秀綱陰の剣・第三章

著 : 中村 一朗

業政


 榛名山から流れる榛名白川の辺りには、西上州防衛のための二大要塞が聳えている。ひとつは鷹留城、もうひとつが箕輪城である。いずれも長野氏により築かれた。天城天皇の孫に当たる在原業平を祖に持つ長野氏は鷹留城で代を重ねた後、より強固な新しい城を求めて上毛箕輪の地を選んだのは大永元年(一五二二)の事であった。そして幾重にも段差のある断崖の地形を巧みに利用して、南北約十町、東西約四町という稀に見る巨大な城郭を築き上げたのである。築城竣工は六年後の大永六年五月。箕輪城と名付けられた。

 以後も要所要所に手が加えられながら二十七年を経て現在の姿に至っている。

 秀綱が箕輪城の搦手口大手門に着いたのは、文五郎が馬小屋で目を覚ます四半時ほど前であった。内勤の者たちが出仕してくる頃合いに重なった。ぞろぞろと歩く多くの家臣たちに混ざって、平素の衣服に大小の二本刀を腰に差し、十文字槍を肩に悠然とひとり歩く秀綱の姿はすぐに門番たちの目を引いた。朝も早い事からたまたま若い門番しかおらず、誰も秀綱の顔を見知るものはいなかった。門番の一人がおそるおそる名を尋ねた。

 秀綱は立ち止まり、遠くを見るように目を細めて答えた。

「知らずとも無理はない。上泉の槍持ちが遊びに来たと、業政様にお伝え下され」

 門番たちはすぐに秀綱の素姓に気づいた。昨日、上泉で起きた騒動については当然、彼らも耳にしていた。その場にいた四人の内のひとりが秀綱の来訪を知らせるため、すぐに本の丸のある方角へと長い坂を駆けてゆく。秀綱も同じ坂を通って、本の丸の手前にある二の丸の館に案内された。暫くして本の丸から三人が迎えにやって来た。三人は深々と頭を下げて自分たちの名を告げた後、丁重な態度で口を開いた。

「お待たせして申し訳ござらん。急な御来しでしたので、主の支度が遅うなりました」

「いや、なに。知らせずに来て迷惑をかけたらしい。業政さまは御息災かな」

「御健勝にあらせられます。さっ、こちらへ」

 秀綱を含む四人は本の丸に向かった。案内役が秀綱の前を行く。ひとりが槍を、もうひとりが大太刀を秀綱から預かって後に従う。やがて門扉を抜けて本の丸の庭に回った。案内の三人は門扉の傍らで片膝をついた。秀綱の槍と刀は彼らが預かり持ったままである。

 秀綱は本の丸の西に面した前庭をまっすぐ進んだ。そこからは赤城山系まで続く広大な平野を一望にすることができる。秀綱は久しぶりに見るその景色に目を細めた。

 長野業政は館の縁側で待っていた。秀綱を認めると、この痩せた老人は楽しげに笑いかけた。齢六十六歳。箕輪城城主であり、事実上西上州を取り仕切る最重要人物である。

 秀綱はにこやかに一礼した。

「お久しゅうございます」

 業政は柔和に目を和ませる。秀綱に部屋へ上がるように促しながら。

「ほんにな。先だって秀綱殿がここに来てから、半年にもなろう」

 秀綱は縁側から上がり、部屋の中に進んだ。二人が座敷に腰を下ろすと、朝げの膳が二つ運ばれてきた。腰元たちが膳を置いて去り、部屋の中は二人になった。

「下柴砦から歩いてきたそうだな。まだと思い、用意させた。実はわしもまででな」

「御気づかい、ありがたく頂戴いたします」

 二人は昔話に花を咲かせながら膳の上の物をたいらげた。秀綱と業政は知己の間柄である。戦友と呼んだ方が良いのかも知れない。幾つもの戦場を共に疾駆し、命を賭け、助け合いもした。また、武勇を誇っていた安中城城主安中左近大夫忠成を秀綱が一騎打ちの槍試合で打ち破り、それによって業政の手による西上州結束の下地を造ることが出来た。秀綱が〃長野一本槍〃の感状を受けたのはこの時の武功によるものである。

 だが好むと好まざるとにかかわらず、歳月は人の立場を変える。秀綱と業政は同じ戦場に身を置きながらも、異なる自己の有様を求めるようになった。秀綱は戦場で振るう槍剣に己自身の姿を見出すようになり、業政は最前線から遠ざかって兵士たちを群れとして動かさねばならなくなっていった。二人の城主はそれぞれの生き様を選択した。結果、ひとりは魔神のような剣術家となり、もうひとりは辣腕の政治家となった。

 確かに西上州は、誰かが圧倒的な政治技量を発揮せねばならない状況に置かれていた。東西南には戦国の覇権を争う武田、北条の領国があり、北には長尾影虎が控えている。いずれ戦渦に巻き込まれる事は時間の問題であった。そんな折、関東管領職の重みに耐え切れずに衰退しつつあった上杉家までが、窮鳥となって懐に跳び込んできてしまったのである。西上州の戦乱は事実上この時から始まったといって良い。

 こうした事態の到来を予測していた長野業政は、まず血縁によって有力豪族との結束を固め、さらに善政を持って領民たちにも指示されるよう計らうことで、いわば穏やかな独裁政権を西上州に確立していった。このための駆け引きや振舞いは正攻法でこそあれ、凄じいまでにあからさまであった。秀綱の力を借りて高慢だった安中左近の高い鼻を、後くされのない形でへし折ったいきさつは先のとおりである。また九人の実子を含む十二人の自分の娘を、箕輪の東西南を囲む近在城主のもとにことごとく嫁がせて盟主の地位を固めもした。更に、いざ合戦とあらば自ら先頭に立って武勇を示し、さらに武家の礼節を重んじて上杉家再興のために忠義を尽くして戦った。兵力としては不十分であったが、機動力と地の利を巧みに生かす知略で補うことが出来た。そして業政は十数年をかけて、誰からも後ろ指を差されない武将像の理想を築いていったのである。

 結果、西上州には鋼鉄の同盟関係が成立した。以来、この盤石な防衛陣は列強の圧力に対しても寸土の侵略さえ許してはいない。しかし、独裁政治では良い後継者に恵まれない事は世の常である。原則は西上州の関係においても当てはまった。箕輪城内のみならず各属城城主の中においても業政の後継候補はいなかった。良い独裁者の下で育った良い家臣や強い武将たちは多くいても、後継者に求められる業政と同等以上の政治能力には誰もが遠く及ばなかったのだ。さらに血族として箕輪城の跡継ぎと目される業政の嫡子は、まだ八歳。一方、六十六歳になった業政の肉体的衰えは隠しようがなかった。老い始めた肉体は、その精神にも少なからぬ影響を及ぼしてゆく。特に、善政と智勇兼備の名を轟かせている理想的な武将像を演じ続けなければならない独裁者には。

 同じ時の流れに身を置きながら、変わらない秀綱と変わりゆく業政の距離は年を追うごとに広がっていった。今ではもう、箕輪と上泉との間よりもずっと遠い隔たりがある。用がなければ、半年以上顔を合わせようとしないほどの距離になってしまっていた。

 空いた膳が下げられ、茶の替わりが運ばれた。業政は一口飲み、秀綱を見た。

「ところで昨日、秀綱殿の門前でもめ事が起きたそうだな」

「そのようです。藤井殿にお聞きになりましたな」

「聞いた。だが、旗本たちから直接聞いたわけではない。また、双方の話に隔たりがあるやも知れぬ。出来れば秀綱殿の話も聞いておきたいと思っていた」

 秀綱は疋田文五郎が語った通りに、自分の知る事実関係を加えて淡々と述べた。業政は耳を傾けながら、話の内容よりも秀綱の声音と表情の微妙な変移に神経を尖らせていた。乱世の政治家にとり、理屈以上に相手の心情を読むことが重要である。言語の選択と声が情報を脚色する。しかし針先のように鋭い業政の洞察をしても、秀綱の顔と声音からは感情の変化を認める事は出来なかった。話が終わると、業政は即座に聞いた。

「それで、秀綱殿はわしを責めるか」

 秀綱は静かに微笑んだ。

「事故でござる」

 ぽつりと呟く。やはりその目からは、いかなる心も読み取れなかった。業政は当惑を吐き出すようにため息をついた。加えて、睨むようにも。

「わかった。深手を負った者たちにはわしが償おう。だが、旗本たちに詫びを入れさせるさせるつもりはない。それで良いか」

 業政の声には、この決断に対していかなる質問や非難も拒否する明確な意志があった。

 秀綱は眉ひとつ動かすことなく口を開いた。

「それで業政さまのお気がすむのでしたら、頂戴いたします」

 いつの間にか、業政から過去と戯れていた先程の穏やかさは消えていた。他人の心が読めぬ時にはその心を動かそうとする厳格な政治家の顔に代わる。

「わしを責める気はないというのか。では、何用で参ったのだ」

「上泉に使者を送られたのは、この秀綱に御用があっての事と思い、参上致しました。業政さまには、隠し事はしたくはありませぬので」

 秀綱の表情に変わりはない。つい先程まで昔話に興じていた時のままである。

(いや…)

 と業政は思い直す。皺の数こそ増えたものの、遠い過去になってしまったあの頃の秀綱と変わらない親しげな表情であることに気づいたのだ。忘れていた友人の目。それは、今ではもう業政の周りでは見る事が出来なくなったもののひとつであった。

「上泉の屋敷が騒がしいのは、周りの者たちが気を回してのこと。実は先日、命を狙われましてございます。手練れの刺客どもに。幸い、事なきを得ましたが」

 秀綱は七日前に起きた出来事をかい摘んで述べた。話が進むにつれ、業政の顔が曇ってゆく。秀綱の身を安じたためというよりも、上泉の動向に暫く無頓着でいた事の方に動揺した。そして業政は、冷たい手で首筋を撫でられたような悪寒を覚える。

 話を聞き終えてじっと考え込んだ後に業政は口を開いた。

「暗殺などどいうやり方は確かに陰険な氏康らしい。しかし、大胡と小田原には取り立てて大きな動きはないぞ。兵糧も人も集まってはおらぬ」

 業政も多くの乱波を雇っている。各地での情報収集がその目的であった。本来、乱波の存在意義はそこにある。暗殺や後方攪乱は、付随的任務に過ぎない。

「なるほど。ではやはり、北条ではないのかも知れませぬ」

 業政は秀綱の目を覗き込んだ。今度は、その心中を読もうともしなかった。

「知っておるか、秀綱殿。二月前に起きた川中島の合戦で、真田幸隆が武田方の〃上州先方衆〃などと持ち上げられて影虎殿に挑んだそうだ。浮き世とは妙なものだな」

 秀綱は頷くように目を伏せた。

 天文十年神川の合戦。武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍が北上州に攻め入り、海野一族を放逐した。その時西上州に逃れて長野業政に頼ってきたのが、海野側に組していた弱冠二十八歳の若武者真田幸隆であった。業政は、かつて真田の地を領していたこの一豪族の裔を快く迎えた。幸隆は暫く業政の庇護下にいたが、三年後、業政の知らぬ間に武田の家督を継いだ直後の信玄(晴信)と和解し、夜逃げ同然に体ひとつで箕輪から姿を消した。この時、幸隆のふるまいを裏切りととらえて激昂する家臣たちを抑えて、業政は幸隆の置いていった荷を潜伏先にまでわざわざ届けてやっている。本来は信義に厚い剛胆無双の武将である幸隆が夜盗のように身を隠して箕輪から去らねばならなかった心痛を察してのことであった。以来十一年。真田幸隆は武田軍最強の将のひとりとなり、諏訪を基点に北へ向かって破竹の勢いで侵略を続けていた。二年前、最初の川中島合戦までは。そして今年の七月に起きた二度目の合戦でも決着はつかなかった。この二度の未完の対戦が、業政に信玄への警戒心を大いに募らせていた。越後の動向をにらむ信玄の目が、長尾影虎と同盟関係にある西上州にも同時に向けられてくると考えた。武田信玄は近く西上州に攻め込んでくる。長野業政はそう予感していた。今、秀綱の話を聞いているうちに思い当たった信玄の名が、その予感をくっきりとした輪郭のある確信へと変えてゆく。

「いかに下剋上の世とて、幸隆殿がこの箕輪に攻め入ってくることは有りますまい」

 この言葉から、秀綱も自分同様に武田軍との合戦は避けられないものと考えていると業政は悟った。実際、既に縁の切れている真田幸隆の事など業政の眼中にはない。

「武田晴信が命じてもか」

 信玄は、やる気か。果たして西上州に攻め入ってくるのか、と裏で問う。

「板ばさみになれば、幸隆殿は腹を切る。業政さまも以前はそう察しておられたのでは」

 武田は来る。真田幸隆ではない別の将兵を使って、必ず。業政にはそう聞こえた。

「なるほど…」

 ここ数年、西上州は静かな時が流れていた。それが間もなく覆る。

 業政が未知の不安に思いを馳せたその時、急に廊下を駆けてくる足音が聞こえた。二人が顔を向けると、現れた若い家臣が片膝をついて目礼する。その姿勢で口を開いた。

「ただ今、上泉さまのご家来疋田文五郎さまがご到着。門前にてお待ちでございます」

「ほう」

 と、業政は楽しげに呟いて、困ったような表情を浮かべている秀綱を見た。

「どうやら、迎えが来たようです。そろそろお暇を」

 慌てて立ち上がった秀綱の姿に業政が笑った。

「そうか。ひとりで、しかも歩いて来た訳は屋敷の者たちに何も告げなかったからか。意伯殿もさぞ秀綱殿の御身を案じているであろうな。ここに呼ぶか」

 秀綱が笑い返す。業政はそこに、忘れかけていた古い絆を見た。

「また近々、参上致します」

 そして秀綱は閉ざされた一方の襖に向かって、

「藤井殿も、ご機嫌麗しゅう」

 と、明るく声をかけた。驚いた顔の業政に向き直る。

「それでは、御免」

 と、何かを言いかけた業政に軽く頭を下げてながら。

 秀綱が縁側から庭に消えると、襖がゆっくり開いた。隣の小さな部屋には、礼服姿の藤井友忠と五人の旗本たちが控えていた。業政の冷たい視線に顔も上げられずにいた。

「そこに居るつもりなら、初めにそう言え。非礼であるぞ。わしが恥をかく」

「いや、面目次第もございません」

 友忠は赤面した大きな顔を上げた。それでも安堵の照れ笑いがちらりと浮かぶ。

 業政に促されて、友忠だけが部屋の中へ。他の者たちは退去させられた。

「気づかれるとは思いませなんだ。詫びる気で、心静かに控えていたつもりでございましたが。やはりあのご仁は、我らの理解では遠く及びませぬな」

「日々変わりゆく俗人の目で見ては、不動の心根はわかる筈もない。藤井、御主のことを言ったのではないぞ。わしのことだ…いや、もう良い。昨日の件はこれで片がついた」

「殿には、斯様な御手数をおかけし、全く申し訳ございません」

 藤井友忠が目を輝かせて業政を見上げている。秀綱と年は余り変わらないが、業政にとり最も信頼の厚い質実剛健な忠義の士である。業政のため、長野家のためなら寸刻も命を惜しまない家臣の理想だった。藤井だけではない。そうした家臣が、業政の元には多くいる。彼らこそ業政の宝であり、その精神が西上州の結束を固める礎であった。

 だが、秀綱は違う。いかなる名目のためでも、秀綱は絶対に命を捨てようとはしない。ある意味で武士ではないのかも知れない、とさえ業政には感じられる。城主らしい気品と折り目の正しさこそあれ、武家としての連帯意識や家名に対する執着心があまりにも希薄なのである。それでも秀綱は圧倒的に強い。その強さが勝手に大きな影響を周囲に及ぼしてしまう。兵法者としては最強であっても、武士の理想からは逸脱した者が示す強烈な影響力。斯くて上泉の家臣たちにも秀綱の気質が伝わり、さらに秀綱の弟子となった各属城の若侍たちにも伝染してゆく。薄いながらも、西上州全土へと。

 好ましくはない。しかしそれでも秀綱は業政の友人であり、西上州にとっては貴重な逸材であった。忠誠ではなく友情を動機にしていても、その振舞いに変わりはなかった。

 だが今の西上州は、情ではなく忠義の士を求めている。

「ところで先ほどの話、聞いたな」

「武田の新たな動きでございますな。先日、甲府で起きた山火事騒ぎも何やら関わりがあるやも知れませぬ。実は昨日、乱波が知らせて参りまして」

 ほう、と呟くと、業政は興味深げに友忠の話に聞き入った。



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