ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

E.プレ・ステージSS、スタート!!


“野良猫”の中でぼんやりとコース図をみていると、服部が小走りで戻ってきた。

「時間がヤバい。手伝ってくれ」

 服部は僕に窓越しに声をかけながら、後ろのドアを開けて荷物を降ろし始めた。

 気がつけば、廻りのクルーたちも同じような荷卸の作業中だった。

 ジムカーナSSに備えての車の軽量化なのだそうだ。

 確かにスペアタイヤや工具と着替えなんかの積載物を下ろすだけでも、アクシデント対策でいろいろなものを持ち歩くラリー車の場合ならば、30キロ程度は軽くなるのだろう。

 僕も外に出て、トランクルームに収納してあったタイヤや工具を引っ張り出す。それらを、服部が予め敷いていたビニールシートの上に放り出すようにして積み上げた。

 これらは、結束用のベルトなんかで固定してあった奴等だ。

 荷物を並べ終えると、今度はシートベルトの調整に取り掛かる。

「こんなに忙しいなら、もっと早めにやればよかったな」

 服部の自嘲的な文句に、僕も同意する。

 そんなドタバタ作業が終えたのは、10時少し前。

 その間に車検員が回ってきて、“野良猫”の電装やライト周りのチェックをしていった。

 これで、車検も無事に終了。

 競技車両が一号車から順番にスタートラインの後ろに並び始めた。

 ちなみに、1号車は“魔神・村木”組のランサー5。

 その後ろにはゼッケン2の、最新型のランサー10、さらにその後ろには、“忍者部隊・上町”ランサー9が続いている。

 ひとケタゼッケンの“ラッキョウ”ランサーや“タオパイパイ”インプレッサは、まだ仮設パドックに待機中。

 だから当然、Cクラスブービーゼッケンの“野良猫”も、まだうずくまったまま。

 スタートラインに並びに前を通り過ぎていく有力チームの競技車を見ている僕に対して、真剣な面持ちの服部は自分の脳裏に視線を向けている様子。

 間もなく出走するジムカーナコースの走行イメージを繰り返し追いかけているらしい。

 コースの周辺には、50人ほどのオフィシャルや後半ゼッケンのクルーがギャラリーになっている。予想に反して、緊張感はあまりなさそうだ。

 僕自身も“キャッシュラリー”の時と比べて、不思議なほど緊張感を欠いている。

 まるで、観光気分。フロントガラスというモニター越しに、景色を眺めているような。

 今はまだやることもなくて、横に座っているだけだからなのか、或いはまだ昼間の明るい日差しのせいなのか、よくわからない。

 もしかしたら、ここで一番緊張しているのは、僕の隣で呪文のように何かをぶつぶつ呟いている服部なんじゃないかと思う。

 ま、それはそれで良い傾向なんだろうけど。

 やがて、けたたましいエンジン音を轟かせて、1号車がスタートした。

 タイヤを軋らせながら、コマネズミのような勢いでパイロンの狭間を駆け抜ける。

 そして1号車のゴールを待たずに、1分後に2号車がスタート。

 さらに1分、2分と過ぎていき、次々にスタートとゴールインが繰り返されていく。

 騒音こそ喧しいけど、拍手も歓声もなく、一見、淡々と。

 それでもにわかギャラリーたちの真剣な視線は、見た目よりも熱いのは確かだ。

 自分たちが走るときのために、前走車の走りを参考にしようとしているのだろう。

 ゼッケン10番がスタートすると、オフィシャルが“野良猫”に向かって手を上げた。

 服部は小さくうなずき、シフトノブをローギアの位置に入れた。

「いよいよだね。どうよ、自信は?」と、僕。

「ある。任せろ」と、服部が答える。

“野良猫”はのそのそと動き出し、仮設パドックをぐるりと回ってゼッケン15番のインプレッサの後ろに着いた。“野良猫”よりも古い型のインプレッサだ、と服部が言っていた。

 僕はヘルメットを装着し、シートベルトの緩みを締めなおした。

 1分ごとに、車一台分ずつ動いていく。

 そして1分前。

 ついに“野良猫ランサー”はスタートラインのまん前に進んだ。

 オフィシャルから“SS1”のCPカードを受け取る。

 記されているスタート時間は、予定通り10時16分。

 エンジンの排気ガスの匂いと、タイヤの焼けた匂いが一段と濃密になった。目の前に広がる、パイロンだらけの広場。直前にスタートした前ゼッケンのインプレッサが、その中央の辺りを斜め前方に向かって疾走していく。あれが、1分後の自分たちの姿。

 それを見て、僕は慌てた。予め観ていたはずのコース図が、ここから見ている光景に合致しないのだ。僕なりに完全に覚えたつもりだったが、どことどこのパイロンを回るのかまるで解らない。かろうじて、ゴールの位置だけは識別できるけど。

 ヘルメットにふさがれた耳の奥で、幻聴のような血流の拍動が聞こえてくる。

 いつの間にか、身体を支配している緊張感。

 頭の一部が白くなってしまったような。

「おい。窓、しめろよ」

 服部に促されて、手動式レバーをまわして窓を閉めた。

「30秒前!」

“野良猫”の左サイドに立つ、僕と同じ年ぐらいのオフィシャルが叫んだ。

 コースは服部が覚えているはず。僕は無責任にそう考えることにした。

 ラリーコンピュータの表示はSSモードに切り替わっている。 同時に、表示時刻が腕の電波時計と同じであることも再確認する。電波時計は一年前にホームセンターで買った安物だったけど、携帯電話で時刻を確認しても殆どズレはない。

「10秒前!」

「はい!」

 大きく目を見開いている服部が律儀に返事をした。

 僕はラリコンのスタートボタンに手をかけた。

 スタート係のオフィシャルが、“野良猫”のフロントガラスの前に右腕を出して五本の指を開いた。

「5秒前!4!3!…」

 指をおりながらのカウントダウンに合わせて、服部がエンジンの空ぶかしを始めた。

 その振動がシートから背に伝わり、僕の心臓を鷲づかみにしていく。

 自然に腹筋にキリキリと力が入り、息苦しい。

 それでも僕は、ギアがローの位置に入っていることをちらりと見て確認した。

「…2!1!スタート!」

 拳になったオフィシャルの右手が跳ね上がる。

 同時に、“野良猫”は猛ダッシュ!

 服部が上手いのか下手なのかは、解らない。

 とにかくゼロ発進の猛烈なスタートGを受けて、僕はシートに押し付けられた。

 以前の松姫峠の練習やキャッシュラリーの時には体験したことのない類のもの。

 予想を遥かに超える、蹴り飛ばされたような勢いだった。

 だからそれで、スタートボタンから指が離れた。

 もちろん、押す前に。

 あっ!と、思ったときには遅かった。

 僕は慌ててボタンを押しなおそうとしたとき、服部が急ブレーキを踏んだ。

 シートベルトが肩に食い込む。

 それでも手を伸ばしてボタンを押そうとしたら、間違って違うところを押してしまった。

 強烈な横Gに振り回されていたのは、身体だけではない。

 僕の頭の中はもう、真っ白を通り越して透明状態だ。

 走行コースを確かめるどころではない。

 フル減速にフル加速。加えて、矢継ぎ早に襲い掛かってくる左右G。

 僕はバケットシートの上で翻弄されていた。

 猛烈な勢いで流れていく景色と、僕を嘲笑うようにじっと立っているパイロンたち。

 こちらを注視している大勢の視線を、途中、少しだけ感じた。

 後で振り返ると、僕は呼吸が止まるくらいのパニック状態に陥っていたらしい。

 何も出来ずに手足をばたつかせているうちに、“野良猫”はゴールラインを通過した。

 何とかライン上でCPボタンを押したが、するとそこから、モニターではタイムカウントが始まった。

 つまり、スタートボタン。本当は、それで計測終了になるはずだったのに。

 オフィシャルから“SS1ゴール”と書かれたCPカードを受け取った。

 機械的に、僕はそれをホルダーに収めた。

 ひと仕事終えた“野良猫”は、のそのそ歩きでパドックに戻っていった。

 透明だった頭の中は徐々には白濁していき、ようやく目の前の現実を識別できるようになった。弁解の余地など、全くない。二ヶ月前から準備をしていた服部が全てをかけたといっても良いこの一本目で、僕は致命的なまでに足を引っ張ってしまった。

「すまねえ…」

 かろうじて呟いたとき、ヘルメットを外した服部が汗まみれの顔を僕に向けた。

 たったあれだけ走った程度で、これほど汗がかけるものなのか。

「えっ?何か言ったか。ま、いいや。で、どうだった?今の走りは」

「ああ、まあ。良かったんだと思うよ…」

 あやふやに答えながら、服部から受け取ったヘルメットを後ろのフックに引っ掛けた。

「そうだろ!そうなんだ。俺も、良かったんじゃないかと思うぜ」

 自分のヘルメットを脱ぐと、服部に負けないくらいに汗がびっしょりだった。

 もっとも僕の場合は、ゴールしてからの冷汗のような気がする。

 首から肩の辺りかけて、鈍い痛み。たぶん、強烈な加減速Gの負荷によるものだ。

 一方の服部は、走り終えた興奮がまだ冷めないまま、どこがどうよかったかを熱く語り続けている。僕には理解できない専門用語を羅列しながら。

「言いにくいんだけど、服部。さっきスタートボタン、押せなかった」

 一瞬、言葉を止めた服部は不思議そうな顔をした。

「へえ。そう」

「…いや、だから…」

「で、何が問題なんだ?CPカード、受け取ったろ?」

 僕はホルダーを引っ張り出して、服部に見せた。

 カードは二枚。スタート時間とゴール時間が記されたヤツ。

 その時初めて、ゴール時間がカードに記されているのを目にした。

 10時17分21秒3

 オフィシャルが示したこの時間が確かなら、問題はない。

 こちら側の計測は、それを確認するためのものだ。

「僕は、計測をしくじったんだ」

「ああ。でも、光電管での計測だから間違いないだろ」

「…いや、そうかも。でも、さ…」

「アクチャルハームないなら、ノー・プロブレム。夜のステージの厄払いと思えばいい」

 アクチャルハーム(実害)なしなら、ノー・プロブレム(問題なし)。

 昔からの服部の口癖だ。自分のチョンボを棚に上げて思うことだけど、コイツの能天気は天井知らずなのかもしれない。

 頼もしくありながら、呆れもするのだけど。

 その時、服部側のサイドウィンドーをコツコツ叩いているラッキョウ頭の青田さんに気づいた。作り笑いのような、妙に歪んだ笑顔が服部を睨んでいた。

 服部は窓を開けながら。

「やあ、どうも」

「おい、オマエ。やるじゃ~ん」と、青田さん。

「…はい?」と、服部が首をかしげる。

「オマエ、俺のコンマ2秒遅れ。三番時計」

 ニヤニヤ顔の青田さんの言葉には、少しだけ棘がある。

 服部はぼんやりとした雰囲気で青田さんの顔を見上げている。そして、僕の方に振り返った。うつろな目がゆっくりと見開かれていく。

「三番時計って、三位のこと?」

 僕の問いかけは確認のため。

 うなずくより早く、服部は運転席から飛び出した。

 ほぼ同時に、僕も後に続く。

 目指すのは、ゴールラインの直ぐ近くに張り出されている手書きのSSタイム暫定表。

 人垣をかき分けるようにして、合格発表の掲示板に殺到する受験生の心境でその前に進み出た。先ほどのチョンボなど、すっかり脳裏から消えうせた。

 目の奥と頭の中の一角が、カッと熱くなっている。SSのスタート時以上に胸がドドン、ドドンと高鳴っている様が耳の奥から聞こえてくる

 いつの間にか暫定表の半分が埋まっていた。

 空白なのは、まだ走り終わっていないBクラス後半とAクラスのエントラント車両だ。

「…本当だ。3番だぞ。すげえじゃねえか、服部!」

 Cクラス16台のうちの3位。今のところ、総合でも3位だ。

「痛えな!?アキラ」と、僕を睨みながら服部が叫んだ。

 それでも、ニヤッと笑いながら。

 知らぬ間に、僕は服部の肩をど突いていたらしい。

 まさに、まぐれ合格の受験生のように、僕は舞い上がった。

 失敗した落ち込みの反動から来るハイテンション。

 まるで、自分が叩き出した結果のように嬉しい。

 トップは、ゼッケン5番の栃木ナンバーの新型インプレッサで僕らよりもコンマ6秒速い。二番手は、先ほどの言葉通りラッキョウ頭。4番手は魔神・村木さんで、コンマ四秒差。パイパイ森さんは7番で、1.7秒差。

 12番まで落ちた忍者部隊・上町さんは、パイロンタッチのペナルティが加算されていて4.3秒の差になっている。少しだけザマミロと思った。きっと、怠け者には罰(バチ)が当たったのだ。

 つまるところ、早い話が、服部はJリーグに勝っちゃっているのだ。

 初めて、僕はこの二ヶ月間の服部の努力が本物であったことを認めた。

「もしかして、Jリーグって大したことないのかな」

「そんなことはないと思うぜ。つまり、俺が速いってことさ」

 僕らは、ゲラゲラ笑った。

 ふいに、僕は周囲の視線が気になった。

 特に、背中の辺りにチクリとする嫌な感触。

 振り返ると、そこには暗い目でニヤニヤ笑うラッキョウ頭。

「こら、服部。いい気になるなよ。俺より0.2秒も遅いくせに」

 僕と服部はどちらからともなく顔を見合わせた。

 そしてどちらからともなく、ニイッと笑った。

「これはこれは、二番時計の青田さん」と、僕。

「たったのコンマ2秒差です。次は、追いつきます」と、服部。

「おっ!言うじゃ~ん。でも、本当の敵はジジイどもだ。お前なんか、目じゃない。一本目は様子見で手を抜いたのかもしれねえが、次からはヤツ等、本気で追い上げてくるぜ」

「誰でもドン、と来い!…です。ここは、練習会で走りこみましたから」

 ケッ!っと、ラッキョウが苦い顔ではき捨てた。

「偉そうに。この、まぐれ小僧が。まっ、ラリーじゃあ勝った奴が偉いんだから、今は何を言ってもいいんだけどよ。でも忘れるなよ。俺には負けたんだからな。また次も、ブッちぎってやるぜ」

 ラッキョウはケケッ、と笑いながら去っていった。

「最後は、少し芝居がかった台詞だったな。それも、昔の学園ドラマ」

「少なくとも俺、そんなドラマは知らね」

 服部は、ぶっちょう面だった。

 僕はもう一度回りに目をやり、周囲のエントラントたちが今の僕たちの会話に特に関心を持っていなかったことを確認する。

 まあ最初の結果なんて、そんなものなんだろう。

 それでも、新人の服部が好タイムで上がったことを意識している同じクラスのドライバーは、少なからずいるはずだ。“ラッキョウ”青田さんみたいな。

 会場のあちこちで、SS1の結果に対して話をしている様子が伺える。

 でも、Jリーグ一派の姿は見えない。先頭に近いゼッケンのクルーは、もうとっくに自分たちの車の近くに引き上げているのだろう。

 彼らがいるパドックの方を盗み見ながら、僕らは“野良猫”に戻った。

 中に入った直後。

「あんニャロ、頭に来るな。“まぐれ”呼ばわりしやがって」

 僕は少し驚いて、服部の横顔をちらりと見た。

 学生時代から縦型社会に適応している服部が、年長者の“ラッキョウ”を“あんニャロ”と吐き捨てたからだ。よほど、頭に来ているのだろう。

 逆に言えば、それだけ自分の叩き出した結果に誇りをもっていたことになる。この二ヶ月間の奴の努力は、たぶん、僕が思っていたよりもずっと真剣なものだったに違いない。

「モータースポーツに“まぐれ”はない。実力と結果が全てだ。…って、四谷さんが言っていたっけ。いい車に乗っているんだって、実力のうちさ」

「ここの勝負に合わせて、タイヤも調度いいくらいのヤマに減らしてきたんだぜ」

「じゃあ、次は“あんニャロ”をぶっちぎってやれよ。最低でも、コンマ2秒くらい」

 服部は口元を引き締めて、小さくうなずいた。

 それから20分。

 服部はSS2のコース図を睨み続けた。

 ときどきブツブツ何事かを呟いては、うつろな目で首をかしげて右手を小さく揺らしている。まるで、目の前にいる透明な蜘蛛を掴もうとしているみたいに。

 本人は酷くまじめなイメージ構築のつもりなのだろうが、傍で見ていると滑稽だ。

 そのうち、全ての競技車両が一本目を走り終えた。

 続いて直ぐに、一号車がSS2のスタートラインにつく。

 その位置は、SS1のゴールポイントの直ぐ近く。

 やがてエンジンが甲高い排気音を響かせて、急発進した。

 そして、次の車両がまたスタートラインに。

「くどいようだけど、確認する。僕は、何もしない方がいいんだよな」

「横でよく見てろ。でも、今度はゴールボタンくらいは押せよ」

 もちろん、そのつもりだ。ただし、ラリーコンピュータの“SSモード”は使わないことにした。普通のスタートモードで対処する。さっきみたいに、急発進の加速Gでボタンが押せないかもしれないなどと心配しないですむように。

 ゼッケン10番がスタートすると、オフィシャルがこちらに向かって手をあげた。

 服部は待ちかねたように、ギアをローに入れた。

 胴体を震わせるようにして、のそのそと動き出す“野良猫”。

 ゼッケン15の後ろに着いて、静かにうずくまるようにして止まった。

 ため息をつくように、流れていく時間。

 前方には、雄たけびのようにエンジン音を轟かせて発進していく、機械仕掛けの獣たち。

 一時間前と殆ど同じ光景のはずなのに、まるで違うシーンに見える。

「大丈夫。SS2の走行ライン、イメージはバッチリだ」

 まるで僕のわずかな不安を読み取ったように、服部はヘルメットをかぶりながら呟いた。

 たぶんこれってきっと、僕とヤツが共有している不安でもあるのだ。

 だからこそ、僕もヘルメットをかぶりながら、その不安の裏にある本音を口にした。

「期待してる」

「任せろ!」

 短く言い切った服部の言葉は頼もしい。

 前走車が発進して、“野良猫”がスタートラインに着いた。

 オフィシャルから、SS2のスタートタイムが記されたCPカードを受け取る。

 僕らのスタート時間は“11時21分00秒”

 スタートラインに着き、ラリコンのCPボタンを押してその時間を打ち込んだ。

「仮アベ、いくつ?」

「キリがいいから、60!」

 仮アベとは、ラリーコンピュータに入れておく仮の指示速度のこと。

 つまり服部は、ここを平均時速60kmでここを走りきることを目標にしている。

 僕はその数値を入力した。

「30秒前!」

 オフィシャルの声に呼応して、僕は窓を閉めた。

 ラリコンのモニターパネルに表示されている数字は、コンマ1秒単位でめまぐるしくカウントダウンを続けている。現在表示時刻は秒単位まで、ちらりと見た腕時計と全く同じ。

「15秒前!」

 僕はシートの上で居住まいを正した。

 両足を踏ん張って、背中をシート面にぴったりと押し付ける。

「10秒前!」

 両腕は、組んだまま。

 以前、四谷先輩から教わったスタイル。『SSやハイアベの時、窓上のサイドグリップを掴んでちゃだめ。車がひっくり返ったときに、指がつぶれちゃうのよね~』と、呑気な声で恐ろしいことを言っていた。

 先ほどは、すっかり忘れていたアドバイスだ。

「5秒前!4…3…」

 ファイナル表示ウィンドーにも同じ数字が表示され続けている。

「2…1…」

 時間の流れが、少しだけ遅くなったように感じた。

 でも、次の瞬間!

「スタート!」

“野良猫”が両眼を見開いた。

 獲物を狙う野生の咆哮。

 猛烈な加速Gが身体全体を蹴り飛ばす。

 僕は目を見開き、全身に力を入れて踏ん張った。

 猫から再びコマネズミに、“野良猫ランサー”は変身を遂げたようだ。

 パイロンからパイロンへ、猛烈な加減速を繰り返して滑らかに駆け抜けていく。

 さっきはまるで気づかなかったけど、服部は明らかに上手くなっていた。

 僕は車の運転は全くのシロウトだけど、駆け出しながら、これでも一応は大学の助手に席を持つ物理学者。車両本体の加速・減速と四つのタイヤへの分散荷重の変化を操ることが、スポーツ走行の本質であることは理解しているつもりだ。

 滑らかな動作でハンドルを切り込み、時には素早く、時にはゆっくりと戻しながらアクセルを踏み込んでいる。四つのタイヤは路面を掴み、踏ん張り、かきむしる。

 襲いかかってくる重力という魔物を、正面から受け止めてねじ伏せ、自在に操ろうとしているようだ。ちらりと覗き見た服部の横顔は、格闘者のものによく似ている。

 やはり、武道とどこか似ているんじゃないか、と思う。

“野良猫”がゴールラインを通過した瞬間、ラリコンのサイドグリップに指を引っ掛けていた僕は確実にCPボタンを押すことが出来た。

 モニターの記録は、“11時22分20秒0”

 ゴールのチェック車に寄り、窓越しにCPカードを受け取った。

 モニターと同じ数字が記されていることを確認した。

「やった!コンマ3秒、詰まった!」と、僕。

「おお!だけど、逆走コースだから単純に比較はできないな」

 服部は上機嫌で笑いながら言った。

「でも、参考にはなるはずだぜ」

「まあ、な!」

 二本目は、一本目の殆ど逆走のコースレイアウト。全く違うわけではない。

 パドックに戻り、ヘルメットを外すと、僕と服部は直ぐに結果を確認しに行った。

 人垣を掻き分けて、暫定表の前に進み出た。

 ちょうど、Cクラスの最終ゼッケン17号車のタイムが張り出されたところ。

「よし、三番時計!」

 僕は小さく拳を振り上げた。

 服部もニコリとしたが、やや不満そうだ。

 トップは、福島ナンバーでゼッケン2番のランサーEvo.10。

 コンマ9秒差。一本目は五番タイムだったが、それはパイロンタッチのペナルティのため。それがなければ、一本目もトップタイムだった。

 ドライバーの名は、権藤英樹。60歳。

 チーム名は“フーディニ”。

 Jリーグを脅かすベテランのひとりと、ここに来る途中で服部から聞いていた。

 二番は、Jリーグの魔神・村木ランサーで、コンマ2秒差。四番手には意外なことに、コンマ3秒差でJリーグの森さんが入っている。

 一本目で1番と2番だった車は、仲良く並んでその後ろ。

 つまり、ラッキョウ青田さんには1.2秒も勝っちゃったのだ。

 僕は振り返り、その目当ての相手を探し出した。

「あっ、青田さん!六番時計の青田さん、元気ですか?」

 嫌味を言ったつもりはない。勝手に口が動いただけだ。

 結果、やや遠くからこっちを見ていた“ラッキョウ”はあからさまに嫌な顔をした。

「うるさいな。次、見てろよ!」

「はい!しっかりと」

“ラッキョウ”青田さんは、ますます拗ねたような顔になって踵を返した。

 物凄く素直な人なのだ、きっと。

「へえ。いいタイム、出てるじゃない」

 不意に声をかけられて振り返った。

 そこにいたのは、フリーマン川田さん。

 無論、僕にかけられた声ではなく、隣にいる服部に対してだ。

「おかげで、好調です」と、服部が答える。

「こっちは、ボロボロ。うちのドラ、ジムカーナは苦手でさ」

 表を見ると、“姉御”チームの順位は、は一本目と二本目のタイムは10番手だった。

 トータルでは、うちとは4.7秒の差になっている。つまり、減点20.5の差。

 僕は川田さんの顔色を伺った。少し苦い笑みを浮かべている。

「もう一本、ここのSSがありますね」と、僕。

「そうだよね。せいぜい、これ以上は離されないようにしなきゃ。本コースがあるから、何とかなると思うんだけどさ」

 川田さんの目はサーキットコースに向いている。

「大野さん、ここを走ったことあるんですか?」

 服部が聞いた。

 クォーター7ラリーでこのサーキットを使うのは初めて、という話だったけど。

「うん。去年の11月に、練習会でここに一日いたよ」

「俺は先月、ここの走行会に二回来ました」

「じゃあ、バッチリだ。最後も、頑張れよ」

 そう言うと、川田さんは手を振って去っていった。

 その後姿をしばらく見送って、僕らは顔を見合わせた。

 妙な違和感が服部の顔に浮かんでいる。

 恐らく同じ表情が、僕の顔にも張り付いているのだろうと思った。

「“頑張れよ”…だって。まるで、ギャラリーみたいな台詞だな」

 悔しくないんだろうか、と僕は思った。

 服部は努力してこのタイムを出したのだから、胸を張る権利がある。

 でも服部と競っているクルーにとっては、コイツは少し生意気な新人ドライバーだ。

 そんな新人が、ベテランを追い落とすようなタイムを出している。

 一般的な競技の世界なら、可愛げのない奴として刺々しく対応するのが当然なのに。

「青田さんの場合は、負け惜しみか開き直りの台詞だったけど、川田さんが言うと、そんなところが全くない感じだよな。別にさ。注目されたいってわけじゃねえけど。俺なんかみたいな、ペーペーの新米に負けてさ。みんな、悔しくねえのかな」

 服部も同感なのだ。

 それなら廻りがどう考えていようが、服部がやるべきことは、ただひとつだけ。

「悔しくない筈がない。次も、ぶっちぎりだ。憎まれるくらい速く走れ!」

「そうだな、よし!」

 単純な服部は、颯爽と野良猫に乗り込んでいった。

「僕は、少し廻りの様子を見てくる」

「おう、よろしく。俺はここで、三本目のイメージトレーニング」

 敵情視察、ってことなんだろうと自分では思う。

 特に親しい相手もいないので、とりあえず顔見知りのJリーグ一派のところに行くことにした。前回のキャッシュラリーのゴール会場で車座になって飲んだ時の知り合いでもいてくれれば、としみじみ思った。せめて、“歩きウンコ”先輩でもいてくれれば、と。

 最初に目に付いたのは、“忍者部隊”だ。

 近づいてみると、比較的最近のアニメソングが聞こえてきた。

 上町さんは目だけこちらに向けて、ニッと笑った。

「へえ。新しいアニソンも聞くんですね。『鋼の錬金術師』のオープニング」

「うん。FAの方。最終クールの、シドのヤツが気に入ってるの」

 FAとは、TVアニメ『鋼の錬金術師』のリメイク版のこと。

「ところで、上町さん。ちょっと伺いたいんですけど、ここのSSって、エントラントの皆さんはあまり重視しないんですか?」

 その視線を追いかけるように、“忍者部隊”は不思議そうな顔を向けた。

「君だって、エントラントでしょ。大切にきまっているよ。1秒で5点のハンデになる。つまり、5倍の距離を走っていると同じことだ。たかだか2、3キロのSSが、10キロから15キロのSSに換算されるってことだからなあ」

「その割には、ちょっと…」

「ピリピリした緊張感に欠けている、…って言いたいの?」

「ええ、まあ。そんなとこです。僕らのチームが一番、一喜一憂しているみたいで」

「おや。じゃあ、いいタイム叩きだしてるんだね」

「今のところ、合計ではトップかもしれません」

「すごいじゃない!君のとこのドラ、ジムカーナ屋さん?」

「いえ、そうでもないんですけど…」

 僕は、服部がここのSSに備えて練習会で走りこんでいたことを伝えた。

「…なるほど。いい心がけだ。それで、立派な結果も出でいるのに、廻りの扱いはイマイチ冷ややかに感じているってか?早い話、“もっと注目してほしいのに”」

“忍者部隊”の笑みに、皮肉っぽい底意地の悪いものが混じりだした。

「はい。今のところ、上町さんのタイムよりは上です」

「知ってる。5.4秒遅れだから、君たちと比べて減点27。うちの“ジイや”とは26。権藤さんとことは、23.5の差。これは、ちょっと痛いよなぁ」

“ジイや”とはたぶん、魔神・村木さんのことなのだろう。

 またそれ以上に、他車とのタイム差をこれほどきっちりと覚えているのが意外だった。

 自分より上にいるチームの、ドライバーの名前は覚えていないのに。

「はあ。“ちょっと”なんですか」

「まあね。セコセコ走りも得意な“ジイや”たちに負けるのは予想していた。でも、新車の権藤さんが、あれほど速いとは思わなかった。君のドラと同じように、ジムカーナの練習でもしたんだろうよ。それでも、2本にパイロンタッチした井出君よりはマシかな」

 どうやら“忍者部隊”がマークしているのは、“ジイや”と権藤さんと、井出さんというドライバーだけらしい。つまり、自分より速くても服部は眼中にはないのだ。

「村木さんと、権藤さんと、井出さん、って方たちが速いんですか?」

「うん。山に入るとね。凄く、ね。でも、今日はたぶん…」

 そう呟きながら、“忍者部隊”は空を見上げながら続けた。

「…たぶん、荒れるな」

「雨、ですか」

「霧も…」

「霧が出ても、ラリーは中止にはならないんですか」

 いつかテレビで観たサーキットのレースでは、霧が出ると危険だからという理由で中断になった。

「ならない。台風が来たって、やめないよ」

 上町さんの視線が空から降りてきて、僕の目を直視した。

 一瞬、本能的に身構えた。

 その眼光の奥で、何かが底光りしているような気がして。

 まるで、空手の試合で高段者と対峙したときのように。

「…へえ。それはそれは…」

 自分のものとは思えない、白けた声。

 何でそんな言葉が口に出てきたのか解らなかった。

 無用な動揺を隠したくて、ただ、無意識に何か言わなければならないと思ったのかも。

「そうだ。権藤さんのとこに、挨拶に行ってきなよ」

「はい?」

「“ゼッケン16の新人です。よろしく”って言えばいい。こわもてだけど、気さくな人だから。ウチの村木さんみたいな、根性曲がりの大魔王とは違うから、大丈夫」

 僕は少しためらい、考えた。

 前回のキャッシュラリーでの“鳥小屋事件”を思い出しながら。

“忍者部隊”には何か、思惑でもあるんじゃないのか、と。

「上町さんの紹介で挨拶に来た、って言ってもいいですか?」

「もちろん。君のとこのドライバーが速いってことも、ちゃんと自慢するんだよ」

 それだけ言うと、上町さんは小さくうなずいて窓を閉めてしまった。

 僕は仕方なく、その場を離れた。

 ゼッケン1番の村木ランサーに目を向けたると、“魔神”は怖い顔でコースを睨んでいた。声をかけると怒られそうなので、森さんのインプレッサのところに行った。

「よう。おめえんとこ、今のとこトップじゃん」

 低い声だったが、森さんは上機嫌だった。

「はい、おかげさまで。でも、森さんて、速かったんですね」

 森さんの顔の皺が、ハチャハチャと一層深くなった。笑っているのだ。

「ここは、な。ここだけ、は。去年まではここのSSも、1秒1点の減点だったけど、今年は1秒5点だからよ。結構なハンデになるぜ。前は大差がつかなかったからスタート前のセレモニー気分だったけど、今年は違うからよ」

「そうだったんですか。でも、何で…」

「まあ、ジムカーナ屋をラリー畑に呼び込みたいんじゃねえかな。つまりは、競技人口の底上げよ。もっとも、今日は専門のジムカーナ屋は来てねえみてえだけど」

 なるほど、そういうことだったのか。

 B級競技ライセンスの講習会で聞いたことがある。

 スプリント系タイムアタックのモータースポーツは、ジムカーナとダートトライアルに二分されている。どちらも競技人口は多いが、なかなか他のジャンルに進出したりはしない。今回の主催者はその保守的な部分を変えていこうとしているのかもしれない。

 ジムカーナSSで大量のハンデを獲得できれば、峠では有利な位置から勝負に入ることが出来る。これは、服部の発想と同じものだ。

「去年までは、森さん、ナビだったんですよね」

 キャッシュラリーのときの話では、森さんがドライバーに転向したのは今年からのはず。

「おう。だから、ここは夏に走りこんだぜえ。ジムカーナのパイロンコースをよ。おめえんとこのドラにも、一度ここで会ったぞ」

「えっ?そうだったんですか。聞いてませんでした」

 一瞬、森さんはうつろな視線で遠い山並みを見た。

 呆けたような表情で。

「あれ?…、違ったのかな?まっ、とにかくここまでは予定通りだからよ。な?」

 助手席に向かって、森さんが声をかけた。

 そこにいた“砂かけ姉さん”は、おずおずとうなずいた。

「ところで、服部くん、速いじゃん」

「ええ。僕も、驚いています」

「ここじゃ、追いつけそうもねえな」

「はい」

「おー!はっきり言うねえ。だがよ、山に入ったら追い上げるからな。覚悟しとけ」

「はい。覚悟させておきます」

「よし、その意気だ。じゃあな」

 僕はぺこりと頭を下げて傍らから立ち去った。

 森さんの、妙に古臭い言い回しが耳に残った。



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