秀綱陰の剣・第六章

著 : 中村 一朗

来訪


 西上州・上泉

 冬を匂わせる木枯らしが竹林を縫って走った。竹々は一様に撓い、飛ばされた落ち葉が稚魚の群れのように地表を泳ぎ去る。流れゆく大気の、あるいは影である。

 その中、疋田文五郎は寒風に挑むように一人立っている。

 朝稽古の後にここに来て四半時程を過ごす事がすっかり日課になった。

 既に、二十日。即ち、上泉秀綱がこの竹林で初めて裏傀儡の襲撃を受けてから二十一日が過ぎている勘定にもなる。その間、文五郎の脳裏の幻影も少しずつ姿を変えていた。そして十日前から、両掌中の獲物も。手にしているのは大太刀の代わりに一尺ばかりの天秤棒である。剣よりも重い。大太刀は傍らに置いてある。脇差しは腰に帯したまま。

 文五郎は尺杖を青眼に構え、瞑目していた。瞼の裏には周囲の様が焼きつけてある。三歩前に出て、やや左前方に杖を突き出してみる。先端が太い竹幹の中央に当たった。同じように緩やかに左に転身しながら、別の幹の中央部を正確に突いた。更に後方の三本の竹にも同様に、寸分違わず。

 一度目を開け、再び閉じる。同じ位置から同じ事をもう一度繰り返した。

 青眼から下段へ。構えを改めながら意識を研ぎ澄ます。

 瞑目。現実と全く変わらない、目の奥の記憶。そこに、文五郎の感性が五人の幻士たちを描き出した。皆、剣を手に彼を取り巻く。地精のように竹の合間を自在に動いた。

 幻士たちの移動が止まる。十分な間合いで前方に一人、背後に二人、左右に一人ずつ。

 そして、五本の刀がひとつの生き物のように連動した。左右前後から大きく踏み込みながら、刃を振りかざして襲いかかる。ある者は大きく跳び、ある者は地を這うように。文五郎は目を閉じたまま同時に前方に身を投げた。地を車輪のように転がり、着地しようとした正面の男の膝を左片手突の一閃で砕く。複数の者に囲まれた場合、一方向に走って活路を求めることが原則となる。文五郎はこの定石に従った。竹の幹を巧みにかわして、間髪を入れずに身を翻し、斜め後方から殺到した男の頭部を上段から狙い打った。傍らの竹を盾にして三番目の男の横に回り込み、振り向いたところを下段から斬りあげた。文五郎の幻視界では天秤棒は尺杖ではない。大太刀よりもさらに長大な剣である。が、竹林での白兵戦では槍以上に融通がきかない。杖をあくまで剣として操ろうとしているためだ。だからこそこの場合の修業に際しては有効な道具になると考えた。

 残りは二人。瞬間、真後ろの幻士が剣を投げた。文五郎は尺杖を返して受け流した。そのまま下から振り回し、そいつに向けて杖を手放つ。その反動を利用して横に飛んだ。脇差しを抜きながら。そして二人と対峙する。そこで、なぜかふいに気が削げた。途端に彼らの姿が揺らぎだした。日に晒された蝋燭の炎のように…

(いかんな…)

 すうっと、幻士たちが消える。文五郎は両眼を開いた。

 脇差しを鞘におさめ、吐息を漏らす。額に浮かんだ薄い汗を北風が冷やした。

 胸の内に奇妙な影が残った。幻の敵と戦い始めて、このような不快なしこりを感じたのは初めてだった。それが己の不安を表すものであるのか、あるいは別の理由によるものであるのかはわからない。ただ結果として理解している事は、双方の動きの鈍さである。また当初のような緊張感も薄れている事も否定できない。数日前から漠然と感じてはいたことである。だから様々な工夫を凝らしてもみた。しかし、今日ほど極端に感じた事はなかった。つい先日まで、最も有効な修業法を確立できたと思っていたのだが。

 いろいろと思案しながら天秤棒を拾い上げようと腰を屈めた時、突然文五郎の精神に漆黒の稲妻が触れた。自らに向けられた凄じい殺気。魂に冷水を浴びたような衝撃に、驚愕するよりも疾く肉体が反応する。速度は幻士たちを相手にしていた時を遥かに凌いだ。文五郎は後方に飛びながら脇差しを閃かせた。左右にあった二本の竹を、抜き打ちの一挙動で斬った。見えぬ敵に向けて切り口を斜めに。竹が倒れる。着地と同時に両手両足を地につけ、倒れた竹の枝葉に身を隠す。更に蜘蛛の疾さで位置を変えた。剣はいつの間にか鞘中に戻り、腰の後ろに回っている。天秤棒を拾い、相手が潜んでいるとおぼしき方角に投げた。それに合わせて竹を飛び越そうとしたが、心の何かが引き止めた。

 文五郎はこれをひと呼吸の間に行った。野獣のような本能のなせる技である。

 空白の思考。時が過ぎる。そしてふいに、竹林をも裂くような鋭い殺意が消えた。

 が、文五郎は警戒心を解かない。次の突発事に備えて更に優位な位置に移動する。

 その時、竹葉の狭間から見た六間ほど先の小さな崖の上に、赤い羽織を着流した老人が立った。腰に大小の剣を携えているものの、両手には何もない。穏やかな表情で文五郎の隠れている辺りを見下ろしている。目の大きさが強く印象に残った。

 一瞬、文五郎はその見知らぬ老人に、今のこの場が非常に危険な状況下にあると警告を発しようとした。近くに潜むはずの、尋常ではない力量を持つ何者かの事について。上泉を狙う敵が再びこの地に戻ってきた事は十分に考えられる。何よりの根拠として、二十日前に秀綱の命を狙った者たちは襲撃の理想地としてここを選んでいるのだ。

 が、文五郎が声をかける前に老人が口を開いた。にこやかに手を振りながら。

「やあ、済まぬな。ついつい出来心でなあ。まあ、こうして謝るから、許せや」

 倒れた二本の竹が交差する地点を向いたまま、ぺこりと頭を下げた。

 その中央に文五郎が隠れている。老人の様子を見ているうちに、徐々に文五郎の精神が獣から人へと戻っていった。それを見透かしたかのように、老人はペチペチと二三度平手で禿げた頭の頂部を叩いた。顔に無邪気な愛敬があった。

 文五郎はようやく、先程の殺気が老人から放たれたものである事を理解した。不思議と腹は立たなかった。一時はその老人の身を案じて、危険と知りつつ跳び出そうとしていた自身の滑稽さに苦笑さえ浮かべる事が出来た。それでもゆっくりと立ち上がり、老人から目を離さずに竹葉の中から出た。その時になって、全身を濡らす汗にようやく気づいた。自らの荒い呼吸と激しく高鳴っていた鼓動にも。

 老人は手を振りながら崖を下りてきた。童子のように軽く笑い声さえあげた。崖下に降り立つとその場に足を止めた。文五郎もごく自然に二間の間合いを取って老人の前に立った。小柄な文五郎よりも上背がある。またこれは、文五郎が意識せぬまま猫背で身構えているためでもある。師によく似た無形の構えであった。

「たまたまこの近くを通りかかったら、鋭い剣気に触れてな。覗きにきたんじゃよ。すると、お主がいた。威勢の良い若者を見ると試したくなる。爺いの悪い癖でよ」

 老人は上機嫌だった。決して文五郎に媚びるためのものではない。心底からの嬉しげな表情である。文五郎の前で立ち止まり、しげしげと眺めた。一方の文五郎はまだ落ち着いてはいなかった。それでも老人に敵意がない事は認めた。やはり揶われたのだとは思う。不快感は覚えなかったのは、あの敵意のない殺気が真正のものであったためであると理解した。兵法者である文五郎の性は、老人に自分と同じ匂いを嗅いだ。

「あなたは、誰ですか」

 呟くように文五郎が問いかけた。目は自然に老人の輪郭を茫漠と捉えている。

「ああ。名は塚原新右衛門じゃ」

 文五郎は初めて老人の顔をじっと見た。驚きはしない。むしろ納得した。噂に聞いていた話や姿と重ねながら、確かめるように問う。

「鹿島新当流の塚原卜伝先生でございますね」

 老人は小さく鼻に皺を寄せて頷いた。大きな目を剥いてにこりとする。

「うん。卜伝は後でつけた号じゃがな。自分でそう名乗るのは今でも照れ臭いわ。地味に生きておるに、名が知れ過ぎた。実は迷惑をしておる」

 老人が笑った。文五郎もつられて微笑んだ。

「ところで、お主は」

「疋田文五郎です。意伯と呼ばれてもおります」

「ほう、なるほど。では、上泉秀綱殿のお弟子かな」

「上泉流兵法の師範代をしています。秀綱は叔父にも当たりますが」

 文五郎は少し躊躇いがちに答えた。なぜ卜伝が文五郎の素姓を察したかは聞くまでもなかった。突然の殺気を感知して応じることができる武芸者は少ない。それが出来るのは近在では秀綱に剣を習っているからであろうと考えるのは当然の帰結である。文五郎が気になるのは、自分に対する卜伝の評価である。天下一の剣豪として知られる卜伝に自分があしらわれることは仕方がないと思う。が、上泉流の師範代であると口にすれば、その評価は師の秀綱にまで及ぶ。自分の振舞いが秀綱の名を落としてしまったのではないかと案じた。本音を言えば、文五郎は先程の自身の応じ方に対して正しいものであったのか断じかねていた。それを卜伝に聞きたかった。また、最も理想とする動作についても。更に、一方では思った。秀綱であればどう対処したか、と。

「ほう、なるほど」と、卜伝は同じ言葉を繰り返しながら。

「では、下柴砦まで案内してはくれぬか。どこにあるのかまるでわからん。そろそろ土地の者に聞こうと思っていたところじゃった。実は今朝、高崎の宿を出る時に番頭に聞こうと思っていて忘れた。朝湯がいけなかったな」

 文五郎の思惑などに気づかず、卜伝は大口を開けてひとり笑った。

「お連れします。でも、叔父上、いや先生は今はいません。十日ほど前に旅に出ました。そう長く屋敷を開けるつもりはないようですが」

 卜伝の顔が、突然飴玉を取り上げられた子どものようになった。大笑いの表情が唖然となり、みるみる落胆のそれに変わってゆく。老人に似合う変化ではない。

「なんだ、いないのか。折角会いに来たのになあ。楽しみにしておったに」

 心底残念そうに卜伝が呟いた。

「もう四五日で戻ります。お急ぎでなくば、叔父の屋敷にお泊まりになられては」

 そう言いながら文五郎は自分の言葉に内心驚いた。文五郎は、卜伝の来訪目的をまだ聞いてはいないことを忘れていた。それが秀綱への他流試合の申し込みである場合も、薄いながら残している。もしそうであれば、文五郎は取り返しのつかないことをしてしまったことになる。試合を断る最高の方便を放棄してしまったのだ。

(しまった…)

 たいへんな舌禍になる、とすぐに深く後悔した。卜伝の見せるあからさまな喜哀が文五郎の同情心を揺さぶってそうした言動を語らせたのかも知れないが、この童心の無邪気は魔神の闘心と表裏一体のものである。文五郎は先程の殺気を思い返して、肝が冷えてゆくのを感じた。秀綱よりも強いかも知れない伝説の人物に初めて出会った。しかも文五郎は彼を屋敷に案内するだけでなく主が戻るまで逗留するように薦めてしまった。この世の中で、秀綱を斬ることが出来るかも知れない唯一の人物を。

 が、今さら口にしたことを取り消すわけにもいかなかった。自分が上泉流の師範代であると伝えてしまった以上、それを言下に否定することは出来ない。文五郎は腹の中で、卜伝が彼の申し出を拒否してくれることに期待した。ところが。

「いや。急ぎ旅ではない。うん、そうか。それは助かるな」

 無頓着に喜ぶ。文五郎は仕方なく無表情に頷いた。

「ところで、非礼を承知で窺いますが、叔父上に如何なる用向きでございます」

「いやあ、別にまだ決めておらんのだ。会ってから用を拵えようと思っておる」

「…」

「妙な顔をするな。実はこの間、初めて上泉秀綱殿の名を耳にしたのでな。それも二度、別の筋からだ。ひとりは笹子の山賊で、血地蔵の左近と言った。もうひとりは甲府に住んでおる性悪な爺いで、わしの弟子じゃ。四日と離れずに互いに面識のない二人が、わしを前に偶然同じ人物の名を口にした。それで不思議に思ってな。会ってみとうなった」

 笹子と甲府。二つの地名が文五郎の意識に小さな影を落とした。ともに甲斐に関わりのある地である。屋敷の皆が、武田の手の者が秀綱を狙った可能性を疑っていたのだ。

「差し支えなくば、その性悪なご老人の名をお教え頂けませぬか」

 答が返ってくることなど期待せずに問いかけた。

「山本勘助じゃよ。悪い奴でなあ。秀綱殿の命を狙わせたのもあの爺いじゃ」

 卜伝が陽気に笑った。文五郎の顔から徐々に力が抜けて行く。口と目がだらりと開き、愕然とした表情になった。この二十日の間、秀綱の命を狙ったものの正体について文五郎たちは様々な角度から検討していたのである。その結果、やはり武田の間者ではないかと推察していた。卜伝の出現とこの告白はその矢先の事である。また仮にそれが本当だったとしても、なぜそのような大事を文五郎に告げたりしてよいのか。この暴露は武田に取り密告に近い。卜伝の振舞いに文五郎の理解が及ばないのも当然であった。

 そんな文五郎の当惑を見て、卜伝がまた笑った。

「ご冗談を…」と、文五郎が辛うじて口にする。

「いいや、本当じゃよ。あいつは悪い奴じゃ。もっとも、わしにとっては良い弟子だ。つい先日も一宿二飯の世話になったばかりでな」

「しかし、それでは…。なぜ…そのような事をおれに」

「お主が聞いたからじゃないか」

「そうですが、しかし…」

「それとな。勘助の奴はもう秀綱殿を狙ってはおらぬ。当分は大丈夫じゃろう」

 卜伝は懐から風呂敷に包んだ書状を取り出した。

「ほれ。こんな手土産までわしに寄越しおったぞ」

 文五郎はそれを受け取り、風呂敷を開いた。書状に目を通しながら。

「『陰流印可状』…。叔父上の名が記されているようですが、これが何か…」

 文五郎の態度に、今度は卜伝が不思議そうな顔をした。

「この印可状、上泉の屋敷から盗まれたものではないのか。十四五日前のことらしいぞ」

 文五郎の目が焦点を求めて彷徨い、足下で止まった。書状を返しながら。

「どうも、おれより塚原先生の方が叔父上のことでよく御存知のことがあるようでございます。常にもあること故、そう驚きもしませぬが、やはり腹は立ちます」

「なるほど。だがな、意伯殿。先程のお主の動き、あれはまさに陰流そのものじゃ。三十年ほど前に、この書状にある開祖愛洲移香斉先生の技を見せて頂いた時のことを思い出した。まさか、上泉秀綱殿以外にこのような剣を見られようとはな」

「おれの動きが…」

「剣の腕は知らぬが、秀綱殿は良い師匠のようだ。お主のような者が育つのだからな」

「でも、陰流などという名は今初めて聞きます」

「流派の名など、どうでもよい。所詮、剣は我流に始まり我流に戻る。流名など、そこに至るまでの技の俗称に過ぎぬ。お主の師匠もそう考えておるのかも知れぬぞ。案外これを盗まれて喜んでおったりしてな。わしだったら、他人の寄越した印可状など迷惑じゃ」

「まさか、そのようなことは…」

「秀綱殿が旅から戻ったら、聞いてみると良い。当たらずとも遠からずだ」

 しばらく無言で、二人は並んで竹林の外に向かった。

 奇妙な重圧が文五郎を捉えている。傍らを歩きながら、文五郎は幾度も卜伝の姿を盗み見た。その度にそこにいることを確かめている自分に気づく。気配がないわけではない。むしろ逆である。卜伝の存在が、まるで自身の一部のようにすら感じられるのだ。二人の間合いは見た目の上では約一間。が、目をやる度にその距離が変わっているように感じられる。仮に剣を抜いて卜伝に斬りつけても、虚空を滑るだけのように思えてならない。

 林から道に出る頃、にやにやと薄笑いを浮かべている卜伝に直接聞いてみた。

「塚原先生は、おれを斬ろうとしているのですか」

「ほう。なぜそう思う」

「今、どう斬りかかってもかわされます。抜き打ちの剣を振った次かその前には、おれの首と腕が飛ぶ。きっと腕が先になりましょうが」

 卜伝はピタリと足を止めた。大きな目がじっと文五郎を見据える。

「そうじゃ。お主が斬ってくれば、死んだ。だから斬らせようと誘ってみたのよ」

「悪い悪戯がお好きなんですね」

「本気じゃったよ。だが、あれで斬りかかるほど意伯殿は愚かではあるまい」

「はい。剣を振るう理由がありません」

「理由などよい。あの瞬間、わしを斬れるかどうかだ。で、首はともかく腕が先に斬られるとよくわかったな。そこまで読む者はわしの弟子でも稀だ。恐らく具教ぐらいかな」

 伊勢の国司北畠中納言具教。尊高な身分でありながら、卜伝の秘剣〃一の太刀〃を習得したという唯一の人物である。九年後に疋田文五郎はこの北畠具教に会うことになるが、まだそれを知る由もない。今はただこの高名な人物と比べられたことに驚いた。

「だが、まだ粗い。今立ち会っても、具教には及ばぬ」

 卜伝が再び歩き出し、文五郎はすぐその後を追った。胸の内が熱い。求める剣の深みを思い、沸き立つような嬉しさに文五郎は小さく笑みを浮かべた。



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