秀綱陰の剣・第十一章

著 : 中村 一朗

激突


 鋸引山、森の中。裏傀儡と白面樹が死闘を始めた頃。

 皆から離れた巳陰は、ひとり〃こけし沼〃に来た。麓の村々の噂ではそこから先が赤目の縄張りであるという。ここで上泉秀綱を待つつもりでいた。刻限はまだ午の九つを回ろうとする頃。秀綱が辰の五つに村を出たというから、到着には一時程はあると踏んだ。道もない森の中を三里以上、一気に駆け抜けてきただけに流石に息が乱れている。

 巳陰は腰に釣った竹筒の蓋を開けて沼の泥水をすくい、暫く待ってから反対側の栓を抜いて濾されて出てきた水を少しずつ口に含んだ。唇と喉を湿らせながら、森に残してきた九人の若い乱波たちのことを考える。最初の奇襲を仕掛けてきた敵の技を見る限りでは、恐らく桐生たちが勝つであろうとは思った。だが、幾人かの犠牲は覚悟しなければならない。四人、ないしは五人ほどであろう。最後に耳にした知らせでは既に下忍の二人が倒され、敵の四人を倒したらしい。残る九人は猿飛の手下たちを相手にどう戦うか。

 最大の懸念だった猿飛の伸介は、どうやら彼らを指揮している訳ではないらしい。奇襲の不手際からそう予想出来る。それなら、伸介はやはりこちらに忍んで来ているのかも知れないと巳陰は推測していた。自分と同様に奴の目的が飛龍六道ならば、秀綱と赤目との混戦を利用して〃漁夫之利〃を狙うであろう、と。それなら寧ろ、その方が良い。伸介を相手にするには、若い彼らには荷が重過ぎる。だが今のところ、少なくともこの地点においては誰かが通り過ぎていった痕跡はない。半月近く前にここで襲われた百姓たちが置いていった荷物さえも、風と霜に晒されて朽ちた倒木の一部のようになり果てている。その中に、竹串を組んで作った大振りの蒔菱らしきものを目にして笑みを浮かべた。

 まだ赤目の結界内に伸介は来ていない。黒く塗られた蒔菱を見ているうちに漠然と思った。伸介が来るとすれば、赤目と邂逅したここを必ず通る。少しでも早く赤目と遭遇できそうな場所を選んで移動すると踏んだからである。後から来る場合に備えて巳陰は沼の辺りにある太い白樺の裏に身を潜めた。伸介を殺すつもりで。そして自らの気配を消すために桐生たちのことさえも念頭から追い払い、無想のままじっと待った。

 ところが半時後、その地に姿を見せたのは上泉秀綱だった。

 初め、巳陰は驚愕した。身を潜めているところから何気なく顔を上げると、十間先に人の姿があった。前ぶれもなく現れて森と同化するように歩んでいる様に、白日の亡霊かと目を疑った。それが上泉秀綱と気づいたのは直後である。巳陰は苦い顔で唇を噛んだ。十分に精神を研ぎ澄ましたつもりで見張っていたにも拘らず、知らぬ間に相手がそこまで接近していたことになる。普通なら姿が見える前に気づく。完全に気配を断ったとしても、少なくとももう五間手前では目に入った筈である。一瞬の隙が生じたか、それとも…

 巳陰が上泉秀綱を見るのは初めてであった。この男が琉元の手下たちを一瞬で屠ったのだ。草薙との暗闘で裏傀儡を危機に陥れ、多くの忍びたちが命を落とすきっかけとなった陰流の謎。人を操る猿飛の影。全ては上泉秀綱がその継者であると発覚したことから始まった。秀綱自身に罪がある訳ではない。そうと判っていても、巳陰は上泉秀綱を憎んだ。多くの者を、琉元たちのみならずお久さえも変えたその無敵の剣技を。

 だが、今は秀綱の横顔に表情はない。荒く彫り出された仏像のようであった。纏っている鹿皮の羽織が不似合いだった。両手には槍を一本づつ。腰には大小の剣。特に警戒する素振りもなく、その出立ちで巳陰の視界の中を風のように通り過ぎて行く。

 巳陰は十二三間の距離を置いて秀綱の後を追った。既に気づかれているとは感じたが、木陰に身を隠しながらの追跡であった。昼なお暗い森の奥へ。飛龍六道のある赤目の縄張りへと、より深く分け入って行った。それに従って周囲の冷気が増してゆく。その一方で風は湿り気を帯び始めた。薄暗い前方には靄がうっすらとたちこめている。森全体を包む雰囲気に妖気が匂った。奥へ向かうにつれ、一層濃くなる。苔むした木々の瘤は苦悶する人面のように見え、下草の花々の赤や紫の色調は毒々しく映った。

(怯えているのか、おれは)

 変わらぬ上泉秀綱の背を見ながら、巳陰は漠然と悟った。周囲への怯えではなく、影に潜む怪物を前に不動の姿勢で黙々と進む陰流継者の異様な精神に対して。

 更に半時、一時、と時が過ぎる。やや日も陰り始めた頃。

 上泉秀綱がふいに立ち止まった。十間後方で巳陰の足もそれに従った。叢から盗み見た先では、秀綱が更に十間前方にある枯れ木を見上げている。地上から四間程の高さにある二又に分かれた枝。忍び技に長けた巳陰の目で見ても、隠れるには細過ぎると思えた。

 その直後、秀綱は左手の槍の柄を地に付けた。そして右手の槍を握り直すと、間髪を入れずに一挙動でそれを投げた。一瞬、巳陰はその槍が己に向かって飛んでくるような錯覚をした。かわせぬ、とさえ思えた程。が、槍は前方の二又枝の左側に突き刺さった。その直前、黒い影がそこから飛び出した。まだ宙にいるそれに向かって、既に秀綱の左手の槍が正確な軌跡を描いている。鈍い音。直撃だった。そして、影は叢に落下した。

 超然と歩を進めていた上泉秀綱が先制攻撃を仕掛けたことが意外であった。

 巳陰が瞠目する間もなく、秀綱は既にその方角に走っていた。剣を抜刀。飛ぶように駆ける。突然、叢から何かが飛んだ。二つの十字手裏剣は緩い速さで秀綱の頭上を掠め、続く小柄が倍する速さで秀綱の胸に向かう。初めの二つは囮だった。が、後の小柄のひとつを秀綱が大太刀で打ち払う。返す太刀筋で叢に切り込んだ。黒い影が左へ飛んだ。秀綱はそいつにじっと目を向けたまま、頭上から背後にかけて剣を一閃させた。二つの金属音。弾かれた手裏剣のひとつが巳陰の近くに落ちる。それを見て愕然とした。

 藪から飛び出した影は四間を置いて秀綱と対峙している。

 背を丸めていても、大きな体躯は隠しようがない。ボロ着を纏ってはいるものの、破れ目から覗き見える剛毛。髭に覆われた鬼獣の形相。憎悪を宿す血走った両眼。魔物のようなどす黒い皮膚。そして、全身から発散する凄じい殺気。

(こいつが、赤目か…)と、巳陰。少しずつ二人に接近しながら。

 赤目と秀綱が無言で睨み合う。巳陰の目の中で刻が制止した。そこに垣間見た二つの狂気。火の激情と氷の殺意が己の修羅の血に共鳴するような幻。それはただの錯覚であったのかも知れない。はっと気づいた時には、二人は森の奥に消えていた。秀綱が赤目を追っていったのか、或いは赤目に誘われたのか巳陰には判らなかった。藪から出て、二人の消えた森の陰りを茫然と見送る。その時になって小刻みに震える己の両腕に気づいた。全ては一瞬の出来事だった。単に疾いなどというものではない。ろくに目で追うことすら出来なかった。秀綱が投げた槍はまるで弓で射られたような速さであった。赤目はそれをかわして反撃に出た。秀綱をも上回る体捌きで。そして赤目が放った手裏剣は巳陰の目には捉えられなかった。見えたのは最初の二つだけ。それも、飛操弧。虚空で弧を描いて投手の居るところに戻ってくる。正面から敵の背を狙う事が出来る裏傀儡の手裏剣のひとつ。恐らく、根は猿飛の技であったのだろう。赤目は飛操弧を通常の手裏剣の速さで投げた。それも囮のように見せかけて。だが、秀綱はそれを振り向きもせずに払ったのだ。

 巳陰はすぐに追おうとはせず、二人が残していったものを調べた。秀綱が最初に投げた槍は枯れ木の幹を貫通して、刃先が反対側に五寸程飛び出していた。いかに枯れ木とはいえ一尺以上の径の幹を容易に貫けるものではない。その刃の先に血痕はない。木の下には槍に貫かれた皮帷子が落ちている。赤目が咄嗟に用いたらしい。予め準備をしていたとしか思えない。恐らく陰流或いは猿飛に伝わる、投槍を受け止める技なのであろうか。

 技の冴え、速さに驚愕した。だがそれ以上に巳陰の心胆を寒からしめたことがある。二人の呼吸がまるで読めなかったのだ。拍子と言い換えてもよい。手裏剣や矢をかわすには飛来する対象を目で捉えるのではない。それらを放つ相手の拍子を読む。剣撃による見切りにおいても同様である。達人ほど相手の拍子を読み、また読ませぬことを常とする。力と剣速だけを頼る剣客が、体の小さな技の巧者に破れるのもその道理による。全ての剣客は肉の身に刻印された個別の拍子に拘束されて技を操る。今まで巳陰はそう考えてきた。だが、陰流の彼らには如何なる拍子もないのではないか、と疑った。人にあらぬ、異界に住む魔生たちの剣。殺意を持たぬ神速のからくり人形が戦っているようにさえ感じた。その実、身の内には凄じい殺気を煮え滾らせているにも拘らず。

(これが陰流の殺し合いか…)

 震えている手は、恐怖ではなく興奮によるものであると漠然と理解した。

 上泉秀綱の事は以前から聞いてある程度のことは推測していた。赤目についても、昨日〃聞き耳〃たちから噂話を伝えられていた。だが、実際に見るとまるで違う。これほどの技量の違いを見せつけられるとは思わなかった。確かに今なら、陰流の継者はひとりで猿飛を滅ぼすと言われるのも頷ける。自分なら最初の槍さえかわせなかったろうと率直に認めた。その上泉秀綱と互角に闘う猿飛陰流の赤目についても同様である。森の奥ではまだ戦闘が継続しているであろう。どちらが勝つかは巳陰には判らなかった。理解を超える怪物同志の戦いの予想など、一介の忍びに出来る筈がないと自嘲する。

 ひと呼吸ついてから巳陰は二人を追った。地を蹴る跡がくっきりと残っているため、追跡に苦労はない。二つの足跡は北へ向かっている。しばらく行くと、広域にわたって踏み荒らされた痕跡を見つけた。少し前に、二人はここで再び剣を交えたのだ。

 更に足跡から、二人は北へ向かって走っていることが窺える。恐らく、互いを牽制しながら。なぜか巳陰の脳裏にお蝶たちの姿が過ったが、すぐに打ち消した。今は己の責務を果たさねばならない。勝った方の懐から飛龍六道の密書を奪うこと。困難なこの実情を思うと目が眩む。だが稀に、運次第で不可能も可能になる。一縷の望みが残るなら、是が非でも二人を追わねばならない。もっとも巳陰は、裏傀儡の使命感で二人を追っている訳ではなかった。それ以上に、この戦いの行く末を最後まで見とどけたかったのである。

 やがて最初の戦いから一里程来た辺りに、また踏み荒らされた跡が現れた。枯れ葉の上に血痕が残っていた。大した量ではないが、流されてからまだ間もない。柄の中央で折れた十文字槍が落ちている。刃には少しばかりの錆があった。秀綱の槍ではない以上、赤目が用いたものと考えられた。予めこの辺りに隠し置いていたのだ。更に北に行くと、そこから先の足跡はひとつだけになっていた。しかも、然程急がずに歩き去った様子で。歩幅から、それが秀綱のものであることは瞭然である。槍を折られた赤目は恐らく、樹の上に逃れて枝伝いに立ち去ったのであろう。どうやら序盤の戦いが終了したらしい。

 気がつけば、森を通して見える夕日は彼方の稜線に消えつつあった。

 残った足跡を辿ると、やがて森の外の岩場に出た。草木の生えぬ荒れたその地は大小の岩に埋め尽くされ、北に向かってなだらかな上り斜面の崖を築いていた。土から岩へ、地表の様相がそこで変わった。足跡もまたそこで途切れている。足跡が残っていない以上、そこから先は勘を頼る他にない。だが、大凡の見当はすぐについた。来た方角から真っ直ぐに進む。見晴らしのきく地形である。身を隠せるようなものも近くにはなかった。三町ほど登って行くと、前方の大岩の裏側にうっすらと立ち上る煙が見えた。急に変わった風向きの中に枯れ葉の焼ける匂いがした。大岩の辺りから斜面は急勾配に変わっていた。崖の頂部からは別の森が始まる。そこまでは十間以上の高さがあった。

 僅かに躊躇った後、巳陰は踵を返した。腕いっぱいの枯れ枝を抱えて戻る頃には、日はすっかり暮れていた。大岩の裏に回ると、そこに上泉秀綱がいた。

「御免。上泉秀綱さまとお見受け致します。お邪魔しても宜しゅうございますか」

 秀綱は焚火から顔を上げた。巳陰を横目で見て、笑みを浮かべる。

「さんざんつけ回しておいて、今更挨拶もあるまい」

「やはり、お気づきで。手前、百舌鳥の巳陰と申します。裏傀儡の忍びでござる。挨拶が遅れたお詫びに、手土産を持って参りました。このように」

 巳陰は抱えていた枝を傍らに置いて、焚火を挟んで秀綱の前に座った。

「助かる、巳陰殿。これで朝まで森に行かずに済む」

 その言葉に、巳陰の視線がごく自然に秀綱の左腕を捉えた。左手首の上部に白い布が巻つけられていた。そこに、うっすらと滲む血。先程見た枯れ葉の上の血痕は秀綱のものであったらしい。浅手ではある。しかし互角の敵と相対する場合、微かな傷の差が勝敗の明暗を分ける。特に、傷を縛る布が筋の動きを微妙に拘束してしまう。

「血止めに効く良い薬を持っております。お使いになりますか」

「いや。もう止まった。朝にはこれも取るつもりでいる」

 そして秀綱は後ろの岩の窪みに背を預けて、眠るように目を閉じた。巳陰は無表情なその顔を奇妙な感慨を持ってじっと見つめた。裏傀儡と名乗った以上、問い質されるものと覚悟していただけに秀綱の穏やかな応対は予想外であった。が、今更驚きはしない。月山での伸介との邂逅の際、一通りのことを聞いたとすれば頷けることである。



top