彼方からの脅威

著 : 中村 一朗

第二章


     d,誤算


 二日後、バイガス・ホルンがシュミットの部屋を訪ねたのは昼過ぎだった。

 にこやかに入室してきたバイガスを見て、シュミットはカラーグラスの奥の無表情な目を、少しだけ大きく見開いた。

「これは、総司令。わざわざお越しにならなくても、呼び出していただければこちらから伺いましたのに」

 不自然なほど機械的な声に聞こえて、バイガスは笑みを浮かべる。

「なあに、遊びに来ただけだ」

 デスク越しの椅子にバイガスが腰を下ろしたタイミングでシュミットは席を立った。そのまま保冷ボックスに向かい、中からコーヒーの豆を取り出した。

「先日、南米産の良い豆が手に入りました」

「おっ、良いね。来たかいがあったよ」

「ブランデーは入れません。残念ながら、総司令は職務中です」

「仰せのとおり、そいつは残念」

 シュミットはコーヒーを入れるための小道具を手際よくデスクの上に運んだ。

 豆は、手動式のクラシックなコーヒーミルで挽いた。それをペーパーフィルターにいれ、ハンドポットの上にセットして、ゆっくりと湯を注ぐ。

 一度手を止めて、30秒ほど蒸らしながら。

「コーヒーは本来、口にするよりも鼻で味わうものではないかと思います。つまり、最初の熱湯を注いだ直後にこそ、コーヒーの美しさが際立ちます。飲むことは二次的な作業に過ぎないのではないか、と」

 濃密な琥珀色の香りが部屋を満たす。

「なるほど」と、バイガス。

 シュミットは追加の湯を注ぎ、ポットに二人分のコーヒーをいれた。

 それはそのまま、アールヌーボー様式の2つのコーヒーカップに振り分けられる。ただし、自分の分にはミルクとシュガーをたっぷりと。

 シュミットはカップの中をスプーンでゆっくりかき回し、口に運ぶ。

 無表情な彼の顔の裏で、静寂が広がっていくのをバイガスは感じ取った。

「今の君のこの姿を見せれば、この部屋に来る客の印象もまるで変わるだろうな…。本当に、美味いコーヒーだよ」

 コーヒーを口に含み、舌と鼻梁の奥で味わいながらバイガスが口を開いた。

「1日に一杯だけと決めています。人知れずの、ささやかな愉しみです」

「御相伴にあずかり、光栄だ」

「公用でも私用でも、総司令ならいつでも歓迎します」

 言葉とは裏腹に一切の感情を消しているシュミットの目をちらりと見ながら、バイガスは肩をゆするように大きくため息をついた。

 シュミットにとり、バイガス総司令は特別な存在だった。

 連邦本部直属の内務監査局に籍を置いていたころから、第二課課長シュミット・マスクの名はある種の脅威として知られていた。極めて有能であるがために友人はおらず、その容赦のない追及は多くの敵を作り続けていた。直観力に優れ、如何なる不正も許さない徹底した官僚主義の権化。規則と理念を妨げるものに対して一歩も引かずに突き進む姿を、好ましく思っていたものは皆無だった。唯一の例外が、技術畑の頂点に立つバイガス・ホルンただ一人。それでもシュミットはかつて、開発調査費の流用に不正の疑いから、唯一の友人だったバイガスを厳しく追及したことがあった。調査目的のための必要性を主張するバイガスと、規則違反とするシュミットは激しく対立し、最終的にはシュミットの判断によって、バイガスはふた月分の減俸処分を受けることとなった。バイガスは腹を立てたが、この件によってシュミットへの評価は一層ゆるぎないものになった。やがてバイガスは、アグニ計画の総司令官に着任した直後に、保安局長としてシュミットを指名することになる。異例の抜擢として各方面を驚かせたが、シュミットは二つ返事でこの要請を受け入れた。

「俺が訪ねてきた訳は知っているんだろう?」

 今更の問いに、シュミットは機械的な笑みを浮かべた。

「遊びに来られた、と、おっしゃいましたが」

「まあ、そうなんだが…」

「副司令のことで、何か問題でも?」

「まあ、少々。あえて言えば、時間のことだ」

 バイガスらしくない歯切れの悪い答えに、シュミットは無表情に戻った。

「副司令にとって、テロリストごときとの邂逅で2時間を無駄にするのは不本意である、と。…言う訳ですか」

 総司令の意思で、ヨルデとの面会を断るなら断るで、それでもいい。率直な回答を期待しての言葉だった。

「いや、逆だよ。君の言う“2時間の無駄”が、この計画の遅れを取り戻させてくれた。それどころか、地球を救える確率そのものが飛躍的に上がりそうだ」

 細められた視線がバイガスの目の奥を探る。

「もう少し、詳しい説明をお願いいただけますか」

「3時間前のことだ。ルナ・シークエンス副指令が、あるレポートを俺に提出した。君からのオファーを受けて、ルナはパスカー・ヨルデに会うつもりになったのだ。それで、二時間以上の余暇を作ろうとした。恐らく、半日以上の休みを取るつもりだったんだろうな。何とかしようとした彼女は全く新しい、画期的なアイデアを思いついた。つまり、ルナは重力レンズの極性縮退アルゴリズムを、量子融合の虚数原理を応用することでブラックマトリクス化することに成功してしまった。素粒子のエネルギー還元に頼るのではなく、対象の外側にある時空ベクトルの“因果”そのものを情報パラメータとして制御を可能にする、重力子制御原理だ。もともと、頭の片隅にあったアイデアだったそうだが。具体的な応用技術で言えば、戦闘艦の核バッテリーを無数に直列させるだけで縮退コアと同等以上のポイントフィールドを二か所に構築できるようにした。しかも、縮退質量の正確な相互転送座標で、だ。今、開発スタッフは真っ青になって検証中だ。まだ多次元エネルギーモジュールのモデリング段階だが、この新しい亜空間原理が正しければ、マイクロブラックホールを介さずに物質の空間転移が可能になる。2時間どころかひと月分の遅れを一気に取り戻せる。大雑把な試算では、“アグニ計画”の成功確率も、60%以上に跳ね上がった」

「それは、朗報…という訳では?」

 突拍子もないバイガスの話を頭の中で整理しながら、シュミットは言った。

 動揺している心の奥を見透かされないように気を付けながら。

「そうだ。彼女が組み上げた新しい原理を応用すれば、SFのワープ航法や物質や生命体の瞬間転送も可能になる。物流の究極革命だ。科学というより、魔法のような原理だ。技術的応用を急げば、銀河を舞台にしたSF映画のスペースオペラが、現実のものにもなる。人類は、太陽系の檻を超える」

 バイガスは言葉を切り、コーヒーを口に運ぶ。それに倣うように、シュミットもひと口。もう少し砂糖を入れようかと思いながら。

「総司令のお立場なら、手放しでお喜びになっていいお話では。もちろん科学技術に疎い私も、これで地球が救われるかもしれないと思えるのですが」

「そうだ。ルナのレポートを読んで、俺は頭に血が上ったよ。やがて、頭の中が真っ白になった。初めて、地球が救われるかもしれないと感じた。だが、どうもまだピンとこない。まあ、あまりに予想外の展開だったからなのかもしれんなあ。…あるいは、ルナ・シークエンスへの嫉妬かな」

 シュミットは、危なくコーヒーを吹きだすところだった。

「笑わせないでください。副司令の天才を開花させたのは、あなたです。総司令が彼女を抜擢しなければ、今頃ルナ・シークエンス女史は連邦応用技術研究所の部長止まりだった筈です。まあ、それでも大変な飛び級でしょうが」

 バイガスの目尻の皺が深くなった。

 本音の苦笑いなのだ、とシュミットは思う。

「それを言うなら、ルナをヨルデに引き合わせようとした君のおかげで、この原理が生まれたとも言える。さらに、ヨルデがルナをテロ攻撃の筆頭リストに挙げていたのも、この原理が生まれるきっかけになったことになる」

 シュミットも本音で笑った。

「それではヨルデのおかげで、地球が救われるということになります。自然の滅びを由とするヨルデとしては、はなはだ不本意でしょうね」

「正確には、MRAは滅びを目的としているのではなく、地球の生態系を守るために冥王星を犠牲にすることが気に入らないのだそうだな」

「弱肉強食の適者生存。地球と冥王星の関係でも、この理屈は当てはまると思います。地球の生態系を守るために、冥王星を役に立てる。彗星直撃の危機にある地球にとり、副指令は軍師のようなものです」

「…昔の小説でね。時代を超えた天才的頭脳を持って生まれた赤ん坊に、白痴の青年が、ぬかるんだ畑に落ちたトラックを引き上げるための手段を問うシーンがあった。人手もなくジャッキもかけられない状況で、赤ん坊は青年のために反重力装置を考案する。私はルナが見つけたあの原理のレポートを読んだ時、このエピソードを思い出したよ。いうまでもなく、私が“白痴の青年”だ」

「『人間以上』ですね、シオドア・スタージョンの。でも確か、あの物語はその白痴の青年が主人公だったと記憶しています」

「第一章だけは、ね。第二章では、主人公は“少年”に代わる」

 バイガスはコーヒーを飲みほし、重い腰を上げた。

「で、如何なさいます?ルナ・シークエンス副司令は、自らが生み出した新しいシステムの検証で忙しくなるのでしょう。当然、パスカー・ヨルデとの面会は延期に?」

 皮肉な結末を思い、バイガスと同様にコーヒーを飲みほしたシュミットは、踵を返して部屋を出ようとしているバイガスの背に問いかけた。

 バイガスは扉口で、半身で振り返り、疲れた笑みを浮かべた。

「いいや。レポートの技術的検証と転送プラットホームの設計は開発スタッフの仕事だ。ルナがずっと現場に張り付いていなくても問題ない。ヨルデとの面会の手続きを組んでやってくれ。二日後以降なら問題ないはずだ。実は、俺も少なからず興味があるのだ。今なら、彼女を暗殺のトップリストに挙げているのもわかる。だが、1年前まではそんな兆しなどなかったはずだ。それでも、ルナは彼らのトップリストにあった。連中はなぜ、彼女がこの計画の中枢を担うことになると考えたのか…」

 バイガスとシュミットの視線が虚空でぶつかる。

 互いの瞳が凝視するものは、未来に潜む茫漠とした不安だった。

“私は気になります”と、ルナに対して宣言した昨日の自分の言葉がシュミットの脳裏に浮かぶ。漠然と“気になった”正体は、この不安にあったのか。

「パスカー・ヨルデは支持者たちからは預言者とささやかれていたそうです。噂では、魔法じみた奇跡も、幾つか起こしていたとか。念動力で物質を動かし、人の心を読んだ、と。テロリストというよりは、カルト教団の宗祖のように」

 視線を逸らしたシュミットは、感情を押し殺してつぶやいた。

 バイガスも険しい表情を打ち消すように、ニコリとする。

「噂は聞いていた。まったくの眉唾と思っているが…。とにかく、よろしく」

 了解です、と閉まる扉に向かってシュミットは口の中でつぶやいた。



      d,プレステージ


 二日後。

 ルナ・シークエンスとパスカー・ヨルデは予定通りに面会した。

 ベージュの作務衣のような囚人服を纏うヨルデは、長身の痩せた若者だった。

 静かで大きな双眸が、瞬きもしないでルナの瞳を見つめている。

 髪の毛や眉毛さえ完璧に剃り落された、無表情な顔立ち。

 バイガスが初めて見たパスカー・ヨルデの印象は、テロの指導者というよりも遥かに僧侶に近い。それも、どれほどの迫害にも非暴力を貫く類の。

「資料で見たものとはかけ離れているな」

 ぽつりとつぶやいた声に、隣のシュミットが笑みを浮かべる。

「同感です。モニター越しでも、事前情報を疑いたくなります」

 二人が見ている保安局長室のモニターは、机を挟んで対峙して座るパスカー・ヨルデとルナ・シーケンスをリアルタイムで映し出している。取り調べ室らしく殺風景なその部屋にいるのは、二人のみ。

 ただし、ヨルデはその場所には実在しない。彼の現実の肉体は戦艦シュバルツシュルトに近接する警務艦の拘留室にあり、ホログラム映像化されたヨルデがルナと対面している。本来なら土星軌道上の刑務施設にいるはずのヨルデは、この面会のために冥王星まで護送されてきていた。

 会話を、リアルタイムのレスポンズで行えるように。

「警務艦のヨルデがいる部屋は、ここと同じなのかね」

「はい。全く同じ造りの部屋です。警務艦の拘留室では、ヨルデはホログラムの副司令と対峙しています。実際に座っている位置もこの通りです」

「奴の要望か?」

「はい。この条件を受け入れれば、重要な情報を伝えると言うので」

 バイガスが不愉快そうに鼻を鳴らした。

 望み通りの状況なのに、じっと黙っているヨルデを睨みつけながら。

「確かに、銃や剣を振り回す野蛮人の総帥よりは、“預言者”として経典を携えている姿の方がずっと似合いそうだ。だが、こいつは人殺しだ」

「はい。少なくとも、彼自身が直接手を下して殺した要人の数だけでも両手では数え切れません。無名の被害者を入れれば、三ケタ近いとも言われています。組織的テロの犠牲者を数えると、三万人近い。本来なら極刑が相応しい」

「その外道を、君がここに連れてきたのだ」

「はい。どうしても気になることがありましたので」

 不快そうなバイガスの様子を無視して、シュミットはあっさりと返した。

 バイガスは一瞬、モニターから視線をそらして、シュミットの顔を覗くようにちらりと見た。

「先日はその理由を聞きそびれた。なぜルナがMRAの暗殺リストの筆頭に挙がっていたのか、うわさぐらいは聞いているのだろう?」

 モニターを見ながら、シュミットは小さくうなずく。

「これまで尋問してきた複数のMRA幹部から。副司令をリストの筆頭に挙げたのは、ヨルデからの指示によります。ただし彼は、ルナ・シークエンスの存在が人類を地球から排除しようとしていると、以前から吹聴していたそうです。予言として3年ほど前から、とか」

「予言…」

「まだMRAの最高指導者の地位に就く以前、正確にはMRAに入隊する以前からですが、ヨルデは“バーサーカー事件”の到来を予言したそうです。文明に終末をもたらす彗星の到来ではなく、この一連の出来事そのものを、です。科学チームが、“バーサーカー”の存在を確認する前に。ほぼ同じころから、ヨルデは当時の指導会議で“アグニ計画”の中心人物の殺害を最優先の任務にすべきと主張していたようです。無論、当時はまだアグニ計画自体が存在していませんので、“アグニ計画”という言葉までは使ってはいませんが」

「バカな…。狂信者の戯言だ」

「その狂信者がこれまでに幾つかの予言を実証し、そのカリスマ性によってMRAを変革し、史上最悪のテロ組織に作り替えていきました。目的のためには手段を択ばない狡猾で残忍な人物と、こちら側では言われていました。ですが、パスカー・ヨルデのためなら命も投げ出そうとする部下がいくらでもいます。彼らの側では、ヨルデの言葉は神のそれにも等しい。現在のヨルデの目的は、惑星開放などではなく、副司令の殺害です。アグニ計画を妨害するための手段ではなく、目的。つまりパスカー・ヨルデは、ルナ・シークエンス副司令の殺害のために自分のすべてを捧げようとしているのではないか、と」

「おい。何を言い出すのかと思えば…」

「憎悪でも思想でもなく、自らの予言ゆえに無垢な人物の命を奪おうとしています。そしてこいつは、今でも副司令の命を狙っているのではないか、と」

 バイガスは顔を上げ、ゆっくりとシュミットに視線を向けながら。

「では君は、先日のプラント襲撃計画も、アグニ計画へのテロ攻撃ではなく、ルナに近づくためだったというのか。大勢の部下たちを犠牲にしたのに」

「ご覧の通りヨルデはこうして、副司令の前にいますよ。彼はどうしても、副司令に会いたかったのです。話したかったはずです」

「それで君が、ヨルデの望みを叶えてやったという訳か」

「はい」

「いくらホログラフとは言え、目の前に自分に対して殺意を抱いている奴がいるんだぞ。ルナだっていい気分ではなかろう」

「恐縮です。ですが、副司令ならその程度のことは歯牙にもかけないのではないか、と。むしろ、ヨルデの思想を叩き潰していただけるのでないか、と」

 バイガスは、不愉快そうに首を小さく振った。

「まあ、物理的には安全が保障されているからな」

 シュミットは無表情でうなずいた。

「ヨルデの望みは、副司令の殺害です。私が知りたいのは、その理由です」

 バイガスは大きく息を吸い込んで、やがてクスリと笑う。

「君はまるで、パスカー・ヨルデの支援者のようだな」

「御冗談を」

「そして君の仮説が正しいなら、ヨルデは今もまだルナの命を狙っていることになる」

 シュミットは無表情な顔をバイガスに向けた。

 ゆっくりとカラーグラスを外し、バイガスの瞳を凝視する。

「はい。そう確信しています」

 二人の視線が、再びモニターの取り調べ室に向かう。



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