秀綱陰の剣・第九章

著 : 中村 一朗

帰還


 甲斐。一本松の森の中。朝。

 木もれ日の差す凍てつく細道を、早足の男が行く。忍び独特の擦り足に似た運歩法で先を急いでいるが、右足を引き摺るようで足取りがどこかぎこちない。それでも常人が森を走る疾さを遥かに超えていた。突き出している枝葉を巧みに見切ってけもの道を走り抜ける。途中、男の影に気づいた見張りがすかさず後をつけたが、人物を確認すると走りながら背後に従った。男が何かを呟き、見張りは元の配置に戻った。その背後の木陰に控えていた二人も同様に。見張りたちは指示通り、三人一組で館の警戒に当たっているのだ。

 男は裏傀儡一番組組頭、百舌鳥の巳陰であった。

 あれから五日。千鶴を捕らえたその日のうちに日向を立った巳陰は、ようやく甲斐に戻って来た。鵜戸の山中で調べ上げたことの子細を自らお久に伝えるためである。その内容が当初の予測とはかけ離れた事であっただけに、手飼いとて〃口伝〃たちを使う訳にはいかなかった。この四日と半日の間、立ち枯れた木々の残る森の廃墟が片時も巳陰の頭から離れなかった。そして森を滅ぼし、多くの人命を奪って六道へと誘った飛龍の幻影。そこに何れかの理を求めて、ようやくひとつの結論に辿り着いた。

 やがて巳陰は館を視界に捉えた。築地壁に沿って西に進み、複数の視線を背に受けながら裏口の木戸を開けて敷地内に。視線の主はどれも巳陰の手下たちである。右手を振って陽気に合図を送ると、彼らの警戒は再び森の外へと向いた。

 前庭はたおやかな朝日に満ちていた。それでも微風は冷たい。十日ほど甲斐を離れている間に、冬がまた近づいたのだ。日陰には丈高く霜柱が立っていた。陽光に晒されて溶けかけているものはキラキラと朝日に煌めいた。落葉の終えた森から聞こえる小鳥の囀りに呼応するように、片隅の小屋からは鶏の鳴き声が絶えず聞こえてくる。館に目をやると、夜露がしっとりと藁葺きの大屋根を濡らしていた。館の雨戸と障子は日差しを誘うように開け放たれ、広い縁側の敷板さえも輝いて見えた。どこにでもある農家の風景であった。ほんの半月ばかり前、この館を中心に血みどろの死闘が行われたなど嘘のようである。

 その縁側の中央にお久がいた。斜め後ろにはお蝶がひっそりと控える。陽だまりにいるにもかかわらず、お蝶の面影はいつになく暗かった。お久は左手にある稗を緩やかな手捌きで地に撒いていた。それを十数羽もの雀たちが啄んでいる。お久を囲む雀たちは冬の到来に備えて、身に滋養を蓄えようと夢中である。ふいに、お久の右手が風に揺れる柳のように撓った。一瞬、その指先で白金がキラリと反射する。放たれた四寸程の針は閃光を残してまっずぐ伸び、稗を啄んでいた一羽の頭部を貫いた。小さく羽ばたくように痙攣してその雀は死んだ。それでも他の雀たちは気づかずに餌を求め続けている。見れば、雀たちの中に針で刺し貫かれたものが三羽いる。巳陰は、他の鳥たちに死の気配すら感じさせないお久の技の冴えに舌を巻きつつも不快な光景に顔を顰めた。

「世辞にも風流とは言えねえ絵柄だね、元締」と、庭の隅から声を掛ける。

 顔を上げたお久が静かに笑みを浮かべた。

「無益な殺生とでも言うのかい。これは肴さ。おまえの夕飯に添えようと思ってね」

 巳陰の帰還は鳩を飛ばせて予め知らせておいた。もっとも三日前にお久に宛てた文に記した時の予定では、甲府到着は今夕になるはずであった。

「そいつはありがたい。これで雀も死に甲斐があったってもんだぜ」

 巳陰の皮肉な口調にもお久の顔に変化はない。ただ、小さく首を振っただけ。

 巳陰が庭中まで歩を進めると、雀たちは次々に飛び立った。後には、串刺しにされた三羽の屍が残っている。巳陰はそれ等を針ごと拾い上げながら言った。

「どうやら、雀どもにも嫌われたらしいや。理不尽だ。やったのは元締じゃねえか」

 差し出された雀を受け取りながら、お久が微笑む。

「ご苦労だったね。こう早く戻って来れるとは思わなかった」

「寝ねえで駆け戻って来たからよ。約束をひとつ、すっぽかしちまった。気が咎めるぜ」

 力仕事を手伝うと言った興庵寺の住職との約束の事である。

「じゃあ、これが済んだら帳尻を合わせるんだね」

 巳陰は縁側に腰掛けた。いつの間にか座をたって戻って来ていたお蝶が表情のない顔で盆に載せた茶碗を差し出した。碗の中は冷酒である。巳陰はひと口含みながら、

「どうした、お蝶。朝っぱらから元気がねえな。女にでもなったか」と、軽気で言った。

 一瞬、伏せがちの顔のまま床板を見ているお蝶の瞳がギラッと光った。その刹那の怒気の中に垣間見えたものが小さな殺気であると気づいて、巳陰はすぐに察した。半月前から手についたままの目に見えぬ血糊を、どう拭えばよいのか惑っているのだ。

「揶わないでそっとしておいておやり。まだ二十日と過ぎてないんだから」

 言葉とは裏腹に、突き放すようにお久が言った。

 十七日前の攻防戦で、お蝶は陣内配下の三人の乱波を殺した。それが初めての殺人であった。今まで如何に死に接する機会が多かったとはいえ、それが自らの手で初めて他者の命を奪う稽古にはならない。殺人の衝撃は死病のように、じわじわと精神を冒す。

「陣内はどうした。まさか、森ん中に埋めちまったんじゃねえだろうね」

 戦闘の直後、お蝶の心の均衡を保たせたのは重傷の陣内であった。陣内の体を看護することで、血を流す己が心の傷を癒そうとしていたのかも知れない。結果、お蝶の不休の看病で陣内は死の淵から逃れることが出来たのである。

「馬鹿をお言い。草薙の里に帰したよ。今日あたりには、伊賀の国境を越える頃さ」

 陣内がこの館を去って時が過ぎると共に、お蝶が浴びた死者たちの返り血は再び酸のように心の傷口を侵し始めた。このこと自体は熟練の巳陰たちでも常にある事だった。しかし初めて人を殺めたお蝶には、その応じ方次第でこれからの心根が決まる。特に、裏傀儡として今後も生きるつもりであれば。ただ慣れてしまうのであれば容易である。さらに時がたち、次に人を殺せば恐らく馴染む。不幸にして殺人者の素地は万人にある。凡俗な殺人者ならば心の一部を鈍らせて鬼畜に成り下がるだけで済む。戦場で功名を求めるのであればそれで良いのかも知れない。だが乱波技を使う精鋭の暗殺集団である裏傀儡においては、心の隅々まで解放する鋭敏な感性こそが命である。己を知り、相手を知る事。兵法者とも共通のこの感性が洞察の度合いを決定すると言っても良い。肉体の素質を開花させ、技を極める事ができる者は少ない。しかしそれ以上に、優れた暗殺者の精神を持つに至る者は更に少ない。大抵の者は自分が殺した死者の怨念に喰い潰されてしまうからだ。しかし、殺人への馴れは決して誇れる適応ではない。奇形の魂を持つことを意味する。

「先に送りつけた左腕を持ち主に追わせてやった、つう事だね」

 お久が明るく笑った。お久は暗殺者の理想である。稀に見る忍び技の才能と鋼の強さを持つ瑞々しい感性がひとつの肉の中で結実しているのだ。巳陰はお蝶にお久と同様の力を求めようとは思わない。だが裏傀儡に身を置く以上、それなりの強かさは必要である。それを身につけなければ、やがて近々お蝶は死ぬ事になる。任務の中で自然に淘汰される事になるだろう。全てはこれからのお蝶次第で決まる事だった。

「おまえみたいに、足を引き摺りながら。一応、千舟と彦座の二人をつけてやった」

「そいつあ、お優しいことで。じゃあ、奴等と話がついたってえ訳だ」

 お久が頷く。祭りを心待ちにする童女の笑みで。

「そう。だから、良い年越しになりそうなのさ」

「千舟と彦座か、気の毒に。帰りの峠は葛が重くて大変だろうぜ」

 裏傀儡と草薙一族が和解した事は既に聞いていた。和解とは便宜上のことで、実質的には草薙一族の全面降伏である。巳陰が日向に向かって出立した直後、草薙の里に残る者たちはお久の出した条件を受諾した。陣内の助命と身柄の引き替えには後醍醐天皇と草薙に関わる情報のみならず少なからぬ額の金品が加えられた、と巳陰は繋ぎの〃口伝〃から六日前に聞いてある程度の成り行きは知っていた。更に今後も乱波として禄を食むつもりなら裏傀儡の傘下に入ることさえも取り決められた。強い者が弱い者を従える。裏傀儡の技量を思い知らされた草薙里の者たちの中には異を唱える者はいなかった。その取り決めに従って里の者が彼らに語った事はお久たちの推理を裏付けただけであった。

 唯一の収穫は、彼らが日向の地で二百年前に叢雲剣を見つけ出していたと明かしたことである。剣はそのまま愛洲の手に渡したという。伊賀の里はその時の褒美として草薙一族が譲り受けたものであった。元は、後醍醐天皇の隠れ里のひとつとして使われていた領地だった。巳陰はこのことも、千鶴に問いただして裏付けを取っていた。

 しかし飛龍六道については、彼等は噂以上の事は何も知らなかった。

「それで、日向で何を見つけたんだい」

「どうやら、飛龍の尻尾を掴んだらしいのさ」

 巳陰は日向で起きた出来事を〃口伝〃のように整然と報告した。その間四半時近く。お久はただひとつの質問もしないまま話に聞き入った。巳陰も壁に向かって語りかけるように、一切の感情や憶測を交えない。事実だけを正確に描写して伝えた。その後お久は、

「そう…。愛洲の猿飛はもう滅んでいたの。残党が飛龍六道と共に消えた…か」と呟く。

「千鶴の話では、後醍醐天皇の血を引く者が猿飛陰流を興したらしい。つまり、愛洲小七郎惟修の手に叢雲剣と飛龍六道があるってえ事だ」

「でもその娘は愛洲惟修が後醍醐の血を引いているとは言っていない。猿飛陰流奥義を身につけた者が後醍醐の血を引くと言っただけなんだろう」

「そりゃあ…言われてみりゃあ、確かにそうか。しかし、その野郎が龍を呼び出そうとしたんだぜ。叢雲剣を手に、龍を呼び寄せた南朝天皇の末裔さ」

「その後醍醐の血を引く誰かは、天下を狙う野心があるって事」

「そうよ。誰かは兎も角、その野郎は愛洲一族を束ねて十四五年前に日向にいた。多分あの山のどこかに隠されていた飛龍六道を捜し出すためだな。で、奴等は見つけた」

 束の間、二人は口を閉ざした。己の感働きを探るようにぼんやりと虚空に視点を遊ばせる。巳陰は碗の酒をすすり、お久は指先で針を弄ぶ。やがてお久の視線が巳陰に向いた。

「その龍だけど、巳陰は何だと思う」

 真剣な目でお久が問う。巳陰は茶碗の酒を飲みながら。

「毒だね」と、ぽつりと呟いた。

「強い毒の障気さ。飛龍六道はその製法だよ」

 お久の黒々とした瞳がじっと巳陰の目を見つめている。

 巳陰は確信していた。この数日間、考え抜いた末の結論である。言葉はお久の思考に浸透し、直感が導いていた事と同化するまでじっくりと時をかけた。やがて。

「なるほど。それが森さえ枯らしたはやり病の正体ってこと」

 巳陰が頷く。お久も話の直後から同様の結論に至っていた事を悟りながら。

「〃飛龍〃なんて言いやがる絵空事の化け物よりも、そう考えた方が納得できるぜ。そしてもしそんな毒を本当に操れるなら、確かに天下をひっくり返せるかも知れねえ。川中島辺りで使やあ、越後軍なんか半日で全滅させられる」

「下手をすれば、味方の軍諸共ね。だから、愛洲一族は滅んだ」

 巳陰は背を丸めるようにして目を細め、下からお久を見上げた。お久は平静な顔で見つめ返した。そのまま暫く時が流れる。やがて巳陰の頬が静かに動いた。

「…いったい、何が言いたいんだね。元締」

「別に。おまえが怖じ気づいたのかと思ったのさ」

「何を言いなさるんだよ、いきなり」

「おまえの顔にそう書いてあった」と、お久は本音とも冗談ともとれる笑みを頬に浮かべながら。

「ただ何れにせよ、初めに期待していたようなお宝じゃあなさそうだね」

 しばしの沈黙の後、ふいに巳陰の顔つきが無表情なものに切り替わった。内心の不安を覆うための能面のように。あるいは皮膚の下から別人の表情が浮き上がってくるような。その顔から暗い視線が地表を嘗めてお久に向かう。

「どうも物騒、…つう以上に薄気味が悪いぜ。飛龍六道のことだけじゃねえ。この件全体がきな臭え。なあ元締、何なら手を引いてもかまわねえんじゃねえかな。草薙から取り上げた金だけでも損はないんだろう。琉元と黒夜叉のことは、これとは別の事として片をつけりゃあいい。何なら一番組で引き受けたっていいんだ」

 お久は巳陰の瞳の奥を覗き込むように見つめた。巳陰は懸命に無表情を繕って、染み入るようなその視線を受け止めた。やがてクスッとお久が笑う。

「裏傀儡の面目がある。似合わない冗談はおよし」

「いいや、本気だぜ。弱気なつもりはねえが、どうも嫌な予感がしてならねえ」

 そう口にしてみて、巳陰は目を背けていた自分の意志の裏側に巣くうもうひとつの心情に気づいた。脳裏から離れない立ち枯れた森の景色には過去の惨劇以上の不吉な陰がつきまとっていた。巳陰があの森で垣間見た死の幻影は、日向から遠ざかれば遠ざかるほど逆に意識の奥底では日に日に鮮明さを増し続けている。もはやあの森の一角に穿たれた木々の屍というだけの記憶にはとどまってはいない。いつの間にか、この国の全ての山々に伝染して赤茶けた枯れ野と化してゆくような悪夢へと変貌を遂げていたのである。

「飛龍六道を巡って昔から大勢が死んでいる。裏傀儡や草薙だけじゃねえ」

「自業自得。この国は昔から死にたがり屋が大勢いるってことさ」

「そんなこたあ解ってる。…死に絶えた部落を見てから、ずっと考えていたことがある。もしかしたら壇ノ浦で平家と源氏は、飛龍六道の密書を奪い合ったんじゃねえのかな。三種の神器の争奪戦など二の次だった。密書さえあれば、どんな負け戦も覆せる」

「面白いね、巳陰。裏傀儡を抜けたら、きっと達者な講釈師になれるよ」

 巳陰の頬が怒気に紅潮した。茶化されたことよりも、蔑むような笑みを浮かべるお久の視線が堪に触わった。それでもその衝動を目の奥で押え込む。

「笑いたきゃあ笑えよ。あの光景を見たら、だれだって目から鱗が落ちる」

「おまえの場合は鱗がはえたのさ」と、お久は再び嘲るような調子で。

「…元締え!」

 巳陰が腰を浮かしながら、手元の碗を地面に叩き付けた。碗は土の上で砕けた。

「ああ、勿体無い。萩の行商人から譲ってもらったいい茶碗だったのに」

 二つに割れた茶碗を見て、揶うように流し目を巳陰に送った。巳陰は憮然とした様子でそっぽを向いたまま再び縁側に腰を下ろしだ。お蝶の方にチラリと目をやる。巳陰と目が合うと、驚いたような表情がふっと浮かんで消えた。

「心配だから言ってんだぜ。それを、揶いやがって…。あんな茶碗のひとつやふたつ、来月にでも萩に寄って買って来てやらあ。どうせ近々、またあっち方面に行くんだ」

「じゃあ、頼んだ。…ところで、上泉秀綱の行方が判った。月山にいる」

 一瞬、巳陰は呆気にとられた。言葉の飛躍に耳を疑った。

 だめだ、これは。と、巳陰は腹の中で吐息を漏らす。この件に関わるようになって、お久は変わった。いや、お久だけではなく裏傀儡そのものが変わってしまった。ふたりの組頭が抜け、彼らの下忍たちも死ぬか離反した。一方で警護と世話役に過ぎなかった桐生、時雨、お蝶の三人はこのひと月ほどの暗闘の中で組頭並みの力量を身につけつつある。かつては自分たちを走狗のように使っていた草薙さえ傘下に置き、組織は逆に強化されたと言ってもよい。ひとつの事件が三十年にも及んだ裏傀儡の在り様を別物にした。陰流に纏わる謎の探索。すべてはそこから始まり、ようやく最後の扉が見えて来た。扉を開けば答がそこにある。惨状の残滓を目にした巳陰は開ける前に扉を封印する事を求め、お久はそれを承知で手に入れようとしている。恐らくあの森と部落を見ても、お久の決意は変わらないだろうと巳陰は思った。お久は貫徹の腹を括っている。それも単なる強情や意地からではない。それなら、最後までつきあうしかあるまい。例えそれで裏傀儡が滅ぼうとも。

「よくわかった。もう、文句はいわねえ。…それで、上泉秀綱が月山にいるって」

 巳陰は、秀綱が堺から南紀に赴いた事は以前から知らされていた。裏傀儡は各街道のめぼしい宿場に多くの聞き耳たちを置いている。旅の雲水が山本勘助宅に置いていった手紙の内容から秀綱が旅立った事を知ると、すぐにお久は聞き耳たちに秀綱の人相書きを蒔いて各宿を見張らせたのだ。表街道を平然と選んで旅行く秀綱の一行を見つけ出す事は容易であった。秀綱が高野山に入る直前に動向を掴んだ。

「そう。長野の甲賀乱波から知らせを受けると、すぐに月山に向かったらしいの」

 七日前に山本勘助の屋敷に現れた雲水の姿が高野山で目撃され、直後に羽黒屋仁右衛門とその従者が箕輪に向かった事がお久の元に伝えられていた。

 その明くる日、秀綱が一人出立したというのである。

「つまり、塚原卜伝さまの手紙の内容を聞いて、秀綱が月山に向かったってえ事だね」

「手紙の何が秀綱を動かしたのか。…恐らく琉元の事だ。それで秀綱は琉元が愛洲の猿飛だったことを知った。ついでに、琉元が秀綱と接触しようとしていた事もさ」

「あるいは琉元の野郎は、本当に上泉秀綱を殺そうとしていたのかも知れねえぜ。無論、てめえの功名や手下どもの敵を討つためなんかじゃあねえ。愛洲と後醍醐の血を引く猿飛陰流の継承者を守るためだ。秀綱だけが、その誰かを斬れるらしいからな」

 お久は虚空に視線を遊ばせたまま、軽い調子で頷いた。

「なるほど…。猿飛陰流を仕込まれた琉元なら、秀綱よりもその誰かの側に就こうとしていたことも考えられるね。何れにせよ、秀綱は月山で琉元の仲間を待つつもりでいる」

「秀綱と琉元の野郎は、ひと月前までは面識はなかった。それどころか、猿飛の誰一人として上泉秀綱の名さえを知らなかった筈だ。つまり秀綱を月山に赴かせたのは、陰流開祖愛洲移香斉との間で交わされた何らかの約定によるものだってえ事になる」

 巳陰はそう言葉にしながら思考の糸を手繰っていった。唯一秀綱だけが、移香斉に陰流の剣の奥義を学んだらしい。しかもなぜか、愛洲移香斉は上泉秀綱の名さえ身内の者たちに知らせなかった。身内の嫉妬の刃から秀綱の身を守るためであったのか、それとも…

 お久は顔を上げ、針先を見つめて口を開いた。

「陰流…無敵の斬人剣は秀綱が受け継いだ。上泉秀綱の名が伏られた理由は、移香斉が己の死後も愛洲一族に睨みを利かせるためだったと考えるのは可笑しいかい」

 巳陰もお久と同じ事を思いついていた。後醍醐の血を引く誰かを擁する愛洲一族は既に二百年前に叢雲剣を入手し、時をうかがっていたとする。皇家の血と影の勢力を持つ彼等が天下を覆す力を手に入れれば、求めるものは乱世の覇権に他ならない。しかし戦国の始まりが来ても、愛洲移香斉は遁世するように月山の山中でひっそりと暮らしていた。移香斉がどのような人物であったかはわからないが、山本勘助の師である塚原卜伝さえ一目置くほどの人物であったという。武将ではなく兵法者の生涯を選んだ。

「いいや、笑えねえな」と巳陰がお久に同意する。

「移香斉に将軍の座を狙う野心なんかなかったことは明らかだ。でもよ、恐らく一族の奴等はそうじゃなかった。戦乱の野心が燃え上がった。移香斉が死ぬとすぐに一族は月山を引き払って、飛龍六道の密書を捜しに出たくらいだからな」

 これも巳陰が千鶴から聞いた話である。愛洲小七郎惟修に率いられた一族は各地で暗躍しながら、やがて日向の地に落ち着いた。その山中のどこかで飛龍六道の密書を手に入れていたらしい。古代文字で書かれたそれを解読し、翻訳するまで更に三年近い歳月を要したという。その間に飛龍六道についての噂話を流したのだ。目的は、天下を覆す愛洲の名を予め広めておく事である。後に各有力大名を後醍醐天皇の血名とその〃力〃のもとに取り込むために。そして密書の内容を訳し終えたその明くる月に、愛洲一族は鵜戸岩の森と共に滅んいしまった。数人の直参猿飛たちと、後醍醐の血を引く御子を残して。

「移香斉は世捨て人に甘んじていたんじゃない。進んで隔絶を望んだ。もし飛龍を解き放てば、一族を葬ると生前に宣言していたのかも知れないね。陰流継者の剣で」

「そして忍びを刈るその陰の剣に対抗するように、小七郎惟修は猿飛陰流を編み出したわけだ。名も知らぬ父親の技の継者を迎え撃つために…。てえ考えるなあ、ちょっと上泉秀綱を買いかぶり過ぎかね。だけど、大筋はそんなところじゃねえかな」

「うん。確かにどこかしっくりこないけど、それで一応の筋は通る。愛洲一族の裔を粛正するために、秀綱は移香斉との約束に従って月山に赴いた」

「だけど、出来るのかよ。そんなこと…」

 出来る筈がない。巳陰は乱波の底力を十分に理解している。一対一では兵法者に勝てずとも、同数が群れて争う山間部での白兵戦なら必ず乱波が勝つ。また乱波の三人掛かりであれば、いかなる達人でも倒せるものと信じている。ましてただひとりで一族全てを敵に回してその主の首を狙うなど正気の沙汰ではない。愛洲に仕える猿飛の実力は今の裏傀儡にも匹敵したであろう。それでも愛洲の頭領は陰流継者の影に怯えた。飛龍六道の密書を見つけ出すまで、猿飛さえ乱世の舞台に出ようとしなかった事がその根拠にもなる。

「少なくとも秀綱は、三番組の暗殺陣をひとりで打ち破っている」

 お久の言葉に頷く代わりに巳陰は目を細めた。たとえ裏切り者でも琉元たちの実力は熟知している。尋常の勝負となれば、恐らく巳陰自身と五分。しかし、こと暗殺の連携技にかけては三番組は一番組を凌ぐと認めていた。その彼らを上泉秀綱はいとも簡単に退けたという。一瞬にして四人が葬られたと聞いても、俄かに信じることが出来なかった。

「元締。月山には誰を送ったね」

「桐生とその手下たち七人を。今頃はもう着いている」

 桐生の手下は裏傀儡の者たちではない。忍びは忍びでも〃聞き耳〃や〃口伝〃に近い。技の冴えは一番組の下忍たちにも劣る。不安が巳陰の胸中を過った。

「ひと眠りしたら、おれも行くぜ。昼過ぎには出立する」

 巳陰の険しい眼差しに、お久がにこっと微笑む。

「一応、桐生には言っておいたけど、間違っても上泉秀綱には手を出さないようにと念を押しておくれ。まだこれから伸びる桐生を早死にさせたくない」

「だが、飛龍六道は手に入れるつもりなんだろうね」

「当たり前じゃないか。だから秀綱を見張らせているんだ。秀綱と愛洲の残党が争い始めたら、そのどさくさを利用すればいい。後は運次第」

「わかった。ところで、元締。ひとつ頼みがあるんだがね。おれを訪ねて千鶴がここに来るかも知れない。もし来たら、面倒を見てやってもらいたいんだが」

 お久の目が微かに緩んだ。

「へえ。若い娘を囲うつもりにでもなったのかい」

「馬鹿を言っちゃいけねえ。おれは女房殿一筋よ。もしその気があるなら訪ねてこいと、千鶴に言ってきたのさ。おれの見るところ、千鶴は父親に骨の髄まで猿飛の性根を叩き込まれている。もう堅気には戻れそうもねえからな。今でも他の者たちと馴染めず、村八分にあっているらしいからなあ。うちの娘と同じ年頃だから気の毒でよ」

「暫くここに置いてみるぐらいなら構わない。でも、無理にここの水に馴染ませるつもりはないからね」

「それでいいさ。向き不向きは千鶴次第だからよ」

 お久が頷くのを尻目に確認すると、巳陰は踵を返して森に消えた。その背を見送ったお久は硬い表情のままのお蝶に振り返る。お蝶はぼんやりと見つめ返した。

「巳陰に従って、おまえも月山にお行き」

「えっ、でも。元締の身の回りに誰もいなくなってしまう」

 戸惑うようにお蝶が呟いた。館の警護は一番組の下忍十六人が当たっているが、お久の傍らには今はお蝶だけしかいない。桐生や時雨のみならず別の任に当たっている四番組五番組の〃繋ぎ〃たちにお久の指示を伝える役がお蝶であった。全ての〃繋ぎ〃の顔を掌握している者は一番組の下忍の中にはいない。元々桐生、時雨、お蝶の三人は裏傀儡の中でも特異な立場であった。各組頭でさえその存在を知らされていなかったお久直轄の近衛兵である。ただ、巳陰だけは知っていた。素質に優れた三人を孤児たちの中から捜してきたのは巳陰だった。そして逆に彼ら三人は裏傀儡の全貌を十分に掌握していた。

「大丈夫。気にしなくていい。今の懸念は月山にあるだけだから」

 こくんと頷くと、旅仕度のためにお蝶は奥の部屋に引き取った。身を翻した時の一見しなやかな動作の中にも影がある。それでも無事に戻ってくればお蝶は自分の在り様を見つけてくる、と忍びらしからぬ寂しげなその後ろ姿を見つめてお久は冷然と思った。



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