僕は情報収集のつもりで、“タオパイパイ”の次にゼッケン2番の権藤さんを訪ねた。
権藤さんは、ランサーⅩのフロントタイヤの横で空気圧の調整をしていた。
遠目では強面に見えたけど、近くで見れば長身痩躯のスーパーマリオって感じ。
少し彫りの深い顔立ちと、口髭が印象的だ。
「こんにちは。ゼッケン16のナビをしている水谷です。ドライバーの服部ともども、よろしくお願いします」
いきなり声をかけた僕に、権藤さんは穏やかな顔でゆっくり振り返った。
「それは、わざわざご苦労様。権藤です」
僕はやや動転し、恐縮して、ぺこぺこと頭を下げた。
まともな社会人らしい返事が返ってくるとは思っていなかったのだ。
魔人同盟のJリーグの面々に毒されているせいか、防衛本能的に身構えていた。
「Jリーグの上町さんに、権藤さんに挨拶に行くように言われて来ました」
権藤さんは、上町ランサーの方をチラリと見て、小さくうなずく。
一瞬、その視線が細くなったような気がした。
「ゼッケン16番なら、今のところ暫定トップのクルーですね。では、上町君たちの後輩なのかな?」
「いいえ、まさか。ドライバーの服部は、Jリーグの四谷さんの武蔵野工科大学自動車部の後輩です。僕も、同じ学校の出身です。車も、四谷さんから売ってもらったものです」
僕は余計なことと思いながらも、服部が“野良猫”を手に入れてからこれまでのことを簡単に説明した。自己紹介も含めて。
「なるほど。では、服部君はだいぶランサーの運転に慣れてきたわけですね」
「はい、…たぶん。僕には、車の運転のことはよくわかりませんけど」
「彼は、峠でも速いのですか?」
「以前は、下手でした。でも、ずいぶん上手くなったようです」
本当は、学生時代の服部は峠でもそれなりに速いといわれていたが、なぜか、それを口にすることにはためらいを感じる。
権藤さんは、楽しげにうなずいた。
「では、この後が楽しみですね。私も、ここのSSのお陰でだいぶこの車に慣れてきました。実は、先月にこの新車に買い換えたばかりでね。服部君にもよろしくお伝えください」
僕は清清しい気分で深々と最敬礼して、その場を後にした。
野良猫ランサーに向かう途中で、仏頂面の“魔神”のランサーとすれ違った。
いつの間にかAクラス最終ゼッケンが走り終わっており、“魔神”ランサーは第3SSのスタートラインに向かうところだった。
振り返ると、権藤ランサーも動き出すところだ。
僕は、足早に“忍者部隊”ランサーの傍らに戻って報告した。
「挨拶、してきました」
「ご苦労さん」と、“忍者部隊”が呟く。
「権藤さんって、仕事は何してるんですか」
「学校の先生。どこかの医科大学の教授だったと思うよ」
「へえ…」
無関心を装ったつもりだったが、少なからず、僕は驚いた。
「水谷くんは、まだ助手だったっけ?」
少なからぬ驚きの連続。
まだ今日で二回しか会ったことのない僕の素性を、“忍者部隊”が覚えていたことに。
「はい。今のところは」
「同じ日本料理にたとえるなら、懐石コースとかけ蕎麦くらいの差。…今のところ」
「大きなお世話です。そのうち詰めてみせます」
「詰められなかったら、染谷道場の跡取り?」
「…」
今度は一瞬、僕の頭の中は真っ白に染まった。
言葉の意味が解らずに、“藪から棒”という言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。
知らぬ間に、目の前にいる性質の悪いオジイの顔が、染谷先生のイメージに重なった。
「あれ、驚いちゃった?一応告白しておくけど、俺も昔は染谷先生に世話になっていたことがあるの。で、三日前に先生から電話をもらってね。それで、水谷くんのことを聞いていたんだ。飛びぬけた才能があるのに、痛いのが嫌いなんだってね」
上町さんは、スタートラインのほうを見ながらつぶやいた。
「…なんで…」
「娘の詩織ちゃんも、君を気に入ってるんだってね。あれは、いいコだよね。おっと、そろそろ時間だ。じゃ、話の続きはまた後でね~」
頭に血の巡りが戻り始めた時には、“忍者部隊”ランサーはスタートラインに向かって動き出していく。
僕は混乱から抜けきれないまま、見送った。
曇天を背景に、そのつり目のような後姿のテールランプが意地の悪い笑みに見えた。
“野良猫”ランサーに戻って、助手席に着く。
落ち着かない気分で、無意識のうちにシートベルトをしめる。
「どうだった?」と、服部が問いかけてきた。
「えっ?何が…」
「バカ。情報収集に決まってんだろ!」
「ああ。いろいろ聞いてきたよ」
上町さんや森さん、それと権藤さんに話を聞いてきたことを服部に伝えた。
でも、まん中以下の順位にいる上町さんがタイムを気にしている相手は、村木・権藤・井出チーム。少なくともこの3台が優勝候補なのだろう。
服部のことは、ほぼ無視。
それと、“忍者部隊”が染谷先生のことを口にした件については言わないことにした。
余計なことに服部の気をまわさせる必要はないし、服部は染谷先生とはまったく面識がない。それ以前に、混乱中の僕自身があの出来事をまだよく確認もしていないのだ。
「そういえば、今夜は荒れるラリーになりそうだって、上町さんが予言していた」
「荒れる?天気のことかな」
「たぶん。雨が降って、霧が出ればいいって思ってるみたいだった」
「あの人は、山に入ったらここのハンデをひっくり返す自信があるのさ」
服部は少しだけ苦い表情になった。
「でも、上町さんとは僕らと27点以上の差があるんだぜ」
「ナイトステージの全開走行区間は全部で約40キロあるから、1キロで3秒負ければ、120秒ぐらいの差になる。下手をすれば、1区間で逆転されるかもしれない…ってさ」
「そんなに速いのか?」
「先輩が言うことが本当ならな。正直、俺にも信じられないけど」
ここでのジムカーナSSの走行距離は、一本目と二本目がそれぞれ約1キロ程度。
パイロンタッチやミスコースがなければ、同じクラスの車同士ならだいたい2、3秒くらいの差にしかならない。
ジムカーナセクションほどに複雑ではない林道で、1キロに対してここ以上の速度差が出ることなど僕には考えにくいのだけど。
それでもとにかく、現在はトップにいる服部のタイムは誰もが知っていた。
特にこのサーキットを走りこんでいた森さんは、服部をライバル視していることも。
紳士的な権藤さんが、服部君によろしく、と言っていたことを伝えると、服部は無邪気に喜んだ。
「そうか。じゃあ俺も、後で権藤さんに挨拶に行かないとな」
「それなら、次のSSでもそれなりの結果を出せよ。胸を張って、挨拶が出来るようにさ。出来れば、暫定トップのまま夜のステージに突入だ」
服部はうなずきながら、ヘルメットをかぶった。
「モチ!今度もイメージはバッチリだ」
ゼッケン15番が動き出すと、直ぐに“野良猫”も後に続いた。
最後のジムカーナSSは、一本目のSSコースにサーキットコース一周が追加されるレイアウト。
一本目のゴールポイントを駆け抜けて、サーキットコースに突入することになる。だから、走行距離は1キロとサーキットの1.2キロを加算して、2.2キロ。
つまり、SS1とSS2の加算距離よりも長い。
前ゼッケンの車が発進すると、服部は顔つきが引き締まった。
オフィシャルの車の横につけて、CPカードを受け取る。
スタート時刻は、予定通りの12時16分。
服部は“野良猫”の前輪をスタートライン合わせ、大きく深呼吸をした。
僕はCPボタンを押して、スタート予定時刻を入力した。三度目の同じ作業だけど、どうもまだ慣れない。何かを忘れているような気がしてならないのは、ただの貧乏性かも。
「30秒前!」
先ほどとは違うオフィシャルが大声で叫んだ。
服部はうなずきながら、僕に眼を向けた。
「中間ポイントのタイム差を、たのむ」
「わかってる。SS1のゴール地点だよな」
「そう!」
5秒前からのカウントダウンが始まると、“野良猫”のエンジンが猛々しく咆哮した。
オフィシャルの手が下がり、スタートの合図だ。
直後、蹴り飛ばされるような加速!
あまり自信はないけれど、この三回のうちで一番上手い発進だった、と思う。たぶん。
“野良猫”がバイロンの間を巧みに駆け抜けていく最中、僕の視線はずっとサーキットコースとの境目になる中間地点、すなわち、SS1のゴール地点を捕らえ続けている。
さながら、オートターゲットスコープのロック・オン状態で。
加減速Gに抗しながら、目標ラインが急速に接近してくるのを意識する。
やがて、ライン上を通過。
瞬時に視線をラリコン上のタイムウィンドーに向けた。
その刹那に捕らえた数値は“0:17:20.6”!
「タイムアップ!コンマ7秒だ!」
僕の声に呼応して、服部が何かを叫んだ。
途端に、服部の全身から火のような熱気がグッと膨れ上がった。
まるで、格闘家の試合の時のような。
その勢いは“野良猫ランサー”に拍車をかけて、ハンドルを切り込んだ加速状態のままでサーキットコースに飛び出して行った。
真横から、斜め後方へ。
強烈な遠心力と加速Gが、合算されて変化していく。
直接脳に訴えてくるような、甲高いエンジン音と激しい振動。前後輪が軋音を響かせ、“野良猫”は斜めに傾いだ姿勢でコースの右端から逆の端に向けて駆け抜けた。
速い!…っと、今日初めて、本気でそう感じた。
そしてゴールラインを通過するとき、僕は自然にラリコンのCPボタンを押した。
静止したデジタルタイムの数値は“0:18:06.6”
服部はオフィシャル車の真横に“野良猫”を急停止させた。
「ゼッケン16。0時18分6秒6!」
そう叫んだ僕の声にかぶるように、服部も叫ぶ。
「すいません!
ベスト、何秒ですか!?」
別にじらすつもりはないのだろうけど、オフィシャルはゆっくりとCPカードに時間を書き込みながら、じろりと僕らを睨んでニヤリと笑った。
「惜しい。こっちの計測は“0時18分6秒7”。4番時計。ちなみに、ベストはゼッケン3の上町さんトコで、“2分4秒8”。あっちに申告暫定表があるから、そこで確認しなよ」
僕と服部は、一瞬顔を見合わせた。
たぶん、同じ表情を僕もしていたはず。
つまり、少し驚いたような意外顔。
共に、四番時計だった自分たちのタイムよりも気になることがあった。
「上町さんが、トップタイムだって」と、服部。
「急に速くなるってこと、あるんだな」と、僕。
“野良猫”は、荷物を放り出していたところに移動した。
僕らは車から飛び出し、暫定表のあるSS1のゴールライン近くに向かった。
現代とは思えない、A0番サイズの模造紙に手書きで記されている暫定表。
表の前には、僕らの少し前のゼッケンクルーが何人か集っている。
SS3のトップは、“忍者部隊”。
次は“魔神”で、3位はマリオ権藤さん。
4番は僕ら“野良猫”で、5番にはさっき名前を聞いたばかりの井出さんと、“パイパイ森”インプレッサが同秒で並んでいた。
7番手は、SS1でトップの地元新型インプレッサ。
SS3までの自分たちのタイムを書き込んだり、他車の暫定タイムをメモしている。
当然、僕も彼らを手本にして、ノートに自分たちや他チームのタイムを書き込んだ。
でも、ここでの合計タイムは記されていない。
自分たちで計算しろってことらしい。
その楽しい計算は、後でやることにする。
皆がライバルになるかもしれないと、僕は知らぬ間にほくそ笑んでいた。
「気持ち悪いな。なに、ニヤついてんだよ」
「えっ、そう?…じゃ、顔に本音が出たんだ」
「そうか。じゃ、しょうがねえ。この後にも期待しろよ」
服部も、まんざらではなさそうな声で笑った。
「よし、そうする。ところで、上位ゼッケンの人たち、ここにはいないみたいだね」
「あまり時間がないからな。みんな、レッキに向かったのさ」
見回すと、パドックでは青田さんや大野さんたちが慌しげに荷物を積み込んでいる。
権藤さんのランサーは、ちょうどサーキットのゲートを出るところだった。
暫定タイムを書き取ると、僕らは“野良猫”に乗り込んだ。
パドックに戻り、指示書に従って仮ゼッケンをはがした。
もういらなくなったそのゼッケンを、僕はにやにやしながら丁寧にたたんで、バックにしまった。
今回のラリーがどんな結果になろうとも、少なくともこれは、最初のSSで好成績をあげた“野良猫”にはトロフィーになると思って。
みんなと同じようにドタバタと荷物を詰め込んで、そそくさとサーキットを後にした。
なんだか、まだ夢の中にいるような気分だった。