吸血鬼

著 : 秋山 恵

逢着



 時は少し遡り、夏の始まり頃。

 エレナは独り、深緑に包まれた森の中に佇んでいた。風が吹こうが雨が降ろうが、この場所に数日の間、身動き一つせずに座っていた。

 土と青葉の薫り、そしてそれを超える小さな羽虫の飛ぶ音と腐臭が充満している。

 正面には八つ裂きにされた若い女の死体が一つ。

 首を飛ばされ、四肢をねじり切られ、捌かれた腹からは内臓であった物が引きずり出されている。

 今朝ようやく活動を停止した心臓が、引きずり出された内臓の中心に供えられるように置かれていた。

 少し離れた所に落ちている煌びやかな金髪の頭は両の眼球を潰され、口にはアゴが外れる程の石が詰め込んである。

 右の耳は飛び、鼻は元の形が分からない程に崩れていた。

 大小数え切れない程のハエが集り、時折それらはエレナの近くまで飛んできた。だが、ただの一匹も、その強大な力を持った吸血鬼の傍には止まる事はない。

 虫達はその本能で、エレナの、普通の生物とは違う力を感じているのだろう。

 エレナは目の前の死体を凝視し、腐り逝く過程を最後まで見届けようとしていた。

 やがて、その死体は骨だけを残し消え去る。

 それだけの理由ではなかったが、自分が殺した相手への、苦しめてしまった事へのせめてもの償いの感情がエレナをこの場に縛り付けている。

 不思議だった。

 このような気持ちは過去には全く存在せず、ここ半年程の間に芽生えたものだ。恐らく、紗季と出逢った頃から変わり始めたのだろう。

 そして、その感情は一過性のものではなく、今も消えずに残っている。

 感情の起伏が戻りつつある。そうとも感じられていた。

(ここまでする必要があったの?)

 引き裂かれた死体を見ながら、心の奥底で閉じ込められていた懺悔に似た気持ちを堪能する。もしかすると、今まで無かったこの感情を愉しんでいるのかもしれない。

 目の前の死体は、最期まで執拗にエレナを追ったハンターだ。

 教会の精鋭部隊は10人だった。

 その10人とは別に違うルートを通して依頼をされたと思われるハンターが2名居たが、その片方がこの死体である。

 教会からすると、表向きに精鋭とされる腕利きの連中よりも更に本命のハンターであったのだろうと、エレナは推測している。

 その力量は、近年出会ったハンターの中では飛びぬけていた。

 そして、その存在は誰にも告知されていないであろうと思われる。

 現存する吸血鬼の中でも珍しい程に古いエレナが“何者であるか”を知ったであろう教会の一部の人間が、密かに手配したのではないだろうか。

 最初の10人でエレナを仕留められればそれでよしとしたであろう。しかし、精鋭10人で仕留められなかった有事の場合、切り札として使うように待機させられていたに違いない。

 勿論、その切り札は使われる事になる。

 エレナと精鋭部隊の圧倒的な力の差が、その日の内に戦闘を開始させた。

 前者10人は何とか命を奪わずに沈静化出来たが、本命として投入されたハンターにはそれが出来なかった。

 戦闘の技術は間違い無く精鋭部隊のそれより高い。

 しかし、それだけではない。

 人間では考えられない強力な、吸血鬼と同等かそれよりも高い回復能力、生命力。それが厄介であった。

 刃物で深く斬り付けても死なず、銃弾を食らっても死なない。内臓が破裂したであろう事故の後も、多少打撲したような様子で向かってくる。

 まるで同じくらい力を持つ同族と戦っているようであった。

 吸血鬼の一族ではない。それは確かだったが、人間でも無い。

 起源は同じなのだろうか、回復能力については類似しているようにも感じられた。他にも、人間離れした筋力や反射神経が、まるで過去に共に戦ってきた仲間のそれに近く思える。

 今目の前に居る死体の他にもう一人居たハンターにも、同じような力がある。この女と同じような力を感じた。

 最初は逃げた。紗希に危害が及ばないように距離を取る必要もあったからだが、何より戦いたくなかった。

 命を取らずに無力化する事が難しいと判断したからだ。

 かなり遠くまで引き付けた所で潜伏して隠れたが、どんなにうまく隠れてもすぐに見付かってしまった。

 それを何度も繰り返し、夏に入った頃に戦いを決意する。

 梅雨明けの前だった。

 過去に類を見ない強敵に、エレナは全力で戦った。

 同じ条件化に居る敵の強さに、一時は死すら覚悟した。

 最初は不死の化け物なのではないかと、希薄になっていた感情に恐怖さえ戻ってきた程である。

 今この場にエレナを縛り付けている理由の一つに、それがあった。

(ちゃんとした死を確認したい)

 ここまでバラしてもまだ活動するのではないか、そんな思いが渦巻いている。

 誰が見ても確実に絶命しているその死体を前に、動く事が出来たのはそれから更に3日後。

 一見して人形のように座っていたエレナは腰をゆっくりと持ち上げ、日の落ちた森の中へと、溶け込むように入り込んだ。

 その光景は、一人の人間が闇へと同化していくようにも見えた。

 森の中を真っ直ぐ行けば、いつかは人の住む所か国道へ出れるであろう。

 今まで居た場所には、腐食したたんぱく質、体毛、ただのリン酸カルシウムの塊と化した骨や小さな虫達だけが残った。

 このまま放っておけば、自然に帰っていく筈だ。

 エレナの敵は、まだもう一人残っている。

 どこに消えたかは分からないが、近くには居ない事は確かだ。

 罠にはめてかなり痛めつけたので、回復する為に逃げたのだろう。

 相手はエレナと違い食事をする必要があるから、こんな今は山奥には居ないはずだ。サバイバルの知識が無ければだが。

 エレナは、まずは人里に出れるように身なりを整える事を考えた。

 乾いた血に染まった手は雨でも綺麗にはならず、爪の隙間や指紋にこびりついている。近くに居たせいか、体中に腐臭が染み付いている。石鹸の匂いが恋しいとすら感じていた。

 もう数日すれば満月になるであろう月を見上げ、どうにかしてあの化け物染みたハンターを見つけ出す方法を探そうと決意する。



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