秀綱陰の剣・第五章

著 : 中村 一朗

黒夜叉


 三人が館に入ってから四半時ほど過ぎた頃。

 冷たい秋夜の帳が辺りを包み込む。欠け落ちた月も厚い雲に隠れた。

 館を囲むように集った、闇に潜む者たちの数は二十三。皆、黒装束姿である。

 草薙陣内率いる伊賀者たちであった。ただし黒夜叉たちの姿はない。此度は、彼らは甲府に来る代わりに、山本勘助の隙を窺って諏訪に潜入している筈である。機会があれば、勘助を殺すように黒夜叉には指示を出していた。またそれが不可能でも、勘助を影から警護している裏傀儡一番組を見張る役目についていることにもなる。

 今日この地の警護は、裏傀儡にとり致命的な程に手薄になっていた。甲府に潜んでいた草薙の下忍、十郎が連絡を躊躇うほどの手抜かりであった。確かに危険な罠は森に無数に仕掛けられている。日毎に変えられるであろう館へと至る安全な道筋は一本のみ。だが、忍び技に長けた者が数を頼れば、十分に攻め落とせる程度の仕掛けであると断じた。十郎は隼を使ってこのことを伊賀の里に伝えた。二日前のことであった。

 そして今日、旅から戻ったらしい裏傀儡の三人が館に入るまで十分に距離を置いて跡を追った。罠の仕掛けられていない道筋を知り、周囲に敵の姿がないことを確認すると、追跡者は主力を呼び込んだのだ。驚くほど簡単に事は進んだ。

 既に攻撃のための配置は終わっている。一本松の入口に三人。館に至る道の中間地点に二人。館を囲む築地壁の影に、間もなく斬り込む手筈の十六人。そして彼らに指示を出す草薙陣内が、下忍の十郎を従えて館の全景を見下ろせる位置に着いている。

 草薙陣内は、叢に伏せるように置かれた人型の傀儡の影にちらりと目をやる。

「子ども騙しの戯事を…」

 嘲るように呟いた。その声に十郎が鋭い視線を送る。

「この間のこともある。二人、殺られてるんだ。侮れない」

 陣内は緊張した十郎の声を鼻で笑って返した。

「怖じ気づいたか、十郎。それでいい。良い経験になる」

 暗がりで十郎の目がギラリと光る。頬を紫色に染めた。同じ乱波とはいえ彼らは裏傀儡に比べて殺人の経験は少ない。戦場を疾駆したことさえ殆どの者がなかった。それでも皆無ではなかった。各自、数人の者たちを手に掛けてはいる。だが、それだけだった。それが十郎を不安にさせていた。先日殺された二人は草薙の中でも名うての豪の者であった。陣内にも目をかけられ、様々な任をこなして次の組頭と囁かれてもいた。その二人が、牛馬のようにあっさりと殺されたのだ。十郎は彼らの敵を討つというよりも、彼らを殺した裏傀儡の実力を見極めるつもりでここに来た。裏傀儡の元締を殺すことで、殺人の経験不足が乱波の劣勢を示すものではないと確信できる証がほしかった。古い因果の角逐に縛られている草薙陣内と一族の思惑など、十郎には関わりがない。

「そろそろ仕掛けるぞ」

 陣内の声に十郎が頷き、右手を上げて合図を送る。ほぼ同時に、築地壁の八つの影が動き出した。その時、館の板壁から漏れていた蝋燭の灯りがすうっと消えた。館から人の気配さえも共に消えたように見えた。まるで、彼らの動きを見透かしてでもいたように。

「どうする、頭。止めるか」

「いや。中にいるのは、女二人とガキと爺いだ。八人でかかれば十分過ぎる」

 実際には陣内は躊躇ったが、襲撃を中断する判断は下さなかった。既に手下たちは壁際を離れ、館に向かっている。後は彼らの技量に任せれば良いと考え直した。

 四人づつが築地壁の南西と北東の両隅に残り、双方のひとりが矢を番えた大弓を構えている。どちらも腕は確かだ。南北のいずれから飛び出しても確実に狙える位置である。

 裏の引き戸に四人、表の雨戸の傍に四人が取りついた。そして小さな二つの破壊音と共に引き戸と雨戸が同時に蹴破られ、八人が中に消えた。

 今、僅か五十坪足らずのその館の中には殺人を生業とする十二人の獣たちがいる。既にもう死闘が始まっている筈であった。数瞬。館を中心に、静寂の時が流れる。その場を覆う冷たく濃い殺意の霧が虫たちの声音さえ消していた。

 十郎の頬を何かが這い下りた。右手を当てて、それが冷や汗であったことに気づく。

「遅い。変だぞ、頭。まだ何の合図もないなんて」

「焦るな。すぐに答が出る」

 十郎が盗み見た陣内の横顔に、張りつめた緊張があった。不吉な展開の匂いを嗅いでいることは十分に察することが出来た。口元が小さく震えている。

 突然、南側の蹴破られた雨戸の間から、黒装束の男が飛び出した。地で反転し、よろめきながら真直ぐ陣内のいる方へ向かってくる。低い口笛のような声が喉から漏れ、庭の外れで、がっくりと膝をついてそのまま崩れ落ちた。

 陣内と十郎が走り寄った。すかさず南西の四人が防護の陣を敷いた。

「どうした、圭助」

 若者は弱々しく十郎を見ると、喀血して絶命した。がっくりと垂れた首に切断された気管が露出するほどの深い傷口が開いていた。右胸にも背まで貫く刺し傷がひとつ。

 庭の北側から絶叫が聞こえた。その場にいた全員が陣内に従って駆け出した。

 十郎は呼び子を鳴らし、一本道を固める見張りたちに異変を知らせた。心臓は早鐘のようになっていた。三人ずつ二手に分かれて裏に向かう。夜目の利く彼らの視界の届く限りには人影や動くものの気配はない。北の裏庭には五つの死体が転がっていた。二人は矢で首を貫かれ、二人は背後から袈裟に切られていた。最後の一人には首がなかった。二人は斬り込んだ者、三人はこの場に待機していた者である。そして、重傷の者が一人。

「三次!」

 男は虫の息だった。わき腹が切り裂かれ、血海の中に身動きすら出来ずに沈んでいる。十郎が助け起こした。激しく堰き込みながら、うっすらと目を開いた。

「に…逃げろ。…皆殺しになるぞ…中の者は、皆殺された…」

「しっかりしろ!中で何があった」

「罠だ…。奴等、準備して…やがった…。恐ろしく…手強い」

 近づいてくる足音に陣内が顔を上げた。道の途中で待機していた二人が駆けてくるところであった。その姿に深い安堵を覚えた。陣内はすでに二人が殺されているものと諦めていたのだ。一方の二人は、六人の惨状を目にして顔色を変えた。

 重傷の男の傍らにいるのは陣内、十郎と、後から来た二人。他の四人は四方に散り、近くにいるであろう敵の奇襲に備えて周囲を探りながら闇に全神経を集中している。

 築地壁の一角を調べていた下忍のひとりが戻ってきた。

「頭。抜け穴がある。奴等、あそこから出て平蔵たちを殺したんだ」

 続いて、館を調べてきた者が戻った。

「四人とも中で死んでる。毒矢だ。裏傀儡どもの姿はない」

 陣内の形相が醜悪なものに変わる。両眼に憎悪が暗く揺らめいた。

 何が起きたのか想像がついた。紅蜘蛛たちは、館に踏み込んできた八人を待ち伏せたのだ。あるいは何らかの仕掛け枢を使ったのかも知れない。いずれにせよ八人を一瞬で倒して館から抜け穴を通って三次たちの背後に回り、四人を斬った。そして駆けつけてくる陣内たちと鉢合わせをせぬように森へ姿を消したのであろう。

「三次。気を失う前に答えろ。奴等、何人だ」

 重傷者の襟を掴んで陣内が叫ぶ。

「四人…、いや…三人。…貉より疾い…」

 男の意識が途切れた。陣内は暗闇に残った七人の顔を見回した。どの表情も固く強張っている。自分を入れて八人。一本松の見張りを入れれば、まだ手勢は十二人になる。彼らには既に合図を送ってある。間もなくこちらに到着する筈であった。

「…おのれ。紅蜘蛛」

 陣内は血を吐くように呟いた。以前は彼らの犬に過ぎなかった裏傀儡が十三人もの草薙の忍びを葬った。飼い犬に手を噛み千切られたに等しい。手下を殺されたことよりも、卑しい畜生が由緒ある草薙を脅かしている事の方が陣内には許せなかった。

「奇襲をかけたはずのおれ等の方が十一人死んだ。向こうは無傷だ」

 大柄な下忍のひとりが言った。誰もが抱いたことを口にした。裏傀儡の不気味さが、人がひ弱な動物だった頃の本能に根ざす盲目的な闇への恐怖心を煽っている。

 陣内は抜刀すると逡巡なく、意識のない三次の心臓を刺し貫いた。男の肺から最後の吐息がふうっと漏れる。小さい痙攣を残して三次は死んだ。

「これで十二人だ」

 陣内に宿った狂気が、浮き足立ちかけた五人の不安を払拭した。彼らの目に陣内に対する嫌悪も見てとれたが、腰が引けているよりは遥かに良い。三次が助からない傷であったことは誰もが気づいている。深手を負い、動けなくなった手下にとどめを刺す。草薙の頭として陣内がやらねばならないことであった。

「一本松の左兵次たちと合流する。注意を怠るな」

 陣形を崩さずに走り出した。前後方向を二人づつ、左右方向を二人づつが目を配る。

 屋敷を離れ、築地壁を越えたところで異変に気づいた。道の様相が変わっていた。あった筈の置き石や突き出ていた枝々が消えている。

「おかしいぞ、頭。ついさっきは、こんなふうじゃなかった」

 道の見張りをしていた下忍のひとりが言った。

「わかってる。奴等、森に逃げた」

 言いながら、陣内はそうではないことを確信した。逃げたのではない。新たな奇襲のために身を潜めているのだ。道標を消したのはこちらの困惑を助長するためだ。そして無数の罠を仕掛けた森に誘い込むつもりでいる。だがそのことが、そのまま裏傀儡の弱点をさらけ出してもいた。敵は少数。三人、ないしは四人だ。無勢であるからこそ、小賢しい仕掛けに頼らざるを得ない。館での敗因は、裏傀儡の手の内に乗ったことにある。その結果各個に殱滅されてしまった。暗殺に長けた者の奇襲を侮ったための惨敗である。

 だが敗北の認否に関わらず、彼らはまだ危急の渦中にいる。陣内の命題は、最小限の被害でこの地を脱出することに変わった。陣内は冷たい計算を終えていた。紅蜘蛛たちはこの森を知り尽くしている。森に逃げれば、恐らくは全滅。せいぜい一人か二人が生き残れるかどうかだ。道を行けば毒矢を番えた弓や吹き針に狙われることも確実である。走ったところで、二人ないし三人が倒されるだろう。だが倒れた者に構わずに走れば、森を抜けて行かねばならない裏傀儡よりもひと足先に一本松に辿り着くことができる。

 走るしかない。陣内は後者を選択した。

「一本松まで約半里だ。一気に走るぞ。誰が倒れても足を止めるな。足下には十分に気をつけろ。新しい仕掛けがあるかも知れぬ。行くぞ!」

 十郎を先頭に、陣内を後駆にして八人は走り出した。深夜の獣道を必死で疾走する様は滑稽ではあったが、彼らを取り巻く状況は死との直面である。五町も行かぬうちに、第一の罠が起動した。初めに気づいたのは陣内だった。左前方の椈の枝の上に乗っていた人型の傀儡の位置が以前と異なっている。その下の藪に隠されていた傀儡の影の位置も違っている。不吉な人形が動くような

「カタリ」という音を聞いたような気がした。警告を発しようとした次の瞬間、人形たちからビュンと弓の弦を弾く音がした。

 五本の短槍が夜陰を飛ぶ。二本は大きく逸れ、一本は十郎が打ち払い、あとの二本が下忍たちを襲った。十郎の後ろにいた男が背から胸を貫かれて、そのまま地に縫い止められた。もう一本がその後ろの男の喉を真横から抉りながら突き抜けて、闇に消える。

 二人とも即死。

「止まるな。走れ!」

 後方から再び投じられた一本の槍を、今度は陣内が打ち払う。それを投げた影に向かって同じ軌跡を追うように手裏剣を放ったが、手応えはない。

 六人は再び走り出した。追う者から追われる者へ。立場は完全に逆転してしまったことを改めて確認するには十分過ぎる犠牲であった。

「頭、あれが裏傀儡の 枢 人形か」と、十郎が走りながら。

「そうだ。傀儡糸を使って操る。だが、後ろから槍を投げた奴は人間だ。あと三人がこの先にいる勘定になる」

「こっちは六人に減った」

 さらに三町。先頭の十郎が突然立ち止まった。後の者たちもそれに続く。

「どうした」と陣内が前に出ながら。

「あの藪。前とは違う。あの木の枝ぶりも違うみたいだ」

 死の恐怖に蝕まれつつある誰もが、十郎の言おうとすることをすぐに理解した。

「何を言ってやがるんだ。ここまで一本道だ。間違う筈がねえ」と下忍が言う。

「ぐずぐすしてると、さっきの奴に追いつかれるぞ。急がねえと」と、別の下忍。

「でも、違うんだ。頭、おれ等は謀られた。ここは来た道じゃない。森の中だ」

 陣内の目が十郎の強張った顔をじっと見つめる。そして頷いた。

「さっきの襲撃を受けた所だ。あそこで別の方角に誘い込まれたに違いない」

「そんな筈はねえ。まっすぐ道なりに来たじゃねえか」

 大柄の下忍が挑むように怒鳴る。陣内は男を睨み据えて首を横に振った。

「どうやら運も費えたようだ。覚悟を決めろ」

 その言葉に、腹を括った者と動揺する者とが二つに分かれた。

「冗談じゃねえ。こんなとこでくたばってたまるかよ!」

 大柄な男がじりじりと後じさる。 徐 に剣を抜いた。

「落ち着け、赤ハナ!まだ死ぬとは限らねえ」

 十郎が前に進み出て、剣をおさめさせようと手を翳した。

「うるせえ。知ってるぞ、頭。頭はおれ等を囮にして一人だけ逃げる気なんだ。玄馬!」

「えっ…」

 少年の面影が残る小柄な男が戸惑うように応じた。

「こっちへ来い。おれたちだけでも逃げるんだ。見ただろう。頭はてめえのことしか考えてねえんだ。さっきもまだ息のある三次を殺したんだぞ。次はおれたちの番だ」

 玄馬は陣内と赤ハナを不信な目で交互に見る。そして赤ハナを選んだ。

「どこに行くつもりだ、赤ハナ。協力し合わさなければ逃げられないんだぞ」

「うるせえ!うるせえ!てめえらの話なんか信用できるか。この道は間違っちゃあいねえんだ。おれにはわかる。行くぞ、玄馬」

 赤ハナが十郎を突き飛ばして走り出した。玄馬が躊躇いがちに後に続く。

「止せ!戻れ!」

 十郎の悲壮な叫び声も彼らの背には届かなかった。

 陣内たちから十間ほど離れた地点でそれは起きた。先行する赤ハナの足下の地中から、突然白刃が飛び出した。剣は勢い込んで走っていた赤ハナの睾丸と陰茎を両断し、さらに下腹部まで切り裂いた。反射的に突き出した両の手指共々。鎧を着ての戦いが主流だった戦場においては、無防備な股間を狙う技は意外な程多い。裏傀儡が仕掛けた枢もその類のひとつであった。赤ハナは大量の黒い血を撒き散らしながら息絶えた。

「赤ハナが…」十郎が呟く。

「戻れ、玄馬!」

 陣内が叫んだ。赤ハナの脇に佇んでいた玄馬が茫然とした顔を彼らに向ける。

 がその時、黒い影が右の暗がりから飛んだ。一瞬、銀色の閃光が玄馬の首筋に走る。反対側の巨木の幹に、人の肩幅ほどもある三日月型の刃が重い音をたてて深々と突き刺さった。同時に、玄馬の首がごろりと落ちた。首を失った上体は、それを拾おうとするかのようにゆっくりと地に崩れた。黒い風が二つの屍から彼らの方に吹いてきた。

「散れ」

 陣内の命令に二人がすぐに反応した。右手の木陰に飛び込み、森の奥へ消える。

 陣内は振り返り、左手に向かおうとする十郎の背を見た。

「死ぬなよ、十郎」

「頭も、ご無事で」

 十郎も森の闇の中へ。

 陣内は二人が殺された方角に向かって全力で走った。その方向に、殺気を放つ二つの影が潜んでいることは察知している。左手にやや短めの直刀である忍刀を逆手に握り、右手には十字手裏剣を二枚。その両手を前で交差させるように構えたままの防御の姿勢で。手下たちのために少しでも時間を稼ぐつもりでいた。死は既に覚悟している。

 雲が裂け、夜空にうっすらと新月が覗いた。

 直後、三本の畳針に似た手裏剣が真横から陣内に飛ぶ。が、忍びの頭である本能と裏傀儡への憎悪が陣内に神速の反応を可能にした。目で捉えるより疾く、首を狙った一本目を掌の手裏剣で弾き、胸に飛んできた二本目を鎖で編んだ左の手甲で受け流す。が、三本目はかわし切れずに右大腿部に突き刺さった。大針の飛来した方向に右手の手裏剣を投げて牽制しながらそれを足から引き抜き、苦痛を無視して道に沿って走り続ける。

 視界の隅に玄馬の首を捉えた。半開きの虚ろな目が脳裏に何かを伝えた。顔を上げた陣内は、淡い月光を受けるピンと張られた銀の線を眼前に見た。その一方は三日月型の刃に結びついている。咄嗟にくぐり抜けるように前に出た瞬間、斜め前方の暗がりから同じ形の大きな刃が陣内の左方向に放たれた。ビュッと細い鉄糸の弾ける音が右から響く。止め木が外れ、二つの三日月刃に結ばれた鉄糸が陣内の首を狙った。反射的に首を引いたが、激しい衝撃と共に鉄糸は陣内の右手首に絡みついた。一方を巨木の幹に噛み込ませているために、逃げることはできない。陣内の右手首を中心に回転する三日月刃はやがて体を搦め捕りながら、その刃が胴体を切断することになる。

 陣内は刃の遠心力に耐えて、渾身の力で忍刀を振った。自らの右手首を鉄糸の下で切断する。反動で飛ばされながらも、吹き出す鮮血を上膊部の動脈を押さえて止血する。森に飛び込み、さらに走った。雲間に浮かぶ月の位置で一本松のある方角がわかった。

 激痛。そして眩暈と悪寒に必死で耐えて、一本松に辿り着く。と、そこには三つの屍が転がっていた。左兵次たちであることは調べるまでもなかった。

 陣内は一瞬立ち止まり、再び走り出した。道から外れ、ふらつきながら森の中を行く。ここから先には罠はない。暫くすると森が開け、小さな広場が現れた。万一の場合、はぐれた者とはここで落ち合う手筈であった。もし生き残った者がいれば、必ずここに来る。

 陣内は途切れそうになる意識を気力で支えて、片隅の闇を見た。そこから長身の痩せた男が立ち上り、陣内の方にゆっくりと近づいてくる。全身を襲う小刻みな痙攣。鞴のように荒く乱れる呼吸。それらは死の予兆であると気づいた。

 だが、その状態でも、接近する男の正体を認めて陣内は瞠目した。

「おまえが…なぜ、ここに」

 男のひょろ長い右手が柳のように撓う。次の瞬間、陣内は左肩に衝撃を受けて仰向けに倒れた。そこに突き刺さった匕首を見ながら、肘をついて上体を起こした。

「いい様だな、陣内。安閑と日々を過ごしてきた古き忍びの裔であるおまえらと、三十年を超える長きに渡って暗殺を生業に技を磨いた裏傀儡との違いを思い知ったか」

「左門、貴様…。裏切ったのか」

 陣内の傍らに立つと、黒夜叉の左門が冷たく笑った。

「先代の遺言に従っただけだ。だから、お嬢が陰流の秘事を調べ始めた時もすぐにおまえらに教えただろう。そして、おまえらの指示に従った」

「当然だ…。裏傀儡が生き永らえてこれたのは…我らの慈悲があったればこそ」

 骸骨のような左門の顔に憎悪が走る。陣内を睨みながら、苦唾を吐き捨てた。

「笑わせるな。先代やおれを利用して、さんざん甘い汁を吸いやがって。おまえらのために、おれたちの両手は血まみれだ。挙げ句にお嬢まで殺させようとした」

「左兵次たちを殺したのも貴様か…」

「そうだ。おれが殺した。おまえらがお嬢たちに仕掛ける前にだ」

「初めから…草薙を葬るつもりで、紅蜘蛛と我らを謀ったのか」

「違う。お嬢は今でも何も知らない。それにあの時は、おれは本気でお嬢を殺すつもりでいた。お嬢の技量がその程度ならそれも仕方がないと思ったからだ。だが先代はお嬢の底力を見抜いていた。先代の遺言はもう一つある。〃草薙の力を見極めろ。もしその時の裏傀儡の力が草薙を上回っていたならば、おまえは好きに振る舞え〃とも、言った。おまえらは話にならぬほど弱い。おれは先代のその言葉にも従うつもりだ」

「わしを殺し、首を手土産に裏傀儡に戻るか…なら、それもよかろう」

 そして陣内は目を閉じ、意識を失って叢に沈んだ。

「愚かなことを。今更戻れぬ。おれたちはこの地を離れる。それだけだ」

 左門は陣内の肩に刺さっている匕首を引き抜いた。死相の張りついた陣内の顔は無表情のまま。もう痛みすら殆ど感じぬほどに衰弱していた。血脂を拭い、鞘に納める。

 最後の一瞥を陣内と彼方の闇に投げ、左門はその場を後にした。


 木立の遠い暗がりから、左門の後ろ姿を捉えている二人の目。

 その影が森の奥に溶けるのを待って、桐生が囁いた。

「お久さま、どうする。黒夜叉を追うか」

 少しだけの間。やがてお久は首を振った。

「いい。縁があれば、また顔を合わせることもある。面白い話も聞けたから」

 陣内が自らの手首を斬った後、二人はずっと後をつけてきていた。見張りに残した者と合流したところをまとめて仕留めるつもりだった。結果、それが意外な人物と再会することになった。黒夜叉の左門は絶対に甲斐には近づかないとお久は確信していたのだが。

「黒夜叉の奴、こっちが隠れていたことに気づいていたのかな」

「…さあね」

 お久は脳裏で左門が陣内に投げつけた呪詛の言葉を反芻していた。そしてその意味と、陣内にとどめを刺さなかった理由を漠然と考えてみた。

 二人は闇の中から風のように移動して、瀕死の陣内の傍らに立った。

「桐生、この男を館に運んで。聞き出したいことがある」

「こいつら弱いから、どうせ助からない。助かっても、何も話さないと思う」

 弱者を嫌う桐生の言葉に、お久はくすっと鼻で笑う。

「試してみなければ分からないよ。兎に角、運んで」

「そろそろお蝶と爺いも館に戻る頃だ。お久さまのために、きっと湯を沸かしている」

 桐生は男の右手首の傷口を手拭いと紐で縛り、ぐったりと動かないその体を軽々と肩に担ぎあげながら。もう一度、ちらりとお久に目を向けて。

「でもやっぱこいつ、助からないと思う。殆ど息もしていないよ」

 お久は甲府の方角に視線を遊ばせていた。雲間の月を見上げ、小さくため息をつく。

「あの森から逃げ延びた草薙の忍びは、一人だけだね」

「うん。でも、黒夜叉をいれれば、二人だ」

 お久が無表情に小さく頷く。

 それを合図にしたように、二人は館に向かって森に消えた。



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