ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

K.本戦、スタート“荒船林道”


 ドライバーズミーティングの会場は、営業の終了したドライブインの食堂。

 大会会長の小田中さんの挨拶から始まった。

 鋭い眼光と引き締まった顔つきは、アスリートを思わせる。

 以前は全日本ラリーで活躍していたナビゲーターで、関東ラリー部会の中心的存在。むろん、“クォーター7ラリークラブ”の会長でもあるという。

 大会挨拶の直前、その小田中さんが、村木さんに敬語で話しかけていた。

 村木さんのほうは、相変わらずの横柄な対応だった。

「やはり、村木さんて、ラリーの世界では偉いんですか?」

 間抜けな質問と知りながら、隣にいた森さんに小声で聞いてみた。

「偉いわけがねえ。ただ、昔、小田中さんは村木さんに世話になったことがあったらしいぜ。村木さん、全日本で走ってたこともあるしな。ラリー界は縦型社会だからよ」

 縦型社会というよりも、任侠の世界に似ているんじゃないかと思う。

 すなわち、義理と人情をいつも秤にかける世界。

 建前は義理の方が重たいといいながら、実際には人情に振り回されてしまう。

 ふいに先ほどのことを思い出して、僕はますます四谷先輩が気の毒になった。

 役員や来賓の挨拶の後、コースの説明が開始された。

 次々に紹介される危険箇所を、全てコマ図に書き込んでいく。

 そのうち書き込みが余に多くなりすぎで、別のところに書く破目になった。

「こんなんじゃ、安全なところを書くほうが早いよな」

「ラリーのSS区間に安全なとこなんか、きっと、ないんだよ。基本、全部危険。で、特に危険なとこだけ解説してるんじゃね?」

 幾つかの質疑応答があり、30分程度でドライバーズミーティングは終了した。

「それでは皆さん、気をつけて。明日の朝は、全車、ゴール会場に無事に戻って来てほしいと思います」

 小田中さんの言葉に送られて、僕らはサービステントに戻った。

 辺りは暗くなり、気温はいっそう低くなりつつある。

 テントは、Jリーグの面々で賑わっていた。

 幸か不幸か、“ラッキョウ”の姿はない。

 たぶん、“魔神”や“忍者部隊”と顔を合わせたくないからだ。

 四谷先輩は何事もなかったように振舞っている。

「おい、行こうぜ。席がない」

「そうだな。スタートまでは、まだ40分くらいあるし」

“魔神”1号車のスタートは、6時01分。

 以後、一分ごとに一台ずつスタートするから、“野良猫”のスタートは6時16分。

 僕と服部は“野良猫”に戻って、これまで検討したことの確認作業をした。

「正直、あの人たちといると、調子が狂うぜ。この間のキャッシュラリーで、ある程度のお祭り騒ぎは覚悟していたけどさ。真剣なモータースポーツのイメージと違いすぎる」

「同感。ここだけの話、ジジイたちのせいだな。やる気を削ぐ作戦かもしれない」

「気を取り直そうぜ。“向こうは向こう、こっちはこっち”だ」

 僕はうなずき、コマ図とペースノートを取り出した。

「まず、最初のセクションは荒船林道。1CPからの指示速度は50㎞/時で、乗れる筈の速度。でも、雨が降ると、キツイかもしれないって話だそうだな」

「ああ。青田さんの話だと、松姫峠に似てる道ってことだった。もしそうなら、アベ50じゃ楽勝だぜ。今なら、ウェット路面になっても乗れると思う」

「じゃあ、任せる。ファイナルは、読んだ方がいいかな?」

「そうだな。よろしく頼む」

「2CPまで、約3キロ。そこからは、指示速度36㎞/時。国道に出て10キロほど走り、いよいよ一本目の尾道峠のSS4順走になる。つまり、日光に向かう方角から…」

 これから先の大凡のルートは、こうだ。

 最初の尾道峠順走の後、荒船林道を逆走。

 そのまま国道に出て、今度は尾道峠の逆走SS5。

 第一ステージは、ここで終了。

 ガソリンを給油して中継地点、即ちここのサービステントに向かうことになる。

 僕は書き直したペースノートに間違いがないことをチェックし、ラリーコンピュータの時刻を携帯電話の時報で再確認した。その間、服部はコマ図とにらめっこをしていた。

 その他、基本操作等もマニュアルにしたがって再確認した。

 もう絶対に、いや、できる限り、間違いはしないつもりだ。

 いつの間にか、暗くなった駐車場のそこここで待機していたラリー車が、のそのそと動きだす。“魔神”の車は既にスタートラインについていた。

 見回すと、サービステントには誰もいなかった。

 四谷先輩たちは、スタートラインの傍らで皆の出走を見送るつもりらしい。

 スタートのチェッカーフラッグを振っているのは、小田中さん。

 時は、瞬く間に過ぎていく。

 1号車が拍手で送り出され、1分後に“ドクターマリオ”の2号車がスタート。

 僕は服部からコマ図を取り返し、代わりに確認作業の終了したペースノートを渡した。

 10号車がスタートすると、“野良猫”もごそごそと動き出して列の最後尾に着いた。

「いよいよだな」

 服部の目が、外の車のライトを反射してギラギラと光る。

「うん。空が、少し怪しいのが気になるけど」

 気温はさらに下がり、辺りの視界は何となくぼんやりしているように見える。

 薄靄…もしかして、霧?

 ジムカーナSSのときとは異なる、腹の中で何かが膨らんでいくような緊張感。

「贅沢は言わねえ。出来れば、三番キープ!」

「十分贅沢だ。でも、出来たらきっと、最高だろうな」

 僕の言葉に、服部が不敵にうなずく。

 やがて“野良猫”は、スタートラインについた。

「ゼッケン16番!服部・水谷組」

 オフィシャルの声に突き動かされるように、僕はラリーコンピュータを操作した。

 スタート時間を入力し、仮の速度を入力。

「おい。補正係数は1.0になっているな。時計の秒あわせは大丈夫だな!」

 いつの間にか横に来ていた、心配性の四谷先輩が窓にかじりついて怒鳴っている。

「ありがとうございます、四谷先輩。大丈夫です」と、服部。

「繰り返し、確認しました」

「いいか!いいか!大事なことだ。たぶん今日は、霧が出る。もし荒船の入り口辺りで霧っぽかったら、前半で出来る限り先行しろ。登りの前半は稼ぎどころだ。下の方が靄程度でも、頂上付近は濃くなっているはずだ」

「先行ですか。どのくらいまで?」と、僕。

「7、8秒。出来れば」

「ひっかけチェックの可能性は?」

 キャッシュラリーのときの苦い思い出。でもそれは、良い経験になった。

「下りの5キロ地点あたりまでは大丈夫だ、…と思う。ですよね、小田中さん?」

 そこにいた小田中会長は、ニコニコしている。

「そんなこと、言えるはずないよ。彼ら、四谷君の後輩?」

「はい。よろしくお願いします」

「言われてみれば、見覚えのある車だな。がんばって走りきるように」

 よろしくお願いします、と僕と服部も車内から頭を下げた。

「10秒前!」と、ライン横のオフィシャルの声。

 小田中会長は“野良猫”の前に回って、フラッグを掲げた。

「スタートです!」

“野良猫”はヘッドライトをつけ、獲物を求めてゆっくりと走り出す。


 真っ暗になった国道に出て、日光方面へ。

 いつ雨が降り出してもおかしくない、空一面の厚い雲。

 薄靄に包まれたその灰色の世界を、ヘッドライトの光芒が切り裂いていく。

 日常から切り離されたような視界に、競技が始まったことを実感できる。

 今朝のジムカーナSSとはまるで異なる、ストレスに苛立つような実感。

「言うまでもないけど、1CPから3CPまではフレッシュマンの時と同じだ。まず、オドの指定ポイントまで40分、18キロを走る。仮アベは、27㎞/時。さっきから比べて交通量は減っているから、普通に走っても10分くらいはゆとりがあると思う」

「わかった。原則、キープレフトだな」

「もちろん!」

 今回のコマ図は1メートル単位まで表記されているから、補正は細かくとっていくつもりでいる。まあ基本は、ラリコン任せなのだけど。

 コマ図を三つ通過し、四つ目で国道から林道に入る。

 狭くはなるが、対向車とすれ違うのに困るほどではない。

 服部は、ヘッドライトをハイビームに切り替えた。

 とたんに、視界の一部だった灰色の世界がフロンとガラス全面に拡大された。

 森の中を抜ける林道の路面を覆う靄は、まるで亡霊のように不気味だ。

 右側が中低木を纏う岩肌で、左側は深い谷。

 せせらぎの音で、谷底には水量の増した川が流れている様子だ。

 しばらく走って狭い橋を渡ると、岩肌と谷は左右逆転した。

「確かに、松姫峠に似ているかもしれねえな」と、服部がつぶやく。

「ああ、そうだなあ…」

 似ているかどうか、正直、僕にはよくわからない。

 でも、オンタイム走行の繰り返し練習をしていた服部がそういうなら、間違いない。

 それに、知っている道と似ているところを走るとなれば、自信にもつながるし。

 僕はラリコンのファイナルをチラリと見た。

「よし、11分先行。もうすぐ、オドの計測ラインが出てくるはず」

「了解!」

 言ったそばから、前方にハザードランプを点けて停車している前走車を見つけた。

 服部はロービームに切り替え、“野良猫”をその車の後ろに止めた。

 ほぼ同時に、オド処理を終えた前走車が動き出し、ゆっくりと先のコーナーに消えていった。崖を照らす前走車の光芒は、ゆっくりと遠ざかっていく。

“野良猫”は少しだけ動いて、計測ライン上で前輪を止めた。

 頭の中に刻み付けたマニュアル通りにオドでの処理を完了する。

「よし。2キロ先まで行こう。ノーチェックの終了地点」

 指示書によれば、ここから2キロの間には1CPは設置されていない。

 たぶん、10台以上の競技車両がその地点で時間調整をしているはずだ。

“野良猫”が動き出す。

 ちょうどそのとき、後方のコーナーあたりに車のライトがバックミラー越しに見えた。

 恐らく後続の、ゼッケン17号車。

 その光を、服部もチラリと目の隅で捉えている。

「補正係数、どれくらい?」

「1. 0636程度。だからアベ50は、アベ47くらいになる」

「ますます楽勝だ。雨さえ、降り出さなきゃな」

 1.5キロほど進むと、比較的幅員の広くなった区間の前方に十数台の競技車両が並んでいた。外灯などない暗闇に点るテールランプの列は、妙にアニメチックで幻想的だ。

“野良猫”は、列の最後尾に停車した。

「残り時間は?」

「だいたい、15分くらい」

「じゃあ、ちょっと前と後ろに挨拶にいこうぜ。ジムカーナSSのときは、そんな余裕もなかったからな」

 僕らは外に出て、ゼッケン15のインプレッサに向かった。

 ちょうどそのとき、ゼッケン2号車がずっと遠くで動き出すところだった。

 後方には、まだ車の姿はない。

「こんばんは。挨拶が遅れてすみません。後ろのゼッケンの服部と水谷です」

 ドライバーの横から服部が声をかけた。

 僕は助手席の横から頭を下げる。

「こんばんは。久しぶりですね。服部くん、水谷くん」

「えっ?」

 服部が言ったのか、僕が言ったのか分からない。

 どちらにせよ、二人とも同時に驚いたのは確かだ。

 ドライバーシートから立ち上がって出てきた白いレーシングスーツの人物をじっと見る。

 ランサーのポジションライトの淡い光に浮き上がったのは、やや年配の穏やかな顔。

「あっ!小野先生。出場されてたんですか!?」

 先に口を開いたのは服部だった。

「あの時は、ありがとうございました。それに、ご馳走様でした」

 僕が続いた。

 ゼッケン15のドライバーは、関東工科学院の顧問をしている小野道也先生だった。

 小野先生には、前のキャッシュラリーの時に、ゴール会場で大変お世話になった。

 僕などガブ飲みしたビール代を支払おうとしたのに、ガンとして受け取ってくれなかった。お金の問題じゃないけど、Jリーグの魔人たちとは似ても似つかない立派な人だ。

「いやいや。朝のSSでは、君たちみたいな良い成績じゃなかったから、なんとなく声をかけにくくてね」

 小野先生は暖かい声で笑った。

「とんでもないです。エントラントリストに関東工科の名がなかったから、誰も出ていないものと思い込んでました。失礼をお詫びします」

「いやいや、服部くん。今日は新人のナビゲーターの教育で出てきました。でも、学校の部活ではないので、私はプライベートチームでの出場です」

 横にいた若いナビゲーターが、

「桜井です」と、自己紹介した。

 僕らも当然、礼儀正しく自己紹介と挨拶を返した。

「じゃあ、吉山さんや柳沢さんたちは来ませんね。残念です」と、僕。

「いやいや。彼女たちはサービスに来てくれることになっています。事前に公開されていたエントラントリストを見て、お二人に会いたがっていました」

 単純な服部が破顔した。

 たぶん僕も、似たような顔になっていたと思う。

 単に知り合いが増えた、なんてもんじゃない。

 心境的には、文字通りの“地獄に仏”。

 急に、今からゴール会場が楽しみになった。

「事前に分かっていたら、俺等のサービスもお願いしたいところでした。正直、うちの先輩たちには申し訳ないのですが、Jリーグ一派のサービステントは息が詰まります」

「おや、それはそれは」

 服部の言う“息が詰まる”という意味は、恐らく“仏さま”のような小野先生には理解してもらえないと思う。殺伐とした雰囲気さえ超越する、あの空気…

 そうこうしている内に、ゼッケン17のランサー・エボ7が後ろに来ていた。

「先生、すみません。ちょっと、後ろにも挨拶をしてきます」

「ああ、どうぞどうぞ。ぼくたちも、そろそろ準備をします」

 気がつけば、はるか先でゼッケン6号車がゆっくりと動き出している。

 小野先生はインプレッサに戻り、服部と僕は後続車両の窓をたたいた。

「こんばんは。前ゼッケンの服部と水谷です。よろしくお願いします」

 窓が下がり、ドライバーが顔をのぞかせる。

「ああ、どうも。小林です。ナビは石川さん。よろしく」

 淡々と、クールに小林さんは目を伏せた。

 石川さんは小さくうなずいただけ。

 二人とも、30台半ばくらいの落ち着いた中年男。小林さんが石川さんを“さん”付けで僕らに紹介したのだから、多分、石川さんの方が年上なのだろう。

「小林さんは、ラリーは昔からやられているんですか?」と、服部が尋ねた。

「いいや。昔、サーキットは走っていたけど、SSラリーは初めてだよ」

「俺らも、初めてです」

「そうか。まあ、よろしく」

「ありがとうございます。こちらこそ」

 普通の人に見えることが、これほど喜ばしいとは。

 僕は石川さんに目礼した。

 …と、そのときに気づいた。

「あれ?石川さんは、ここのペースノートを持ってるんですか?」

 ナビの手にあるのは、“荒船・順走”と書かれた明らかなペースノート。

「ああ、これ?小林君のチーム員から貰って来た。古いやつだけど、使えるって聞いて」

「でも、ここって、乗れないアベじゃない、って話ですよね?」

「まあ、そうらしいけど。俺も、初のSSラリーだから安全策の意味で。それに、ここは濃い霧になると絶対に乗れないって聞いてる。牛乳の中を走るみたいになるんだそうだ」

「…はあ」と、服部はため息のような声を出した。

「じゃあ、後ほど。ありがとうございました」

 何が“じゃあ”なのか自分でも分からないまま、僕らは“野良猫”に戻った。

 前方で、また一台ゆっくりと走り出した。

 残り時間は、約5分。

「大丈夫だよなあ…」

 ヘルメットを装着しながら、服部がつぶやいた。

 ヘッドライトの照らさない窓の外はどこまでも暗く、靄は全体的にたちこめている。

「ああ、たぶん…」

 少しだけ、靄が濃くなってきたように感じられた。

 もう少ししたら、本格的な霧になるのかもしれない。

 僕もヘルメットとシートベルトを装着した。

 コマ図を見て、ドラミで指摘された危険箇所が二つあることを確認した。

 乗れるはずのアベであるにもかかわらず、オフィシャルは危険箇所と言った。

 松姫峠とよく似ているという荒船林道。

 でも松姫峠には、危険箇所の指定などなかった。

「小野先生にも聞いておけば良かったかな」

 少しだけ不安そうな服部の声で、反射的にモニターウィンドーに目をやる。

 いつの間にかファイナルは2分前を示していた。

 小野先生の車がヘッドライトを点ける。ほぼ同時に、黄色いフォグランプも点灯した。

 そして、ゆっくりと走り出した。

 遠ざかっていく後姿を、僕らは見つめている。

 やがてコーナーを過ぎると、ライトが見えなくなった。

「もう遅い。先輩の言うとおり、前半で稼げるところは全開で行こう」

「…俺、霧の中ってあんまり走ったことないんだよなあ」

「普通、ないだろ。ロービームで徐行するものって、教習所では教わるんだから」

「安ずるより、生め…ってか?」

「たぶん、その方が易くつく」

“野良猫”の両眼に灯が点る。

 補助灯は白。黄色と比べて、霧の中の透過性は悪いそうだ。

 周囲の闇はぼんやりと白く濁って、墨絵で描かれた夜のようだ。

 ファイナルが、プラス一桁の秒を示した。

「さあ、…そろそろ!」

「了解!?」

“野良猫”は、のそりと動き出した。

 徐々に加速しながら、指示速度の36㎞/時で安定させる。

「チェックが出てきたら、ファイナルは0で!そのまますぐに、ハイアベ50になる。でももし出来たら、2CPのファイナルはマイナス1で入ってくれ。オフィシャルの試走車両がFFだから、たぶんトリップは少なめに出ると思うんだ」

「了解!?」

 久しぶりのオンタイム走行。

 服部は、よほど練習したのか、以前よりも格段に安定している。

 道路の幅員は狭くなり、勾配はみるみる急になってきた。コーナーも中速域から低速へ、ヘアピンの連続へと変貌していった。

 それでもファイナルは、ブラス・マイナス1秒の巾の中に落ち着いている。

「いいぜ、服部!ものすごくいい調子だ。このペースで!?」

「おう、任せろ!」

 決して、単純な世辞ではない。

 低速とはいえ、先ほどのSSを走っているときのような、確実に良いリズムなのだ。

 いつ1CPが出てくるか分からない緊張感は、息詰まる思い。

 でもそれが、不安を感じていた服部には良い効果に繋がっているようだ。

 それでも靄は少しずつ、着実に濃くなってきつつある。

 僕はいつ1CPが出てきても良いように、窓の開閉レバーに手をかけておいた。

 もちろん手動式の奴だから、ライン通過後に急いで“くるくる回す”ことになる。

 一定のリズムのまま5キロほど走った頃、前方に懐中電灯の明かりを見つけた。

「チェック!」と服部が叫ぶ。

「このまま、ファイナル0で!?」

 スタート直後ではデータ不足で補正など出来ない。

 セオリー通りなら、“0”でのチェックインが正解のはず。

 服部は正確に、指示通りに“野良猫”を操った。

 そして、チェックイン!

 計測ライン上でCPボタンを押し、窓を開けてカードを受け取る準備で身構えた。

 片手で手早く、アベ入力等のコマンド処理を済ませる。

 計測車の横につけると同時に叫ぶ。

「ゼッケン16。7時03分22秒!?」

 窓からすばやく突き出されたオフィシャルの手には、チェックカードが握られていた。

「はい、がんばって!」

 ひったくるようにカードを受け取り。

「全開!?」と、僕は叫んだ。

“野良猫”のエンジンが、虎の咆哮を張り上げる。

 蹴り飛ばされるような加速に、僕の上半身はシートに押しつけられた。

 それでも強烈なGに抗して、カードの表記をチラリと確認した。

“発行時刻7:03:22”

 スタートダッシュ時のファイナルは“-11.3”を示した。

 窓を閉めながら“よし!”と、喉の奥で溜飲を下げる。

「マイナス11秒!この調子で、先行まで!?」

「了解!?」

 視界は決して良くないが、ストレートと中速コーナーの続くセクションで“野良猫”は瞬く間にファイナルをつめていく。

 そして、1キロも行かないうちに、ファイナルは“0”に!

「よし、戻した!?このまま、全開。6秒先行したら、教える」

「おう!?」

 トリップを見て、最初の危険箇所を通過していたことに気づく。

 いちいち言わなくても、結果がよければノープロブレム。

 二つ目の危険箇所に接近したとき、ファイナルは“+7”を超えていた。

「前方左コーナー外、コーション!!」

「了解!?」

 この巻き込んだ急勾配のコーナー出口で、ファイナルは“+8”。

 トリップ上では、1CPのスタートから、1.57キロ地点。

 よし、このまま。

 右ヘアピンコーナーを抜けた直後、そう言おうとして顔を上げて、愕然とした。

 視界に飛び込んできたのは、白濁した闇の世界。

 突然、先ほどまでの靄とは比較にならない、完全な霧が支配する結界に様変わりした。

 さすがに急ブレーキこそかけなかったものの、服部はアクセルを抜いた。

 灰色の闇と同化したように、路面がまるで見えないのだ。

 かろうじて分かるのは、白い牙のようにまばらに現れるガードレールだけだ。

 左側は、枯れた雑草をところどころに蓄えた岩肌。

 道路と岩肌の境には、ところどころに側溝がある。

 もし脱輪すれば、大幅なタイムロス。

 それでも服部は、セカンドギアに入れたまま、アクセルを開けたり閉じたりして必死の形相で走っている。出来る限りアクセルを踏もうとする気力が伝わってくる。

 ガードレールに向かって走り、離れてはまた、ガードレールに向かって走る。

 ジグザクに走ることになるが精一杯なのだ。

 服部も僕も、不平の声を発することさえ出来ない。

 ガツンッ!と、衝撃を受けたのはその直後。

 恐らく落石に乗り上げただけだと思ったが、服部はアクセルを抜いた。

 わずかに車体が、前につんのめる。

 そのとき、前方の霧の奥に、チラリと光が見えた。

「チェックだ!?」

 どちらからともなく、ほぼ同時に二人で叫んだ。

 あるいは、そう思っただけだったのかも。

 服部は再びアクセルを踏み、真っすぐその光を目指した。

 もしその光が崖越しに見えていたのだったら、…などとはこのときは考えなかった。

 僕と同様に、早くこの区間を終わらせたい一心だったのだろうと思う。

 計測ラインを通過したとき、僕は反射的にCPボタンを押した。

 この直後、全身から冷や汗がドッと噴出したことを意識した。

“野良猫”が計測車の横に止まる。

「ゼッケン16番!…」

 それだけ言うのがやっとだった。

 周囲の景色と同じように、頭の中も真っ白になっている。

 オフィシャルは

「はい、お疲れさん」と言って、CPカードを差し出した。

 僕は機械的にカードを受け取り、服部は機械的に“野良猫”を発進させた。

 2CPの先でも、濃い霧が山全体を包み込んでいる。

 気が抜けたせいか、余計に視界が悪くなったように思える。

 ヘルメットを外しながら大きくため息をついてみて、ようやく我に返った。

「ふう。お疲れさん。ヘルメット、とらないのか?」

 僕の声に、服部は何の反応も示さない。

 徐行モードのまま、淡々と下り勾配の林道を走っている。

「…て、おい!おいっ、てば…服部!?」

 何を思ったのか、慌てた服部は急ブレーキを踏んだ。

“野良猫”が停止する。

 軽い圧痛と共に、シートベルトが両肩に食い込んだ。

「えっ…ああ、…いや…」

 服部が虚ろな表情をこちらに向けた。

 のろのろとヘルメットを外したその顔色は蒼白だった。

「どうしたんだよ、おまえ…」

 服部は水をかぶったような汗を滴らせて、唇を震わせていた。

「やっば、こういうのってさ、…ある意味、恐怖体験て言うのかな…」

 僕と服部は顔を見合わせ、意味もなくゲラゲラ笑った。

「いやあ、危なかったよな!ラリーって、本当にこんな条件でも走らせるんだな」

「まったく、さあ。信じらんね!?こんなの、技術を競うモータースポーツなんかじゃねえぜ。ただの肝試しだよ。全く、崖に向かって暴走するチキン・ランじゃねえか」

「みんな、馬鹿じゃないのかな。あんなとこ、全開で走るなんて」

「落石踏んだときなんか、ションベンちびりそうだった!?」

「おまえ、あの霧の中で道路見えてたの?」

「全然、見えな~い。だけども、無事に走りきっちゃったんだ、ヨ~ん!」

 どうやらハイテンションの服部は、頭がすっかりバカになったようだ。

「まっ、無事だったんだから、ここは負けてもいいか。しょうがないもんな」

 それからしばらく、僕と服部は“野良猫”の車中で大騒ぎだった。

 ほんの1、2分程度とは言え、その重圧は全くの未知のものだったのだ。

 そんなストレスからの開放感で、僕らは瞬発的な躁状態に陥ったらしい。

 互いに、“怖かった”とか、“凄かった”を連発し、酔っ払いのように同じ話を繰り返しているうちに、いつの間にか荒船林道の終点近くまで下りてきていた。

 標高が下がるにつれ、霧も薄らいできた。

 霧から、靄へ。

 霧に比べたら、靄はなんて“いい奴”なんだろう、と心から思う。

 Jリーグの魔人たちと小野先生ぐらいの違いだ。

 コマ図に差し掛かり、ようやく僕は、まだCP処理を終えていなかったことに気づいた。

「いけね。忘れてた」

「おいおい!初っ端からチョンボはカンベンだぜ。今度忘れたら、大盛り牛丼おごりだからな。もちろん、卵付きだぞ」

「大丈夫。ノープロブレムだ。…あれ?」

「…なんだよ?」

 僕の視線を追って、服部は“ァイナル”のモニターウィンドーに目を向ける。

 そこに示されている点滅数値は“-1.0”。

 それをもう一度確認してから、僕は入力キーを操作して必要な数値を打ち込んだ。

「つまり、幸か不幸か、…ゼッケン16号車は、さっきの霧のセクションを最小減点で切り抜けられちゃったのかもしれない…って、こと?」

 服部の表情が、みるみる歪んでいった。

 爆笑と大騒ぎの第二段が、“野良猫”の車内で炸裂した。



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