短編集

著 : 中村 一朗

雪の季節


 三月の南アルプス。

 視界は透明に澄みわたり、彼方まで一望できる。

 周囲の山々を包むマイナス20度の冷気。

 晩冬の夜明け前。

 山頂に風はない。

 頭上は濃紺の宇宙。

 月など見えなくても、星々が眩しい。

 水平線の遥かな果ての稜線だけが、夜明けを待ってオレンジ色に輝き始めている。

 その下には、黒と灰色と紫色に照らし出される鮮やかな雲海。

 美雪は、山頂近くの岩棚から見下ろすその景色が好きだ。

 特に、春を迎えようとしている雪峰の、消え行こうとしているその姿を見送るこの時が。

 毎年、毎年、繰り返し見ていても、飽きることはない。

「美雪ぃ。お久~!」

 声をかけられて、振り向いた。

「あら、冷華。ご無沙汰ね。でも何、その姿?」

 冷華が身につけているのは、パールホワイトのダウンジャケットとスキーパンツに、パープルグレーのデザイナーズスノーキャップ。

 冷華はモデルのようにポーズを取って笑った。

 漆黒の長い髪と雪のように白い肌が、朝と夜の狭間で輝く。

「エヘッ。いいでしょ。今月のファッション誌の山ガール最新バージョン。十年前から同じカッコの美雪とは違うでしょ。バイトで貰ったお金で買ったんだー」

 つられて美雪も笑みを浮かべる。

「冬香、いっしょじゃないの?」

 冷華の後ろをちらりと見ながら、美雪が言った。

「うん。昨日、下の街まで一緒に来たんだけどさ。アウトレットのバーゲンがあるから寄って来るって。そこで別れた。…でも、本当は違うんじゃないのかな。ほら。例の件。まさか、遅れたりはしないと思うけどさ」

「…ふうん。まだ時間はあるから」

 二人はオレンジ色に輝いて広がっていく、遠い稜線の夜明けの帯をゆったりと見ている。

 空の色は、濃紺から青へとゆっくり変わりはじめている。

 三ヶ月半ぶりの再会に、二人の話は弾んだ。

「…じゃあ、美雪は今期、五人も助けたの」

「うん。単独行の登山者は二人。三人は、同じパーティだった。でも、そのパーティの四人目は間に合わなかったわ。若い女の子だった」

「仕方ないよ。あたしなんか、助けたのは三人。滑落して死んだのは、二人いた。年配のカップル。知らせを聞いてすぐに行ったんだけど、ぜんぜん手遅れだった」

「冬香の担当地区では?」

「救助したのは、二人。死亡者はなし。元々あそこ、入山者が少ないしさ。でも、猪を三匹も助けたって言ってたね」

 美雪は小さく笑った。

「あの子らしいね」

「鉄砲で傷ついた山の主だった大猪と、二匹は、車にはぶつかって怪我をした猪」

「猪じゃあ、お礼に木の実をくれたりもしないわね」

「フフッ。“ごんギツネ”じゃあるまいし。ま、あたしなんかも、助けた連中から、御礼なんか言われたこともないけどさ」

「仕事だから、仕方がない。親の因果の穴埋めなのだから」

「わかってる。感謝してほしくて、やってる訳じゃない」

「ところでさっき、バイトしたって言ったけど、何をしたの?」

「12月に、サン太のヤツ等に頼まれてさ。運送屋。アイツ等、金持ってるからさ。で、暇そうだった冬香にあたしの地区の留守番、頼んだわけ。バイト代、折半で話をつけた」

 やがて、太陽が顔をのぞかせてきたころ。

「ごめーん!遅くなっちゃったー」

 二人は声のほうに顔を向け、一瞬その表情が凍りつく。

「何、それ。あんた、バカじゃないの?」

 そう言った直後に、冷華は指をさしてゲラゲラと笑い転げた。

 美雪も、笑い出したい衝動を必死でこらえる。

 二人の前できょとんとした顔で立っているのは、ピンクのセーラー服を着た冬香。

 頭にはネコ耳付きの真っ赤なベレー帽をかぶり、ピエロのような大きな靴をはいていた。

 背中には、幅広の大きな模造剣まで背負っている。

「持ちつけない金なんか、無理に使うからそんな買い物するんだよ」と、冷華は続ける。

「似合わないとは言わないけど、そのコスプレじゃ、雪山には全く不似合いね」

「失礼ね…。ま、ファッションセンスのないあんたたちに、笑われたって平気よ」

「何が、ファッションセンスだ。ちょっと前まで、モンペ穿いてたヤツのくせに。ところで、冬香。あんた本当は、小夜枯のとこに行ってたんでしょ?」と、冷華が問う。

「行ったわよ。アウトレットに行ったついでにね」

「小夜枯、どんな様子?やっぱり、…」と、美雪。

「うん。『もう決めたから』だって。暫く“人間”するから、上司によろしく、…だってさ」

「助けた男に惚れたって話、古典的だよね」

「一応、“助けた男”ってことだから、“一人救命”って報告したって、小夜枯、言ってた」

「小夜枯らしいわ。帰ったら、報告確認しなきゃ。それと、来年からの西地区担当を養成所の学生から選ばないと。新人だから、二人以上になるわ」

「また、10年は延びるね」

「ああ~あ。ノルマ達成まで、まだだいぶ、かかりそうだよね~」

 その時、はるか上空から雲のような形の大きな球体が山頂に降下してきた。

 三人の頭上まで降りてくると、飛行体の扉が開く。

 中から出てきたのは、黒服の執事姿の青年。

「皆様。ひと冬、ご苦労様でした」

「お迎えありがとう、“千年杉”さん。小夜枯の件は、お聞きおよび?」

「伺っております。女王様も、『“宿命”と思えば仕方がない事』とおっしゃっていました。それに、あなた方も、そうしてお生まれになったのですから」

「“雪女”の宿命。その昔、母たちは掟によって結界を破った多くの人間たちを殺め、やがて掟に逆らって“人”となり、私たちを生んだ…」

「今では掟も変わりました。でも、あなたたちは、母上方の罪をあがなわなければならない。人を殺した“罪”と、掟を破ったもうひとつの“罪”…。不条理とは思いますが」

「わかってるよ、“千年杉”。だから、あたしたちも頑張ってるの!」

 捨て台詞を残して、冷華が“千年杉”の前を通り過ぎて乗船した。

 その後を、コスプレの冬香が

「えへっ」と笑いながら続いた。

「そういえば、サンタクロース組合から、お二人に感謝の葉書が来ております。“プレゼントの配送を手伝ってくれてありがとう”と。女王様宛でした」

 二人はギクリとして立ち止まり、“千年杉”に振り返る。

「ご安心を。女王様は笑っていらっしゃいました」

「それが、怖いのよねえ」

 そういい残すと、二人は顔を見合わせて船内に消えた。

「“雪女”の衣装も、変わったものですねえ」

「昔だって、ただの死装束よ。つまり、死んだ人の普段着。時代を思えば今の私とかわらない。…でも、冬香は問題ね。万が一、要救者に見憶えられていたら、新しい都市伝説になる。『コスプレ少女の雪女が人命救助』なんてね…。来年までに、説得してみるわ」

「よろしくです。では、ご乗船いただきましたら、直ぐに氷の国に帰還いたします」

 美雪は一度振り返り、雪の景色を一瞥してから乗船した。

 やがて飛行球体は天空に去っていった。



top