秀綱陰の剣・第四章

著 : 中村 一朗

禅問答


 明くる日の午後、勝沼の宿場。

 町の出入り口に立つ番小屋の番人のひとりが、前を通り過ぎようとした奇妙な二人連れを居丈高に呼び止めた。大柄な雲水姿の若い男と、坊主頭の派手やかな衣装の老人であった。声をかけた訳は、穏やかな笑みを浮かべている雲水が手に持つ一抱えもありそうな大風呂敷包みに気を引かれたためである。老人が足を止めると、雲水も影のように従った。

 牛に似た顔のその門番と門の奥の番屋敷を認めて、老人はニッと笑った。

「これは丁度良い。よく声をかけたな。おまえ、偉いぞ」

 老人は雲水から風呂敷包みを取り、番人が止める間もなくその傍らを抜けてさっさと門をくぐってしまった。引き戸を開けて番小屋のなかに入ってゆく。慌てた番人の一人が後を追った。一方、雲水は門前に残されたまま。二人の門番を見ても満面の笑みは変わらない。門番たちは番屋敷の様子を伺いながら、薄気味悪げに雲水を見張った。

 番屋敷の中には役人が四人いた。他に地回り風の男たちが三人。老人の後ろから加わった番人をいれると八人になる。皆が、うさん臭げに老人をじろりと見た。

「何だ、じいさん」

 埃まみれの老人を乞食剣客と見てとった役人が横柄に言った。

「土産だ。受け取れ」

 老人が手元の大きな風呂敷包みを役人たちの前に放った。土間を転がるはずみで結び口の脇から塩がこぼれる。役人たちの間に不振顔がひろがった。筆頭と覚しき年長の痩せた役人に指図されて小者が駆け寄り、固い結び目を解いて包みを開いた。塩漬けの四つの塊が何であるかを知るに至り、小者は息を飲んで蒼白の顔を役人たちに向けた。

「笹子峠の賞金首だ。十九人を殺したそうだな。確か、頭目は泥虫の小源太とか言っておったぞ。その中にあるが、わしには区別がつかん。御主等で見定めてくれ」

 老人の言葉に、若い役人は胡散臭げに頷いた。別の小者の一人を顎で指す。

「ところで、この首にまつわる事情の説明を願いたいのだが」

 筆頭役人に促されるままに、老人は昨夜の出来事を簡潔に述べた。笹子峠の山中で山賊に襲われ、四人を斬り殺した、と。老人を見る者たちの目の色が変わった。

 役人の合図を受けて、小者が四つの首に近寄った。顔に付いた塩を手で払い、次々に人相を己の記憶と照合してゆく。やがて三つ目の首で、小者の動きが止まった。

「こいつだ。間違いねえよ、旦那。泥虫の小源太ですぜ」

 役人たちが包みの回りに集った。

「もうひとりいたはずだ」

 若い役人が首を見ながらぽつりと言った。老人は少し思案して笑った。

「遠くに逃げてしまった。もう戻ってはこないだろうな」

 門番がハッと顔を上げ、老人を盗み見て年長の役人に耳打ちする。その役人が頷くと、門番は地回りの一人を連れて屋敷の外に出ていった。若い役人が残った二人の地回りを使って首を外に運ばせる。始末を彼らに任せて、年長の役人は老人を招いた。

「拙者、斉藤兵衛門と申す。武田信玄公配下十二将がひとり、山本勘助さまの命によりこの番屋敷を任されておる。お手前の名は何と申される」

「塚原新右衛門。常陸から来た。もっとも、暫く故郷の土は踏んでおらんが」

「して、何処のご家中に」

 老人は楽しげに笑った。羽織の襟元をちょんと摘んで見せた。

「この通り浪々の身じゃ。もっとも、主を求めての旅ではないぞ」

 斉藤が頷いた。そして、老人の目をじっと覗き込みながら。

「新右衛門殿。奥で粗茶などいかがでござる」

「おお。そりゃあ、嬉しい。丁度喉が渇いておったところでよ」

 老人が鞋を脱ごうとして框に腰を下ろした。そこに、惚けた笑みの雲水が番人に連れられて入って来た。牛顔の番人が小狡そうに役人たちに頷きかける。老人に応じている斉藤の顔が曇った。番人は、鼠を捕えた褒美を求める猫のような顔になった。

「ところで、あの雲水は新右衛門殿の連れかな」

「そうだよ。昨日からわしに従っておる。今は赤子のような心でおるようだ」

「なるほど」

 醜悪な形相で何かを言おうとした小者を、斉藤が鋭い眼光の一瞥で制した。

 斉藤は湯飲みと急須を盆に載せて、雲水と老人を奥の間に案内した。

 障子を閉めて三人になると、斉藤の顔が和やいだ。碗に茶を注ぎ、雲水と老人に指し出す。老人は旨そうに茶を飲んだ。その姿に、斉藤は思わず目を細めた。一瞬、昨年の合戦で落命した父の影が脳裏に過った。

「凶賊どもを退治して頂き、礼を申す。それにしても大した腕前でござるな」

「わしは勘違いをしてな。その凶賊が血地蔵の左近とその一味だと思っておったよ」

「あやつ等も確かに山賊ではある。だがその血地蔵が先日、二月前から笹子峠で多くの無辜の民を惨殺していた凶賊どもは泥虫の小源太どもであると知らせて来たのだ。彼らも泥虫どもに縄張りを荒らされたと怒り、捕縛には手を貸すと言ってきた」

「なるぼと」ニヤリと老人が笑いながら、探るような目で。

「天下には良い山賊と悪い山賊がいるとは知らなかったぞ」

「あ、いや。目溢している訳ではない。ただ、山中で彼らを捕えることは出来ぬから手を出さないでおるだけだ。こちらの人手も足りぬし、あやつ等にせよ…」

「あっはは。血の通った地蔵だから、酷い悪さはしないというわけじゃな」

 斉藤は気まずそうに沈黙したまま。老人はポンと膝を叩いた。

「当ててみようか」

 皮肉な笑みの老人は、意地の悪い快活さで続けた。

「何をでござる」

 意表を突かれて、斉藤が戸惑った。

「番所に居た者、血地蔵の手下だろう。泥虫の小源太のことを知らせに来て、そのままここに居ついたんじゃろうが。左近が、誠を示した証とかで残していった。違うか」

 斉藤の見開かれた目が答を語っていた。その目が再び細められる。

「私欲のために山賊を手懐けておるのではない」

「わかっておるわい。武田晴信殿は山窩の民や木地師を好く遇するそうだからな」

 老人が、警戒心を抱いた斉藤にもう一度笑いかけた。山賊とは言え、縄張りを主張する彼らは山の民である。領主たちの国境などに関わらず行き来し、各地の山民たちと自由に交流を持っている。そのために彼らは押並べて、諸国の事情に詳しい。武田軍は彼らを通して常にそれらの情報を得ていた。この優遇による軍略上の利は計り知れない。

「新右衛門殿は如何なる身上であらせられるのか」

 斉藤が老人を見る目は、隙を伺う役人の目であった。当然、事情に詳し過ぎる者を危険視する性を持つ。が、風に靡く稲穂のように自然な老人の顔は寸分も変わらなかった。

「ただの旅の爺いじゃよ。もう幾十年もこの広い天下をこうして気ままに生きておる」

 斉藤は睨むように老人の大目玉を覗き込んだ。老人はゆったりと静かに見つめ返している。先に視線を逸らしたのは斉藤の方であった。老人の言葉に嘘はないと確信しつつ。

 斉藤は困ったようにため息をつき、茶を口に含んだ。

「なぜでござる」間を置きながら斉藤が続ける。

「なぜ、それほどの…。血地蔵の左近どもさえ手を焼いた凶賊四人をただひとりで斬り伏せる腕を持ちながら、あえて漂白の日々に甘んじておられるのか」

「さあ。多分、性に合っておるからだな」

 斉藤は訝しげに首を傾げた。老人から感じている奇妙な気配を意識した。一方、その正体を知ることが出来ずにいる事をもどかしく感じながら。

「しかし、昔からそのように過ごしてこられた訳ではありますまい」

「同じじゃい。血の猛りに任せて戦地を走っておった頃もあったが、あれもまた若気の所以であった。もう今は好んで争いはせぬ。馬に蹴られたくなくば近づかぬが一番だ」

「それでも、山賊どもを斬るために山に入ったのでござろう」

「気の毒な爺婆のところに連れていき、詫びを入れさせるつもりだった。正直に言えば、斬るかも知れぬとは思っておったが。まあ一応、成り行きだな」

 老人が茶を一口、美味そうにすすった。それを見て斉藤も一口含む。

(この御仁は一体…)

 そう自問してみて斉藤は初めて、凶賊を斬ったことに何の気負いも見せない老人の態度に戦慄していることを自覚した。斉藤は、人を斬れば斬るほど魂は奇形に歪むものと思っている。例えそれが戦場であれ、相手が凶賊であれ同じことだ。一時は正当性を自身に言い聞かせて忘れたつもりになったり、強がって笑い飛ばしてみても、斬られたものの返り血が心に残したしみは決して消えることはない。いつかはそこに潜む死者の怨念が精神を喰い破って現れ、斬殺者を怨執の淵へと誘うことになるだろう。人を殺せばそれに応じた業を背負わねばならない。それが生き残ったものの務めでもあると斉藤はずっと信じてきた。戦場で五人の命を手に掛けてきた自分の経験や、豪気と謳われる侍仲間たちの姿からもこれを確信していた。が、この信念が老人を前に揺らいでいた。老人は凶賊を殺したことを兎を獲ったぐらいにしか感じてはいない。本来なら、人非人と見下げ果てて然るべき筈である。にもかかわらず、斉藤は老人に人の深みを感じ始めてさえいる。斉藤の戦慄は魔神に魅せられたような自身に気づいたことによるものであった。

 さらに加えて、この白痴のような隣の雲水は…。

「して、この者をどうなさるおつもりでござるのかな。ずっと連れて行かれる訳にもいかぬであろうに。聞けば、新右衛門殿は旅最中との仰せだか」

 老人は目を逸らし、坊主頭をつるりと撫でた。顔の皺が深くなる。

「さて、それだ。山中に置き去るわけにもゆかず、ここまで道連れてきたが。折を見てどこか良い社か寺にでも預けよう。それまではわしが看取ってやるさ」

 雲水は何事も聞こえぬ様子で、穏やかに部屋に視線を遊ばせていた。

 斉藤は困ったようにその雲水を見た。急須から老人の湯飲みに茶を注ぐ。

「もうお隠しにならずとも良い。いや、隠すつもりではないやも知れぬが、新右衛門殿を殺そうとした者たちの一人であろう。なぜそうまで親切になされる。慈悲ですかな」

 斉藤は老人を見つめ、答を待った。老人は湯飲みを右手に、視線をゆらゆらと室内に遊ばせている。やがて茶をひと口飲み、小さく鼻で呻いた。

「いいや。斬ろうとしたのだが、斬れなんだ。わしも昨夜からずっと考えておったのだがな。先程、この男を思いつきで赤子に例えたが、正鵠を射ておったのかも知れん。良くはわからんが、今はもう別の者じゃよ。よう合戦で見受けるような恐ろしゅうての乱心ではない。心で腹を切ったようなものだ。この男、わしが斬る前にもう死んでおった」

 老人の言葉から快活さが消えた。眉間に皺が寄った。

「どういう意味でござる」

「念じるだけでは、自分で心の臓を止めることは出来んじゃろう。だから、死を求めれば侍は腹を切らねばならぬ。心も同じだ。体に五臓六腑があるように、心にも喜怒哀楽を伝える目に見えぬ臓器があると思え。合戦では、その幾つかが眠ってしまうのだ。長く続けば凍りつく。これが心の病だな。この男の場合、長い山賊稼業ですっかり魂が死病に蝕まれておった。その一方で心の片すみでは、そんな血みどろの日々を忌み嫌っておったんじゃろう。そして昨夜仲間たちの死を目前にした時、この男は時が来たことを悟った。これで死ぬ、やっと死ねる、死んでも良い、とな。つまりこの男は、ひとつの境地に至ったのだ。この目の奥にあるものは紛れもない虚心じゃよ。そして、古い精神は消えた」

 老人が雲水に目をやる。雲水は稚児のように微笑み返した。

 奇妙な理屈に斉藤は気圧された。湯飲みに注いだものが酒ではなかったことを思い起こしてもみる。老人の話に再び引き込まれていく事を意識しながら。

「にわかには鵜呑みには出来ぬ話でございますな」

「面白いであろう。人の心はそうしたものだ。つまり、誰にも解らぬ」

「では、この男が正気を取り戻すことはないとお考えか」

「恐らく、なかろうよ。以前の心はもう死んでおる」

「しかし、仮に正気には戻らずとも、この者が多くの民を惨殺したことに替わりはござるまい。以前の罪科を問い、断罪に処すべきとは思われぬのか」

「思わないよ。人はそう知っておっても、この者は身に覚えはなかろうからな」

「それでも世に人の怨念は残りますぞ。この狂人が裁かれなくば、殺された者たちや身内の者共の恨みはどこに向けば良いのでござろうか」

「神仏でも恨めば良かろう。あれは、そんなことぐらいには役に立つぞ」

「拉致もないことを。それでは、身も蓋もござらぬ…」

 斉藤は呆れ、老人は笑った。

「さて、馳走になった。そろそろ参るか」

 老人は立ち上がりかけた。斉藤は慌てて制した。

「あ、いや。お待ちを、新右衛門殿。実は首の賞金がこの役宅に置いてはござらぬ。すぐに甲府まで取りに行かせる故、今暫くお待ちを」

「わしはいらぬ。殺された十九人の身内の者たちに分け与えてやってくれ」

 老人は雲水を立たせようと肩に手を添えた。雲水は腰を浮かせた。

「暫くお待ちを、と申すに。拙者、その者を預かりおける寺に心当たりがないでもない。せめて一夜、ここに御泊まり頂く訳には参らぬか。いや、決して貴殿を疑うような下心があってのことではござらぬ。拙者、新右衛門殿の話をもっと窺ってみたくなった」

「わしは、夜通しの禅問答などあまり好かぬのじゃがなあ」

「もちろん、そんなつもりではない。ただ、旅の話など聞かせては貰えぬかとは思うて。もちろん、急ぎであれば無理に御引き止めする訳には参らぬが…」

 老人は少し考えた後、雲水を座らせて自身も腰を降ろした。

「では一晩、世話になるか」

 穏やかな老人の声に、斉藤の顔が明るくなった。



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