秀綱陰の剣・第四章

著 : 中村 一朗

師弟


 甲府・宿場から遠い町外れ。

 八日前に焼失した小屋とは小山ひとつ東に隔てた辺りである。

 けもの道に老人の姿がひとつ。前方に聳える松を目指して、さっそうと胸を張って登って行く。腰に差している並外れて大きい大太刀の重さなど物ともしない。それでも時折額の汗を拭った。その度に、片目を隠す鍔が日差しを受けてキラリと光る。

 老人は山本勘助であった。

 勘助は昼前に屋敷を出て街道に沿って東に暫く歩き、目印の一本松を見つけたのは半時ほど前であった。街道を外れ、山中へ。ようやくこの一本松の前に辿り着いた。

 樹齢三百年を越えるという赤松に近づくにつれ、周囲の藪から複数の視線が自身を捉えていることを感じる。敵意こそないものの、山道をずっと歩いてきた勘助の立場からすれば、決して気分の良いものではなかった。

 松の前で立ち止まると藪の中から背の低い小太りの男が現れた。勘助の前に進み出て片膝をつく。歳は三十前後。一見猫背であったが、丸い体型の奥には強靭な筋肉のうねりが見てとれる。妙に落ち着いた物腰が山賊のような荒々しい風体にそぐわなかった。

「山本さまとお見受けします。館にご案内するためにここでお待ち申しておりました」

「お主、名は」

「百舌鳥の巳陰。裏傀儡の一番組組頭にございます」

「口が軽いな。そこまでの答は求めてはおらなんだ」

「いえ」と男は片膝の姿勢のまま、首を横に振った。

「此度は元締の都合で山本さまに来て頂いたのでございますから、問われたことには丁重に答えよと元締から指示されてございます。ひと言、余計な事も加えるように、と」

 勘助は笑った。それを納得の合図と受けて、巳陰は身を起こした。

「立派な松だな」

 丘の中腹に聳えるように立つ巨木を見上げて、勘助が呟いた。巳陰は穏やかな顔で頷いた。言葉以上に同意を語るその表情を見て勘助が微笑む。

「では、案内を頼む」

 巳陰がスッと頭を下げた。藪から二人が姿を現わし、勘助の左右に回った。そうして一応、警護の形を取る。藪の中には、勘助の感ではまだ三人が身を潜めている。

 四人が森の中へと歩き出した。暫くすると森の木陰から彼らを見守る形で、一本松に残った三人とは別の二つの気配が左右で動き出した。

「あれらは、この巳陰の手の者たちにございます。他にも十二人がこの一帯を見張っております。昼夜の交代を数えれば、総勢二十余人にもなりましょう」

「随分と、物々しいようだ。わしひとりのための警戒ではあるまい」

「はい。彼らだけではありません。森の中には、余人にはわからぬ様々な仕掛けが施されてございます。館に辿り着く正しい道順は、これ一本のみ。迂闊に踏み込めば、ものの一町も行かぬうちに命を落とす事でございましょう。特に八日前からは、仕掛けの数は倍程に増やしました。まだまだ増やすつもりにございます」

「それ程の相手を敵に回したと考えてよいな」

 僅かに間を置いてから、巳陰は

「はい」と答えた。

「誤って旅人や町の者どもが彷徨い来た場合はどうなる」

「追剥の噂を恐れて、宿場の者たちもこの辺りにはやっては来ませぬので」

「もし、彷徨い来た場合はと聞いておる」

「鬼のような姿の追剥が現れ、その者たちを追い散らしまする。その者たちは命からがら宿場町まで逃げ延び、一本松の追剥の恐ろしさを噂に乗せる事でございましょう」

「なるほど…」

 森の中を右に左に進路を選びながら、四半時後。

 ようやく藁葺き屋根の母屋と曲り屋の形状をした納屋らしきものが、前方のひらけた百坪程の草地に見えてきた。南に面している縁側は雨戸で閉ざされており、その一方で西側の落し戸は開いていた。そこから僅かに立ち上る湯気さえ見えた。

 一行は丈の低い築地壁を迂回して背後に回った。見張り番が二人おり、彼らが近づくと目礼して木戸を開けた。そのまままっすぐ進んで母屋の裏口から中へ。内部の薄闇にもすぐに勘助の目が慣れる。広い土間の向こうに上り框があり、そこにお久がいた。

 お久は丸茣蓙の上に座り、勘助を認めると丁寧に両手をついて頭を下げた。顔を上げ、勘助の隻眼と目が合うと改めてにっこりと微笑む。

「奇眼坊さまには、遠いところまでわざわざお越しいただいて」

「気にするな。山歩きは足腰に良いのだ。来る道すがらに聞いたが、傷の具合はどうだ」

「お陰様で、もう軽く疼く程度まで良くなりましてございます」

 お久は肩を押さえながら、半身に控えて勘助を促した。勘助は頷いて鞋を脱いだ。

 囲炉裏の前に腰を据えると、お久は大瓢箪と椀を二つ手にしてその傍らに座った。

「随分、さっぱりとしたな。まるで童女のようだ」

 お久は短くなった髪に手を当てて目を伏せた。

「お恥ずかしゅうございます」

 あまり見せないお久の女らしい仕草に勘助の方が戸惑った。

「いや、いや。気にしておるのであれば許せ。それはそれで、似合っておると言おうとしたのだ。悪気ではないぞ」

 お久は椀に酒を注ぎ、勘助の前に差し出した。

「奇眼坊さまは、どこまでお聞き及びでございますか」

 勘助は、椀の酒をひと口グイッと呷った。

「殆ど何も知らぬ、と思え。西の丘で小屋が燃えた直後、役人が駆けつけて異様な死体を見つけた。六つだ。役人はわしに知らせ、わしはすぐに火事場に誰も近づけぬよう指示したのだ。何処の乱波によることと思ったのでな。あの三日の後に、久の使いから文を受け取ったわけだ。大凡の事と、今日詳しい事情を直接語ると記されておったが」

「はい。死んだ六人のうち、二人はわたしが手に掛けました。二人はかつての配下。もう二人は、わたしの命を狙っていた乱波でございます」

 お久は八日前の深夜に起きた出来事について語った。二番組頭の裏切りから燃え盛る小屋からの脱出までのことを、感情を交えずに淡々と述べた。

 勘助は質問でお久の説明を途切らせる事なく最後まで聞いた。その後、口を開いた。

「それで、乱波たちを追った二人は何を掴んで戻ったのだ」

「黒夜叉の左門に助力したのは草薙陣内。伊賀の乱波であることを突き止めましてございます。二人は黒夜叉たちを追って伊賀の国境は越えたものの、草薙一族の里へは忍び入らずに戻りました。伊賀の結界を破るには下準備がいります故」

 お久は桐生たちの名を伏せたまま、二人が調べてきた事を伝えた。

 草薙一族は生粋の伊賀人ではない。隣接する別里の古老たちの話では、二百年ほど前に彼の地に何処からか流れ着いて根を下ろしたらしい。特異な地政事情のためいずれかの有力な庄家が後押しをしたと思われるが、今となっては知る由もなかった。当時から排他的であった草薙一族は今でも他の伊賀衆と深い交流を求めようとはしないという。桐生たちはそれだけ調べるとすぐにお久のもとに戻った。

 ひと言の問いもせずに話を聞き終ると、勘助は小さく頷いた。

「良い判断だ。深く追えば、返り討ちに遭ったやも知れぬ。この場合、手に入れた知らせをおまえに伝えることがもっとも大事だ」

「はい。忍び入るのは、草薙についてもっと調べてからでも遅くはありませぬので」

「草薙一族とやらを雇うた者に心当たりはないのか」

 お久は涼しげに首を振った。

「ありません。あるいは、雇い主はいないのではないかと」

 二人が微動だにしない視線で見つめ合う。先に目を逸らしたのは勘助の方であった。

 木彫りの面のような勘助の顔から表情が消えた。

 表向きは椀の酒に目を落としながらも、勘助の真の視線は幾つかの記憶との照合を求めて自らの内側へと回帰してゆく。国主をもたぬ伊賀ではその地を大小様々な有力土豪たちが取りしきっており、各々の土豪のもとには代々伝わる乱波技を身につけた下忍たちがいるという。彼らは農作に従事しながらも、一方では他国の領主たちに雇われてその隠技を奮った。主に諜報や後方攪乱、あるいは暗殺など陰険な分野での職能を金のために平然と熟すことで戦乱の余禄を糧としていた。郷士間には同盟関係こそあれ、それぞれの一族は独立しており、時として敵対する武将に同じ伊賀の異なる一族が雇われる場合もあった。特異な個人技に秀でながらも、彼ら伊賀乱波には戦国の世に覇権を追うだけの野心や集団的武力はなかった。それゆえ戦国大名たちは、士分の一般からかけ離れた存在の伊賀乱波を鉄砲や槍のような便利な道具程度にしか考えてはいなかった。

 その〃道具〃のひとつに過ぎない草薙一族が何らかの意志を持ってひとり歩きを始めたと、お久は言う。勘助はお久の気丈な精神をよく知っている。心身に傷を受けたお久が、『あるいは…』と控えめに表現するには余程の確信があってのことと考えられた。

 勘助はお久の言葉を信じた。伊賀乱波・草薙一族は自らの意志で動いている。

「その黒夜叉のことだが、なぜおまえを裏切ったと思う。金か」

 お久の大きな目がスッと細くなる。その視線は椀の酒に映る血に染まった記憶を見ていた。そして小さく笑った。まるで心を隠すためのようだ、と勘助は思う。

「金や立身栄達のために裏傀儡を抜ける男ではありません」

 乾いた無表情なお久の声。勘助はため息をついて酒をひと口、喉に流し込んだ。皺の多い顔に陰りが濃くなる。優しげな光が隻眼に灯った。

「分からぬ。聞けば黒夜叉はおまえとは兄妹も同様であったそうだな。土蜘蛛の冶平も全幅の信頼を置いていたというではないか。それがなぜ突然、おまえを殺そうとする」

 勘助は細められたままのお久の目を覗き込んだ。お久が勘助を静かに見つめ返す。やがて僅かな沈黙の後、お久が口を開いた。

「恐らくは、裏傀儡が陰流と関わったことによるのではないか、と」

 予想した答であった。だが、それでは敵の動きが早過ぎる、と勘助は思った。陰流の継承者である上泉秀綱の暗殺に彼らが絡んだことを黒夜叉が知ったのは襲撃の明くる日以降である。その知らせを伊賀に送り、お久の謀殺のために草薙陣内を呼ぶにはあまりにも手際が良過ぎるのではないか、と考えた。だが、もしそうなら…。それを可能にするためには、お久の知らぬ間に草薙と黒夜叉の間で予め交わされていた何らかの密約があった事になる。恐らく、ずっと以前からの。あるいは、先代土蜘蛛の冶平の頃からのものが。

 勘助がそう言いかけたところを手を上げて制して、お久は目で巳陰を呼んだ。巳陰は囲炉裏の傍らに置いてあった古い手文箱を持って二人の間に置いた。お久が蓋を開け、中に納められていた古びた文書を取り出した。それを勘助に差し出す。

「先日、手の者が西上州大胡の下柴砦から盗み出しましてございます」

 お久の差し出した文書を手にして、勘助の隻眼が見開かれた。

「『陰流印可状』だと…」

「上泉秀綱の手にありました。開祖・愛洲移香斎より託されたものかと」

 勘助は書状を開き、隅々まで目を通した。書状は、上泉秀綱が流技の奥義を体得したことを記したものであった。だが世にひとつしかない陰流印可状であるということを除いては、特に変わった点を見いだすことは出来なかった。

「これを暫く、わしが預かっても良いか」

「書面はもう書き写してございます。どうぞ、お持ち帰り下さいませ」

「それにしても、よう盗み出せたものだ」

 文書をもう一度見ながら、勘助は熟々と感心した。

「思いのほか手間取ったように聞き及んでおります。上泉秀綱と高弟たちの留守を見計らったところを、予想外の伏兵に退路を断たれるところだったそうにございます」

「長野方の乱波か」

「いいえ。上泉屋敷に出入りしているという口入れ屋で、羽黒屋仁右衛門とその手の者です。特に仁右衛門は一筋縄では行かぬ者のようで、変わった体術を操るとか」

「その者についても、一応調べておいた方が良いやも知れぬな」

 お久が頷いた。その顔から、引き続き上泉の動静を探らせていることが窺えた。

「既に上泉近くには五番組を送ってございます。伊賀には、別の手の者を」

 勘助が懐から小さい包みを出し、お久の前に置いた。

「当座の金子だ。必要とあれば、人と物も動かそう。いつでも言え」

 お久は包みを開いて中を確認すると、傍らに引き寄せた。

「どうやら、奇眼坊さまの思惑とは異なる向きに事が進みだしてしまいましたようで」

「それも成り行きだ。仕方あるまい。寧ろ久には済まぬと思っておる」

 勘助は正直に心情を口にした。

 勘助が上泉秀綱暗殺を依頼した件により、既に裏傀儡の死者は六人にのぼった。そして裏切った者の数は七人。行方不明の琉元を入れると、この十日余りの間に裏傀儡は十四人の仲間を失ったことになる。さらに裏傀儡は現在、伊賀乱波である草薙一族との対決を余儀なくされてしまった。その結果配下の者たちが裏切り、元締であるお久の命までも狙った。しかもその理由を裏傀儡は今も知ることができずにいる。総合的な戦力はともかく、情報戦の上では敵となった草薙方が一歩も二歩も先んじているのだ。

「お気になさいますな。人の命を殺めて糧としようとすれば、この程度の覚悟は日ごろからできております故。身内の恥を隻鬼さまに知られることの方が辛うございます」

 お久がニコリと微笑む。髪型に似合う童女のように、やや首を傾げながら。

「あれらは、裏傀儡の腹中に溜った膿でございました。知らずに置くよりはずっと良うございました。少々の代価を払う事にはなりましたが」

 勘助は顔を上げ、淡々とした明るい表情で語るお久に目を向けた。

「黒夜叉のこと…憎くはないか」

 文書を丁寧にたたみながら勘助が静かに問いかけた。先代の冶平から付き合いのあった勘助は、黒夜叉の左門のことも少しは知っていた。生前、冶平は左門を『後には裏傀儡の良い知恵袋となりましょう』と紹介したことを思い出しながら。

 お久は目を細めたまま、再びニコリと笑った。勘助にはやはり心を隠すための笑みに見えた。そしてその中に宿っている鉄の意志を言葉に変えた。

「次に会えば、必ず殺すことになりましょう」



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