秀綱陰の剣・第八章

著 : 中村 一朗

夜烏


 その昼下がり。

 疋田文五郎は下柴砦に戻った。朝から箕輪城で剣術を指南しての帰りである。先日の旗本たちとの小競り合い以降、文五郎は五日に一度ほどの割で箕輪城に赴いている。秀綱の代理であったが、その技量を侮る者はいなかった。指南の相手は長野軍旗下の精鋭たち。場所も二の丸の前庭であった。時折、城主長野業政までが物見に来る。件の出来事でぎこちなくなった両者の関係を円滑なものに戻すため、業政の要請で実現した。元々秀綱の肩書きは城外剣術指南役である以上当然の役向きではあったが、文五郎には不満があった。政治的な思惑の下に指南するように思えるためである。剣術指南自体については 嗇 ではない。教わる側も真剣に応えている。それでも何か釈然としないものを感じていた。有体な言い方をすれば、面倒であった。戦場での功名を目的とする城中の上級武士たちに、如何なる状況下でも生き残る野生の剣を教えても意味がない。それよりも自分の剣を研くことに心血を注ぎたかった。初めて山に籠ってみたいと心底思う。秀綱と卜伝の二人の天才に接して違いを知ったことで、己の求める剣の影を霞む彼方に垣間見たのである。

 『守・破・離』と後の世に言われる修業の境地がある。『守』は従。師の指導に従って流儀の枠に己を合わせることから始める。近似的な意味では基本を守ることである。次の段階が『破』。流儀の枠を破り、自分なりの改良を加える。基本を己の特性に合わせて、より有効に生かすために。そして『離』は新たな流派の確立へと導く。それぞれの境地に明確な区分けはないが、文五郎はようやく次の階梯に至ろうとしていた。

 門近くまで来ると、落ち葉の焼けるこげ臭い匂いがした。うっすらとした煙が屋敷の前庭あたりから風のない薄蒼空にゆらゆらと立ち上っては溶けるように消えている。妙に思いながら門をくぐって前庭を見ると、その片隅で枯れ葉を燃している塚原卜伝の姿が目に入った。卜伝は箒で周囲の落ち葉を掻き集めては炎にくべていた。傍らで門番の兵助が手伝っていおり、文五郎に気づくとすぐに走り寄ってきた。

「お帰りなさいませ」

 文五郎は会釈で応えながら、

「塚原さまは何をなさっておる。焚火は、見ればわかるが」と問う。

「はい。手持ち無沙汰だから、庭の掃除をしてやると申されまして」

 ほう。と、口中で唸ると顔を上げた卜伝と目が合った。卜伝が箒を掲げて笑いかけ、それに応えて文五郎は頭を下げて焚火に歩み寄った。

「居候もあまり長引けば気が咎めるでなあ。何か手伝えることでもと思ってよ」と卜伝。

「日頃は昼寝の高鼾で過ごされているお方の言葉とは思えませぬが」

 卜伝の笑い皺が深くなった。箒の柄を火の中に差し込み、突然弾いた。小さな拳ほどの塊が火床から飛び出し、文五郎に向かった。文五郎は無駄のない動きで小柄を抜き、飛んで来たものを宙で突き刺して止めた。それをしげしげと見つめる。芋であった。

「まだ生焼けの様子でござる」

 文五郎は芋を火中に返した。

「うむ」と不満げに呟き、卜伝がその上に枯れ葉の灰をかけ直しながら。

「先程、洋介のところのおっ母にひと笊貰った。日頃、遊んでもらっておる礼だそうじゃ。とりあえず六つほど焼いてみようと思ってよ。美味ければ皆に振舞おうかな」

 洋介とはこの十月に六つになったばかりの、昼を過ぎると卜伝に付き纏っては遊戯を迫る子等のひとりである。卜伝は大抵その申し出を引き受けている。

「物持ちな手下がおられて、良うございますな」

「おうさ。わしはどこでも果報者で通っておる」

「では、後ほどご相伴に預かります」

「意伯殿のぶんは、先程の小柄の跡がついておる奴じゃぞ」

「心得てござる」

「ところで、もうすぐわしに客が来るそうじゃ」

 文五郎が訝しげに首を傾げた。卜伝は今朝方の話を文五郎に伝えた。序でに甲斐に手紙を送ったこともつけ加えた。その内容までも。文五郎はさすがに怒りこそしなかったが、良い顔色ではいられなかった。卜伝に対しての不満ではない。

「つまり、長野公はこの屋敷を見張らせていたという事になりますか」

「まあ、政を司る身の上なれば当然の気遣いであろうさ。大名など押並べて小心でなければ勤まらぬ故、上泉での騒動の成り行きを案じての事よな」

「当方にとっては、愉快な気配りではござらぬ」

 一方で信頼を求める懐柔策を取りながら、その一方で疑心が暗鬼を生む。戦国の同盟内では常識であることはわかっていても、業政から武芸指南の後に労いの言葉をつい一時前に受けたばかりなだけに、文五郎には余計に歯痒い。

「それで、わしを訪ねて来る客とは誰であろうな」

「さあ。存じませぬ。今日の来客など聞き及んではおりませぬが」

「そろそろ秀綱殿でも帰ってくるのかな」

「ご冗談を。主が客になる通りもございませんでしょう」

「なるぼと。そりゃあそうじゃ」

 旅の帰宅予定が大きく遅れているにも拘らず、秀綱たちを案じる者はいなかった。屋敷の者たちの話では、今までにも在りがちな事だという。以前にもひと月ほど予定から遅れて帰った事が在ったらしい。ただ襲撃事件とその後の騒動が未だ渦中であるため、此度はそう長い旅はすることはあるまいと思っていたのである。

 卜伝と文五郎は暫く無言で焚火に手を翳して、時折灰中の芋を突いた。そろそろ中庭で内弟子たちの稽古が始まる頃になる。文五郎が身を起こした時、門の外から人の気配が近づいて来た。二人は同時に顔を向けた。やがて痩せた皺深い顔がひょいと門をくぐって覗いた。二人を見止めて、挨拶代わりにニタリと微笑む。

「仁右衛門…」と、文五郎が呟いた。

 旅姿の羽黒屋仁右衛門がそこにいた。供の手下が二人、その後ろからやって来た。その二人は門の脇に控え、仁右衛門が焚火の方に歩いてくる。無論、秀綱の姿はない。

「若旦那、先生はまだ帰ってこねえんですよ」と仁右衛門。言いながら、面白がっているような瞳はじっと卜伝を捉えている。文五郎はふとその視線に気づいて卜伝を見た。卜伝は近寄ってくる仁右衛門を奇妙なものを見る視線を返していた。

「塚原の旦那、年を食い過ぎて惚けまったのかい。ほら、あっしだよ」

「仁助…。夜烏の仁助か!なんとまあ、むさい爺いになりおって」

 初めに卜伝が破顔した。二人は見つめ合い、弾けるように笑った。

「ケッ!御挨拶だねえ。三十年もすりゃあ、皺だらけにもなりますよ」

「わしを尋ねてくる阿呆とは、仁助だったのか」

「そうさ。もっとも今じゃあ、羽黒屋仁右衛門って立派な名でね」

「悪い奴ほど良く名を変えると言うが、おまえは悪い奴だったからなあ。そうか。あの二人を見りゃあ、今の商いもわかる。夜盗の頭じゃろう。で、ど助平は直ったのか」

「何を言いなさる。あっちの方は枯れるまでって奴でしてね。まあこう見えても、上州一の口入れ屋でございますよ。ところで、旦那。御内儀は達者かい」

「ああ。二十年前に死んだ。はやり病でな。旅先で危篤と聞かされ、急いで戻ったが間に合わなかった。あまり丈夫ではない質じゃったから仕方あるまい」

 変わらぬ卜伝の声音とは逆に、ふいに仁右衛門の顔が曇った。

「すまねえ。余計な事を聞いちまったらしいや」

「妙の墓はわしの墓の横にある。何処ぞでのたれ死ぬとも、黄泉路でまた会えるさ」

「…かなわねえなあ、旦那にゃあ。亡くなられた奥方にそうのろけられちまったら、こっちの顔が赤くなるから、もうこれ以上は聞いてやらねえ」

「仁助、今宵は覚悟しておれ。朝まで妙の話を聞かせてやる」

 二人の間に立つ文五郎は唖然として話を聞いている。話に加わる糸口も掴めないままのいきさつを問いたげなその顔に仁右衛門が応えた。

「若旦那。このお方と知り合いだったのかって聞きたいんだろうね。実はそうなのさ。あっしがまだ先生に出会う前から、塚原の旦那とは何かと妙な縁があったんですよ。あの頃はあっしも一端の悪党を気取っていてね。その目を覚ましてくれたのが、この旦那だったのさ。一緒に仕事をしたこともありましたしねえ」

「何が縁じゃい。仁助がわしの命を狙ったこともあったよなあ」と卜伝。

「ありゃあ成り行きさ。もう忘れたぜ。若旦那が生まれるずっと前のことでよ」

 文五郎が生誕した時には、既に仁右衛門は上州ではそれなりの顔役として地位を固めていた。月山での修行を終えて陰流の奥義を極めた秀綱に同伴してこの上泉の地にやって来て、そのまま根づいたのである。当時、西上州というよりは大胡の地が混乱期であった。世間の裏の事情に長じた仁右衛門にはいくらでも仕事の口が舞い込んだが、秀綱に不利益になる場合は拒否した。その頃の以前に、秀綱と仁右衛門の間に何があったかは誰も知らない。秀綱についても三年に及ぶ武者修行の旅から帰っただけのこととしか周囲からは思われていなかった。陰流奥義の印可状を相伝したことについて知るものはつい最近まで秀綱自身以外では唯一、羽黒屋仁右衛門だけであったのである。

「そのあたりの話は後でゆっくり聞くとして、どうして仁右衛門が塚原さまを尋ねてくる客なのだ。ここに居られることとて知らぬ筈だろう」

「伊勢の温泉宿に逗留して骨休めをしていた時に、業政さまが使う乱波が知らせに来ましてね。先生を訪ねて来た客がお屋敷に居座っているって聞いたもんで。急いで、御挨拶をしといてくれって先生に言われたのさ。先生はまだ戻らねえよ」

 業政の放った乱波は伊勢路を取った秀綱の動向さえ掴んでいたらしい。文五郎は知らなかった。再び頭を抬げたその不快な念を圧殺して問い返した。

「堺から伊勢路をとったのだな。じゃあ、叔父上とは高野山辺りで別れたのか」

「いいや。今頃は月山に着いたろうね」

 文五郎と卜伝がキラリと視線を交じらせた。無言のうちに疑惑が互いの間を行き交う。卜伝に促されるように、文五郎が仁右衛門に不安げな顔を向けた。

「叔父上は、何用で月山に向かわれたのだ」

「さあね。暫く人を待つことになるだろうって言ってましたねえ。他には何も聞いてませんぜ。〃近々必ず帰るので、ご緩りとお待ち下され〃って、塚原卜伝先生にお伝えしろって言われて来たのよ。塚原の旦那の書いた手紙の事を乱波に聞いた後のことだがね」

 手紙の内容を聞いてから、秀綱の旅先が月山に変わったという事である。そこで誰を待つのか。文五郎の直感が不吉な答を連想させた。陰流とその秘事について知るその男の名は恐らく無界峰琉元か、またはその同胞であろう。秀綱が再び彼らと争うことになるとは思えない。だがそれでも文五郎は身の奥底に畝る暗い疼きは消えなかった。

「月山に赴こうなどど思うておるなら、やめた方が良いぞ」

 ぽつりと呟いた卜伝を、文五郎は振り仰いだ。真剣な瞳が虚空を眺めていた。

「先生もそう言っていたぜ。ここにいろってね。帰ったら陰流のことを、若旦那には何もかも話すつもりでいなさるようだよ」

 文五郎は仁右衛門を見ようともしない。険しい眼光を卜伝に向けたまま。

「なぜでございる」と、自制しながら卜伝に問う。

「恐らく秀綱殿は陰流を極めた時に何かを背負った。陰流の名を意伯殿に言わなかった事情もそれがための覚悟じゃ。己一人で片をつけねばならぬ訳があるのだろう。〃陰〃に関わりのない者は断じて立ち入らせぬ決意だ。それに、必ず帰ると秀綱殿は約束しておる。わしはその言葉を信じて待つことにしよう。だから意伯殿もそうせい」

 必ず帰る。そう約束した以上、秀綱の身上に何らかの危険が迫っていることを意味しているのではないか。以前秀綱は敵に囲まれた大胡本城から脱出を試みる直前、必ずお前たちを守ると供の者たちに宣言し、その約束を守ったことがある。あれは、大きな危機に挑むための宣言だった。此度の伝言からも、文五郎は同じ予感を覚えた。恐らく、卜伝も何らかの事態の変容に気づいている。それでも事態の収拾は秀綱一人を信じて任せるべきと言うのである。秀綱と同類の卜伝がそう言うのであれば、文五郎はその判断を尊重せざるを得ない。今の己の迷いはただの衝動によるものであることは十分に解っている。

 暫くの沈黙の後、文五郎は吐息を吐くように口を開いた。

「なるほど。待つより仕方ないかも知れませぬな」

 小さく頷いた卜伝は箒の柄を使って焼芋をふたつ、文五郎と仁右衛門に放った。文五郎は再び小柄の先で、仁右衛門は羽織の袖を使って器用に受け取った。仁右衛門はすぐに灰を払って二つに割った。湯気の立つその断面をぺろりと嘗めて、

「ほう。こいつは美味そうだ。丁度食い頃だね」と嬉しげに呟いた。

 卜伝は芋を噛る仁右衛門を見ながら、自分でも芋をふたつにして問う。

「ところで仁助。秀綱殿は月山で人と会って何をするつもりなのじゃろうなあ」

 仁右衛門は、うんざりした顔で卜伝を見た。

「しつこいね、旦那も。知らねえよ、本当に。先生は何もおっしゃらなかったもんで」

「馬鹿者。だから、おまえの勘働きはどうかと聞いておるのだ」

 仁右衛門は口をへの字に曲げ、半眼で足下を見つめた。

「こりゃあ思い過ごしかも知れませんがね。先生は誰かを斬る覚悟をなさっていたよ」

 卜伝は心なしか蒼ざめた文五郎を見やり、目が合うとにっこりと微笑んだ。



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