのおじさんが笑う。
受け取ったCPカードに記されている指示速度は“46km/時”。
「46で、それなりに!」
「了解」
オフィシャルおじさんの笑い声を聞きながら“野良猫”は駆け出した。
指示速度があまり高くないこともあって、今度は最初から落ち着いて発進。
それなりに、無難に。
同様に、キープレフトで真っ直ぐ。
4.653km地点で、CPラインを通過した。
ファイナルは、“-0.3”。
指示速度32km/時でスタートし、やがてコマ図に到着して距離を確認した。
「おい、今度は16.389キロだって」
声に出しながら、僕は少し驚いている。
順走の時は、16.442キロだったのだから…
「じゃあ、走り方で53メートルも差が出るのか?」
「方向が違うから、全く同じ比較は出来ないけど、こんなに違うとはね」
「アベ50のスタートのとき、けっこう蛇行しちゃったのになあ」
「大した影響にはならなかったってことだろ。あの辺りは、道が狭かったし」
結局、指示書の距離とこちらの計測の差は20から29m程度にまで小さくなった。
正解表を受け取らないとなんともいえないけど、恐らく結果的には、順走よりも逆走時の方が減点は小さくなったように思う。
この後、僕らは丹波山を抜けた。
その間にふたつのCPを通過して、最後に正解表を受け取った。
そして、午前四時四十六分。
すっかり夜が明けた、スタート地点の武蔵野キャンプ村に帰ってきた。
快晴の夏空の朝、“野良猫”は初ラリーを無事に完走した。
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