怪談深緑山荘

著 : 秋山 恵

3日目


 昌司が目覚めた時、隣のベッドでは康人がいびきをかいていた。

 時計の針は午前7時、いつも同じ時間に目が覚める。

 寝返りもせずに寝ていたのか、体が少し痛んだ。

 腕をグルグル回してみたり、伸びをしたりしてみたが、首の根元がいつまでも痛む。

 部屋に備え付けられた洗面所の、冷たい水で顔を洗い、顔を拭いて鏡を見た。

 疲れの取れない顔をしている。

 二度寝するか少し悩み、扉を開けて隣の部屋の方を見る。

 何故か開いていた。

 昨日の真弥の話を思い出し、恐る恐る部屋の中を覗くと、真弥が既に起きていた。

 やはり昌司は、怪奇現象とは縁がない。

 軽く挨拶をして一階のキッチンに向かうと、朝食の支度をしようと冷蔵庫を開ける。

 予想よりも遥かに食材の減りが早い。

 初日の霊峰が一番の原因だろう。

 奥の方にまだ残骸が残っている。

 冷蔵庫の開きっぱなしに対するアラームを余所に、腕組みをして悩んだ。

 米はある。

 水は地下水を組み上げているから、いきなり無くなる心配はないだろう。

 どうするか悩んでいると、真弥がキッチンに顔を出してきた。

「何かお手伝いしましょうか?」

 少し照れた表情をしている。

 黒い髪を後ろで束ねると、昌司の隣に立つ。

「音、鳴ってますよ?」

「鳴ってるねー。閉めるか」

 扉を閉めた後、腕組みしてまた考え込んだ。

 下唇を上に向けているので、イケメンが台無しになっている。

 が、この、コロコロ変わる表情が人気を呼ぶ理由の一つでもあった。

「あの、由紀に口止めされてるんですけど、聞いちゃいました」

 昌司が、これでもかと言わんばかりに驚いた顔をする。そのまま、苦虫を噛んだような表情に移り変わっていく。その様が面白く、真弥はクスクスと笑った。

 頬が弱冠紅く染まっている。

「マジっすかー」

「はい、マジっす」

 昌司が冷蔵庫に手を付いて反省をアピールする。

 チラリと真弥の顔を見て、また同じポーズに戻る。

「気にしないで下さい。今回の事、良い切っ掛けになりましたから。真っ直ぐで真面目な感じがステキだと思ってますよ。でも、もう少し積極的になって欲しいですよね。私も困ってしまいます」

 照れ笑いをして、髪の毛を指に巻いた。

 康人が相手でなければ、昌司自身が手を出していたろう。

 学内でも指折りの美人で、成績も優秀。スポーツも万能で性格も文句なしに良い。不思議なオーラに包まれたような雰囲気が男を寄せ付けないが、お高く止まっているわけではない。

(やっさん、やったよ。神がかってる。普通の女の子じゃ、こんな事絶対にありえない。意味不明なこだわりと細かい性格で、仲良くないと究極の無愛想男であるやっさんにこんな事。これは槍が降る!俺なんて絶対事故る!)

 昌司はガッツポーズで天井の角の方を仰いだ。

 別に見ている場所に意味はない。

「ところで、何かお食事を作るのだったのではないですか?お手伝いしますよ」

 と言って、真弥は意気込んだ顔で腕を捲った。

「あ、そうだった。それがさ、食材がかなり減ってきちゃっててさ。初日の霊峰がマズかった。まだあるっちゃあるんだけど。で、まだみんな寝てる間にひとっ走り、買い出し行ってこようかなと思って。俺の走りなら、町まで片道一時間半で行けるから」

 そう言って、ハンドルを片手にギアチェンジの動きを表現する。

 食材の件は本当だが、昌司にはもう一つやる事がある。

 管理人への確認。

 怪奇現象は信じる事が出来ないが、それに通ずる逸話があるかも知れない。

 昌司は興味に突き動かされるタイプだ。心霊スポットツアーの時と同様の好奇心と、滝を昇る鯉のようなモチベーションに心が満たされている。

 自分だけ怪奇現象に巻き込まれていない事への、ちょっとした悔しさもあった。

 元々仲間外れを本当に嫌がる性格である。

 悪い事だろうと何だろうと、同じ所に飛び込んでいきたい。常にそう思っていた。

「そうですか~。そしたら早く行った方が良いかも知れませんよ。由紀、今日は絶対に帰るって言ってましたから」

「昨日のあれが本当なら、こんなとこ一秒でも早く去りたいだろうしね。…真弥ちゃん、意外に鬼畜だなぁ」

 そう言って、声を殺して、寝ている由紀が起きないように笑った。

「じゃ、直ぐに支度して行ってくる。昼には戻れると思うよ」

 昌司は小走りに、車のキーを取りに二階へ向かった。


 由紀は、エンジンの轟音で目を覚ました。

 何事かと外を見ると、昌司の車が走り出しているところだった。

 二階から見るその光景は、銀行強盗が逃げ出すそれに似ていた。

 建物前の広場に土煙を上げて走り出した車は、数回まばたきする内に消えてしまう。

 唖然としてると、真弥が部屋に入ってきた。

「真弥、あれはどういう事?」

「買い物行ったよ?」

 責める気が一気に殺がれるような、極上の笑顔が返ってきた。

 由紀は、一晩ぐっすり寝たらスッキリしたのか、帰りたい気持ちは薄らいでいるようだった。ベッドにあぐらをかいて座ると、大きく伸びをする。

「由紀、どう?昨日みたいなおかしな感覚はある?」

「ないっ!初日と同じくらい調子良いよ」

 この後、二人はリビングに降りてテレビの前に陣取って、持ってきた菓子を広げ、談笑しながら時を過ごす。

 午前7時半。康人だけは、まだ熟睡していた。


 康人が目を開くと、室内は暗く、まだ夜中と思われた。カーテンは閉まっているが、遮光カーテンではないから、日が上れば明るくなる。

 康人は、ゴロリと寝返りをして反対側を見る。すると、隣のベッドに寝ているはずの、昌司の姿は見当たらない。

 トイレ、ということはなさそうだ。

 各部屋全てにトイレが備え付けられている。

 入っていれば、何らかの音が聞こえてきても不思議ではない。

 考えられたのは、寝ている間に何かの餌食になって、どこかその辺をさ迷っている。もしくは、今の状況が夢であること。

 現状を、必要以上に冷静に考えていた。

 康人は体を起こそうとしたが、どうやってもそれが出来ない。

 夢だ、と断定した。

 木々のざわめきだけが聞こえる。その中に、水を含んだ何かで床を叩くような音が混じっている。

 最初は何だか分からなかったその音は、次第に音が大きくなり、近付いて来ているのが感じられた。

 それが足音である事を直感したのは、実家の祖母のゆっくりとした歩き方と間隔が似ていたからだ。

 ベシャリ、ベシャリと音を鳴らし、その音は部屋の前で動かなくなった。

 ガチャリ。と、部屋の扉が開く。

 鍵はかけてあったはずだ。

 康人は、呼吸の乱れを感じながら、布団を被ろうと手を動かす。しかし、いくら掴もうとも、布団を引っ張る事が出来ない。

 目を閉じて、その音の主を見ないようにした。

 体が、まるで熱が上がる時のようにガタガタと震え出す。

 ベシャリ、ベシャリと近付いてくる足音、例の腐臭が強く感じられる。

 足音は、康人の枕元にきている。

 吐息から、目の前に顔がある事がハッキリと分かった。

 目を閉じていても分かる。自分の乱れた呼吸が相手の顔面に当たり、口の付近を温めている。

 悪臭に吐き気を感じた。

 何かを喋っている。微かな声が聞こえてきた。

 水の中で喋るような、そんな感じで聞き取りづらい。

「ここから、連れ出して」

 そう聞き取れる。と同時に、その声の主はスッと消えた。

 体が自由になり、布団を掴んだ手が頭の上まで一気に動いた。

 布団を被れた事に安心して、目を開く。

 外は明るくなっているようだ。布団を透して光が感じられる。

 柔らかな光に安心して、康人はゆっくりと布団の外を覗く。

 誰も居ない。

 あまりにスムーズに現実世界に戻ったので、今のが夢なのか否か、判断が付かなかった。

 室内の空気は澄んでおり、つい、今の今まで何かが居たとは思えない。

 体を起こし、酷い汗だくな状態である事に気が付いた。絞れそうだ。

 大きなため息を吐くと、部屋の扉を叩く音がする。

 康人は、その音に驚いて、文字通り跳びはねた。

「あの、神田です。起きてますか?」

 精一杯呼吸を整え、震える声で返事をした。

「ゴメン、今起きた!」

 枕元のスマートフォンを手に取ると、時間を確認する。

 午後1時だった。


「遅いの!予定だと往復三時間だから、10時半には戻って来ないとおかしいんだから!逃げたのよ、絶対」

「そら、小池さんの主観だよ。アイツ今回みたいな話は面白がるから、逃げるどころか、本当に幽霊みたいのが居たら飛び込むさ。で、買い物行ったんだよね。買い物にかかる時間、店を探す時間、もしかしたら迷子になってるかも知れない。歩いて探しに行くのも無理があるし、何もしようがないって」

「私は帰りたいの!何とかして!」

「何だよそれ、俺に言うなよな!」

「由紀のはともかく、そろそろ帰ってきても良いかなとは思います。すぐ戻ると言っていた事ですし。だから、落ち着いて待ってみましょう?」

 この後暫くの間、三人は、帰るだの帰ってこないだの、話を続けた。

 話題の昌司本人だが、誰一人として心配をしていなかった“事故“にあっていた。

 今の時間から5時間程前の事である。

 飛び出した子鹿を避けようとして、うっかり道から外れたのだが、運が良い事に、太い木にぶつかって崖の下に落ちずに済んだ。

 車は廃車だろうか、後部が大きくひしゃげていて、よく死ななかったと思える程だ。

 崖の高さは、一番下まで6メートルはある。

 昌司は、知り合いのドライバーが、これくらいの高さから逆さに墜落した事があると、鼻息を荒くして自慢していたのを思い出した。

「これは、落ちたら絶対死ぬよ。間違いなく。生還なんて出来る訳がない。やはり嘘っぱちだな」

 ブツブツ呟きながら覗き込んでいると、下に車らしきものが見えた。

 土や葉っぱが被さっているが、確かに車だ。

 逆さになって引っくり返る様は、何だか間抜けな感じがする。

 マズい物を発見してしまった、そう思う反面、興味は頂点まで達しており、体を勝手に突き動かす。

 斜面を、斜めに生えた樹木を使って器用に降りていった。

 降り積もった枯れ葉が分厚く、足が深くめり込む。数メートル進むのも大変であった。

 横転した車は、少し古い型に見えた。

 場所が場所である。上からは、途中まで降りてきて覗き込まないと見えない。

 人通りも無いに等しく、落ちた後、誰にも発見される事なく朽ちていったのだろう。

 枯れ葉に埋まりかかった車体を掘り出し、恐る恐る車内を見る。

 よく理科室で見るような白骨死体が、首を変な方向に向けて、シートベルトで座席に縛り付けられている。

「ほら、死んでるよ。6メートルじゃ助からないよな。にしても、一歩間違えたら御近所さんだったか」

 冷や汗をかきながら、そっと手を合わせた。

 ここ数日一番の怖い思いだったが、望んだ怪奇現象ではない。よくよく縁がないなと思う。

 昌司は暫くどうしたら良いか悩む。その視線の先にはジュラルミンのケースが見えていた。

 中身を見てみたい。そう意を決して、手を伸ばした。気分は墓荒らしである。

 引っ張り出して土を払うと、躊躇せずに開いた。幸い、鍵はかかっていない。中には色々入っていた。物色する前にもう一度手を合わせる。

 家柄か、財布には手を付けず、まず手帳を手に取る。

 こんな状態でなければ、人のプライバシーにズカズカ足を踏み入れる事はないだろう。

 開くと、八割は日記のようだ。

 白骨死体が着ている服は男物だが、字が女性的である。

 ペットに関する事が記されており、どうやら、昌司達が寝泊まりしている別荘の最初の持ち主のようだ。行方不明になり、家族に売却されたのだろう。

 昌司は一旦手帳を閉じると、免許証を探した。鞄の中を全て探して出てこない。

 最後に財布に手を付ける。

 財布の中にはあまりお金は入っていない。代わりに何種類もカードが入っていた。

 免許証もその中に入っている。

 写真は男性であった。

 中年で、人の良さそうな顔立ちをしており、写真の主は笑顔で写っている。

 どこかで見覚えのある顔な気がしなくもない。

 子供の頃から父親の後を付いて行動していた。資産家であれば会った事があるのかも知れない。

 昌司は納得した顔をし、荷物を纏めて自分の車まで運んだ。

 壊れたラジコンのような車体を眺めながら、口をへの字にして腕組みをする。

 皆の足の心配をしなくて良いなら、先程入手した手帳をいち早く持ち込み、今回の出来事にスパイスとして使えるのだが、立場上そうもいかない。

 車が必要だ。

 少し残念な表現をして、町を目指す事を決意する。

 歩くと何時間かかるだろうか。

 上を見上げると、木々の隙間から見える青空は、まだ1日が始まって時があまり経っていない事を主張をしている。

「良い経験だな」

 昌司は自分を強引に納得させて、歩みを始めた。


「もうすぐ夜なんですけど」

 由紀の表情は険しくなる一方である。普段から柔らかい表情が少ない方だから、不機嫌そうに見えるまでの敷居値が低い。

 康人と真弥にしてみれば、昌司が居ない間に、由紀が取り憑かれたような状態にならないだけマシだと思えた。

「小池さん、昌司を分かってない。アイツは何か思い付くと、直前の事は暫く頭から無くなるんだ。きっとサプライズのつもりでとんでもない事をするぞ。見てろ、きっとトラックで帰ってくるから」

「帰りが遅いのなんかどうでも良い!早く帰りたい!お家で寝たいっ!」

「もしかしたら、取り憑かれたまま帰る事になるかもよ?由紀はもう少し様子を見た方が良いと思うなぁ」

 夕陽が射し込むリビングのど真ん中、真弥が由紀の手からトランプを一枚引き抜く。

 表情一つ変えずに軽くシャッフルすると、康人の方に向けた。

 康人がそこから一枚引き抜いて、

「神田さん、やるな」

 と一声言うと、手元のカードをシャッフルして由紀に向ける。

 ニコリと微笑む真弥に、意外な小悪魔性を見た。

 こんな感じで、アルコール片手に室内で遊べるもので時間を潰したが、そろそろネタも尽きてきた。

「晩御飯、どうしましょう?」

 真弥の言葉に二人は返事をしない。

 ここ数時間、一方的に真弥にしてやられている。二人とも負けず嫌いなところがあって、次こそは!と思っていた。

「私、お腹空いちゃいました」

 終わりにしたい。そんなアピールをするが、二人は首を横に振る。

「これは、真弥が負けるまで続きます」

「そうだな、神田さん負けるまでだな」

 しかし、真弥に敗北の文字はない。負けてやるつもりは全くない。

 闘志に燃えた。

(俺は、とんでもない女に惚れたのかもしれん)

 この後一時間に渡って、本気を出した真弥に、二人はあらゆるトランプで負けた。

 日が沈み、辺りは暗くなってきていた。

 虫の音は、セミからコオロギに移り、窓を開けると涼しい風が入り込んでくる。

 三人は夕食に、具の少ない焼きそばを食べた。

 野菜の有り難みが何となく感じられるようである。

 夜が更ける頃には康人も心配になり、数分置きに外を確認するようになった。

 エンジン音など聞こえる事もなく、昼間見えていたような光景とは違った、暗黒の世界が広がっている。

 光がポツリと見えるような事を期待したが、深夜になっても現れる事はない。

 こう見ると、完全な陸の孤島だ。連絡手段もなく、もし途中で崖崩れがあれば、町に戻る方法もない。

 今の境遇を考えると、鳥肌が立った。

 そして、康人の心配は周りに伝染していく。時が経つごとに会話は減っていき、室内の空気が重くなっていった。

 それに堪えきれず、いつの間にか、三人はバラバラに行動しはじめる。

 気が付くと、康人は一人リビングで佇んでいた。

 ふと、今朝の夢を思い出す。

 由紀を気遣って話題に出さなかったが、こう一人で居ると、不安で誰かに喋ってしまいたい気分になっていた。

 喋る事で同情されたい、護られたい。気持ちに突き動かされ、真弥を探した。

 部屋に行くと、由紀だけしか居ない。聞くと、

「シャワーでも浴びに行ったんじゃない?部屋の、狭いから。あ、覗くなよー。覗いたら酷いんだから」

 と、鬼瓦のような表情で返事をされた。

 確か、一階のトイレの手前に浴室があった。初日に昌司が一人で入っていたはずだ。

 広くて、手足を伸ばせるような浴槽に、目一杯お湯を入れて堪能したらしい。

 今朝の夢以来変な出来事は起きていないが、あの辺りにはあまり近付いて欲しくないと思った。

 階段を降りてすぐのところからも行けるが、照明が点灯したままのリビングを通る事にした。

 無意識に暗い場所を避けたのだが、本人は特に理由はないつもりだった。

 リビングから通路に入り、由紀がおかしくなっていた部屋の前まできた。

 扉が半開きになっている。

 普通に考えれば

「中には真弥が居るのだろう」となるが、今の状況ではそうは思えない。

「神田さん、居るのか?」

 何故か小声で聞くと、

「あ、はい。居ますよ」

 と、思ったより明るい声で返事があった。

 安堵のため息と共に扉を開けると、ユニットバスから明かりが漏れていた。

(まさかここで風呂じゃないよな?)

 と、考えながら扉を開く。

 真弥の顔が浴槽から飛び出てる状態で目が合い、咄嗟に顔を背ける。悲鳴が聞こえないので、視線を戻すと、服を着ていた。

 機嫌の良さそうな真弥が、康人を見てニコニコしている。

「何してるのさ?驚いたじゃん」

「例の何か、ここに監禁されてたのではないかなと思いまして。色々考えをめぐらせていました。で、辿り着いたのがここ。知ってます?お風呂で手首を切ると血が止まらないんです」

「自殺したって言うのかい?」

「はい。例のメッセージ、あれは血で書かれているんですよ。血液は、乾くとあの色になります。どこからそれを持ってきたのかなと考えました。経血が妥当だと思います。それで、メッセージを書き残した。その後、血を見て思うんです。手首を切れば出血で死ねるだろうと」

 真弥は浴槽の中から、平然とした表情で坦々と語る。

 康人は、真弥の話している内容に不気味さを感じていた。過去のイメージからは絶対に予想する事が出来ない。

 胸の辺りにモヤモヤを感じる。胃袋の上の方がムカムカするような感覚を覚えながら、隣接する便器に座り込んだ。

 これが真弥自身なのだろうか。

 変に自分の中で美化していた事に、悔やみのようなものが混じる。

 嫌いなるとか、そういう感情ではない。自分の浅はかさのようなものに対する敗北感、冷めていく熱気、悔しさに力が抜けていった。

「この別荘で亡くなり、ここに縛られてしまったんです。死んでなお、ここから出る事が出来ない。さぞ辛かったでしょう」

 真弥の表情に同情と、瞳からは涙が現れた。

 優しい心は変わらないようだが、釈然としない。

「そう言えば、私お風呂に入ろうと思っていたんです。こんなところで何してるのかしら」

 スッと立ち上がると、照れ笑いをしながら、パタパタと浴室へ向かって行った。

 残された康人は放心したまま、空の浴槽を見続けた。


 二階に上がろうと玄関に向かうと、由紀が降りてくるのが見えた。

 康人の顔を見るなり、

「お風呂だったでしょ?」

 ジッと睨むような顔をしている。

「まだ入ってなかったよ。あの、例の部屋に居た。神田さんって、あんなだったっけ?」

「あんなって何よ?何か変な事でもあったの?」

 表情が曇る。

 自分の事を重ねたのだろう。

「いや、悪い。何でもないんだ。それより明日なんだけど、昌司が帰ってこないからな。徒歩になるけど、帰ろうと思う。捜索願いも必要だろう。町まで歩くのは時間がかかるから、朝起きたらすぐに出るつもりだが、どうだ?」

 由紀は眉の両端を下げたまま、少し黙ったが、

「そうね、それが良いわ。あれから何も無いとは言え、いつまでもここには居たくないし。そう言えば、昌司の事なんだけどさ、鈍感なの?私、便利に扱われてるだけだよね」

 面倒な話になりそうだ。

 由紀が昌司に気があるのは知っているが、どの程度進展しているのかは知らない。

 付き合ってる事はないのは分かるが、今の話だとそこまでかと驚いた。

「昌司には、ちゃんと気持ちを伝えたのか?」

「伝えては、ないけど」

「なら伝えてみろ。アイツはきっと受け止める。ただ、分かるだろうけど、その後は大変だぜ?」

 返事を待たず、二階へ上がった。



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