秀綱陰の剣・第十一章

著 : 中村 一朗

斬撃


 そのまま、一時が過ぎた。まるで無防備な様で眠る秀綱を前に、巳陰は火の番をしながら沈黙を守った。やがて秀綱がゆっくりと目を開く。顔を上げる頃合いを待って、巳陰は背負っていた風呂敷から取り出しておいた大ぶりの干し肉を二つに裂いて差し出した。

「宜しければ如何でございますか」

 秀綱がその一方を手にする。巳陰は手に残ったもう一方の肉をすぐに口に運んで秀綱を見る。秀綱も肉に口をつけながらまた小さく笑みを見せた。

「気遣いは良い。毒を仕込ませているなどと疑ってはおらぬ。わたしを殺しても、まだ得るものはあるまい。もっとも、御主に赤目殿を倒せる自信があるならば話は別だが」

「ご冗談を。正直に申し上げれば、今も飛龍六道を狙っております。ですが、お二人の技を目にしてからは、殆ど諦めました。余程の天の采配でもなければ、とても…」

「紅蜘蛛のお久とやらも、それで納得するのかな」

 秀綱の口から出たお久の名が、伸介から伝えられたものである事を確信して。

「はい、恐らくは。そのためにも、御二人の戦いの成り行きを見極めねばなりませぬ。それで、暫くの間秀綱さまに付き従う御許しを正式に頂きたくて参上しました」

「なるほど…」

 秀綱が再び肉を口に運ぶ。それが了解の合図と知った。

「忝のうございます。決してご迷惑は御かけ致しませぬので。ところで…」巳陰が顔を上げながら。

「勝算は、如何なものでございましょう」

「さあ。わたしにもわからぬ。明日の成り行き次第かな」

「赤目の夜襲は」

「仕掛けてくれば、わたしが勝つ。だから、攻めてはこぬだろう」

 淡々と語る秀綱の声の響きからは衒いや気負いは聞き取れなかった。ただ事実と認識する直感が目の奥で底光る。恐らく、赤目と共有している直感が。

 秀綱は少量の焼き米と干し肉をゆっくり時間をかけて食い終ると、再び目を閉じた。眠っているのかどうかも定かではない。傀儡のように呼吸さえしていないように見える。

 巳陰も同様に目を閉じた。一夜の間、浅い眠りに落ちては目を覚ました。それを繰り返して焚火の番をしながら、やがて朝を迎えた。まだ薄暗い灰色の曇り空を目にして、昨日の朝ほど寒くはないと巳陰はぼんやりと思う。日の出まではもう間もない。

 ふいに秀綱が目を開いた。瞬時に五覚が鋭敏に覚醒したことを双眼の光が物語る。そしてスッと前ぶれもなく立ち上がると、焼き米を包んだ風呂敷を背に括ってそのまま斜面を下っていった。巳陰はその背を暫く見つめ、十間の距離を置いてから跡を追った。流石にもう身を隠そうとはしない。それでも姿勢を低くしていた。いつ赤目に仕掛けられても応じられるように。巳陰は弓を警戒していた。或いはそれと同等の速さで放たれる飛槍剣の類に対して。秀綱も奇襲に備えて、僅かだが膝を落としているように見える。

 秀綱が森と岩場の堺を過ぎた頃には、もう空は仄白くなっていた。行く手には、昨日の戦いが行われた場所がある。秀綱は真っ直ぐそこに向かっているらしい。

 巳陰が森に入って間もなく、赤目は突然奇襲をかけてきた。枯れ葉下の地中に隠れて、斜め後方から吹き矢で秀綱の背を狙ったのだ。桐生が使った伏せ身の術と同じ類のものであった。巳陰が気づいたのは、全くの偶然である。何気なく目を向けた先に、藪に囲まれた枯れ葉溜りから突き出ている細い管を見つけたのだ。声を出すよりも息を呑んだ。筒の前方七間の辺りを秀綱が歩いて行く。ほんの僅かに筒が動いた。全て、一瞬の事である。危険を知らせようとした時には、圧縮された呼気の破裂音とともに矢が放たれていた。

 巳陰はその後に見た一連の出来事を生涯忘れることはなかった。

 飛来する矢を、秀綱は左足を軸に開身するだけでかわしながら、いつの間にか右手に握っていた小柄を管の出ているところに向けて下手から投げた。小柄が枯れ葉溜りを貫く直前、中に潜んでいた黒い影が弾けるように虚空に飛び出す。一間上にある枝に向かって。伏せた姿勢からとは思えぬ異様な跳躍だった。が、まだ宙にあるそいつの頭部に、秀綱が放った第二の小柄が鈍い音を立てて突き刺さった。秀綱は僅かな時の間を置いて、二本の小柄を投げていたのだ。敵が上に跳ぶものと予想して。

(倒した!)と、巳陰。木の裏に回り込みながら。

 跳躍した余力で枝にぶつかって地に落ちる。終わった、と思った。が突然、地中から第二の影が地を蹴って跳び出した。低い位置から一直線に秀綱に向かう。左手に鎖分銅、右手には薙刀を短く切り詰めたような斬馬刀。激情を孕む血走った双眸が烈火を吐いた。

 赤目であった。

 凄じい獣鬼の雄叫びが森を震わせた。秀綱さえも一瞬動きを止めた程の。赤目はその隙を見逃さなかった。遠目でもその巨体が更に膨れ上がるように見えた。全身の凶暴な筋肉が殺人の衝動に燃えあがっているのだ。七間の距離を一気に駆け抜け、秀綱を目がけて斬馬刀を真横に振った。柄さえ鋼で出来ている刃渡り三尺三寸の肉厚の剛刀が、風を切り裂いて唸りをあげた。大腿部ほどの太さを持つ木の幹を、藁のようにあっさりと斬り払いながら。馬の胴さえ一刀で両断する金剛力と殺気が白刃に凝集する。絶妙な間合いで繰り出されたその刃を受け止められる剣はない。秀綱も抜刀したが、背を丸めて猫の靱さで跳びすさった。巳陰は秀綱が赤目との戦いで初めて後退することろを見た。

 頭に小柄を突き刺した出来の悪い傀儡をちらりと見て、巳陰は二人を追った。赤目は秀綱の反撃の、裏の裏をかいたのだ。小柄の二投を予想し、人形を用意していたらしい。その狡猾さがこの戦いの気勢を制し、一気呵成に攻め立てる側に回らせた。

 その間にも、赤目は攻撃の手を緩めなかった。右腕一本で重い斬馬刀を箒でも扱うように自在に操る。前後左右上下斜めと、あらゆる角度から必殺の刃が秀綱を襲った。またその連撃が秀綱に反撃の機会を与えずにいる。秀綱は森の奥へ後退を続けた。太い木々の林立する方へ。長刀の動きを少しでも封じるためと察しがつく。だが赤目はこの森を知り尽くしている。それ故に秀綱をここに導いたのだ。今日の決戦のために。森は斬馬刀の軌道を制約する反面、秀綱の自由を奪うことにもなる。勝てるのか。そう案じた時、巳陰は赤目が左掌の中に鎖とは別に隠し持っている小さな竹筒に気づいた。〃蝮の巣〃と裏傀儡では呼んでいる。数十本の毒針を近距離から放つための暗器のひとつ。

 秀綱が更に大きく後ろに飛んだ。が、着地した背後は橡の太い幹だった。その時、鎖を持つ赤目の左手が素早く動いた。筒の先から針の群れが秀綱に飛ぶ。雲間から差した陽光を貫くの銀色の軌跡。死の乱反射が秀綱の直前で直径二尺に拡散する。朝靄を血に染めるための一瞬に仕掛けられた陰の罠である。秀綱は咄嗟に鉄扇を開きながら背後の巨木の裏に回り込んだ。かわし切れぬものを扇子面で受ける。針を弾き返す幾つかの軽い金属音。更に秀綱の顔があった辺りの幹に無数の針が刺さった。そこに分銅が弧を描いて飛んだ。瞬く間に鎖が巨木の幹に腰の高さ辺りで幾重にも巻きつく。十間離れている巳陰の位置からは死角になって木の裏にいる秀綱は見えない。しかし、鎖の張り具合から巨木の幹諸共秀綱の体を搦め捕っているように思えた。赤目もその手応えを感じたらしい。

 赤目が勝利を確信して、歓喜の咆哮を張り上げた。斬馬刀を掲げてその巨木の裏に回り込もうとしながら。巳陰も秀綱を確認出来る位置に移動しようとする。

 ところが木の傍らで、赤目の動きが突然制止した。遅れて覗き見た巳陰もすぐに気づいた。鎖が搦め捕ったのは、秀綱の大太刀であった。剣は根本近くに深々と斜めに突き立てられており、鍔から柄の部分に鎖が絡んでいた。丁度、人の胴回りほどの隙間が木と剣で作られている。搦め手に人と錯覚させる十分な撓りも。赤目はすぐに我に返った。周囲を見回しても秀綱の姿はない。それなら、逃れた先はただひとつ。

 赤目は顔をあげると、頭上の枝を蹴って隼のように落下してくる秀綱を瞳に捉えた。頭を下に、脇差しを八相に構えた状態で。目が合った。如何なる感情も浮かんでいないその瞳を、赤目は無感動に見つめ返した。刀を上げようとしても腕が動かない。目で追う疾さに体がついてこないことに気づいた時には、左肩から胸にかけて強い衝撃を受けて弾き飛ばされていた。上体を起こすと、焼けるような熱さと痛みを覚える。続いて鮮血が吹き出した。それでも赤目は斬馬刀を手にして猛烈な勢いで走り出した。森の北に向かって。

 秀綱がその後を追って行く。巳陰もすぐに叢から飛び出した。鎖の絡んだ秀綱の剣を木の根本から引き抜いて、既に姿の見えぬ二人の跡を追った。走りながら考えた。恐らく秀綱は分銅を目にすると、すぐに赤目の意図を察したのだろう。剣を刺して鍔上で鎖を受け止めると、柄を足掛かりにして二間以上の高さにある枝に飛びついて体制を整えたのだ。そして、赤目が下に来る時を待って反撃に出た。怪物同士の死闘は終了した。どこまでも枯れ葉を濡らす夥しい血は、赤目が深手を負ったことを表している。まるで血を柄杓で捲きながら走っているようであった。これでは五町ともつまい、と巳陰は思った。だが予想に反して、十町を過ぎても二人の後ろ姿はまだ捉えられなかった。赤目の足並みは乱れてはいるものの、地を強く踏みしめていることが足跡から窺い知る事が出来た。だが、流血量も変わらない。本来ならば、動く事さえ出来ぬ致命傷である。

 立ち止まれば殺されるとでも思っているのか。或いはどこかに行こうとしているのか。そう考えて、ようやく本来の目的を思い出した。飛龍六道の行方について。

 更に十町行った辺りで、ようやく前方を走る秀綱の背を認めることが出来た。赤目の姿はない。秀綱も猟犬の正確さで血の跡を追っていたのだ。万一の罠にも備えつつ。僅かだが左足を引きずるようにして走っている。足首か膝を痛めているらしい。

 すぐに駆け寄る事は躊躇われた。結局、十間の距離を置くことにした。一応は、望むように事は進んだ。しかし赤目がこの戦いの場から退こうとしている今、次は秀綱が当面の敵になる。飛龍六道の密書の前に立ち塞がる最強の障害であった。

(どうすればよい…)と、半分捨て鉢で思案する。

 答などない事は判っていた。どのように策を弄そうと、上泉秀綱は絶対に倒せない。足下に密書が転がってくるような幸運を祈るぐらいしか出来なかった。

 やがて走り出してから一里近く。前方の緩やかな上り勾配の終わりで秀綱の足が不意に止まる。そしてまた歩き出した。巳陰もその動きに合わせる。少しずつ秀綱との距離を詰めながら。緩斜面の上に立つと、がらりと変わった幻想のような景色に目を見張った。

 そこは森に築かれた聖域を思わせた。朝靄にかすむ小さな草原。その中央に、そこここに咲き乱れる赤や白の花々に囲まれて小さな泉がある。泉の対岸からはまた森が続いている。いつの間にか雲は薄れ、黄金の日差しが冷たい露と澄んだ水面を鮮やかに輝かせた。

 そこに、背を向けて歩く赤目がいた。今にも倒れそうに蹣きながら、それでも前に進もうとしていた。その後ろから不惑の上泉秀綱が迫る。赤目が泉の前で力尽きるように倒れると、秀綱は脇差しを抜いた。赤目は最後の力を振り絞るように上体を起こし、懐から取り出した筒のようなものを泉に投げた。それが泉の中ほどに落ちるのを見届けると、仰向けに転がって空を見上げた。その手から斬馬刀が離れた。

 秀綱は右手に剣を下げたままゆっくりと近づいた。赤目の傍らに立ち、無感情に見下ろした。赤目は空を見ていた。天空の紺碧がその瞳に映る。やがて秀綱の顔にちらりと視線を向けると、静かに目を閉じた。秀綱はしばらくそうしていた後、泉の水に剣を浸すと、袖で刃を拭って鞘に収めた。近くに来ていた巳陰に振り返る。

「巳陰殿。血止めを分けてくれぬか」と、秀綱。

 別のことに気を取られていた巳陰は、一瞬呆気にとられて視線を返した。その一方で秀綱から赤目への殺気が消えた事にほっとしている己に気づきながら、背負っていた袋から竹の皮に挟んだ塗り薬を取り出して秀綱に渡した。

 巳陰が近づくと、人のものとは思えぬ獣のような体臭が鼻を突いた。

 秀綱は赤目の上着を小柄で切り裂き、肩の傷口を露にした。巨大な石榴がはじけたような有様の、ばっくりと開いた斬傷。破壊された赤黒い血肉の覗くそこには、数本の白い骨が露出する。肩と胸の骨。折れてはいても位置のずれはない。傷口は深く、長さは七寸にも及んでいた。出血はもう止まっている。体に残る血が少なくなったためだった。とてもまだ生きている者の体にある傷とは思えない。死体の致命傷としてのみ見かける類のものである。この傷で一里を駆け抜けてきた赤目の生命力に、巳陰は改めて驚嘆した。

 秀綱は腰に吊っていた印籠から針と糸を取り出して、塗り薬をつけてから赤目の傷口を縫った。最初の針を突き立てた時だけ赤目の頬が小さく歪んだが、以降は何の反応も示さなかった。荒治療は二十針にまで至った。最後に竹の皮ごと塗り薬を赤目の傷口に貼りつけて、己の腕に巻いていた布で縛る。途中、赤目は瞼を開き秀綱たちの行いをぼんやりと見た。目が合うと、秀綱は布を巻く手を止めて赤目に竹筒の水を与えた。赤目は素直にその水を口にした。水を飲み終えるのを待って、一握りの焼米と味噌を赤目の口に入れる。赤目は不思議そうに秀綱を見つめたまま、ガリガリと音を立てて焼米を噛み砕いた。ゆっくりと時をかけてそれを飲み込み、虚空を見上げてからまた目を閉じた。秀綱は布を巻き終えると、破いた衣をその上から掛けてやった。

「これからどうなさるおつもりで」と、巳陰が問う。

「生きるも死ぬもこの男次第だ。だがどうなるにせよ、このままここに残して立ち去るわけにもいかぬ。わたしはもう暫く居るつもりだ」

「じゃあ、あっしももう少しつき合いますよ。でも最後までは居ませんぜ」

 巳陰は拾ってきた剣を鞘に収めながら秀綱に差し出す。秀綱は礼を言って受け取った。

 それから丸一日、赤目は死んだように眠り続けた。その間、身じろぎひとつせず、寝息すら殆ど立てなかった。巳陰はそのあまりの静かさにもう死んでしまったのではないかと疑って幾度も赤目に顔を向けたが、胸は常にゆっくりと動いていた。

 秀綱と巳陰は交互に森に行き、大量の薪と枯れ葉を拾い集めた。赤目に近い三か所で焚火を熾し、その熱で枯れ葉と地面を暖める。枯れ葉が乾くとそれを赤目にかけ、風で簡単に飛ばされぬように上に木の枝を乗せた。首だけ出して枯れ葉に包まれている赤目の姿に

「まるで蓑虫でございますね」と、巳陰が笑った。

「わたしたちも同じような姿になるから、人のことは笑えぬ」と、秀綱も赤目を見ながら呟いた。

 幸い風はなく、秋深い割りには暖かい。それでも夜露に備えて自分たちが潜り込むための十分な量の乾いた枯れ葉を揃える頃には日が沈みかけていた。中央のひとつを残して、二つの焚火を消す。まだ余熱の残る灰の上に枯れ葉を厚く敷き、枯れ枝で上からおさえてその中に潜り込んだ。ちらっと横を向くと、二間先で秀綱が枯れ葉の上に身を横たえるところであった。その手に脇差しが握られている。枯れ葉の中には大太刀と赤目の斬馬刀も収められてあるのだろう。警戒心というよりは本能に焼きつけられた振舞いと理解した。

(やはり、寝首などかけぬか…)と、また自嘲気味に巳陰は思う。

 まあそれでもよいと思い返して、急激に襲ってきた眠気に身を委ねた。背中の暖が心地よい。体が水飴のように溶けだして枯れ葉を通り抜け、灰に同化してゆく子どもじみた幻を肌で感じながら…。泥のような意識が白濁してゆく様を楽しみつつ…。



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