秀綱陰の剣・第八章

著 : 中村 一朗

千鶴


 襲撃者は井戸から男が出てくる時をじっと待っていた。初めは鵜戸岩の陰から見張っていた。男が井戸に消えた様子を確認すると、襲撃者は部落跡に急いだ。井戸から十間の距離にある家屋に身を潜めて待機した。それが半弓の必中距離である。やがて丸太が軋み、糸に力が加えられている事を知った。男が上がってくる。頭が現れ、続いて上体。襲撃者は鏑を毒袋に浸した。毒は蝮から取ったばかりのものである。弓にその矢を番えたが、崩れた屋根が死角になって狙いをつけにくい。位置を変えようとした時、幸いにも男の方から移動した。こちら側に背を向けている。襲撃者はその機を逃さずに背中に毒矢を射掛けた。矢は狙い通り背の中央を貫いた。正確に心臓の真上の位置である。男はそのままの姿勢であっけなく倒れた。初めは小さくもがいていたが、やがて動きを止めた。倒れた体の下からは血らしいものが地面を黒く染め始めているように見えた。更に数瞬が流れても、男はもはやピクリとも動かない。襲撃者は蹲ったままの姿勢でさらに時を数えた。雲が日差しを遮り、流れ去って行く。風が吹き、埃が広場に舞った。四半時後、襲撃者は男にもう一度矢を射かけた。今度は毒を塗らぬ矢で右足の大腿部を狙った。命中。だが、やまり男は動かない。ようやく男の死を確信して、襲撃者は身を起こした。仮に第一の矢が急所を逸れていたとしても、毒はとうに全身に回っている頃合いである。それでも用心に、矢を番えた弓を構えながら慎重に近づいた。男の生死に気を回すよりも、身元を推察しながら。表向きは興庵寺にやって来た旅の絵師である事は判っていた。だがそれ以上の事はまだ何も知らなかった。当初は殺さずに捕えて直接聞き出すつもりでいたが、井戸の中に入っていくところを見て、襲撃者は方針を変えたのである。

 男に近づくと、屍から流れる赤黒い血溜りをはっきりと認めることが出来た。血溜りは俯せに倒れた胸元からじわじわと広がっている。更に二間の距離にまで近づき、右足の傷からも少量の血が流れている様に目をやってようやく異変に気づいた。血の色が違う。また心の臓がすでに止まっていれば、後からついた傷口からこのように血が流れ出ない。

 次の瞬間、男の体が貉の疾さで跳ね上がった。左足が一閃して襲撃者の弓を蹴り飛ばした。同時に右の貫手が水月に突き刺さる。呼吸の止まる苦痛に身を折りながらも、襲撃者は小柄を抜いて男の首筋に斬りつけた。が、頸動脈に届く前に手首を弾かれ、小柄を取り落とした。さらに逆関節を極められて俯せに倒れた。その背に男が馬乗りになる。

「畜生、殺せ!」と襲撃者は黄色い声を張り上げた。

 襲撃者は女であった。しかもまだ十六にも満たない容姿である。

「喧しい!この小娘が。女でなければ、とっくに殺している」

 巳陰の全身から鋭い怒気が発散する。脅しではなく、本心から出た言葉であった。その一方でいきなり殺さなかった事に安堵している。四半時近く様子を見ていた事から、敵が一人である事は判っていた。また、近づいてきた時の匂いで若い女である事には気づいたが、まさか手鞠が似合うような小女であるとは組みつくまで思いもよらなかった。

 娘の体から力が抜け、それに合わせるように技を弛めた。巳陰は娘の両足首と親指同士をそれぞれ傀儡糸で素早く後ろ手に縛り、手を離した。娘はすぐに反転して上体を起こした。敵意と憎悪、更に疑惑を含んだ視線で巳陰を睨みながら口を開いた。

「うぬは、なぜ死なない。坂東の山にでも住む化生か」

 まだあどけなさの残る娘の顔を正面から見て思い当たった。昨日、寺に食材を運んできた里女たちの一人であった。二言三言交わした言葉から、巳陰が東国の出身であろうと推察したのである。逆にその無邪気な問いと必死の形相から、巳陰は娘が本性の乱波ではないと察した。だが未熟とはいえ、それなりの修練を積んでいる事は間違いない。そして、それなりの知恵も。巳陰は娘の眼前にずいと顔を近づけて暗い笑みを浮かべた。

「いかにも。わしは坂東の化生だ。名は北陽という妖狐じゃよ。齢百八つになる」

「嘘じゃ!」動揺を抑えるように娘は叫んだ。

「信じる信じぬはおまえの勝手だ。好きにせい。ついでに言うが、多分わしはおまえの敵ではないと思うぞ。里に帰れば妻もおり、おまえと同じ年ごろの娘を頭に子が三人おる。ところで、娘。名は何という」

 巳陰の目に殺意はない。それが娘に伝わり、徐々に落ち着かせた。

「…千鶴」躊躇いがちに娘が答える。

「千鶴か。良い名だ。正直に答えたから、わしもひとつ教えよう」と、背に刺さった矢を引き抜きながら。

「わしは常に、背に革帷子を二重に着込んでおるのだ。上には柔らかい厚手の物を、下には漆を塗って良く乾かした固い薄手の物をな。半弓程度の矢では十間の間合いなら通さぬ。それに、ほれ。これだ」懐から皮袋を摘み出す。

「〃血袋〃だ。これを腹の下で破いた。色をつけた水だが、遠目ならごまかせる」更に右足から矢を引き抜いて。

「だがこっちの傷は本物だ。矢傷は痛いものだぞ」

 千鶴は放り捨てられた矢と血袋と巳陰の目を見回した。

「二本目も毒矢だったら、どうするつもりだったの」

「わしは死に、おまえは手柄を立てた。それだけだ。だが、わしはこうして生きておる」

 童女のような率直な問いかけに劣らぬ素直さで、巳陰が答える。ようやく千鶴は目前の男が自分への殺意を隠していないことを信じる気になった。それでも敵意は残っている。

「…乱波でしょう、北陽」

 巳陰は千鶴の目を見つめて小さく頷いた。千鶴も、敵意の視線を逸らさなかった。

「この地に、何をしに来たのさ」

「龍の跳び去った跡を見に。〃飛龍六道〃を追っておる」

 瞬間、千鶴の目の奥を何かが過った。この娘は知っている、と巳陰は直感した。それでも千鶴の表情に変化はない。不動の瞳に敗北を認めぬ決意があった。

「もうすぐあたしの仲間がやって来る。今逃げれば、間に合うよ」

「下手な嘘をつくな。仲間がいればとうに来ておるだろうが。わしに矢を突き立ててから四半時近くも様子を窺う筈もない。それより、この男を殺したのは、千鶴か」

 傍らに転がる古い骨を指差しながら問う。目は千鶴の瞳の奥をじっと覗いている。

「あたしじゃない」吐き捨てるように呟いた。

「ほほう。やはりこの骨は〃殺された男〃か。死んでからまだ五年と過ぎておらぬ。つまりこの部落が滅んだ後に、この井戸に放り込まれた事になる」

「なぜ判る」挑むような口調ではあっても、理由を知りたくて出た問いであった。

「骨を見れば大凡の見当はつく。それに、この者の着ていた衣が崩れた梁の上に引っかかっておった。井戸に投げこまれたのは、屋根が崩れた後の事だ。少なくとも、十年前は井戸の屋根は無傷であったそうだからな。山寺の和尚にそう聞いておる」

 巳陰は娘の目を見つめて答をじっと待った。やがて。

「井戸の櫓屋根が崩れたのは六年前の嵐でさ。こやつは、四年前にここにやって来た墓泥棒。散々家捜しして何も見つからぬと、墓を掘り返そうとした。だから、父が殺した」

 紡念が言っていた、平家の隠し財宝を捜しに来た男であると直感した。掘り返そうとした墓は興庵寺ではなく、この部落外れにある古いもののことであろうと推察しながら。

「おまえたち親子は墓守でもあるまいに。して、父御の名は」

「喜久蔵。だがもうこの世にはおらぬ。去年、他界した」

「村里に暮らしておった猿飛だな。この部落の住者たちと通じておったのであろう」

 千鶴の沈黙が答となった。あえて隠すつもりもないらしい。

「村の者たちは今でも知らぬのだな。おまえの、このことを」

 千鶴を指差しながら。再び沈黙の答。娘は井戸の傍らの錆びた鉄鍋を見ている。

「殺されたのか」と巳陰。

「病さ。以前から患っていた。よく咳をしていたから…」

「十年前からか」

 娘はキッとそっぽを向き、唇を噛んだ。察せられた不快感に口元が歪む。

 事の直後、父親はこの地の様子を見に来て『病』に軽く冒されたのであろうと考えた。

「その亡き父御の志を継いだという訳か。思わず目頭が潤むような良い話だな。だが、人殺しは良くない。おまえのような若い娘には似合わぬ」

 ひと目見た時から巳陰は、この娘にはまだ殺人の経験はないと気づいていた。

「乱波風情の説教なんか、聞く耳は持ってない」

「生意気を言うな。坊主の話とて聞かぬくせに。ところでわしが、先程おまえの敵ではないと言ったが、法螺ではないぞ。愛洲殿に仕えた一派の裔に組しておる猿飛の一人だ」

「あんたは、草薙の里の者だったの」

 言葉の裏に蔑みがあった。巳陰は知らずに笑みを浮かべていた。

「違うわい。伊賀や甲賀とも無縁だ。ただ、陰流の継者に関わっておる」

 娘が瞠目した。しかし疑惑がすぐに瞳の奥に浮かんだ。

「出任せだ。多くの猿飛が何年も何年も陰流継者を捜したのに見つけるどころか名や素姓さえ判らなかったと父に聞いた。その縁者が、十年も過ぎてからなぜ訪ねて来る」

「たまたまだ。またひとつ教えてやるが、草薙の長、陣内はわし等が捕えている。忍びとしての力は根こそぎ絶やした。草薙の里では今でも大騒動の最中だ」

「…では、陰流継者の名を言ってみて」

 逆に千鶴が尋問する立場をとった。つかの間、半端な使命感を胸中に抱くこの娘を面白がりながらも巳陰は思案した。娘を適当に誑かし、手荒な事はせずとも必要なことを聞き出せるとは思ったが。やがて躊躇った後に腹を決めた。

「継者の名は上泉秀綱殿だ。西上州の地で砦を構えておられる」

 その名をしっかりと記憶に焼きつけるように、顔を伏せた千鶴の唇が声もなく動く。やがて顔を上げ、再び巳陰を睨みつけた。

「それが本当だという証は。適当な名を騙っただけかも知れない」

 巳陰は呆れたように吐息を洩らした。苦い唾を吐き捨てながら。

「いい加減にせい。おまえはわしを殺そうとしてしくじり、捕われておるのだぞ。殺すつもりで問いただしておれば、とうに手荒な術を使っておるわい。世の忍びが皆非情だと思われては全くもって迷惑だ。もう面倒だから駆け引きなどせぬからおまえも正直に申せ」

 巳陰は千鶴に近寄り、足と手の紐を解いた。千鶴は二歩下がって身構えた。巳陰は先程取り上げた半弓と矢をその足下に蹴り飛ばした。娘は空かさず手を伸ばした。巧みな手際で矢を番える様をじっと見ていた。鏑が巳陰の胸を狙う。

「この弓は父の形見だ。足蹴にしただけでも、あんたを殺す理由になる」

「わしを殺めて、誰に誉めてもらうつもりだ。父もいない。仲間もおらぬくせに」

「黙れ。父喜久蔵の志を守れるだけで良い。愛洲様なんか、あたしには関わりない」

「既に滅んだ一族の名誉などわしとて知ったことではないわ。知りたい事はただひとつ。天下を覆すという秘宝〃飛龍六道〃の行方だけだ」

 一瞬の間を置いて、突然千鶴が哄笑した。周囲を矢で指して。

「これが見えないの、北陽。これが飛龍の爪痕さ。宝だって!笑わせるんじゃないよ」

 千鶴の見せた怒りが巳陰に先程の幻影を回想させた。

 矢を受けて伏していた四半時の間、肉の体は襲撃者の気配を窺いながらも巳陰の知は飛龍六道の正体を追っていた。周囲の森と全ての生き物に死を齎した〃龍の力〃。地に耳を押しつけることで、十年前にこの場で起きた事を幻視するような錯覚を見た。幻の中、護摩の炎が何かの秘薬を満たした鉄の大鍋を炙っていた。すると突然、ぐらぐらと煮え滾る鍋から毒々しく黒い障気が立ち上った。晴天の蒼空に立ち上る闇色の烽火は、まさに死を蒔く飛龍の姿であった。生きとし生けるもの全てを六道へと導く悪しき陰…。

「わけはどうあれ、元気が出て何よりだ。では、ここが飛龍の抜け殻という訳だな。三十六もの人が死に、おまえの父御もそのために命を縮めた。で、龍はどこに消えた」

「瞬く間に全ての命を食らって天に帰った。このまま何事もなく時が過ぎ去れば、龍はもう二度と戻る事はない。あれは、地に降ろしてはならない〃力〃なんだ」

「その話は父御に聞いたか」

 千鶴が頷く。娘の年からしても、その時の様を己が目で見覚えているとは思えない。

「千鶴はそんな話を真に受けているのか」

「十年前にここで大勢が死んだ。人も獣も、虫や森の木だって。少なくとも、齢百八になる坂東の妖狐なんかよりはずっと龍の力の方が信じられるさ。それに、ずっと怖い。飛龍は黒い悪霊なの。この森を地獄に変えたんだ。飛龍六道はあいつを呼び寄せる方法だよ。さっき、天下を覆すって言ったね。そうさ、飛龍は天下を滅ぼすんだ」

 千鶴の目が暗い情熱にギラギラと光る。巳陰は動揺を隠す一方で、その言葉の本意を掴もうとしていた。子どもじみた言い回しに、内心首をかしげながら。少し話してみて千鶴は父の言葉を盲信しているのではないことは判った。その双眸に狂気を宿してはいない。それでも、語り口には不思議なほど鋭い説得力がある。戯言のつもりで試した問いに真顔で答えた眼前の娘が、まさか龍の実在を信じているとは思えなかったが、それでも調子を合わせて問い続けることにした。機嫌を取るためではなく、事の核心に迫るために。

「おまえにはその飛龍を呼ぶことは出来るのか」

 予想通り、千鶴は首を横に振った。にこりと微笑む。

「北陽は愚かなおやじ妖狐だね。飛龍六道をあたしが持っているかって聞いているなら、生憎だよ。持ってない。あればこの手でとっくに葬っているさ」

「では、また誰かが龍を呼び寄せるかも知れぬぞ。そして、また多くの民が死ぬ。おまえの父のように幸い生き残ったその者が、不幸にも邪な望みを抱いた場合は…。戦場で使えば幾万の軍勢にも匹敵しような。求める者も多かろう」

「あんた等もそれを目論んでいるぐらいのことは判ってる。絶対に許せない」

 絶対に許せない。その言葉は逆に誰かが再び龍を、いや龍の力を、地上に召喚する可能性があることを示す。千鶴たち親子はそれを阻止するためにこの地を見張り続けていたことになる。だが彼等はどうも、飛龍六道の守護者ではなかったらしい。話しながら、巳陰の思考の糸が何かに触れようとしていた。あと少しで龍の尾に手が届きそうだった。この地で三十人以上が死んだ。部落の者は皆死んだと村人たちは思い込んできた。だがもし生き残った者が居たとしたら。飛龍六道はそれらの者たちの手中にあるのでは、と。

「おまえがここに居ることからも、まだその龍とやらを呼び寄せる術があることは察しがつく。その方法を記したものが飛龍六道なのであろうが。天下を覆す力とはよく言ったものだ。本当の事を言え、千鶴。おまえの父御の志はここを守る事ではないことぐらいは判る。愛洲に仕えておったおまえの父御の最後の望みは何だったのだ」

 二人は睨み合った。火のような視線と弓の矢先を逸らさぬまま、千鶴が口を開いた。

「龍の力を永遠に封じる。そのためには、龍を呼び寄せる術を継いだ御方を葬る事さ。飛龍六道を受け継いだ無敵の技、猿飛陰流奥義を身につけた…阿修羅のように強いという」

「その御方は、後醍醐天皇の裔でもおわすのだな。その御方を斬らねばならぬのか」

 千鶴が神妙な面持ちで頷いた。巳陰から目を逸らした拍子に頬が小さく歪んだ。

「斬ることが出来るのは、恐らくこの世でただ御一人だけだと父が言った」

「それが、陰流継者上泉秀綱殿だというのだな」

 千鶴は弓を降ろしながら、自身でも確かめるようにまた頷いた。



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