深夜、寝れずに布団を被っていた康人は、遠くにエンジン音を聞き、ビックリ箱のように体を起こした。
非常に小さい音だが、間違いなくエンジン音だ。
だが、スポーツカーのものではない。低音の感じられない、軽い物であった。
時刻は、日が変わって午前1時頃。
先程まで隣から聞こえていた、黄色い声は途絶えている。二人は夢の中だろう。
エンジン音は近付いてくる。
康人は走ってリビングに降り、灯りを点け、カーテンを開けた。車のヘッドライトがチラチラと光っているのが見える。この距離からだと、蛍でもいるのだろうかとすら思える小さい光だった。怪奇現象ではなさそうだ。
エンジン音が益々近付き、それほど時間を掛けずに、建物前にその姿を表した。
「軽トラ?」
走って玄関まで行き、扉を勢いよく開くと、軽トラから昌司が降りてきた。
安堵と共に怒りが込み上げ、頭が熱くなるのを感じる。
康人は、人の心配も他所に、荷台からスーパーの袋に入った荷物を下ろすと、
「よぉ、やっさん起きて待っててくれたの?」
と、嬉しそうな声を上げた。昌司にしては疲れた顔をしている。目がいつものように輝いていなかったし、口調は変わらないものの、あからさまに声が枯れている。何故か、元気では無いことに安心した。
昌司は、荷物を持って玄関に入ってくると、
「いやぁ、まいったよ。事故っちゃってさ。急に目の前に子鹿が飛び出して、ハンドルきったら崖になっててね、もう少しで死ぬとこだった」
で、そのまま町に歩いて行って買い物をし、どこからか足になる軽トラを入手し、連絡手段が無い事を理由に、休むことなく帰ってきたのだろう。
事情が事情なので、康人は怒りのぶつけどころが無く、握った拳に一度力を入れ、そのまま開いた。
昌司は、その康人の表情を見て察したのか、両手を合わせて、仕切りに
「悪かった」を繰り返した。
「それを言うなら、女の子達にな。小池さん、心配してたよ」
(自分が帰れなくなるかもしれないのをな)
さすがにヨロヨロとしている昌司に手を貸すと、引きずるようにしてリビングのソファに座らせた。
その後、玄関先の荷物から、冷蔵庫にいれるものをピックアップしつ放り込み、キンキンに冷えた地下水をコップ一杯に注いでリビングに戻った。
昌司は礼を言い、それを一気に飲み干す。
戻ってきた事にホッとしたのか、リラックスした様子で目を閉じ、深呼吸をする。
このまま寝るなら、ここでこのまま寝かせてやろうと、康人は暫く黙って見ていた。
友人の帰還に安心したのか、康人も眠気に襲われる。
「やっさん、まだ寝るなよ。女の子達には見せられない収穫があるから」
休んで少し元気を取り戻した昌司は、一端軽トラまで行き、頑丈そうなカバンを手にして戻ってきた。
雨ざらしにでもなっていたような、表面の光沢を失ったカバンを開き、一冊の手帳を取り出した昌司の顔はいつになく真面目だ。
既に内容を確認したであろう昌司は、手際よく手帳を開き、あるページを見せた。
「今はまだ憶測だが、これの持ち主は、この別荘の最初の持ち主らしい。で、この手帳には、この別荘にペットを連れてきた事について書いてある。察したかい?ペットは君らが見た何かだろう」
ゾワリと鳥肌が立つ。
真弥の言葉が脳裏を満たしていく。何度も監禁の二文字が脳内で叫ばれた。
まだ分からない。昌司お得意のサプライズかもしれない。が、胸騒ぎに似た何かが駆け巡っていた。
「そう言う話、お前の口から聞くと説得力が半端ない。マジで怖いわ。で、その手帳、どこで入手した?」
「事故ったとこ。車が落ちた先の、更に向こうが崖でさ、車が落ちてたんだよ。その中にこのカバンがあったんだ。誰にも見付からなかったんだろうな。山の中で変な場所だから」
昌司は、車が落ちた辺りの詳しい話をした。
木が無ければ、自分も同じようになっていただろうと言い、苦笑いをしている。
ある種のの死線をくぐった昌司は、少し大人になったように見える。
「ところでさ、普通警察直行だろ。なんでその手帳がここにあるんだ?」
「いやいや、警察行ったら手帳渡さないといけないだろ?ここに、情報が載ってるのさ。細かく読むかはやっさんに任せるけど、要約して軽く説明しとくよ。この手帳の持ち主は、この別荘に自分のペットを連れ込んだ。調教目的である事が明記されてる。飼育の為に、わざわざ一部屋を改造したそうだ。ペットの為と書きながら、そこにはバスルームや簡易キッチン何かが書かれている。そして、その部屋は一階、トイレや風呂場に隣接しているんだ」
由紀が奇怪な行動を取った部屋を指している。
簡易キッチンは撤去されたのだろう。もしかしたら、一面だけ真っ白な壁がその名残なのかも知れない。
「持ち主は、毎日調教に明け暮れたらしい。楽しかったんだろうね。そこらは文章が長かったよ。その詳細はこの手帳に書いてある。内容は、気になるなら読むと良い。あまり勧められないけどさ」
「いや、良い。俺の正義感に火がついて、この建物を燃やしてしまいそうだ。調教とかそんなのは、ゲームか漫画の中だけの妄想であってほしいわ」
「燃やすのはさすがに勘弁してくれよ。では、進めよう。持ち主の調教は続いて、2週間経った頃かな。急な用事で、長い間ここを離れる事になったらしい。元々日付とか何も書かれてないから、季節とかも分からないぐらいなんだけど、きっと夏だろうね。帰ってきて持ち主が見たのは、浴槽の中で水を吸った腐乱死体だったそうだ。食糧には殆んど手が付けられてなかったから、留守にしてからすぐだったんだろうと思う」
例の部屋で、浴槽に入っていた真弥の事を思い出す。
(もしかして)
真弥は、特に意思なく行動している訳ではない。だから取り憑かれたのではないだろう。そう思う事にしたかった。
だが、話していた事は完全に的を得ていた。まるで見てきたか、もしくは本人であるかのようなレベルの内容だ。
しかし、感知するために唯一頼りになる腐臭も、真弥からは感じられない。
康人は、真弥が無事なのかどうかを確かめようと心に決める。
「だから、きっとやっさん達が言うのは、そのペット。予想では、最初の持ち主が連れ込んだ女の子?その霊なんじゃないかな。俺だけは見てないから、未だに信じられないけどさ。正直羨ましいよ。何で俺だけ何もないんだろうな?」
「事故ったろ?」
「あれは怪奇現象じゃないから。ま、そのお陰で、それに関連する情報をえられたわけだから。限りなく傍観者に近いとは言っても、参加は出来たんだろうね。不満足だけど」
と言いながら、大きな欠伸をした。
昌司は、カバンを軽トラに放り込んで戻ってくると、そのまま崩れるようにしてソファで寝息を立てた。
寝顔すら疲れている。
どれくらい歩いたのだろう。足を探すのにどれくらい苦労したのだろう。
友人の寝顔に感謝しつつ、康人もベッドに向かった。
朝、慌ただしく扉が叩かれる音で目を覚ました。
由紀の怒鳴り声でストレスを溜めながら、扉を開く。
由紀の顔を見るなり、
「知ってる。昌司が帰ってきたんだろ?リビングで死んでたか?もしまだ起こしてないなら、もう少し寝かしてやってくれ」
「昨日の夜なの?何で起こしてくれないのよ!?心配してたの知ってんでしょ!」
「帰りの足の心配な。で、まだ起こしてないよな。昼過ぎで寝かせてやってくれ」
無理に起こされて不機嫌を露にした。
眉間にシワが寄ってるのが、康人自身でもよく分かっていたが、このまま維持する事にした。
康人自身も、まだ寝ていたい。
康人は不機嫌で返したが、その返事は意外にも弱腰であった。
「昌司の事を起こしたくてここ来たの。お願い、ちょっと起こしてよ」
急に弱気な態度に変わった事に拍子抜けした。
自分で起こす勇気がないのか。それとも、起こす事によっと生じる府の感情だけを、好かれたい自分ではなく康人に擦り付けようと言うのか。
どちらにしても寝かせてやりたかった。
「いや、昨日本当に大変だったみたいなんだ。休ませてやってくれよ。まさか、本当に死んでるのか?」
心配性は、そのまま眉の角度を変えた。
「息はしてる。でも、呼び掛けても、ウンともスンとも言わないの。心配で。お願い、派手に起こせば起きると思うし、平気だったら二度寝で良いから」
由紀も、昌司の事になると心配性が発揮されるらしい。
気の弱そうな由紀を見るのは珍しい。さすがに、不機嫌な康人も言い方を変える事にした。
「仕方ないな、説明しといてやるよ。アイツ昨日、買い物に出た後、子鹿を避けて事故ったらしいんだ。車は大破な。で、町までの距離を歩き、買い物をし、足になる車を探し、休みなしで帰ってきたらしい。深夜かなり遅くにな。とりあえず息してるなら、寝かせておいてやってくれるか?」
下唇を噛んだ由紀は、暫く康人から視線を逸らさなかった。
不安と期待通りにならなかった不満が、眼に溜まる水分に見て取れる。手がスカートの端を握りしめていた。
余程心配なのだろう。
女の子の恋は良いな、そう思いながら、
「大丈夫だから、起きるまで神田さんと飯でも作っておいてくれよ。昌司、喜ぶと思うよ」
と言った。
無言で頷いて下を向く由紀を、可愛いなと感じる。
いつもなら不満をぶつけてくるから、こうなると哀れにも感じられた。
「俺も、もう少し寝てて良いか?」
コクリと頷いた由紀を追い立てるように扉を閉め、ベッドに向かう。
もう睡魔は消えていたが、とりあえず横になって目を閉じた。
今日の予定を頭の中で整理する。
まず、真弥と話をしなくてはならない。真贋を確かめる。
(何も無ければそれで良い。だが、あった場合はどうすれば良いだろうか。戦う手段は無いだろう。そもそも得体が知れない相手だ。成仏出来ないのであれば、成仏させてやれば良い。そのためには、足枷になっているものを取り除くべきだな。この建物に火を点けるか?さすがにそこまでは出来ないか)
考えが少しずつ纏まりはじめる。
この世に縛っている何かを壊す。そこまでは辿り着く事が出来た。
まずは真弥と話をする必要がある。
次に、憑き物があれば、足枷を破壊して成仏させるか、憑き物自体を何らかの方法で退散させる。
やり方は分からない。
何故か焦りはなかった。
横になったまま色々考えていると、扉越しにまた由紀が喋りはじめた。
「真弥がね、少し変な気がするの。ちょっとだけ毒があるって言うか。昨日、あんなだっけ?って聞いたじゃない?あれ、私も同意する」
そう言い残すと、パタパタとスリッパを鳴らしながらその場を去った。
由紀も、康人と同じ言葉を考えているかもしれなかった。
昌司があの状態で、真弥が少し変わったとなった。独りになったようで不安になったのだろう。
康人はまた、ゆっくりと微睡み始めた。
昼になる少し前、二度寝から目覚めた康人はリビングに降りた。
昌司が眠そうに目を擦り、欠伸をしていた。
機嫌は良さそうだ。
「やっさんおはよー。昨日はありがとな」
「いや」
たまたま起きていた事に対するお礼に、罪悪感のようなものを感じていたのであろう。
ただ一言、二文字の返答をした。
「さっき由紀ちゃんに叩き起こされちゃってさ。何か食べなよって。何かって言いながら、もう出来てるの。爆盛りチャーハン」
苦笑いしていた。
優しさが滲み出ているみたいで、昌司も由紀の事は好きなんだろうなと思えていた。
嫉妬に似たような気持ちがくすぶり、それは、真弥がリビングに入ってきた時に燃え上がってきた。もし、真弥の中に混ざっているのだとすれば、それがどれだけ憎い事か。
表面上平静を保ったまま、昌司の隣に座る。
「夕方頃に管理人夫妻が来るよ。車検から戻ってきた車貸してくれるってさ。それ乗ってすぐに帰ろう。由紀ちゃんがもう無理そうだから」
かなり前からそうだったのは、皆感じていた事だ。由紀が想いを伝えたのだろう。それに応えて、そうせざるを得なくなった。そう考えるのが妥当だと思えた。
キッチンから由紀が出てくる。それに真弥が笑顔で迎えた。
(知らないのは俺だけだな)
勝手に疎外感を紡ぎだし、独り不機嫌そうな顔をする。昌司と視線が合い、欠伸をして誤魔化す事にした。
「で、昼過ぎまでは自由行動で良いかな?」
「軽トラじゃ、足にならないし、観光みたいな事は無理だからな」
「あ、いや、俺と由紀ちゃんはちょっとお出掛けを…」
そう言うと、昌司は片目を閉じた。開いた方の眼から悪戯染みた光を感じられる。
本人の思惑とは違ったが、康人は感謝した。由紀が居ない方が色々と聞きやすい。
昌司と由紀は、話が終わるとすぐに出掛けた。
ずっと篭っては居たが、それなりに見るところはあるらしい。
二人が出掛けてから数分。康人は、リビングで真弥と向かい合って座っていた。
言葉をかけづらい。たった数分でも、精神的に疲弊する事が出来た。
真弥は、それとは対象的にニコニコしている。
一言目、要らぬ勇気を振り絞り、
「あれから、おかしな事は無いかい?俺は、例の何かが、あそこに居たって事を知って貰っただけで成仏したとは、思えないんだ」
と、切り出す。
「あれから、康人さんの所に現れましたか?」
笑顔で答える真弥に恐怖心が芽生える。
何故知っている。そう考え、冷や汗が流れ落ちた。別に冗談で言っているだけだろう。自分の中で勝手に紐付く事が疎ましい。そう思えた。
「少し、具合が悪そうですよ。大丈夫ですか?」
席を立って近付く真弥からは、柔らかな香水の香りが漂ってくる。
目の前まで来ると、しゃがんで額に手を当てて、
「熱は無さそうですね」
と、心配そうに顔を寄せてきた。
康人の緊張感は、眼球に血流を感じられるほどに高まりはじめ、不自然なほどに呼吸が荒くなる。
真弥は、昨日まで香水をしていなかったはずだ。
何故今日は香水をしているのか、康人からしてみれば、真弥の中には何かが居る明白な理由に感じられた。
真実は、康人を意識した真弥が由紀から香水を借りて使っただけである。
「その香水で、腐った臭いを消しているのか?」
真っ直ぐ、真弥の目を見てそう言った康人の口調は、ギリギリの精神状態を表す程に小さい。渇いた唇が僅かに震えている。
真弥は、その言葉を聞き、康人が自分を疑っている事に気が付いた。
普通なら、疑われている事に対しての悲しみに負けて、少なからず取り乱すだろう。だが、真弥は理性的過ぎた。
若い女性には見られない気丈さが、康人の疑う心を一気に肥大させていく。
「神田さんに入って、ここから出たいんだろ?」
真弥は、昨日の朝からの事を思い返す。おかしなところはなかったはずだった。
康人の目を、真剣な面持ちで正面から見据える。
絶対におかしなところはなかった。しかし、現に今、こうして目の前の康人が怯えている。
康人の変わったタイミングを探る事にした。昨夜までは今まで通りだったはずだ。
もしかしたら、完全に入れかわっていた時があったろうか?真弥には思い当たる節がない。
「康人さん、私は多分大丈夫です。康人さんがどうして今のように感じているか教えて下さい。私自身が気付かない間に何かしているのかもしれません」
康人は、その言葉で少し落ち着いたのか、呼吸を調えた。怯えていた眼は光を取り戻しつつある。
「昨日の夜、例の、風呂場の隣の部屋に居ただろ?あの時の謎解きした神田さんが不気味だった。なぜ、あぁだと分かった?何故答えを知っていた?」
真弥は言われて気が付いた。
確かにあの時の、あの場に行った事の理由が思い浮かばない。衝動的だったのは覚えていた。しかし、衝動的とは言え、理由もなく行動するだろうか。
自覚がなく、既に自分の中に居るかも知れない。潜伏する何かに対する認識は、気丈な真弥に、一筋のヒビを入れた。
真弥は思い返す。そもそも、自分はここまで気丈な女であったかと。
自分に何かが混じっているのだと気付く。目に見える何かはは無くとも、何か違いを感じはじめていた。
「それだけでしょうか?」
もっと客観的な視点からの意見を聞きたいと感じていた。そうすれば、自分自身で見えない部分が見えてくるだろう。
「思い当たる節はまだあるが、いつも、遠くから見ていた時の神田さんと雰囲気が違う。小池さんもそう言っていた。それが一番気にかかる」
言われてみれば、今朝の、由紀が真弥に対して取る態度は、どことなく一歩引いているようにも見えていた。
康人や由紀のような、真弥の事を見てきた人物が感じている事に、現実が見え隠れしている。上塗りしたペンキが剥がれるように、少しずつ、置かれている状況が把握されていく。
真弥は衝動的に立ち上がると、監禁に使われていた部屋に向かった。残された康人が何かを言っていたが、耳には入らない。
扉を激しく開けると、バスルームに飛び込み鏡を見た。
そこには、真弥の知らない女の姿が写っている。
同じ黒髪のストレートで服装も一緒だったが、少し年齢が上に見える。自分と比べて明らかに美しく、悲しみに満ちた瞳からは涙が零れている。
振り向くと、後を追い掛けてきていた康人が立っていた。
「神田さん、泣いてるのか?」
真弥には泣いている自覚がない。
自分がどうなっているのかが分からなかった。
ただ一つ、
「私の中に居るのかも知れません」
それだけは分かった。
康人は考えた。真弥の中に入っている異物を取り去る方法を。
霊媒師でも呼びつけるか、塩でも振り掛けるか、消毒と一緒でアルコールでもいけるかもしれないと、バカバカしい事を真剣に考える。
昌司と由紀は帰ってきていたが、康人も真弥も部屋に篭っていたから、失敗したんだろうと距離を置いてくれた。
康人も真弥も、自分なりに解決策を模索していたから、その心遣いには感謝した。
だが、何時まで考えても答えは出なかった。
管理人夫妻が車を持ってきた時も、二人は部屋から出なかった。
管理人夫妻が軽トラで出発してすぐ、昌司が部屋に来た。
「やっさん、帰ろうぜ。みんな荷物まとまってるんだ。なぁ、帰ったら飲もうぜ。朝まで付き合うよ。何でも受け止めてやるよ」
扉越しに、すまなそうに喋る昌司の言葉が聞こえる。
あまりカバンから荷物を出さなかった康人は、周りの物を軽く詰め込んで扉を開けた。
康人の表情は暗くない。むしろ、力を感じられるようだ。
「元気そうだな」
昌司が苦笑いする。
「そんな事はないよ」
時間はある。いつか救い出せば良い。そう、心に刻んでいた。
外へ出ると日が傾き始めており、陽射しが柔らかくなっていた。
緑の香りが、あまり外に出なかった事を思い出させ、少し残念な気持ちを思い起こさせる。
康人が最後で、真弥も由紀も乗っている。
真弥の表情も暗くはないようだ。真弥も戦う決意をしているのだろうか。
振り返ると、昌司が最後の戸締まりをしている。
もう二度と来ないであろう山荘は、横殴りの陽射しを受けて、横半分が影になりつつあった。このまま闇に飲まれていくのではないか、そんな光景に見える。
「行こーか」
康人は、まだ目の下が少し黒く、疲れが完全には取れていない昌司に対して小さく頷く。
「安全運転でな」
「トーゼン!」
車に乗り込み、エンジンが鳴り始めた時、もう一度建物を見る。
あの窓のどれかに人影でも見えれば、淡い期待をした。が、空っぽになった山荘には何も居ない。
車がゆっくり走り出す。少しずつ小さくなる山荘を、揺れる車内から見送った。
山荘は、自然で溢れた緑色に飲み込まれるようにして消える。
「ま、良い経験だったって事にしとこ。普通に人生送ってても味わえないしさ」
昌司が苦笑いしながら、いつものとぼけた喋り方をする。
少し暗い車内を明るくしたいと思ったのだろう。
「ないっ!」
「ないな」
「ありませんね」
みんな、口を揃えて反論した。ややあって、車内が笑いに包まれる。
「良いね。やっぱ、こうでなくちゃ」
昌司の言葉が、どういう事か康人には重く感じられた。楽しくしていられる事の尊さのようなものだろうか。
一度明るくなった車内は、行きの時のように話題で満たされる。
その殆どが昌司の“康人武勇伝“であったため、康人本人は困った顔ばかりしていた。
真弥も由紀も、それを聞いては笑った。
30分走ったら辺りで、
「あ、そうだ、ちょっと事故った車に寄って良いかな?次のカーブの先なんだ」
昌司は車の速度を落とした。
なるほど、現場は崖に隣接しており、逆送しないと危険性は分からない。見通しが悪く、ガードレールもないので、踏み外せば落ちるだろう。
「事故った車の中にお前の死体があったりしてな」
康人のやり返し悪態に、後ろの由紀からゲンコツが飛んでくる。
車は山側にゆっくりと止まった。
「俺がもし死んでたら、ちゃんと連れて帰ってくれよ?」
振り向いた昌司の顔面に由紀の拳がめり込む。いつもの風景だった。
四人は車を降り、迂回して昌司の愛車に向かった。
「お前、よく生きてたな」
「あぁ、奇跡だったかもな。ほら、やっさん、こっちが更に崖になってるだろ?こっちに落ちたらヤバかったよ」
昌司の言った通り、更に崖があり、例の車が逆さまになって森に沈んでいる。
「言い忘れてた。由紀ちゃん、真弥ちゃん、あれ見に行こう」
そういうと、知った経路を通って下に降りてった。
康人は、独り残って昌司の愛車の中を見ている。運転席周りは無事に形が残っていた。これなら死んじゃいないな、とため息を吐く。
下では、昌司が女性陣を連れてひっくり返った車の方に向かっていた。
どうやら、あそこには白骨死体がある事を黙っているのだろう。二人は後を追いながら会話をしている。
「二人とも、これ見てごらん」
ニヤニヤ笑う昌司と、車の中を覗き込んで悲鳴を上げる二人が見えた。
由紀は昌司を殴り、真弥は車の方を見たまま固まっている。
「これ、どうやら、別荘の最初の持ち主らしいんだ。黙ってたんだけど、持ち物探ったら日記とか出てきてさ。中を見ると、あの別荘で誰かを監禁していた事が書いてあったよ。監禁されてた誰かは死んじゃったみたいで、持ち主は慌てて離れたんだろうね。それで、ここで事故にあった・・・」
昌司は真弥の顔が蒼白である事に気が付かない。由紀も、昌司の方へ視線を向けているので真弥には気が付かなかった。その様子を見ていた康人が足を速めると同時に、真弥はふらりと傾き、膝を折って横倒しに倒れてしまった。
昌司が慌てるよりも早く、康人は真弥の元に駆けつける。
「ま、真弥ちゃん、大丈夫か!?まさか気絶するなんて!」
真っ白な顔をした真弥が倒れている。まるで、魂が抜けたような、人形のようにくったりとしている。
そのすぐ隣に、逆さまになった車が見えていた。康人の立っている位置からでも白骨死体が見えており、何故か安らかな雰囲気が漂っているようにも感じられた。
康人は、別荘の持ち主の無念と真弥の中に居るであろう何かが、今この場で遭遇した事によって一つの終わりを見付けたような気がしていた。
真弥は、康人が抱き起こすのとほぼ同時に目を開く。
「消えた・・・、かも・・・」
真弥の言葉を聞いて、昌司と由紀は、きょとんとして顔を見合わせた。
真弥の中に居た何かは、最初の別荘の持ち主が死んだ事によって成仏したとでも言うのだろうか。
日が沈みかかり紅く染まった中、康人には、何かが登って行くように感じられた。ただの気のせいだろう。今までの願望が昇華された事による錯覚なんだろうと思われた。
ようやくスタートラインに立てたような気がして、真弥を見ながら、こう言った。
「とりあえず、おかえりかな?」
あれからアドレスを交換して、初めてのメールですね。別荘事件ではありがとうございました。昌司さんのブログ、読みました?もう、おかしくておかしくて。あんな目にあったのに。
そうそう、由紀と昌司さん。今日行ったらしいです。例のケーキ屋さん。美味しかったそうですよ。私も行きたかったな。
ところで、少し暗い話をしますね。
例の、私の中に居た彼女の事です。彼女は、確かにあの別荘のあの部屋で死にました。死に方も、あの時の私がお話した通りです。
そう、彼女の記憶は、私の中にも少し残ってしまったようです。そして、私の中に居た時の私の記憶もしっかりと。彼女は、自分の存在にちゃんと気が付いた康人さんに好意を寄せていました。だから、入れ物として私の中に混ざったのでしょう。入れ代わるのではなく、私の中に“混じった“のは、彼女の康人さんに対する想いなのかな?
私自身の康人さんに対する気持ちは、それはまた次に会った時にでも。
それでは、夏休みが終わったら、また学校で。
真弥