短編集

著 : 中村 一朗

桜の季節(雪の季節に続いて…)


 桜、咲く…

 桜、

 咲く、裂く、く、…苦、…苦


 丘の上の呪い桜。

 そんな噂が囁かれるようになったのは、二月ほど前からだ。

 測量に来た技師たちが、立て続けに事故にあって怪我をした。

 縁起に気遣う土木業者たちは地鎮祭を行ったが、その時は急な大雪と落雷で中止になった。後日行われるはずだったが、神主が急病で延期になり、そのまま今日に至った。

 当然、工事は中断のままだ。

 その大きな桜の木は、街を見下ろす小高い丘の上に聳える。

 夜空には星々が輝き、枯れかけた巨木の枝の狭間からは月光がこぼれてくる。

 三月も終わるころにしては、暖かな夜。

 丘の麓の桜は満開に近い。

 丘の上の桜だけが、眠り続けているように、華どころか蕾さえつけずにいる。

 丘の上だけが、まだ冬を思わせるように寒々としていた。

 このところ、昼間でもこの丘に人は近づかない。

 まして夜は、野良猫さえ近づかない。

 異界の気配が辺りを包んでいるためだ。

 この十日ほどの間にも、三人の犠牲者が出ている。

 異能の力を持つ三人は、心を食い破られて廃人となって発見されていた。三人共、開発会社と開発を推進しようとする役所によって、人知れず雇用された霊能力者たちだった。


 星の降るような、丑三つ時。

 丘を登る小道を、男と女が歩いていく。

 やがて二人は大桜の手前で立ち止まった。

 そろりと風が吹き抜け、桜を見上げる若い女の黒髪を緩やかに撫でた。

「私はここで、待っていればいいのね」

 髪をかき上げながら、女が囁いた。

「ええ。直ぐに済むと思いますから。でも、途中でわかったら教えてください」

 男はゆっくりと足を踏み出した。桜に近づき、月の光が落す幹影の中に身を置いた。


 …小賢しい人間め…


 闇の奥から低い“声”が響いた。

 男の鼓膜の中を直接震わせる、地を這うような“声”。

「姿を見せていただけませんか。私もこうして、あなたの前に人の姿をさらしています」

 男は桜の幹に向かって、静かに訴えた。

 そして三歩、後ろに退いて月明かりの中に。

 つかの間、風が強くなる。

 幹の暗がりの中央から、溶け出すように“老人”が現れた。

 枯れ木のような“老人”が、泥のような視線を男に投げる。

「…小賢しい、人間ども。性懲りもない拝み屋めが…」

 憎悪の老人とは裏腹に、男は無表情に見つめ返している。

「おや…。口がきけるんですね。大気を震わせて、直接音に変換できるとは」

 男が感心したように呟いた。

 振り返り、少し離れて立つ女に虚ろな笑みを向けた。

 女は、男よりもさらに虚ろな、虚無の顔色で冷ややかに見つめている。

「古きより、ここはわしの領域。人間どもの自由にはさせぬ」

「“自由”とは?」男が首をかしげた。

「丘を切り崩し、おまえたちの墓を作るいう。わしの身体はここに残す、と拝み屋どもは言った。墓地になっても、ここは公園のまま街を見下ろせるようにする、と。だが、わしは許さん。おまえたちの汚らわしい骸など、断じてこの地に埋葬させたりはせぬ」

「私には墓は、必要ありません。…それより」

「黙れ。おまえたちにも、“祟り”をくれてやる…。これまでの拝み屋どものように」

 黒い風が、“老人”の足元で渦を巻きだした。

 ヴゥァン…という風の唸りは、その中に潜む幾千もの虫の羽音だ。

 次の刹那、黒い渦は弾ける勢いで四散した。

 直ぐにそれらは二つの集団に凝集し、二人をそれぞれに包み込んだ。

「呪蟲陣。その心、喰い尽くしてやる…」

 老人は、悪鬼の形相で牙を剥いた。

 憎悪のみならず、暴虐の力を振るう喜びに頬を歪めながら。

 見開かれた両眼は、血のように真っ赤に燃えていた。


 …その顔、悪霊に相応しい


 老人は、頭蓋の奥に響いた男の言葉と笑い声にギクリとした。

 自分が、男に“語り”かけたものと同じ類の“声”。

 ふいに、女を包んだ黒い旋風の中で白金色の光が音もなく炸裂した。

 迸る猛烈な冷気が、瞬時に呪蟲たちを霧氷に変えて吹き飛ばした。

 薄明かりの残照を纏う女の姿を、老人は凝然と見つめる。

「…なんだ、おまえたちは…」

 無表情な女は衣服に付いたほこりを払うような仕草をしながら、老人をチラリと見た。

「それは本来、私の問いですよ」

 男の声の方に、老人は愕然とした顔を向けた。

 こちらの旋風も、すっかり消えてしまっていた。

「御主ら、人ではないのか」

「さあ、どうですか。でも、あなたは“人”でしょう?」

 老人の、どす黒い表情が蒼ざめる。

「なにを、愚か者めが。わしは、桜の精霊…」

「いえ。それはありません。この桜は、古木に見えても百年に足りない。まだ、胎児のようなものです。でももう直ぐ、目覚める筈です。あなたさえ、駆除すれば」

「いったい、何を…、御主らは…」

「あなたが嘘をついているつもりがないことは知っています。あなたはいつの間にかご自分を、桜の精霊と思い込んでしまった。死んでしまったときのことを忘れたからでしょう?哀れなあなたは、ご自分の骸がどこにあるのかもわからない。だから本当は、ちゃんとした墓に埋葬されるもの達が恨めしいのでしょう?奥底の記憶を探って御覧なさい。“桜”の記憶ではなく、ご自身のものを。忘れたいことを、見つめなおして…」

 老人の身体が、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れた。

 やがて実体のない灰色の塊に変貌し、再び人の姿へと変わっていく。

「今どきこの地方で、自分のことを“わし”などと言うお年寄りはいません。“呪蟲陣”などという芝居がかった必殺技の名など、滑稽です。そんな言い回しが通用するのは、アニメやコミックの中だけ。架空の世界のキャラクターとオタク用語です。つまりそれは、子どもたちが空想する言い回しなのですよ」

 容赦なく子どもをからかう、意地の悪い男の声が響く。

 老人の姿をしていたものは、幼い少年の姿へと変貌した。

 まだあどけなさの残る面持ちに、穴のような目が穿たれている。

「見つけた。月と桜を結ぶラインから2時15分方向に13.6メートル」

 淡々とした女の声に、男がうなずく。

 その方向に歩き出すと、“少年”は目を見開いてその後姿を追った。

「ああ、なるほど。これだけ近づけば、私にも判ります。」

 男が地に手を着くと、土中の虫が一斉に蠢き出した。

 やがて男が立ち上がる。見下ろす辺りの土が、楕円状に盛り上がってきた。

 小さな古墳のような形の中央が崩れ、地下約1mに埋められていた少年の骨が現れた。

「ああ…こんなことって!!じゃあ、“僕”は…」

 少年は石臼を挽くような声を上げると、スッとその姿を消した。


 咲く

 桜、咲く

 出来るだけたくさん、花をつれて…


“桜”の歌声を聞きながら、女は夜明けを迎えようとする空を見つめた。

「どこに行ったのかしら」

 女の声に、しゃがんだまま男が振り返る。

 その両手は、ずっと盛り土の上に置かれたまま。

「さあ。運がよければ、昇天したかもしれません。浮遊霊になったか、地縛霊になったか。そうなれば悪霊かもしれないけど。死霊になってからも人を傷つけてしまったのだから、しばらくはどこかで罪滅ぼしをすることになるかもしれないし…わかりませんね。とにかく彼は、もうここには戻れません。骸は浄化済みです」

「お気の毒。でも彼も、殺されたんでしょう?」

「恐らく。でも、それもわかりませんし、私の知ったことではありません。私は、“桜”の苦痛を聞いただけですから。あの少年の魂が、まだ覚醒していない“桜”の力を取り込んでしまった。“桜”が目覚めるために必要な力。でも結局、少年はその力に取り込まれてしまったわけですが。無論、“桜”には罪はありません。寄生されて苦しんでいただけです」

「それであなたが助けに来たって訳ね、“千年杉”さん。同属愛ってこと?」

「はい。しばらくは“人間”をおやりになるとおっしゃった“小夜枯”さんにお手伝いいただきました。効率のいいアルバイトだったでしょう?…よし、と」

 虫たちの力を借りて、少年の骸を埋めなおした“千年杉”が立ち上がった。

「まあね。じゃ、約束守ってね。新しい名は“如月小夜子”です」

「経歴と戸籍は、お任せください。でも、ひと月ほど猶予を下さい。最近の戸籍は、電子化されていて、私の手に余ります。協力者たちの力を借りますので」

「もちろん。そのくらいの期間なら、何とか誤魔化せるから。ところでこの“桜”、あとどのくらい面倒を見なくちゃならないの?」

「二年ほど。一応、私の結界を張っておきますから、大丈夫だと思いますが、万一のときはよろしくお願いいたします。この“桜”のためというよりは、この街のためです。あの少年のような輩の浮遊霊などが、また寄ってこないとも限りませんので」

 女は小さくため息をついた。

「せっかくのんびり“人間”しようと思っていたのに。まあ、仕方ないな。でも、冬になったら美雪たちにも手伝わせてね。こっちは、ボランティアなんだから」

 肯定とも否定とも取れる笑みを浮かべて、“千年杉”は朝日の中に姿を消した。

 如月小夜子は麓の桜の群れに目を向けた。

 まだ六部咲きだけど、美しいと思う。

 小さく芽吹きだした大桜の蕾たちの詩を聞きながら、小夜子は丘の小道を降りていく。



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