秀綱陰の剣・第四章

著 : 中村 一朗

卜伝


 勘助が館を出た頃には、日も陰り始めていた。

 薄暗い森を抜けて一本松に至るまで、お久と巳陰に見送られた。けもの道をひとり下り始めてものの十間も行ったところで振り返ると、彼らは姿を見せなかった他の者たちの気配諸共消えていた。まるで物の怪のようだ、と勘助は感心した。

(お久は変わった…)

 同時に、そう感じもした。背を向けて歩き出した時、漠然としていた印象を確かめようとして振り返ったのだ。たった数日の間で、元締を継いだこの三年で見せたお久の変わり様を遥かに越えているようにさえ思われた。何がどう変わったのかは定かではない。それでも勘助は確信できた。お久の魂の闇で深い眠りについていたものが覚醒しつつあることを。目覚めずに済めばそれに越したことがない、人の域から外れた特異な精神。全幅の信頼を置いていた二人の組頭の裏切りにより、裏傀儡の元締に相応しい非情な精神を纏うに至ったと安直には考えられなかった。もしそうなら、まだ良かったかも知れない。

 勘助は、不思議なくらいにすっきりしていたお久の顔立ちをおもい返してみた。悟りをひらいた禅僧のように、自分の有り様を見つけ出した者の静かな目をしていた。だがその奥底に宿っていた強い光は、傷ついた心の痛みに耐える凛々しさでもなければ、懐かしい記憶を葬り去った覚悟でもない。土蜘蛛の冶平がお久に求めた真の姿がそこにある。お久は自らの奥底に眠っていたもうひとりの自分に気づいたのだ。勘助は戦場で過ごした五十年以上の歳月の中で、幾人か今のお久のような目をした男たちに会ったことがあった。多少の差こそあれ、いずれも知力に優れ、日頃は穏やかな表情の、斬人の場数を踏んだ最強の強兵たちだった。彼らは何も感じずに人を斬ることができた。喜怒哀楽のみならず恐怖や興奮なども全てを超克して、あらゆる狂気が渦巻く最前線の阿鼻叫喚の修羅場の只中ですら、からくり人形のような正確さで剣や槍を振るった。生きるために。金や立身のための手段や、修業目的の斬人ですらない。ただそこに斬ってもよいと思える者がいるから斬る。人の心というよりは、獲物を狩る狼の魂に似ている。人を斬るための業を持って生まれて来たことに気づいてしまった者たち。血肉を求めて悦ぶ修羅たちを支配する阿修羅の透明な精神を持つに至った者たち。お久はそうした彼らの一人になりつつある。

 此度の事態を乗り切れば、裏傀儡にとりお久の変化は有益なものになるだろう。土蜘蛛の冶平が望んだように、やがては女であることさえ何の重荷にもならない程の圧倒的な力量を身につけることにもなる。今後も彼らに頼るつもりの武田の軍師である勘助としては歓迎して然るべきである。しかし、どうしても率直には喜べなかった。

 丘の麓におりる頃には、日はすっかり暮れていた。彼方の山々の稜線に、微かに赤い輪郭が残っている。そして西の方角から頭上を覆い始めているのは、岩天井のような暗い雨雲であった。ひと雨来るかも知れぬと思い、勘助は足を少し速めた。

 街道に近づくと、お久の心身を案じていた勘助の思考はごく自然に軍師の洞察へと切り替わった。荒れたけもの道は歩きやすい緩やかな勾配の山道へと様変わっていた。足運びは変わらずに速い。勘助は暗がりの中を速足で歩く事を好んでいた。そうしている時は、知力がもっとも充実するからである。人知れず薄笑いさえ浮かべていることがある。

 勘助は目前の暗がりを進みながら、先程聞いた話をもう一度整理し直してみた。

 事の始まりは勘助による上泉秀綱暗殺の目論みにある。既に決定している来年の武田軍による西上州進撃のための布石となるはずであった。それが、秀綱が陰流の継承者であったことから全てが狂ってしまった。猿飛陰流の技によるものか秀綱の剣才によるものかは定かではない。七人の刺客のうちの四人までが瞬時に倒され、戻った三人のうちの二人も三日後には死んでしまった。そして組頭の無界峰琉元は謎の失踪を遂げてたという。さらに追い討ちをかけるように、先代から裏傀儡に仕えていた二番組頭黒夜叉の左門の裏切りと予め用意されていた周到なお久の暗殺計画。突然現れた伊賀乱波草薙一族の暗躍。彼らの正体はおろか、その目的や今後の意図さえ明らかではない。

 疑問は幾つもあったが、特に気になるのは琉元の行方である。最も思いつきそうな潜伏先は伊賀だった。琉元が手下だけをお久のもとに帰して自分は伊賀に赴き、陰流の後継者を見つけたことを草薙一族に伝えたとする。草薙はすぐに動いて甲斐に潜入し、予め密約の出来ていた黒夜叉に接触。今後陰流の秘密を探るであろう裏傀儡の動きを封じるためにお久を殺そうとした。そう考えれば、一応のつじつまを合わせることができる。異様な程に早い伊賀の動きについてもそれなりに納得できる。

(だが、それでは…)

 琉元が黒夜叉と草薙たちに自分の手下二人を殺害させたことになる。考えにくい事だった。勘助は裏傀儡における下忍たちの組頭への情を知っている。彼らは元締よりも組頭に対して忠誠を誓う。将軍の権威よりも直接扶持をあてがってくれる家主に忠義を尽くす律儀な武士に似ていなくもない。だから黒夜叉が裏傀儡を裏切る気になったために、下忍たちも必然同じ道を選ぶ事になった。恐らく、躊躇など一切感じずに。

 この原理は琉元の場合にも当てはまったはずである。琉元が裏切るなら、下忍たちも行動を共にして然るべきであった。勘助は琉元とは面識こそないが、黒夜叉に劣らぬ組頭の度量を察していた。上泉秀綱の暗殺に失敗した直後、死んだ下忍たちの名を秀綱に告げて弔うように懇願して立ち去ったという噂話を三日前に耳にした。秀綱はこれを受け、自らの命を狙った四人の墓を作ったという。粋なはからいというよりは田舎武将の見栄であったのかも知れないが、理由はともあれ秀綱をしてそう行わしめた琉元の器に驚かされた。ところがその琉元が、残った二人をお久に預けるようにして姿を消した。それゆえ、お久はしばらく様子を見るつもりで彼らを黒夜叉にあずけたらしい。

 そして皆の誤算が重なった。結果、折角生きて戻った二人は死ぬことになった。

(犬死にだ…)

 誰の得にもならなかった二つの死を哀れんだ。

 勘助はまだ肌寒かった朝靄の丘の上に並べられた死体を脳裏に浮かべた。三通りの死に方をした六つの屍。森で見つかった伊賀乱波は二人とも奇襲を受けて殺されたものであったことが一目瞭然であった。背後から刺し貫かれた心臓を調べずとも、口と目を見開いたままの驚愕と苦悶の死顔が物語っていた。それ以上に、小屋の外に放り出されていた二つの焼死体は人であったとは思えぬほどに凄惨を極めていた。

 だが、焼け落ちた小屋の中にあった二つはそれらとはまるで違っていた。俯せに倒れていたために両手両足から背にかけて炭になった惨状であったにもかかわらず、顔から腹にかけては過半が焼け残ったままだった。自らの身に起きた不幸を知らぬまま、眠るように死んだ者たちの顔。一見同じような惨殺された遺体であったが、横に並べられた他の四つと比べれば明らかであった。二人の顔には如何なる苦痛も恐怖もない。そして胴体には、とどめを刺したとおぼしき刺傷がひとつずつ。勘助はふと、そこに黒夜叉の情けを見つけたような気がした。本音では殺したくはなかった。だが殺さねばならぬ以上、苦しませることなく命を絶とうとしたせめてもの情を。三番組が裏傀儡から抜けるためには障害になる二人を、黒夜叉は排除せぬわけにはいかなかったのだ。

 黒夜叉と琉元は別の集団に属していると考える方が自然である。琉元が身を置いているであろう、まだ姿を現さない第三の勢力があるのだ。

 陰流という暗い名が放つ闇に誘われたお久たち、黒夜叉たちと草薙一族、そして琉元と第三の力。彼らは一様に裏傀儡と陰流に関わりを持っているにもかかわらず、当の裏傀儡はその理由を知らずにいる。恐らく上泉の側でも、何も知らぬのであろう。だからこれほど容易に、陰流の印可状を盗み出すことができた。古い書状に謎を解く答が記されていると考えるほどお久は無邪気ではない。秀綱の今後の出方を探る手段として盗ませたのだ。印可状盗難の意義はそこにある。そして既にお久は身内の過去について調べ始めているはずだった。やがて答を探り出すであろうと勘助は確信していた。恐らくこの数日のうちに裏傀儡は守勢から攻勢に転じる。十四人の手勢を失ったとて、彼らの戦力が激減したわけではない。甲斐の外には裏傀儡に手を貸す忍稼業の雇われ者たちも多くいる。懐の書状に触れながら、贔屓目にも思えるそんな予感に勘助は頬を歪めた。

 上泉秀綱暗殺の件も含めて、後のことは暫くお久に任せておくつもりだった。勘助には武田軍での責務がある。三日後、勘助は諏訪に赴く予定があった。いずれ来る次の川中島での合戦に備えて新しい城を築く地を冬の到来前に決めておきたかったのだ。候補地は既に幾つかあがっている。それをしぼり込むために、真田幸隆と邂逅するつもりでいた。

 朧月を背に、暗い街道をひとり行く。いかに賑う甲州街道とはいえ、夜ともなればさすがに旅人たちの姿はない。雲は薄れ、雨の気配はいつの間にか消えていた。宿場の灯りは目前にあった。役人たちの厳しい取り締まりにより、甲府の周辺に夜盗は出没しない。笹子を騒がせていた狂賊もつい先日旅の浪人に成敗されたという。

 それ故に勘助は油断していた訳ではなかった。加えて彼の剣の腕は新当流を深く学んで達人域にまで至っている。過去に幾度か闇討ちを仕掛けられ、いずれの場合も自力で切り抜けてきた。並みはずれた力量を持っていたからこそ、暗がりの気配に足を止めた。

 直後、山本勘助は戦慄した。

 宿場に入る直前に置かれた石地蔵の先で、突然勘助の背筋が凍りついた。足は根が生えたように動かず、僅かな身じろぎどころか瞬きひとつ出来なくなった。首筋から両眼の奥までがカッと熱くなり、皺だらけの乾いた皮膚からみるみる汗が流れ出す。腑臓が鉛塊と化したように、急激に重くなった。乱れそうな呼吸を必死で抑える。

 殺気などという生易しいものではない。勘助がその背後の闇から感じたものは、死そのものだった。あまりの衝撃に恐怖すら覚えなかった。かわりに、覚悟を決めて次の瞬間を待った。死霊たちを焼き尽くす地獄の業火をも断ち割って出現する氷の刃を。そして己が首が地に落ちるか、あるいは胴を真っ二つにされる刹那を。だが、むざむざと斬られるつもりもなかった。死は避けられずとも、刺し違えるつもりで襲撃者にひと太刀でも返してやる。武田の軍師としてせめてもの意地を示すつもりでいた。

 石地蔵の背後の影と勘助の立つ空間の間で、一瞬と永遠が交錯する。風が流れ、勘助の頬の汗を冷やした。枯れ葉が足下に纏わり、去ってゆく。顎から落ちたひと滴が地に黒いしみを作った。それが合図となったように、勘助を金縛りにしていた強烈な剣気がその風と共に引いていった。その気間を見逃さず、勘助は抜刀しながら後方に跳んだ。三間の距離を置いて身を沈め、下段に身構える。地蔵の背後の闇を見据えた。

「良い動きじゃな、勘助。だが、まだまだよ。修業を怠けておる」

 声に聞き覚えがあった。耳を疑い、自らの正気さえも疑った。

 そしてほぼ同時に、この凄じい殺気にも納得出来た。

「お戯れを…。いくらお師匠でも、これでは笑えませぬぞ」

 勘助の怒気に明るい笑い声が答えた。暗がりから片手に剣を下げた赤い羽織姿の人影が現れる。坊主頭と鬢髪が夜目にも目立つ。くっきりとした笑みを浮かべていた。

 塚原新右衛門であった。またの名を、卜伝高幹。

 久しさに、怒りが波のように引いてゆく。二年ぶりの顔合わせであった。

「寿命が縮んだか。ではその年では、明日にでも死んでしまうかも知れんな」

 卜伝は笑いながら刀を鞘に納めた。わずかに遅れて憮然とした勘助もそれに習う。

「何の。百五十まで生きるつもりでおりましたわい。それが、お師匠のために百四十になってしもうた。どうしてくれまする」

 勘助は無駄と知りながら呼吸の乱れを読まれまいと強がってみた。

「皺だらけの顔で笑わせるな。折角の片目が泣いておるぞ」

「これは冷や汗じゃ」

 卜伝がまた笑った。

「ところで、腹が減った。お主の屋敷で何か喰わせろ」

 勘助は返す言葉に詰まったが、ため息とともに落ち着きを取り戻した。

「良い鹿肉がござる。久々に、鍋などつつくというのはいかがかな」

「…わしは、良い弟子に恵まれて幸せじゃ。どこに行っても皆が親切にしてくれる」

 今度は勘助が笑みを浮かべた。人を喰ったような飄々とした卜伝の態度は始めて会った三十年前と寸分の変わりもない。互いに年をとった。それだけの違いである。

 二人は勘助の屋敷に向かって並んで歩き出した。

「それにしても酷いことをする師匠じゃ。おかげで、飢えた猫に睨まれた鼠の心中がよう解りましたわい」

「良い修業になったじゃろう。軍師などと持ち上げられて浮かれておるから、心を鬼にしてお主を試したんじゃが、そう鈍ってはおらぬらしい」

「元々鬼のようなお心のお師匠が、左様なことをようもおっしゃるわい。だが、幾つになっても褒められるのは嬉しいものでございますな」

「誰が褒めた。お主はわしの剣気を感じて足を止めた。捨て身で迎え撃つつもりであったのであろうが。命を捨てて、名を残すか。武士らしくなったな、勘助」

 明るく聞こえる卜伝の言葉には、やや皮肉な剣がある。

「お気に召しませぬか」

「お主の生きざまじゃ。勝手にせい。わしが兎や角言うことではない」

 勘助は立ち止まり、卜伝は知らぬ顔でスタスタと先を急いだ。勘助はすぐに卜伝に追いついた。前を向いたまま口を開く。目尻の皺がさらに濃くなった。

「あの場合、お師匠であればどうなされました」

 愚問であると知りながら、聞かずにはおれなかった。自分以上の剣の腕を持つ者に闇討ちをかけられ場合のことである。齢七十に近い今なお修業の旅を続ける天才塚原卜伝以上の力量を持つものなどいないと確信はしている。だが、もしも達人級の若い襲撃者数人が待ちぶせたとしたら、師匠ならどう応じるであろうか。例えば先日裏傀儡が上泉秀綱に仕掛けたように、暗殺に長けた者たちの罠に追い込まれた場合は。

 暗がりに立っていた石の地蔵を思い浮かべ、勘助の肝がスッと冷たくなった。圧倒的な技量を持つ者が闇の奥から放つ比類なき殺意の蜘蛛の巣。その中心に搦め捕られた時、対応の決意によって人は己の本質を知る事ができる。

 卜伝は、にたりと勘助に笑いかけた。

「夜道は物騒じゃから、ひとり歩きはせぬようにしておる」

「…お師匠!」

「戯言じゃ。そう急くな。わしなら、討って出る」

「ほう。なるほど…」

 卜伝がそう答えるであろう事はわかっていた。答を確認したかっただけである。

「後は成り行き任せだ。運の良い方が残るだろうさ」

 危急に際し、卜伝は進んで渦中に踏み込むという。その方が勝算を期待できるからではない。単に好んで己の運と力を試そうとするためである。上泉秀綱の場合もそうであったのであろうと勘助は思った。剣の天才とは他者の闘心を読むのみならず、特別な運の流れを引き込むことができる者たちのことを指すのかも知れぬ、と。命がけの勝負時において発動する兵法の運。守るよりも攻める。卜伝のような者たちの魂に深く刻まれた阿修羅の本能。それゆえ、彼らは戦の鬼神に深く愛されている。

「お師匠の言われるとおり、拙者はすっかり武士らしゅうなったやも知れませぬ」

 吐息をもらすように、勘助がぽつりと呟いた。

「ほう」と卜伝が応じて、喉の奥でククッと笑う。大目玉を細めて、ちらっと勘助の横顔を盗み見た。

「『武』という字は、戈を止めると書きまする。武士は攻め入ってこようとする者たちを止めてこそ誉。お家のため、領民のため、あるいは我が名を残すためでござる」

「良い心がけじゃ。立派な生け垣になれるぞ。晴信殿が聞いたら、さぞ喜ぼうな」

「存分にお笑いくだされ。あの時、以前の拙者なら一か八か逃げ出しておったところでございましょう。お師匠のもとで修業に励んでいた折ならば、あえて討って出たやも知れませぬ。したが今なれば、やはり踏みとどまりまする」

「それが勘助の意地なら、それで良い。最後までその武士の業を全うしてみせい」

 上機嫌な声でさらりと言った。卜伝のあの振舞いがほんの悪戯心によるものであったのか、軍師として名をなした勘助の変わり様を見届けようとしてのことであったのかは定かではない。理由はともあれ、勘助は自分と卜伝の違いを知らされた。守るべきものを持つ者と心のままに生きる者との違い。生涯の過半を同じように血みどろの戦場で生き抜きながらも、異なる道を行くに至った年老いた武士と兵法者。

 しばらく二人は無言のまま歩いたが、やがて卜伝は世間話を始めた。野辺山の妖怪を色じかけで退治をした百八才になる老婆の笑い話や山狩りから逃げ延びて肥溜めに落ちて死んだ哀れな落ち武者の悲劇など、毒にも薬にもならぬ浮き世の与太話を神妙な顔で考え込んでいる勘助の心根も構わずにおもしろおかしく語って聞かせた。

 そのうちに、勘助は露骨な呆れ顔で口を開いた。

「お師匠は余程人恋しかったのではござらぬか。以前よりも、よくしゃべられる」

「そうかな。じゃが、評判は良いぞ。わしに講釈師になれと薦めた飯盛り女もおった」

 やがて屋敷に着いた。その四半時後に二人は、大皿に盛られた薄切りの鹿肉を前に舌鼓を打っていた。無言のまま、囲炉裏にかけられた鉄鍋の味噌湯に肉を晒しては薄紅色に変わる頃合いを待って狼のようにがつがつと胃に詰め込んだ。百匁の肉がすぐに消えた。人心地着くと、卜伝は薄切り肉を三枚づつ火箸に刺し、腰の袋から塩を一抓み振りかけて炉端に置いた。焼き上がると、肉汁の滴る香ばしい火箸の串焼きの一本を刺し出す。

「ほら、やるよ」

 勘助は自分の箸を置いて受け取り、それを一切れ口に入れた。

「これはまた妙な味でございますな。その袋の中、ただの塩ではありますまい」

「長崎で知りあった南蛮人に貰った薬味と塩を合わせてみた。獣肉には良くあう。うまいじゃろう、勘助」

「確かに…。不思議な味だわい。このようなものは初めてでござる」

 勘助が残りの肉を咬み千切る。それを見て、卜伝も自分の分を口に運んだ。

「思っていたとおりだ。やはり猪よりも鹿肉の方があう。あれはあれで美味かったが」

「ほう。猪肉でも試されましたか」

「四日前に、笹子峠の外れで喰った。途中、狂賊どもに邪魔されたが」

 勘助が頷いた。卜伝は火箸に次の肉を刺している。

「泥虫の小源太どもを斬ったは、やはりお師匠でございましたか。旅の剣客がただ一人で退治したと聞いてはおりました。先程お会いした時、あるいはと」

「役人たちには卜伝の名は伏せておいた。晴信殿に迎えを寄越されては窮屈でかなわぬ。また、久々にお主の腕を試してみたかった事情もあったのでな」

 卜伝は笹子での出来事を、一切脚色することなく淡々と語った。

「…なんと、それはまた。知らぬうちに随分と世話になっておりましたようでございますな。それで、その狂った男は今はどうなりました」

「無邪気に笑っておるじゃろう。筆頭役人の紹介で、山中の古寺に預けてきた。人の良い坊主でな。事情を話すと、快く引き受けてくれた。わしも寺で一日つき合ってみたが、あの男、案外あのような暮らしには馴染めるかも知れぬ」

「坊主は喜びますな。従順な下僕を手に入れたようなものでございましょう」

「そうじゃ。お互いに都合が良い」

「万一、男が正気を、いやもとの狂気を取り戻したら、いかがなさるおつもりか」

「わしの知ったことではない。木端役人のようなことを言うなよ」

 卜伝の眼光が一瞬底光りを放つ。勘助は拗ねたような苦り顔を囲炉裏に向けた。六十を過ぎた老人に似合う表情ではなかった。卜伝が鼻で笑う。

「ところで、勘助。大胡の上泉伊勢守秀綱という人物を知っておるか」

 勘助の目がギラリと光った。問うた卜伝の方が驚く番だった。

「どうして、その名を」

「山賊の〃血地蔵の左近〃とやらに聞いたのだ。死体を見て、斬り口がわしと同じだと言いおった。その昔、血地蔵が仕えていた主だったらしいぞ」

「…なるほど。そうでございましたか」

 卜伝は串焼きを差し出し、勘助が受け取る。囲炉裏の火を隻眼で見据えながら、勘助は紙のような味に変わってしまった肉を頬張った。

「こら。勿体ぶらずに教えろ。上泉秀綱のことだ」

 勘助は顔を上げ、軍師の目で小さく頷いた。

「上泉秀綱は大胡の上泉に在る下柴砦の城主にございます。西上州を束ねる箕輪の武将長野業政に荷担しております。武田の西上州進軍に障害となるため殺めるつもりでいた人物にございました。十二日前に刺客を放ちました。ところが…」

 今度は勘助がこの十日ほどの間に起きた出来事を詳細に伝えた。他には決して漏らしてはならぬ秘事である武田の軍略から秀綱暗殺の必要性を述べ、そのために送り出した乱波が返り討ちに遭った事から草薙一族と裏傀儡との暗闘までの経緯を四半時近くかけてゆっくりと語った。その間、卜伝は目が耳になったように大きく見開いて聞いていた。

 話し終えると、勘助は最後に懐から秀綱の所持していた古い書状を差し出した。

「これが秀綱のもとより盗ませた陰流の印可状にございます」

 勘助を見据えながら、卜伝は書状を手に取った。

 勘助がじっと見つめる前で、書状を開いて視線を落とす。ゆっくりと書面を目で追い、最後のあたりで動きが止まる。暫くして丁寧に畳み、膝元に置いた。

「…この馬鹿者…お主、間違えておる」

 印可状の白い裏表紙を見ながらぽつりとつぶやいた。

「お気に召しませぬようで。したが、これも軍略。勘助めの任にござる」

 話を始めた時から、勘助は卜伝からのいかなる非難も甘んじて受けるつもりでいた。暗殺を恥じ入るつもりなど毛ほどもなかった。この乱世でも超然と生きられる剣の天才こそ傲慢である。返り血を浴びても汚れることのない者に空の高みからどう見下ろされて詰られようとも、地を這う者たちが青臭い良心に胸を痛めねばならぬ道理はない。

「だから違うと言うておるのだ」

「…」

「これは陰流の印可状であろうが。猿飛のものではないぞ」

 予想外の言葉に、勘助は一瞬返す言葉に詰まった。

「左様でございます。拙者には紛れもなく陰流印可状に見えまするが」

「ああ、そうだよ。これは愛洲移香斉先生がお書きになったものじゃ。独特の書体じゃから見覚えがある。間違いはあるまい」

「陰流、いや愛洲移香斉と交流があったのでござるか。初耳ですぞ。なぜ今まで」

「お主が聞かぬからじゃい。三十年ほど前に出羽山中の修業場で二度ほどお会いしたことがある。いずれの時も、彼の地に三日ほど滞在した。だから、違うと申しておる」

 卜伝は時に理屈を通り越して人に結論を投げつける。兵法者らしい直感が言葉を紡がせるのだ。今がまさにそうであった。何が違うのか、勘助には理解できずにいた。だがそれでも、勘助の腹の中で先程食した鹿肉が蠢動しだした。自らの心臓の鼓動が聞こえる。耳から首の後ろにかけて、熱く疼くような感触があった。何か大きな勘違いをしていたことを知らされる暗示である。勘助は固唾を呑んで卜伝の次の言葉を待った。

「お主の話しておった事は猿飛の技、猿飛陰流に因む噂話じゃ。陰流ではないぞ」

 一瞬、勘助は軽い眩暈を感じた。

 陰流とは異なるもうひとつの陰流・猿飛。そして卜伝の声が勘助の理性の水面に波紋を広げる。さざ波は、卜伝の記憶の中にある見知らぬ遠い過去へと向かってゆく。すぐに動揺は去っていった。

「…知りませなんだ。違うのでございますか。陰流と、猿飛陰流は」

「知るものなど殆どおらぬから無理はあるまい。わしとて詳しいことなど知らぬ。猿飛陰流は陰流から分れた。移香斉先生のご子息小七郎殿が興した流派だそうだ。剣の流派というよりも、愛洲の家督を継ぐための方便であったらしい。天下を覆す宝というほど大袈裟ではないにせよ、確かに山奥に住む一族としては異様に裕福であったようだ。帝に使えていた頃から代々受け継がれてきたという猿飛の技と遺産を小七郎殿に託そうとなされたのだ。小七郎殿は移香斉先生の晩年、確か六十八才の時の子であるはずよな」

「猿飛の技と遺産…。それでその御子は、正当な陰流を継がなかったのでございますね」

「そうじゃ。当時、移香斉先生は七十半ば。小七郎殿はまだ六つ七つの幼子であった。丁度わしが訪ねていった時、先生はやっと陰流の継者を見つけたと喜んでおられた。三十年捜して、出会えたそうだ。陰流の奥義を極めるには余程の剣才がいるらしい。それまでにも幾十人もの剣に秀でた者たちが皆、技を極めようとして命を落としたという。最後まで生き残ったのは、唯一人だけであったと言っておられた」

「それが、上泉秀綱であったと」

「恐らくそうだったんじゃろうよ。名は知らぬ。会う事も出来なんだ。それどころか移香斉先生は、なぜか一族の者たちにもその継者の名さえも告げなかったようだったぞ。同じ月山で同じ師に学びながら面識を持たぬとは妙な話だがよ」

 なるほど、と勘助は納得した。琉元が秀綱と会った時に陰流の継者と気づかなかった理由はそのためだったのだ。しかしなぜ移香斉は、愛洲一族の者たちに秀綱を会わせるどころか名さえ伝えようとはしなかったのか…。

「陰流の習得は、お師匠の天賦を持っても不足でございましたのか」

 本心で聞いてみた。率直な問いに卜伝はにたりと笑う。

「馬鹿者。既に己の太刀筋を見つけていたわしには、新しい流儀に染まるつもりなどあるはずがなかろう。初めて移香斉先生を訪ねた時は、わしは場合によっては立ち会うつもりでおったのだ。不思議な剣を使うという話を確かめようと思ってな。なるほど噂に違わぬ力量ではあった。あの時試合えば、どちらかが命を落とすことになったであろう。間が悪ければ、相打ちだったかも知れぬがよ。移香斉先生の辿り着いた奥義はそういう類の剣であった。だが、会うて話しているうちにその気が失せたわ。弟子に後を託す気になれば、その者はもう兵法者ではない。ただの隠居じゃい」

「それでもお師匠は愛洲移香斉殿を先生と呼びますぞ」

「技よりも人柄だ。お主も見習ろうた方が良いぞ」

「生まれてより策謀を好む性でござりますれば、今さら変われませぬわい。それより、お師匠が若い頃に見た陰流の極みとは如何なものでございました」

 卜伝の半眼が閉じられる。頬の皺が深くなり、笑っているような顔になった。その瞼の裏には過去が再生されているのであろうと勘助は思った。

「わしの剣に似ていた。よくは解らぬ。が、恐らく元は忍びの技じゃろうて。陰流などという根の暗い名に纏わる因果もそのあたりの由縁であろうさ。代々受け継がれてきた猿飛の技を、移香斉先生が新しい剣流に作り替えた。ある時天啓を受けた、と戯言のような口調で言っておられた。だから、開祖と同じ技を修めることのできる者は同じ声を聞く狂い耳を持つ者だけだそうじゃ」

 勘助は先刻の暗闇から放たれた卜伝の凄じい剣気を思い出した。

 秘剣〃一の太刀〃。新当流開祖・塚原卜伝高幹の名を天下に轟かせた奥技である。虚心のまま踏み込んで、一挙一動作で相手の気配に応じて斬らせてから斬る。斬ろうとさせてから斬る。結果、相手は卜伝と剣を交えることさえできずに倒されてしまう。実際には如何なる技なのかは、凡俗の達人には理解出来ない。この神妙剣を修得した者は卜伝の弟子の中でもただ一人、京の都に住む北畠具教だけである。〃一の太刀〃はその精神を表す。技はその器に過ぎない。勘助にはまだ遠く及ばない境地であった。

 陰流の開祖・愛洲移香斉はその卜伝と同じ類の技を使ったという。そして唯一人の陰流の継承者である上泉秀綱も同じ技を熟せるはず、ということになる。

「移香斉殿と会ったのはその頃だけでございますか」

「おお。十年ほどして秋口にわしは出羽を訪ねてみた。その年の初めに、移香斉先生は亡くなられておった。間もなく一族の者たちも何処かに消えたらしい。小七郎殿が猿飛陰流を興して愛洲の家督を継いだと土地の者たちから聞いた。名も惟修と改めたそうだ。以後の事は聞かぬ。代わりに猿飛陰流に纏わる別の噂が語られ出した。お宝のことじゃよ」

 勘助は腕を組み直して、陰流印可状を見つめながらじっと考え込んだ。

「面白うございますな。なぜ愛洲移香斉殿は猿飛の技から陰流を編み出したのか。いや、編み出さねばならなかったのか。また、なぜそれを身内ではない誰かに受け継がせようとしたのか。さらに猿飛陰流の継者という愛洲小七郎惟修は今はどこにどうしておるのか。猿飛陰流に因む代々受け継がれてきた遺産とは何の事であるのか…」

「さあな。そのような事、わしが知るか。都に行って物知り爺いにでも聞いてこい」

 勘助は目前に戻されていた印可状を再び卜伝の膝元に差し出した。

「話を聞いているうちに、この陰流印可状は拙者が持つよりもお師匠が手元に置いて頂いた方が相応しいものと心得ましてでございます。差し上げまする」

 卜伝が勘助の顔をニヤニヤしながら下から覗き込む。

「やい、勘助。何を企んでいやがる」

「はっ。何かお気にさわることでも言いましたかな」

「このわしに、何をさせようとしているのかって聞いたんだよ」

「何を、滅相もない。将軍家や信玄公さえも下に置かぬお師匠を、この勘助ごときの浅知恵で操ろうなどとは思ってもおりませぬぞ。ただ、お師匠が近く赴こうとする先様にはせめて良い手土産を、と気を回したまでの事」

 卜伝の顔からニヤニヤ笑いがゆっくり消えた。しばらく二人は無言。やがて勘助が茶を差し出し、卜伝が受け取る。憮然とした表情で一息に飲みほしながら。

「わしは口が軽い。その場の勢いで何もかも相手に告げてしまうかも知れぬぞ」

「お師匠の勝手でございましょう。何を言うに及ばす例えその相手を斬り伏せようとも、拙者ごときが兎や角言える事ではございませぬので」

「喰えぬ奴だ。良い軍師になったものだな、勘助」

「敬愛するお師匠にお誉めいただき、恐縮至極にござる」

 卜伝は印可状を懐に入れると、大刀を手に立ち上がった。

「馳走になった。また近く寄る。晴信殿にも、よしなにと伝えておいてくれ」

「まあ、お待ちを。そうお急ぎになられますな。夜具と風呂の準備もさせております」

「野宿には慣れておる。それに些か気が急いておる。このような良い気分は久しい」

「お待ちを、と申しますに。夜道のひとり歩きは物騒だからなさらぬのではございませぬか。今宵はこのあばら屋にお泊まり下され。旅の話など、もそっと窺いとうござる」

 卜伝は囲炉裏の鍋に目をやった。僅かに間を置いて、腰を下ろした。

「確かにそう急ぐ旅でもない。朝飯を食ってからでもよいか」

「実はお師匠の朝膳にと山芋に豆腐と卵を用意させております。手に入れば、納豆も」

 卜伝の顔が子どものようにパッと明るく輝いた。

 暫くして大量の酒と肴が部屋に運ばれてきた。雨戸が開け放たれ、篝火が焚かれた。いつの間にか近在や屋敷に住み込む気さくな者たちが集い、季節はずれの祭りのような大騒ぎになってしまった。皆がよく食べ、よく笑った。本当とも法螺とも区別のつかぬ与太話を次々に披露する卜伝を座の中心に置いて、賑やかな宴会は丑三つ時近くまで続いた。言うまでもなく、卜伝が屋敷に入った直後に勘助が手配した宴であった。

 結局、卜伝は明くる日の昼過ぎまで屋敷にいた。遅い朝食をとってから朝湯に入ってゆっくりくつろぎ、日の陰り出す頃合いを待って人知れず屋敷を後にした。

 勘助が弁当にと厨の女に作らせた梅干し入りの胡麻と海苔の握り飯を持って部屋にいった時には、火鉢の傍らの座布団に置き手紙ひとつ残して卜伝の姿は消えていた。

 手紙にはただ一言、

『わしは、良い弟子を持って幸せ者だ』と、記されていた。



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