ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

L.尾道峠(びどうとうげ)順走・1


 ありがとう、四谷先輩!?

 歩きウンコ、バンザイ!?

 そんな言葉を、心の内と外で僕らは繰り返し叫んだ。

 窓を大きく開けて、山々を通り過ぎていく夜風たちにも大声で教えてあげたりもした。

 勝負には強運が大事なのだと、心底思う。

 結局、1CPと2CPを含むコマ図区間の距離は、オフィシャルの計測と比べて“野良猫”の方が7m短かった。もしこの誤差が霧の中の走り方によるものなら、2CPへのチェックインは1秒遅れが正解になる。

 計算通りなら、減点は“0”!

 悪くても、1,2秒の減点で済むはずだ。

 こうした結果に繋がったのは、四谷先輩の読み違いによるところが大きい。

 四谷先輩が5キロと予想したチェック間距離は、実際には3.5キロほどだった。

 もし2CPが頂上ではなく、先輩の読み通りに峠の麓近くあったなら、“野良猫”の減点は二桁になっていたことは間違いない。8秒の先行マージンを、必死の走りでたまたま使い切ったところに2CPが出てきたことこそ、幸運以外の何者でもなかった。

 そう考えると、浮かれてばかり入られないことに気づいた。

 いくつかのコマ図を経て国道に出た頃には、バカ騒ぎはだいぶ沈静化していた。

「問題は、他のクルーがどの程度で今の区間を走っていたかってことだよな」

 気を取り直した服部が、生真面目に言った。

「そう。結果的には良かったけど、実力であそこを乗り切ったチームもいると思う。例えば、後ろのチーム。荒船のペースノート、持ってたしな」

「確かに。だがよ、ペースノートがあっても、あんな霧の中なんか走れねえぜ」

「それは、わからない。霧の中はハイビームで走るのが基本だ、って誰かが言っていた。もしそれが本当なら、霧を攻略する特別な走り方もあるんじゃないのかな」

「ハイビームのことは俺も聞いたことあるけど、ちょっと考えられねえよ。だって、ぜんぜん見えないんだぜ。本当に“牛乳の中”みたいだった」

 国道を、コマ図の指示に従って進んでいく。

 目的地は、尾道峠。最初にペースノートを作った順走側。

 国道に出て最初のコマ図を通過するとき、区間距離がずいぶん違うのを妙に感じた。

 次のコマ図でも、また違う。

 係数が違うとかの問題ではない。

 最初は18メートル多く出て、次は23メートル少なく出ている。

 そして尾道峠の入り口までの区間距離8.869キロに対しては、68メートルも多く出ている。三つのコマ図で、合計63メートル多い分だけの補正が必要になった。

 国道に出てからここまでの指示速度は36㎞/時。

 さらに、国道に出るまでのズレも考慮する必要もある。

 尾道峠の中に入った直後、僕は“野良猫”を止めるように言った。

「服部、どうしようか?計算だと、6秒くらい先行でチェックインすることになる」

「そんなにズレるもんなのかな」

「わからない。この間のラリーだと、補正したらそれだけ減点になったし」

「そうだよな。確か、あの時優勝したクルーは、補正なんかしなかったって言ってたな。ラリコン通りにファイナル“0”で入っただけだったって」

「ああ。そう言ってたよな…」

 さっき拾ったせっかくの幸運を、ここで逃したくはない。

「ま、いいや。分からないときは、他力本願だ。小野先生たちに聞いてみようぜ」

「そうだな」

 服部は“野良猫”をスタートさせた。

 思えば、ラリーって何ていい加減な競技なのだろう。

 仮にも競い合っているライバル同士が、投げかけられた問題について協議の真っ最中に平然と談合するのだ。しかも、ごく当たり前に。

 林道の入り口から1キロほど進むと、競技車両のテールランプが並んでいた。

 その辺りが、ノーチェック区間の終了地点だ。

「時間、あるの?」と、服部。

「12分くらい」

“野良猫”を止め、僕と服部は外に出て小野先生のインプレッサを訪ねた。

「小野先生、ちょっといいですか?」

 服部は小野先生の横で、僕は桜井君の横に立っている。

 両側の窓が、ほぼ同時に開いた。

「やあ。荒船は、すごい霧でしたね。のれましたか?」

「先行かけて走っていたおかげで、ギリギリ助かりました」

「ぼくは、ギリギリのれませんでした。それに、桜井君がちょっと…」

 小野先生は心配そうに言葉を濁した。

 隣の桜井君は、夜目にも青い顔で力なく微笑んだ。

「ぼく、どうやら車に酔っちゃったみたいです。あんな酷い霧って、初めてで…。ここに来るまでに二回、吐きました…。車酔いなんて、絶対しないと思ってたんですが…」

 インプレッサの車内から、胃液の酸っぱい匂いが微かにする。

「しばらく、様子を見ながら走ります。もし、このまま桜井君の吐き気が止まらないようなら、リタイアします。それでいいね、桜井君?」

「すみません、先生。でも、出来るだけがんばります。完走したいです」

 僕らは言葉を失い、ぺこりと頭を下げて先に進んだ。つまり、前の方に。

「あんな状態じゃ、申し訳なくてとても補正のことなんか相談できないな」

「そうだな。ところでおまえ、ゲロ、大丈夫?」

「ぜんぜん、平気」

「さすが、“鉄の胃”だな」

 褒められたのか笑われたのか判らないが、無駄な会話をしながら知った顔を捜した。

 そして、ヘルメットをかぶって準備をしているゼッケン9を見つけた。

 すでに、ゼッケン4までがスタートしているようだ。

「青田さん、ちょっといいッスか?」

「おうっ、新人!順調に遅れてるか?」

「残念ながら、バッチリです。先行してたお陰でギリギリのれました」

“ラッキョウ”は一瞬じっと僕を睨み、ケッ!と、はき捨てた。

「おまえら、運がいいじゃんよ。前のほうじゃ、波乱があったみたいだぜ」

「えっ?どんな」

「まず、権藤さんが沈んだ。あの人、霧が苦手だから先行かけて、とっ捕まった。10秒以上ヤッちまったらしい。村木さんも大分食らったみたいだぜ。俺んとこも、少しヤラれた。オンタイムで走ってノッたのは、井出のとこと、上町さんぐらいだったって噂だ」

 ここでも僕は言葉を失った。

 このとき、ゼッケン5がスタートしていく。

 ゼッケン6は、ヘッドライトを点して補助灯もオンにした。

“ドクター・マリオ”が沈み、“魔神”が後退したとなると…

「森さんは?…森さん、どうしました?」

“ラッキョウ”の顔がまた苦そうに崩れた。

「あの人、おまえらと同じ。ビビッて先行かけてたら、ちょうど遅れて偶然ゼロでチェックインしたんだってよ。そうか。今の暫定トップは、森さんとこか、おまえらかもな」

 服部の顔が、夜目にもカッと赤くなった。

 険しい目つきだった。

 決して、歓喜でほほが紅潮したわけではないことが解る。

「ところで、青田さん。コマ図間距離がすごくズレるんですけど、補正したほうがいいんでしょうか?」と、僕。

“ラッキョウ”が小首をかしげた。ヘルメットをかぶっているので、そのシルエットは大ラッキョウに見える。

 ゼッケン5のスタートから30秒も過ぎていないのに、ゼッケン6がスタートした。

 つまり、それだけ5番と6番にタイム差がついてしまっている証拠。

「何だ、アキラ。知らねえのか。試走を“ウダケン”がやってるから、当たり前じゃん」

「…はい?」

「“ウダケン”だよ。ここのチーム員の宇田山健太。Bクラス乗りの、割と速いドライバーなんだけどよ。走行ラインがめちゃくちゃで、あいつが試走すると二次補正が絶対に必要になる。7、80メートル狂うのは当たり前だ。ウチも、58メートルプラスで出てる。当然、補正する。コース委員長が“ウダケン”だから、しょうがねえのよ。“雨男”だしな。だから今日も必ず、もうすぐ降り出す。挨拶したろ?ドラミで」

「覚えてません。でも、教えていただいてありがとうございます」

「いいってことよ。それと、服部!流れに乗ってるときは、ドンドン行け。霧や雨のラリーは、テクニックよりも気合だ。俺も、ここから追いかけるからよ」

「はい!オレが言うのも失礼かもしれないけど、青田さんもがんばってください。いろいろと、本当にありがとうございます」

 服部は、そう言って深々と頭を下げた。

「なに、おまえ。その上から目線。生意気だぞ」

 言葉とは裏腹に、“ラッキョウ”の顔はどこか嬉しそうだった。

 服部は、ニッと笑ってもう一度頭を下げた。

“ラッキョウ”も小さく笑みを浮かべた。

 ゼッケン7がスタートしていくのを見送って、僕らは引き返した。

 いつの間にか、後ろに4台の後続車両が並んでいた。

 服部と僕は、ゼッケン17のラン・エボ7の小林さんのサイドウィンドーを叩いた。

「よう、どうした?」と、小林さんが顔を上げた。

「すみません、小林さん。さっきのところ、のれましたか?」

「荒船?いやあ、ギリッ、アウト。3、4秒はクラっちまった。ペースノートなんかあっても、目が慣れてなきゃ霧は走れないな」

「俺らも、霧はまるでだめでした。たまたま先行をかけてたから、運よく助かりました」

「そうか。運も、実力だよ。先は長げえよなあ…。まあ、お互い頑張ろうぜ。ところで、ここまでのコマ図距離、君らのとこは大きく違っていないか?」

「はい。だいぶ違います。60メートル以上、多く出てます」

「うちは、70メートル以上だ。ですよね、石川さん」

 石川さんは、チラッと目を上げて小さくうなずいた。

「今聞いてきた話ですけど、上位ゼッケンのクルーは補正をいれるそうです。俺らと同じくらい、みんなコマ図距離がズレてるらしいですから」

 小林さんは眉間に小さくしわを寄せた。

「その話、信じていいのかな。もちろん、君らのことじゃない。前ゼッケンの連中のことだ。レースの世界だと、互いに足を引っ張るのは当たり前だから、本当のことは言わないのが普通だぜ。聞いていた話じゃあ、“Jリーグ”の一派は物凄い根性曲がりだってことだしな。その噂話をどこまで信じられるか…、だな」

「…なるほど」と、僕。

「でもまあ、教えてくれてありがとう」

 僕らも礼を言って“野良猫”に戻った。

 車内に入ると、服部は妙に真剣で不快そうな表情になった。

「トップかもしれない…だってよ」

「ああ。だけど…」

「さっきみたいに笑えない、全く。むしろ、深刻な事態だ」

「分かってる。霧が苦手って言ってる権藤さんは、荒船で10秒先行で捕まったって話」

「そうだぜ。1CPから2CPまで全開で走った俺は、マイナス1秒。つまり、3.5キロで11秒も負けてる。俺は霧の中だと、権藤さんよりキロ3秒も遅いってことだ」

「上町さんや井出さんの場合だと、もっと深刻だ。1.5キロ地点で8秒先行していたのに、2CPではマイナス1秒だから、オンタイムで走っていた井出さんたちには2キロで9秒負けたことになる。…キロ4.5秒、少なくとも」

 服部は、喉を震わせるような大きなため息をついた。

「信じらんねえ!?仮に尾道峠に霧がかかったら、10キロで最低でも45秒もぶっちぎられるって事だぜ。ぜんぜん見えねえのに。コウモリになって、空でも飛んでんのかよ!」

 全く同感。

 未経験者とベテランでは、竹やりで戦車と戦うほどの差があるようだ。

「とにかく、ここに霧が出ないことを祈ろう。少なくとも今は、霧がかかっていないんだ」

 ペットボトルのお茶を一口飲んで、服部はうなずいた。

「ああ、そうだな。癇癪起こしても、どうしようもねえし」

 僕は“ラッキョウ”…いやいや、青田さんのアドバイスに従って、63メートル分の距離を補正した。たぶん、信用していいのだと思う。

「トリップに63メートル追加したから、チェックインは“0”で入ってくれ。その後はフリー走行でSSのスタートラインに移動することになるらしい。だから、慌てなくていいようだ。とにかく、落ち着いていこう」

 僕はヘルメットをかぶり、シートベルトを締める。

 服部はそれに加えて、レーシンググローブをはめた。

 それからしばらく、僕らは何も話さなかった。

 猫の目のように、コロコロと様変わりする喜怒哀楽の連鎖。

 自分の感情の荒波の振り回されるのは、心底疲れる。

 その間、競技車両は次々にスタートしていく。

 前のインプレッサが走り出して、服部は“野良猫”のヘッドライトを点灯させた。

「なあ、アキラ。大雨が降れば、霧は消えるのかな」

「ああ。一概には言えないけど、少なくとも雨になれば濃い霧にはならないと思うよ」

「よし、それだ。ここを無事に走りきったら、雨乞いでもしようぜ」

「いいな。照る照る坊主でも逆さに吊るして走るか」

 服部は力なく笑い、小さくうなずいた。

「まだ負けたわけじゃねえ。今は俺たちがトップなんだ!」

 長い一日だ、と心底思う。

 朝早くから競技が続いているから、というだけではない。

 朝の勝敗はハンディキャップ戦に過ぎず、感覚的には午後にリセットされて、夜の林道セクションでの本番は一時間前に始まったばかり。

 でもこの一時間が、物凄く長く感じられている。

 気持ちの乱高下が激しいからだ。

 10分前まで、僕らは最小原点で済んだことに舞い上がっていた。5分前、僕らはトップに立ってしまったことを知らされて、逆に奈落の底に落ちた気分にさせられた。

 チーム“野良猫”は状況という乱気流(タービュランス)に、今も振り回されている。

 一般論として考えて、打開の道はただひとつ。

 現状を分析、理解し、推測される結果を踏まえて、具体的な方針を確認すること。


“野良猫”は予定通り、ファイナル“0”でチェックインした。

「フリー走行です。この先でオフィシャルの指示に従ってください」

 僕は礼を言いながら3CPのカードを受け取った。

 100mほど進むと、前ゼッケンの車両が3台止まっていた。

 先頭の車の傍らにはオフィシャルの車が停止している。

 先頭の車両は既にスタートラインについて、ドライビングライトを点灯させている。

 僕は清書したペースノートを取り出して、コマ図の上に載せた。

「いよいよ、本番だ。気合が抜けるようなことを言うようで悪いけど、今回のペースノートには期待しないでくれ。恐らく、直ぐにロストすると思う」

 気休めや謙虚は無用。

 僕は淡々と、間もなく実現する可能性を口にした。

 ゼッケン13番が一定のリズムでエンジンの空ぶかしを始めた。

 直後、タイヤのスキール音を響かせて前方の闇に消えていった。

「解ってる。一回目は、捨てるつもりでかまわねえぜ。セカンドステージの時に、少しでも上手く読んでくれ。一応、コースはネット動画で覚えているつもりだ」

 服部は、楽天的でも現実主義者(リアリスト)だ。

 この短い間に僕と同じように考え、同じ結論に達していたらしい。

「そう言ってもらえると助かる。本当に一回目のペースノート読みは、次のための捨石にするつもりで読む。だから僕の声は、当てにはしないで走ってくれ。少なくとも今は、霧は出ていないし、レッキまで数えれば100台以上がここを走っているはずだから、路面中央のコンディションは昼間よりもだいぶマシになっていると思う」

「雨が降り出せば、また泥が流れてくるさ。それでも、大雨の方が霧よりはずっとマシだ。無事に走りきったら、本当にコンビニ袋で“逆さてるてる坊主”を作ってやる」

 ゼッケン14が、夜の静寂を切り裂いてスタートしていく。

「それは、ナビの役目だ。僕が作るよ」

 次のゼッケン15番の小野先生チームがスタートラインについて間もなくすると、女性のオフィシャルがSS1のスタートタイムを記したカードを手渡してくれた。

「この先のライン、がSS4のスタートです。前の車が出たら、スタートラインまで進んでください。この車のSS4スタート予定時刻は、7時36分です」

 スタートタイムの記されたカードを受け取り、時間を確認した。

「ノート、間違えてもいいから大声で読んでくれ」

「そのつもりだ」

“野良猫”にはもともとイン・コム、つまりヘルメット内臓のマイクとイヤホーンは搭載していない。『あんなもの、大声だせればいらないのよね』と四谷先輩は豪語する。でも、スタート会場で見た限りでは、ラリー競技車両のほとんどがイン・コムを搭載していた。

「お前が必要だと思うなら、次までに買っておく」

「わかった。そんときは、よろしく」

 そう言った直後、小野先生がスタートしていく。

 荒々しい発進とは異なり、丁寧なクラッチ操作の直後にフル加速で闇に消えた。

 いきなり静止状態から早送り映像への切り替えを見るような、いぶし銀の違和感。

 前走車のヘッドライトの光は暗がりに解け、モノクロの残像が脳裏に映る。

「上手いなあ」

 無意識に、僕は呟いていた。

「ああ。俺には出来ねえよ」

“野良猫”を動かしながら、服部が応じた。

 ライン係の指示でスタートラインについた時、服部は大きく深呼吸をした。

 その吐息が、微かに震えているのに気づいた。

 戦闘モードに入った者の、武者震いの緊張感。

 僕はスタートタイムをラリコンに入力した。仮アベは60㎞/時に。

 スタートまで、後40秒足らず。

“野良猫”が四つの目を見開いた。

 とたんに眼前の夜は、真昼よりも明るく輝いた。

 思えば、“野良猫”がライトを全て点灯させた光景を見るのは、久しぶりのことだ。

「明るいんだなあ。前からこんな風だったっけ?」

「ヘッドライトと補助灯、両方とも国産のHIDに交換した」

 その直後、

「30秒前!」と、オフィシャルの声が響いた。

 前方に広がるのは、光のトンネル。

 その光の壁の外側には、暗黒の罠が広がる。

 側溝という落とし穴があり、逆に、危険なポイントにはガードレールはない。

 服部の課題は、リタイアに繋がるコースアウトを絶対に避けること。

 落石や砂利やコケが足をさらおうと待ち構える道の上では、その中央部は比較的安全だ。

 ライン取りなど考えず、道の真ん中に“野良猫”のボディを置き続け、ストレートでアクセル全開。コーナーの手前で十分に減速し、小さくコーナーを回って再び全開。

 今更、僕が指摘するまでもない。

 服部はそのつもりで、頭の中の記憶を頼りにコースレイアウトを組み立てているはずだ。

 この二ヶ月間、繰り返し見てきたネット動画と午後の試走の記憶を照合しながら。

「10秒前!」

 電波時計を凝視しているオフィシャルの手がゆっくり上がる。

 誘うように、その五本指が開いた。

 まるで、スローモーションのように。

 ヘルメットで塞がれている耳に聞こえてくるのは、自分の呼吸と心臓の拍動。

 今感じている呼吸の震えは、僕自身のものだ。

 午前中とは全く異なる、息苦しい緊張が身のうちで牙をむく。

「5秒前!4!3!…」

 開かれた五本指が一本ずつ折れていく。

 その指先に連想された僕の幻影は、一週間前の染谷先生の抜き手。

 眼球を狙って突きつけられた、必殺の間合い。

 あれがフェイントではなかったらと、ギクリッとした次の瞬間!

「0!?」

 オフィシャルの声を聞いたかどうかの記憶はない。

 手が上がったときには、“野良猫”は獲物を求めて猛烈なダッシュをかけた。

 第一コーナーに飛び込んでいく直前、僕の意識は“野良猫”に同化する。

“野良猫”は、下町の野生だ。

 コーナーの先を逃げている獲物を、僕は追いかける。

「右1、その先40メートル直進!」

「了解!」

“野良猫”の手足を操るのは、服部。あるいは、その反射神経も。

 だから僕は、“野良猫”の意識だ。

 蛇行しながら逃げ回る幻の獲物を、獰猛な勢いで追いかける。

「左1、その先40メートル、“キンクス”ストレート!その先、右2!」

“キンクス”とは、直線と解釈できる“くねくね区間”のこと。

 左コーナーを上手く抜け、キンクス区間をしなやかなフットワークで駆け抜けた。

 そして次の右コーナー直前で急制動がかかった。…と、思った。

「…!!」

 次のセクションの指示をだす直前のことだった。

 不意に制動が抜け、スッと直進していく。

“野良猫”はドライバーの制御を拒むように、コーナーの奥に突き刺さろうとした。

 服部の歪んだ口元をチラリと見た。舌打ちの音さえ聞いたように思えた。

 正面には、ガードレールのない、ぽっかりと口をあけた闇の崖っぷち。

 ガツッ!と、軽い衝撃と共に“野良猫”は一瞬立ち止まるが、再び走り出す。

「あっぶねえ!?」と服部が叫ぶ。

 あやうくコースアウトしかけたが、かろうじて踏みとどまれた。

“野良猫”はすでに加速中。

 服部は怖気ず、2速ギアのままアクセルを踏み続けている。

 僕は指で押さえていたペースノートのポイントに再び目を落す。

「…ここ直線60メートル!その先…左1、その先、右2から3に…いや、2から2だ!」

 正直に言えば、僕はこの時点でノートを見失っていた。

 前後左右への激しい力に抗しながら、ペースノート上の行を必死に指で辿った。

 ロストしたときの目印になるヘアピンコーナーの数は、まだ三つ目。四つ目はあきらめて、五つ目のヘアピンコーナーの位置を探した。ロスト対策として上り区間のヘアピンコーナーにだけ、通し番号を振っておいたことが幸いしたのだ。

 五つ目のヘアピンマークを見つけたときには、“野良猫”は四つ目のヘアピンコーナーを駆け抜けていた。ここは、目視可能な直線70メートル。

「この先右1、先30メートルで、右2へ!」

「了解!」

“野良猫”がリズムを取り戻し、再び野生へと回帰する。

 が、中速コーナーの後にヘアピンコーナーが来るパターンが四つ続いた直後。

 先に気づいたのは服部だったと思う。

 無意識に“野良猫”の操作に影響を及ぼしたのかもしれない。

 微妙な車体の揺らぎと減速で、僕はノートから顔を上げた。

 中速コーナーの出口、やや広くなった道路の左側にゼッケン15番が止まっていた。

 小野先生のインプレッサ。

 ヘルメットをかぶったままのクルーの一人はちょうど、二枚目の三角停止板を車の近くに置くところで、“野良猫”に気づいてこちらに向かって“OK”シートを振った。

 ラリー競技車両は、“OK”シートと“SOS”シートを二枚ずつ携帯している。

“OK”シートは、搭乗者に緊急事態は起きていないことを意味する。

 逆の場合は“SOS”シート。これが出ていれば、発見車両は直ちに停止して救助活動を協力して行わなければならない規則。

 停車車両は、原則として後続する三台に対して、どちらかのシートを明示する。

 もう一人はヘルメットをはずし、こちら側に背を向けて車の前方でしゃがみこんでいた。

 恐らく、手を振ったのは小野先生で、背を向けていたのは車酔いのナビ。

「ゲロ坊かよ!気の毒に」と、服部が小さくつぶやく。

 その言葉を合図に、再び“野良猫”は加速した。

 初めて経験する、知り合いの戦線離脱による衝撃は、僕と服部の集中を大きく乱した。

 服部の闘争心を揺さぶり、僕はまたペースノートをロストした。

 それでも、無意識にカウントしていたヘアピンコーナーのナンバーは掌握している。

「大丈夫だ。二つ先のヘアピンコーナーが13番目!?」

「おーっ、し!了解!」

 13番目のヘアピンコーナーの先は、こちら側の上り区間で最もアクセルを踏める区間。

 あらかじめ服部と打ち合わせていた、このSSの最重要区間だ。

 わざわざヘアピンコーナーだけ通し番号をつけて絶対に間違えないようにしていたのも、このセクションの稼ぎどころを確実に速く走りぬけるためだった。

 不慣れな僕ではすべての区間でペースノートを読みきることが不可能なら、せめて絶対に落したくないセクションだけを決めておいて、確実にタイムを稼ぐ初心者の戦術。

 そしてそこからなら、ロストしていたノートをまた読み出すことが出来るはず。

 12番目のヘアピンコーナーを抜け、キンクス区間を2速ギアの全開で駆け抜ける。

「ここだ!13番目の右ヘアピン!!」

 服部はローギアにシフトダウンしながら、ステアリングを緩やかに切り込む。

 ハーフアクセルの状態で荷重は、右前から左後方へと回るように移動していく。

 左後輪を支える足回りがその力を受け止めた瞬間、エンジンは力の限り咆哮した。

 少し姿勢を崩しながら“野良猫”は猛烈な加速で急勾配のストレートを駆け上っていく。

「よし、このまま、全開!!」

 僕の声だったのか、服部の声だったのかは分からない。

 とにかくこれが、チーム“野良猫”の意思。

 ギアはローから2速、さらに3速へ!

 そのまま緩い左コーナーに突っ込み、全開のまま右コーナーへ!

 そこを抜ければ、200メートルのキンクスストレート。

 暗黒に包まれた滑りやすく狭い林道を、130㎞/時超の速度で突っ走る。

 幅員の狭い小さな橋のある直角コーナーまで、本能的な恐怖との我慢比べた。

 わずか、10秒足らずのこの区間が、永遠とも一瞬とも感じられる。

「正面に、橋!左1コーナー!」

「了解!」

 かなり手前で服部はブレーキをかけたが、“野良猫”は減速せずに橋に向かっていく。

 まずい!と、思った直後にふいに上体が前のめりになった。

 乾いた部分に前輪がのり、やっと制動が利いたらしい。

 ひやりとした後から、ドッと汗が噴出したことを意識する。

 橋のあるコーナーは、無事に通過した。

「次、左1。その後、左2から右の3へ!」

 今度は、いいタイミングで読めた。

「わかった!ここから“2の1”だな!?」

 そこからしばらくは、ペースノートの読みやすい区間が続いた。

 これも予め打ち合わせていたことだけど、最初の全開走行区間を通過したらヘアピン・ナンバーをリセットする、と。つまり、このポイントから頂上までが“野良猫”ノートの第二セクションなのだ。自動的に、ここは“2の第一ヘアピン”。

 僕は不思議なくらい好調にノートを読み、服部はリズム良くコーナーをクリアしていく。

 薄靄のかかる闇の中を1キロ以上、順調すぎるくらい順調に。

 それが逆に、不安を煽った。

「よし!そろそろ、9個目のヘアピンだ!頂上の稼ぎどころ!?」

「了解!」

 左ヘアピンを抜けた直後は右2の緩いコーナーに切り替わる。

 山の尾根のような、両側から黒い木々に包まれたような直線が現れた。

 さっきの全開区間に次ぐ、直線登りの稼ぎどころの300mストレート。

 やや姿勢を崩しながら右コーナーを抜ける。

 直後、両肩を押し付けられるような猛烈な加速!

 服部は、エンジンの咆哮に合わせて2速ギアから3速にシフトアップして更に加速する。

 やや緩い勾配を駆け抜けた先には、峠の頂上。

「てっぺん、クレストだぞ!」

「わかってる!先は、やや右な!」

 クレストとは、路面が凸状になっている部分。

 予め、四谷先輩から警告を受けていたポイントだ。

(いいか!いいか!頂上は気をつけるんだぞ)の幻聴。

 このまま3速ギアのエンジン全開で通過しようとすれば、一瞬だけど車体は空を飛ぶ。

 そうなれば当然、ハンドルは利かない。

 服部は頂上の直前で軽く制動をかけた。直後に、素早く2速ギアにおとす。

 ガクッ、とした大きな衝撃。

 落しすぎた車速のため、ギャップに弾かれた反動に突き上げられた。

 姿勢は崩れても、“野良猫”は道路中央部に位置を確保している。

 ここから下り勾配だ。

 服部がアクセルを全開にしたとき、緩い右コーナーの入り口に三角停止板が視界に入った。次の瞬間、出口に停車している車のシルエットが浮かぶ。

 すれ違い様に見えたドアに貼られたゼッケンは、“9番”。

 しかもクルーの二人は、慌てた様子で車の周りを走り回っている。

 少しだけ開いていたボンネットの隙間から、一瞬見えたオレンジ色の炎…

「おい、今の!?」

 服部が叫んだ。

 僕がギクリとしたのはその直後。

“野良猫”のボディが左に流れる。

 アクセルを緩めて、ミラー越しに後方の光景を確認しようとしたのが過ちだった。

 その拍子でステアリングの位置が動いて路肩に近づき、前輪が泥濘を踏んだのだ。

 制御を失った“野良猫”はそのまま左に向かい、前後輪が小さな土手に乗り上げた。

 大きな衝撃とともに車が傾ぐ。

 が、アクセルを完全に抜かなかったことが幸いした。

“野良猫”はそこからはじき出されるようにして、道の上に戻ることが出来た。

 目前に右コーナーが迫る。

 反射的に服部はハーフアクセルの状態でヘアピンコーナーに飛び込んだ。

 もちろん僕は、ペースノートをロスト中。

 それでも、頂上からは“野良猫”ノートの第三セクションだ。

 頂上から最初のヘアピンコだったことから、すぐにロストポイントを探し出せた。

「おい、今のって、青田さんだったよな!?ボンネットの火、見えたよな?」

 服部は明らかに動揺している。自分がコースアウト仕掛けたことよりも、“ラッキョウ”の車から火が出ていた事のほうに気を取られているのだ。

「あれ、ヤバいんじゃないか!?助けに行った方がいいんじゃ…」

「落ち着け、服部!一台、減った。ラッキーだ!!」

 一瞬、服部はお化けを見たような顔で僕を見た。

 その目で、僕自身がとんでもない台詞を口にしていたことを自覚する。

 でも同時に、それが正しい判断だったと確信しつつ。

「…そうか。そうだな」

 その言葉で、人のいい服部も我に帰った。

 アクセルを踏みなおし、次のコーナーに突っ込んでいく。

「次、左2から左2へ。その先はストレート30!」

「了解!」

 そこから先は、“野良猫”は順調に危険区間を通過して行った。

 最初の全開区間の先から頂上までの間のように。

 コケがびっしり生えていた区間も、前走車両のタイヤ跡をトレースして通過できた。

 僕は相変わらず、ノートのロストと読みの再開を繰り返した。

 そして気がつけば“野良猫”は、いつの間にかゴールラインを全開で駆け抜けていた。

 慌てた僕は少し遅れてCPボタンを押した。

“野良猫”がCP車両に近づき、僕は機械的に窓を開けてゼッケンを申告する。

 冷気がどっと車内に流れ込み、少しだけ心地よく感じる。

 でもすぐに、全身の汗が冷えて寒くなると思いながら。

「はい、お疲れ。なんだ、おまえらか」

 差し出されたカードを受け取りながら、声の主の顔を見た。

 尾道峠の魔人と噂されている大林さんだった。

「あっ、こんばんわ。お世話になってます」

「おーおっ、疲れてるなあ、おい。まだ、始まったばかりだぞ」

「はい、おかげさまで」

「あの、すみません。頂上辺りでゼッケン9番が止まってたと思うんですけど、大丈夫なんでしょうか?なんか、火が出てたような気がするんだけど…」

 服部が心配そうな声で割り込んだ。

「おお。ちょうど今、頂上のラジオポイントから連絡があった。エンジンルームの配線が燃えたそうだが、車載の消火器で消えたらしいぜ。やつらも、運がいい。ラジオポイントでトラブるなんてな。普通なら、全車両通過するまで独りぼっちなんだぜ」

「そうですか。じゃあ、青田さんは無事なんですね」

「青田たちは無事だが、車は分からねえな。配線やられたなら、自走は出来ねえ」

「俺は、ああいう場合、どうすればいいんでしょうか。車から火が出てるのを見て、止まらないで通過したことって、正しい判断だったんでしょうか?」

「ああ、…まあ。ケース・バイ・ケースだがな。“SOS”シートは出ていなかったよな」

「はい。でも、青田さんたちは消火活動をしていたみたいで…」

「今回に関しては、青田たちが“SOS”シートを出していなかったんだから、そのまま通過してきたのは、原則として正しい判断だ。お前らが止まってれは、後続車両も止まって競技は中断される。少なくともCクラスの4CPはキャンセルになったろうからな。だから、結果としても良かった。ただ、いつもそうとは限らない。“SOS”が出せないときもある。だからその場の条件で、臨機応変に判断する。なるべく、速やかに。ただし、大事なのは、絶対に間違った判断だけは下しちゃならねえってことよ」

「…大林さん、そろそろ」

 隣のオフィシャルが大林さんに声をかけた。

「おおっと、そうだな。次が来るから、おまえらはもう行け」

 遠くからエンジル音が聞こえてきた。

 チェックに近づいてきている後続車のものだ。

「すみません。ありがとうございました」と、服部。

「頑張れよ」

“野良猫”は慌ててその場を離れた。

 僕はチェックカードのタイムを確認して、スタートタイムを入力した。

 1秒ほど、CPボタンを押すのが遅れていたようだ。

 その時、後方から笛の音が聞こえてきた。

 チラリと見た時刻は、8時11分17秒。

 1、 2秒のズレがあるかもしれないが、“野良猫”は後ろゼッケンに5秒くらい負けた。

「ごめんな、アキラ。気ィ、悪くしたろうな」

 しばらく口をきかなかった服部が、顎に滴る汗をぬぐいながら唐突に言った。

「えっ?何か?」

「おまえの判断、疑ったことだよ。青田さんたちの件だ」

「ああ、なんだ。別に気にしてないよ」

「俺は、気にしてた。ホントは、少し腹も立ててた。あのときおまえ、酷いこと言ったからなあ。“一台減って、ラッキー”なんてさ」

「正直、僕も驚いたよ。自分の台詞にさ。でも、たぶん、本音だったのかもな」

 服部は大きくため息をついた。

「空手部に戸塚さんって先輩、いただろ?」

「手塚主将?」

“いた”もなにも、手塚聡史先輩は僕が一年のときの主将だ。

「以前、あの人からお前の話を聞いたことがある。はじめて水谷の組み手を見た時、二年後の空手部を仕切るのは水谷だと確信していた、って言っていたことを思い出した」

「三年のときの、空手部での僕の肩書きは風紀係長だったよ」

「だから。手塚さんはがっかりしたって言ってたんだよ」

 服部が何を言いたかったのかよく分からなかったが、問い直すのも面倒なのでやめた。

 やがて“野良猫”は尾道峠の出口に着いた。

 マップ距離をメモり、指示速度を入れ替えて、次の区間へ向かう。

 何はともあれ、初の林道SSを無事に乗り切ることが出来たようだ。



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