秀綱陰の剣・第八章

著 : 中村 一朗

竜の爪跡


 明くる日、巳陰即ち絵師〃北陽〃は払暁に目覚めた。気がつけば、知らぬ間に筵の上にもう一枚の茣蓙がかけられていた。それでも朝露は肌に寒い。軽く痛む頭を振りながら身を起こし、酔い醒めの水を求めて厨に向かった。大瓶から柄杓に並々と注ぎ、喉を鳴らして一気で飲み干した。五臓六腑にしみわたる様に吐息を漏らす。

 薪を割る音を聞いて裏庭に出てみると、そこに紡念がいた。

「おはようございます」と北陽。

「ああ、おはよう」

「久し振りに心の晴れるような美味い酒を飲みました」

「般若湯じゃ」

 住職は顔を向けただけて、薪を割る手を休めようとしなかった。暫く見た後で北陽は水を汲みに桶を手にして石段を下の小川まで降りた。冷たく澄んだ水を桶に満たしては石段を上り、また降りる。桶四杯目の水を汲んで戻った時には紡念の薪割りも終わっていた。紡念が米を炊いている間に、北陽は本堂の拭き掃除を済ませた。

 やがて二人は一汁一菜の質素な朝げを本堂で取った。食しながら北陽は。

「つかぬ事を伺いますが、御坊殿は以前は侍だったのでは」と問いかけた。

 住職は顔色ひとつ変えずに椀の米粒を口に放り込んで箸を止めた。

「ああ。昔は幾度も戦に出た。大して強い訳でもなかったが、それなりに手柄を立て恩賞も手にしてきた。だが、そのうちに嫌気がさしてな。念仏を覚えたのさ」

 なぜ気づいたのか、と紡念の目が北陽に問いかけている。

「薪を割っておられる後ろ姿を見ているうちに、ピンときまして」

「なるほど。まだ昔の因業が消えておらぬか。だがそれにしても、わしが薪を割る姿からそう察したなら、北陽殿もただの絵師ではないことになるぞ」

 北陽は左手を掲げ、胼だらけの節くれだった硬い掌を紡念に示した。

「このように」

「ほう。変わった手だ。鍬などは似合いそうもないようだが」

「珍しゅうございましょう。乱波の手でござる」

 紡念は意外そうな顔をした。乱波という特異な郎党が世にいることは知っていたが、出会った事はまだなかった。好奇の光がその目に宿った。

「ほう」と、その手をじっと見ながら

「良い絵も描ける手であるになあ」

「絵師も忍び顔のひとつでございますので、以後も北陽とお呼び下され」

「わかった。わしにとって、おまえさんは絵師の北陽殿じゃ」

「忝のうございます」

 それから二人は黙々と飯を平らげた。食べ終ると紡念が座を立ち、間もなく急須を下げて厨から戻ってきた。二人の空いた飯椀に熱い茶を注いだ。

「これで気が楽んなりました。二三日、ご厄介になっても宜しゅうございますか。勿論、あっしでよけりゃあ雑用にでも扱き使ってやって下され」

「別にかまわんよ。男手があればわしも助かる。大工仕事もあるぞ。そろそろ冬に備えねばならぬしな。ところで絵師殿は、本当は何用あってここに来られたのだ」

「昨日申し上げた事に偽りはありませんぜ。平家の跡を追って参りました。失われた絵巻をこの手で描こうと。ただ、紙の上ではなく、ここに」と自らの眉間を指した。

「この地で、平家の隠し財宝でも捜そうというのかな。幾年か前にも、そのような事を言ってこの寺を訪ねて来た御仁がおったが。断っておくが、わしは宝など知らぬぞ」

「ほほう。して、その御仁はその宝とやらを見つけましたので」

「さあ、知らぬ。鵜戸岩の裏手にある部落までの行き道を教えてやっただけじゃ。門前で暫く立ち話をした後にすぐに裏山に向かったが、それきりじゃった。見つけておったらそんな話も風に聞こえるじゃろうが。で、絵師殿もその口か」

「まあ、似たようなものでして。それで昨日の続きを窺おうと。はやり病の話の続きを」

「おう、そうじゃった。あの話をするには昼間の方が良い。村人たちに頼まれてこの山の奥に入った時はまるで、悪い夢を見ておるような景色であったよ」

「この寺の麓の村から山に入ったそうでございますね」

「そうじゃ。皆が宿場町まで逃げ出しておったから、誰もおらなんだが」

「村でその病で死んだものはいたのですか」

 昨晩の話ではいないと紡念は言ったが、下の村で北陽が聞いたこととは違っていた。

「三人だ。猟師に老人と子どもだった。猟師は山奥まで鹿を追って行って、倒れていた男を見つけた。辛うじて息があった男は猟師に山奥の部落で恐ろしいはやり病のために大勢が死んだことを告げ、決して近寄ってはならぬと言い残すとこと切れたという。猟師はすぐに村に取って返してそれを伝えた直後に胸を掻き毟って死んだ。その日の夕刻、老人とその孫が死んだ。ふたりは山に薪を拾いに行って病に冒されたのじゃ。だから、村におって病にかかって死んだものはいないと昨夜は言うたのよ。三人は山奥で患った」

「それで村人たちは慌てて宿場町に逃れ、山で起きた恐ろしい出来事を皆に伝えた。たまたま居合わせた御坊殿に後を託したということでございますな」

「わしが余計な世話を焼いたのかも知れぬが。これも何かの縁と心得て引き受けた」

 紡念は十年前にこの山に入って目撃した光景を、暗い瞳で淡々と語り始めた。

「行き先は、ここから二里ほど奥に入った古い部落だった。騒ぎの中心はそこだという。わしは日の出とともに宿場町を出た。六つ半には人けのない麓の村を過ぎ、この寺の在る裏の道を通って、山奥に向かった。先に踏み込むに従って周囲からだんだんと山の喧騒が消えていったのを覚えておる。鳥や虫たちの鳴き声どころか生き物の気配までもだ。代わって森がやたらと静かになっていった。十日前に起きた異変に、山の精たちもじっと息を殺して見守っておるようじゃった。正直に言うが、わしも恐ろしゅうなっていた。まだまだ己の命を愛おしんでおることを思い知らされたわい。そのうちに獣の骸を見かけるようになった。鳥や兎、狸、鹿までおった。どれも腐り始めていたが。肝心の部落はそれらの先にあった。森を切り開いて造った丘に朽ちかけた家屋が十ほど軒を連ねているだけの小さな部落じゃった。着いたのは昼過ぎだ。思うていた以上に酷い在り様じゃった。部落のあちこちで、合わせて三十三の屍が転がっておった。井戸端や戸口でそのままの姿で倒れている者もおれば、囲炉裏の傍らで筵に包まって死んでいる者もいた。中には女子どもの遺骸も幾つか在った。どれも苦悶の顔を浮かべておった。加えて烏どもに身のあちこちを啄まれていてな。それを見ているうちに無性に腹が立ってきた。すると不思議に何も恐ろしくはなくなった。ただ烏に食われておる者たちが気の毒になったのだ。何をせねばならぬかわかったような気がした。わしは烏どもを追い散らして屍をひと所に集めた。それだけで日が暮れてしまったわい。わしは寝食を忘れて彼らを荼毘に付した。油と薪は家にいくらでも在ったでな。夜通し炊き続けても、五人がやっとだった。だが明くる日には…山陰から立ち上る煙を見たのであろう、里の者たちもやって来て手を貸してくれた。それから三日三晩、火を燃し続けねばならなかったのだ。焼いた骨はここに運んで供養した」

 住職は一旦言葉を切り、茶を椀に注いで口と喉を湿らせた。或いは不快な記憶を脳裏から洗い流そうとするように。その間、北陽は無表情でじっと床に目を据えていた。

「その地で死んでいた者たちは何者でございましたのでしょう」

「一族の名はついに判らず仕舞いだったわ。三十を越える者たちが生活しておったのに、名を記したものは何も残してはおらなんだ。案外、絵師殿の同類やも知れぬな」

 乱波か、或いは乱波を含む一族の裔。即ち、愛洲一族…

「なるほど、そうかも知れませぬ。ところでその時、烏どもの骸ははやり病で死んだ者たちの周囲には在りましたか」

「いいや、ない。当時、わしも不思議に思ったものだ。どうしてはやり病で死んだ者たちの屍を喰った烏どもが生きておるのか。周りでは獣たちが死んでおるのにだ。ただし森の中では幾つかの烏の骸は見かけた。それらは他の鳥や兎と同じように転がっておった。烏だけが病に耐える体であったのではない。妙じゃろう。病魔は突然部落の民と獣たちを襲撃し、森と屍に留まることなく風のように去っていった…」

「〃…風のように〃、でございますか」と神妙な顔で北陽が呟く。

「そうじゃ。果たしてあれは本当にはやり病であったのか…。森で死んだ男がいまわの際に猟師にこう告げたという。『龍が翔んだ』とな」

 束の間、二人の間の刻が制止した。しかし北陽の表情に変化はなかった。住職の目は無意識にそれを確かめている。それでも北陽は口を開いて。

「龍…。ところで御坊殿は〃飛龍六道〃という言葉を御存知では」

 北陽は床を見つめたままである。紡念は素直に首を傾げた。

「いや。聞かぬ名だ。それが絵師殿の捜している宝の名であるのかな」

「あるいは。実はあっしにも、まだ何を捜しているのか判らぬのでございますよ」

「面白い話じゃな。宝探しではなく、宝の名を捜しておると言う訳か」

「なるほど。そういう事になりますか。ですが、名が判ればその宝を求める事になりましょう。手にすれば天下を制する事も出来ようと聞いては、ことさらに。御坊殿…」

 それまでと異なる沈黙の気配に、ふと北陽はじろりと紡念を睨みあげながら。

「何かお気づきになられたことでも」

 紡念の顔肌の下を通り過ぎた一瞬の影を、北陽は見逃さなかった。

「いいや、と言いたいがわしも坊主だから嘘は言えぬ。絵師殿の話を聞いて、確かに今あることをふと思った。だが、口にするのは憚られる。だから、絵師殿も一見の後とされるが良かろう。あるいはわしと同じように感じるやも知れぬ。あの悲劇が起きた部落の跡へ赴きなされよ。今出れば、夕刻までには戻れよう」

「いずれは行くつもりでございましたが。また、どうして急に…」

「絵師殿の考えを聞いてみたくなったのじゃよ。天下を制する宝とやらの名が〃某六道〃などという凶々しいものであるなら、良からぬ予兆が匂うでな。それと今思い出したが、井戸の前の広場で妙なものを見かけた。…なに、大したものではないのだが」

「何をでございます」と北陽が静かに身を乗り出した。

「大きな鍋じゃ。一間はあろうかという程の鉄の大鍋だった。それが丸太で組んだ護摩炉の上に乗っておった。もっとも、鍋の中は空で、丸太の段は焼け崩れておったが」


 北陽はひとり、小走りで山道を急いだ。通り過ぎるその背を、飄が舞いあげた枯れ葉が見送る。恋焦がれるように気が急いていた。あるいはまた、獲物を追う山犬のように。

 北陽すなわち巳陰がお久に乞われて甲府を出立したのは七日前。組の手下とは異なる先乗りの〃聞き耳〃たち五人を日向に急行させ、猿飛と平家落人等に纏わる伝説や噂話について調べさせた。前もって伊賀に送り込んであった聞き耳たちが収集した情報と合わせて逐次旅先の自分のもとに伝えせさせたのである。日向と伊賀・草薙の里の双方を繋ぐ糸があるなら、両端から探る方が早い。特に未だ混乱している草薙の里方は揺さぶりをかけ易い状態なだけに必ず何らかの手がかりが得られるものと期待していた。ところがいくら探ってみても草薙から日向への人や文の行き来はおろか噂話さえ、一切の関わりを見出すことは出来なかったという。そうした知らせを堺、安芸、そして壇ノ浦で受けながら、巳陰自身は絵師の装衣でゆっくりと旅をした。名所名所で筆を取り、絵を描いた。草薙の戦闘集団が滅んだ以上、寸刻を争うような理由はない。寧ろ、お久の夢物語から始まったこの旅を楽しんでさえいた。聞き耳たちの知らせを聞いた上でどう動くか決めれば良いと考えた。日向の宿場町で聞き耳たちが、今は亡き平家落人部落とその死者たちを祭っているという興庵寺のことを知らせてきたのは、巳陰が九州に着いた日であった。また、二日前に甲斐での勘助とお久の会談で話し合われた内容も同じ時に伝えられた。巳陰はその足ですぐに寺にやって来たのだ。大した期待などせぬままに。ところが、どうやら事態は急転したらしい。更に坊主というよりは世捨て人のような住職紡念との出会い。はやり病で滅んだ部落に最初に入り込んだ人物であり、また恐らく愛洲一族の最後の一人が語った言葉を知る人物でもあった。

「龍が跳んだ」と言ったという…

(面白いな)と、喉の奥で呟いた。その一方で苦い味が口中にある。自力ではなく、偶然に助けられて求めるものを探り当てようとしていることが不快であった。まるで手繰り寄せられるように自らを導いてきたこの偶然。闇の住人である裏傀儡さえも操るもうひとつの運命の傀儡糸。糸は意図。人の思惑とは異なる、見えざる何かの流れに誘われ…。

 道は寺の裏から森の中を抜けて、西へと伸びていた。最近人が通った気配はない。かつては無数の人足で踏み固められたその地表も、今ではすっかりと荒れたけもの道になり果てている。さらに落ち葉が獣たちの足跡さえ隠し包んでいた。それでもはぐれる心配はなかった。顔を上げれば常に、前方の葉陰越しに大振りな岩肌を認めることが出来る。

「ほれ、あそこにちょこんと飛び出しておる大岩があるじゃろう」門前の庭で、出立前に紡念が西に見える岩肌を指差しながら言った。

「あれが鵜戸岩じゃ。昔は小さな祠があったらしい。それ故、土地の者は鵜戸明神岩と呼んでおる。この裏の道から真っ直ぐ続いておる。あそこの上から見ればかつての部落が見渡せる。一目で判る筈じゃ」

 一目でわかる。その意味は岩肌から裏側の斜面を見下ろしてすぐに理解出来た。

 十町ほど先の眼下にある小さな開墾地。十軒ほどの炭焼き小屋にも似た家屋が連なり、その傍らには小さな畑跡があった。息づくものの気配はないが、異様な光景はその周囲の光景であった。そこを中心に広がる、紅葉する森の中にぽっかりと開いた灰色の一帯。部落跡を囲む森がぐるりと枯れている。冬とともに眠りにつく落葉樹とは明らかに異なる数百本の死木たち。骨にも似た木々の屍群。森に生まれた死の腫瘍であった。

 巳陰は周囲への注意を怠らずに崖を降りた。尋常ではない廃墟と森の様相が、裏傀儡の本能をして知らぬ間に警戒姿勢を取らしめた。近づくにつれ、遠目では解らなかった変わり果てた森の無残な姿を知ることになった。立ち枯れた灰色の木は一押しで崩れ落ちた。死んでいるのは木々だけではない。大地も乾いて枯れ、草や苔さえ生えてはいない。戦場で累々と折り重なる屍さえ、やがては土に返り新たな命の糧に変わる。だが、ここにはそれすらなかった。周囲を包む、ただ灰色の虚無だけが匂った。

 龍の跳び去った跡。死は突然山に舞い降り、そして突然飛び去ったという。

 一町ほど続く枯死した森を抜け、部落の中へ。家屋は皆簡素な造りで、飾り気など微塵もなかった。細竹で編んだ小舞掻の下地に粘土を荒く塗った壁と、木の皮で葺いて石を載せた屋根。どれもが崩れそうなまでに傷んでいる。家中の造りも同様で、埃だらけの踏み固められた土間と囲炉裏があるだけであった。恐らくは風が動かしたのであろう、干からびた藁が部屋の隅に寄っていた。家々は元々粗末な上に、無人で過ぎた十年の歳月が決定的な荒廃を導いている。刀や槍のような金目のものは何一つない。事の直後、里の者たちが既に持ち去っており、彼らを弔うための費用に換えてしまっていた。それでも大した額にはならず、不足分は庄屋が補ったという。かつて人が住んでいた痕跡はそこかしこにあった。放置された茣蓙や椀などはどの家にもころがっていた。部落の中心に立つと、生前の彼らの姿を瞼の裏に容易に浮かべる事が出来た。突然の死に見舞われたにも拘らず身元を示す跡形さえ残さない者たちの正体を、巳陰は同類の直感で嗅ぎ分けた。

 広場の中央に井戸があった。屋根を支える丸太柱は既に折れ、その傍らに崩れていた。少し離れてボロボロに錆びて朽ちた大鍋があった。住職の話にあったものである。近づいてみてすぐに井戸水の腐臭に気づいた。その臭気の中に、微かな別の残滓…。

 巳陰は瓦礫を取り除き、手鏡で僅かな日差しを井戸の奥に送りながら覗いた。光は掘り抜きの側面を照らしていたが、辛うじて黒い水面を確認できた。縁からは約五間の距離がある。目を凝らすと暗く淀む闇に白っぽい何かがうっすらと見えた。小石をひとつ拾い、放り込んでみた。ドボンと濁った音が返ってきた。暫く見下ろしていた後、巳陰は腰に吊っていた紐を解いた。細くとも丈夫な傀儡糸である。一端を丸太にしっかりと結びつけ、釣り針状の鈎手がついたもう一端に蝋燭をつけて井戸の中に垂らした。蝋燭の炎はゆらゆらと揺らめきながら下りて行く。やがて水面に沈んで消えたところを確認して安堵した。蝋燭を降ろした目的は二つ。ひとつは底の様子を目視する事。もうひとつは古い井戸にありがちな毒の気溜りの有無を調べる事である。途中で蝋燭が消えれば要注意であったが、一応の心配はなくなった。紐はさらに三尺ほど下がって井戸の底に着いた事を感じ取る。蝋燭を引き上げ、それに纏い付いていた泥水の匂いを嗅いでみた。常人には解らない程度の、ただの水の腐臭とは異なるもうひとつの腐臭を確信した。

 巳陰は身につけている不要な荷を下ろし、鉢巻きに百目蝋燭を二本差した。その滑稽な己の姿を思い浮かべてひとりほくそ笑むと井戸に身を降ろした。傀儡糸を手に慎重に井戸の中を下りて行く。素掘りの側壁に足掛かりはあったが、一歩進む度に土くれが崩れた。内部はひんやりと冷たかった。その一方で流れ落ちる溶けた蝋が額にふれ、時折顔を顰めたりした。冷気と臭気は全身を包み、肌から染み込んでくるようで不快ではあったが、それ以上は如何なる感情も刺激される事はなかった。

 やがて巳陰は井戸の底にたどり着いた。両足が水底のぬかるみを捉える。腰の辺りまで水に浸かった。母屋の梁に使われた丸太が一尺半ほど水面から突き出している。その先端に古い布が引っかかっていた。上から見えたものはこれである。衣服の一部、袖であることはすぐに解った。足で泥の中をゆっくりと探る。捜し物はすぐに見つかった。そのうちの大ぶりな三つを選び、懐に納めて傀儡糸を手繰りながら登った。井戸の縁に手を掛け、片腕で体重を支えながら拾ってきた物を懐から地に放り出した。井戸から這い出し、身にしみ込んだ毒気を吐き出すように深呼吸を繰り返した。その後、拾ってきた獲物を見下ろした。大腿骨と上腕骨、そして頭蓋骨。どれも明らかに人骨である。

 頭蓋骨を手に取ろうと腰を屈めたその時、巳陰は背に強い衝撃を受けてその場に崩れ落ちた。その背には、致死の毒を塗った黒い半弓の矢が突き刺さっていた。



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