昌司が目覚めた時、隣のベッドでは康人がいびきをかいていた。
時計の針は午前7時、いつも同じ時間に目が覚める。
寝返りもせずに寝ていたのか、体が少し痛んだ。
腕をグルグル回してみたり、伸びをしたりしてみたが、首の根元がいつまでも痛む。
部屋に備え付けられた洗面所の、冷たい水で顔を洗い、顔を拭いて鏡を見た。
疲れの取れない顔をしている。
二度寝するか少し悩み、扉を開けて隣の部屋の方を見る。
何故か開いていた。
昨日の真弥の話を思い出し、恐る恐る部屋の中を覗くと、真弥が既に起きていた。
やはり昌司は、怪奇現象とは縁がない。
軽く挨拶をして一階のキッチンに向かうと、朝食の支度をしようと冷蔵庫を開ける。
予想よりも遥かに食材の減りが早い。
初日の霊峰が一番の原因だろう。
奥の方にまだ残骸が残っている。
冷蔵庫の開きっぱなしに対するアラームを余所に、腕組みをして悩んだ。
米はある。
水は地下水を組み上げているから、いきなり無くなる心配はないだろう。
どうするか悩んでいると、真弥がキッチンに顔を出してきた。
「何かお手伝いしましょうか?」
少し照れた表情をしている。
黒い髪を後ろで束ねると、昌司の隣に立つ。
「音、鳴ってますよ?」
「鳴ってるねー。閉めるか」
扉を閉めた後、腕組みしてまた考え込んだ。
下唇を上に向けているので、イケメンが台無しになっている。
が、この、コロコロ変わる表情が人気を呼ぶ理由の一つでもあった。
「あの、由紀に口止めされてるんですけど、聞いちゃいました」
昌司が、これでもかと言わんばかりに驚いた顔をする。そのまま、苦虫を噛んだような表情に移り変わっていく。その様が面白く、真弥はクスクスと笑った。
頬が弱冠紅く染まっている。
「マジっすかー」
「はい、マジっす」
昌司が冷蔵庫に手を付いて反省をアピールする。
チラリと真弥の顔を見て、また同じポーズに戻る。
「気にしないで下さい。今回の事、良い切っ掛けになりましたから。真っ直ぐで真面目な感じがステキだと思ってますよ。でも、もう少し積極的になって欲しいですよね。私も困ってしまいます」
照れ笑いをして、髪の毛を指に巻いた。
康人が相手でなければ、昌司自身が手を出していたろう。
学内でも指折りの美人で、成績も優秀。スポーツも万能で性格も文句なしに良い。不思議なオーラに包まれたような雰囲気が男を寄せ付けないが、お高く止まっているわけではない。
(やっさん、やったよ。神がかってる。普通の女の子じゃ、こんな事絶対にありえない。意味不明なこだわりと細かい性格で、仲良くないと究極の無愛想男であるやっさんにこんな事。これは槍が降る!俺なんて絶対事故る!)
昌司はガッツポーズで天井の角の方を仰いだ。
別に見ている場所に意味はない。
「ところで、何かお食事を作るのだったのではないですか?お手伝いしますよ」
と言って、真弥は意気込んだ顔で腕を捲った。
「あ、そうだった。それがさ、食材がかなり減ってきちゃっててさ。初日の霊峰がマズかった。まだあるっちゃあるんだけど。で、まだみんな寝てる間にひとっ走り、買い出し行ってこようかなと思って。俺の走りなら、町まで片道一時間半で行けるから」
そう言って、ハンドルを片手にギアチェンジの動きを表現する。
食材の件は本当だが、昌司にはもう一つやる事がある。
管理人への確認。
怪奇現象は信じる事が出来ないが、それに通ずる逸話があるかも知れない。
昌司は興味に突き動かされるタイプだ。心霊スポットツアーの時と同様の好奇心と、滝を昇る鯉のようなモチベーションに心が満たされている。
自分だけ怪奇現象に巻き込まれていない事への、ちょっとした悔しさもあった。
元々仲間外れを本当に嫌がる性格である。
悪い事だろうと何だろうと、同じ所に飛び込んでいきたい。常にそう思っていた。
「そうですか~。そしたら早く行った方が良いかも知れませんよ。由紀、今日は絶対に帰るって言ってましたから」
「昨日のあれが本当なら、こんなとこ一秒でも早く去りたいだろうしね。…真弥ちゃん、意外に鬼畜だなぁ」
そう言って、声を殺して、寝ている由紀が起きないように笑った。
「じゃ、直ぐに支度して行ってくる。昼には戻れると思うよ」
昌司は小走りに、車のキーを取りに二階へ向かった。
由紀は、エンジンの轟音で目を覚ました。
何事かと外を見ると、昌司の車が走り出しているところだった。
二階から見るその光景は、銀行強盗が逃げ出すそれに似ていた。
建物前の広場に土煙を上げて走り出した車は、数回まばたきする内に消えてしまう。
唖然としてると、真弥が部屋に入ってきた。
「真弥、あれはどういう事?」
「買い物行ったよ?」
責める気が一気に殺がれるような、極上の笑顔が返ってきた。
由紀は、一晩ぐっすり寝たらスッキリしたのか、帰りたい気持ちは薄らいでいるようだった。ベッドにあぐらをかいて座ると、大きく伸びをする。
「由紀、どう?昨日みたいなおかしな感覚はある?」
「ないっ!初日と同じくらい調子良いよ」
この後、二人はリビングに降りてテレビの前に陣取って、持ってきた菓子を広げ、談笑しながら時を過ごす。
午前7時半。康人だけは、まだ熟睡していた。
康人が目を開くと、室内は暗く、まだ夜中と思われた。カーテンは閉まっているが、遮光カーテンではないから、日が上れば明るくなる。
康人は、ゴロリと寝返りをして反対側を見る。すると、隣のベッドに寝ているはずの、昌司の姿は見当たらない。
トイレ、ということはなさそうだ。
各部屋全てにトイレが備え付けられている。
入っていれば、何らかの音が聞こえてきても不思議ではない。
考えられたのは、寝ている間に何かの餌食になって、どこかその辺をさ迷っている。もしくは、今の状況が夢であること。
現状を、必要以上に冷静に考えていた。
康人は体を起こそうとしたが、どうやってもそれが出来ない。
夢だ、と断定した。
木々のざわめきだけが聞こえる。その中に、水を含んだ何かで床を叩くような音が混じっている。
最初は何だか分からなかったその音は、次第に音が大きくなり、近付いて来ているのが感じられた。
それが足音である事を直感したのは、実家の祖母のゆっくりとした歩き方と間隔が似ていたからだ。
ベシャリ、ベシャリと音を鳴らし、その音は部屋の前で動かなくなった。
ガチャリ。と、部屋の扉が開く。
鍵はかけてあったはずだ。
康人は、呼吸の乱れを感じながら、布団を被ろうと手を動かす。しかし、いくら掴もうとも、布団を引っ張る事が出来ない。
目を閉じて、その音の主を見ないようにした。
体が、まるで熱が上がる時のようにガタガタと震え出す。
ベシャリ、ベシャリと近付いてくる足音、例の腐臭が強く感じられる。
足音は、康人の枕元にきている。
吐息から、目の前に顔がある事がハッキリと分かった。
目を閉じていても分かる。自分の乱れた呼吸が相手の顔面に当たり、口の付近を温めている。
悪臭に吐き気を感じた。
何かを喋っている。微かな声が聞こえてきた。
水の中で喋るような、そんな感じで聞き取りづらい。
「ここから、連れ出して」
そう聞き取れる。と同時に、その声の主はスッと消えた。
体が自由になり、布団を掴んだ手が頭の上まで一気に動いた。
布団を被れた事に安心して、目を開く。
外は明るくなっているようだ。布団を透して光が感じられる。
柔らかな光に安心して、康人はゆっくりと布団の外を覗く。
誰も居ない。
あまりにスムーズに現実世界に戻ったので、今のが夢なのか否か、判断が付かなかった。
室内の空気は澄んでおり、つい、今の今まで何かが居たとは思えない。
体を起こし、酷い汗だくな状態である事に気が付いた。絞れそうだ。
大きなため息を吐くと、部屋の扉を叩く音がする。
康人は、その音に驚いて、文字通り跳びはねた。
「あの、神田です。起きてますか?」
精一杯呼吸を整え、震える声で返事をした。
「ゴメン、今起きた!」
枕元のスマートフォンを手に取ると、時間を確認する。
午後1時だった。
「遅いの!予定だと往復三時間だから、10時半には戻って来ないとおかしいんだから!逃げたのよ、絶対」
「そら、小池さんの主観だよ。アイツ今回みたいな話は面白がるから、逃げるどころか、本当に幽霊みたいのが居たら飛び込むさ。で、買い物行ったんだよね。買い物にかかる時間、店を探す時間、もしかしたら迷子になってるかも知れない。歩いて探しに行くのも無理があるし、何もしようがないって」
「私は帰りたいの!何とかして!」
「何だよそれ、俺に言うなよな!」
「由紀のはともかく、そろそろ帰ってきても良いかなとは思います。すぐ戻ると言っていた事ですし。だから、落ち着いて待ってみましょう?」
この後暫くの間、三人は、帰るだの帰ってこないだの、話を続けた。
話題の昌司本人だが、誰一人として心配をしていなかった“事故“にあっていた。
今の時間から5時間程前の事である。
飛び出した子鹿を避けようとして、うっかり道から外れたのだが、運が良い事に、太い木にぶつかって崖の下に落ちずに済んだ。
車は廃車だろうか、後部が大きくひしゃげていて、よく死ななかったと思える程だ。
崖の高さは、一番下まで6メートルはある。
昌司は、知り合いのドライバーが、これくらいの高さから逆さに墜落した事があると、鼻息を荒くして自慢していたのを思い出した。
「これは、落ちたら絶対死ぬよ。間違いなく。生還なんて出来る訳がない。やはり嘘っぱちだな」
ブツブツ呟きながら覗き込んでいると、下に車らしきものが見えた。
土や葉っぱが被さっているが、確かに車だ。
逆さになって引っくり返る様は、何だか間抜けな感じがする。
マズい物を発見してしまった、そう思う反面、興味は頂点まで達しており、体を勝手に突き動かす。
斜面を、斜めに生えた樹木を使って器用に降りていった。
降り積もった枯れ葉が分厚く、足が深くめり込む。数メートル進むのも大変であった。
横転した車は、少し古い型に見えた。
場所が場所である。上からは、途中まで降りてきて覗き込まないと見えない。
人通りも無いに等しく、落ちた後、誰にも発見される事なく朽ちていったのだろう。
枯れ葉に埋まりかかった車体を掘り出し、恐る恐る車内を見る。
よく理科室で見るような白骨死体が、首を変な方向に向けて、シートベルトで座席に縛り付けられている。
「ほら、死んでるよ。6メートルじゃ助からないよな。にしても、一歩間違えたら御近所さんだったか」
冷や汗をかきながら、そっと手を合わせた。
ここ数日一番の怖い思いだったが、望んだ怪奇現象ではない。よくよく縁がないなと思う。
昌司は暫くどうしたら良いか悩む。その視線の先にはジュラルミンのケースが見えていた。
中身を見てみたい。そう意を決して、手を伸ばした。気分は墓荒らしである。
引っ張り出して土を払うと、躊躇せずに開いた。幸い、鍵はかかっていない。中には色々入っていた。物色する前にもう一度手を合わせる。
家柄か、財布には手を付けず、まず手帳を手に取る。
こんな状態でなければ、人のプライバシーにズカズカ足を踏み入れる事はないだろう。
開くと、八割は日記のようだ。
白骨死体が着ている服は男物だが、字が女性的である。
ペットに関する事が記されており、どうやら、昌司達が寝泊まりしている別荘の最初の持ち主のようだ。行方不明になり、家族に売却されたのだろう。
昌司は一旦手帳を閉じると、免許証を探した。鞄の中を全て探して出てこない。
最後に財布に手を付ける。
財布の中にはあまりお金は入っていない。代わりに何種類もカードが入っていた。
免許証もその中に入っている。
写真は男性であった。
中年で、人の良さそうな顔立ちをしており、写真の主は笑顔で写っている。
どこかで見覚えのある顔な気がしなくもない。
子供の頃から父親の後を付いて行動していた。資産家であれば会った事があるのかも知れない。
昌司は納得した顔をし、荷物を纏めて自分の車まで運んだ。
壊れたラジコンのような車体を眺めながら、口をへの字にして腕組みをする。
皆の足の心配をしなくて良いなら、先程入手した手帳をいち早く持ち込み、今回の出来事にスパイスとして使えるのだが、立場上そうもいかない。
車が必要だ。
少し残念な表現をして、町を目指す事を決意する。
歩くと何時間かかるだろうか。
上を見上げると、木々の隙間から見える青空は、まだ1日が始まって時があまり経っていない事を主張をしている。
「良い経験だな」
昌司は自分を強引に納得させて、歩みを始めた。
「もうすぐ夜なんですけど」
由紀の表情は険しくなる一方である。普段から柔らかい表情が少ない方だから、不機嫌そうに見えるまでの敷居値が低い。
康人と真弥にしてみれば、昌司が居ない間に、由紀が取り憑かれたような状態にならないだけマシだと思えた。
「小池さん、昌司を分かってない。アイツは何か思い付くと、直前の事は暫く頭から無くなるんだ。きっとサプライズのつもりでとんでもない事をするぞ。見てろ、きっとトラックで帰ってくるから」
「帰りが遅いのなんかどうでも良い!早く帰りたい!お家で寝たいっ!」
「もしかしたら、取り憑かれたまま帰る事になるかもよ?由紀はもう少し様子を見た方が良いと思うなぁ」
夕陽が射し込むリビングのど真ん中、真弥が由紀の手からトランプを一枚引き抜く。
表情一つ変えずに軽くシャッフルすると、康人の方に向けた。
康人がそこから一枚引き抜いて、
「神田さん、やるな」
と一声言うと、手元のカードをシャッフルして由紀に向ける。
ニコリと微笑む真弥に、意外な小悪魔性を見た。
こんな感じで、アルコール片手に室内で遊べるもので時間を潰したが、そろそろネタも尽きてきた。
「晩御飯、どうしましょう?」
真弥の言葉に二人は返事をしない。
ここ数時間、一方的に真弥にしてやられている。二人とも負けず嫌いなところがあって、次こそは!と思っていた。
「私、お腹空いちゃいました」
終わりにしたい。そんなアピールをするが、二人は首を横に振る。
「これは、真弥が負けるまで続きます」
「そうだな、神田さん負けるまでだな」
しかし、真弥に敗北の文字はない。負けてやるつもりは全くない。
闘志に燃えた。
(俺は、とんでもない女に惚れたのかもしれん)
この後一時間に渡って、本気を出した真弥に、二人はあらゆるトランプで負けた。
日が沈み、辺りは暗くなってきていた。
虫の音は、セミからコオロギに移り、窓を開けると涼しい風が入り込んでくる。
三人は夕食に、具の少ない焼きそばを食べた。
野菜の有り難みが何となく感じられるようである。
夜が更ける頃には康人も心配になり、数分置きに外を確認するようになった。
エンジン音など聞こえる事もなく、昼間見えていたような光景とは違った、暗黒の世界が広がっている。
光がポツリと見えるような事を期待したが、深夜になっても現れる事はない。
こう見ると、完全な陸の孤島だ。連絡手段もなく、もし途中で崖崩れがあれば、町に戻る方法もない。
今の境遇を考えると、鳥肌が立った。
そして、康人の心配は周りに伝染していく。時が経つごとに会話は減っていき、室内の空気が重くなっていった。
それに堪えきれず、いつの間にか、三人はバラバラに行動しはじめる。
気が付くと、康人は一人リビングで佇んでいた。
ふと、今朝の夢を思い出す。
由紀を気遣って話題に出さなかったが、こう一人で居ると、不安で誰かに喋ってしまいたい気分になっていた。
喋る事で同情されたい、護られたい。気持ちに突き動かされ、真弥を探した。
部屋に行くと、由紀だけしか居ない。聞くと、
「シャワーでも浴びに行ったんじゃない?部屋の、狭いから。あ、覗くなよー。覗いたら酷いんだから」
と、鬼瓦のような表情で返事をされた。
確か、一階のトイレの手前に浴室があった。初日に昌司が一人で入っていたはずだ。
広くて、手足を伸ばせるような浴槽に、目一杯お湯を入れて堪能したらしい。
今朝の夢以来変な出来事は起きていないが、あの辺りにはあまり近付いて欲しくないと思った。
階段を降りてすぐのところからも行けるが、照明が点灯したままのリビングを通る事にした。
無意識に暗い場所を避けたのだが、本人は特に理由はないつもりだった。
リビングから通路に入り、由紀がおかしくなっていた部屋の前まできた。
扉が半開きになっている。
普通に考えれば
「中には真弥が居るのだろう」となるが、今の状況ではそうは思えない。
「神田さん、居るのか?」
何故か小声で聞くと、
「あ、はい。居ますよ」
と、思ったより明るい声で返事があった。
安堵のため息と共に扉を開けると、ユニットバスから明かりが漏れていた。
(まさかここで風呂じゃないよな?)
と、考えながら扉を開く。
真弥の顔が浴槽から飛び出てる状態で目が合い、咄嗟に顔を背ける。悲鳴が聞こえないので、視線を戻すと、服を着ていた。
機嫌の良さそうな真弥が、康人を見てニコニコしている。
「何してるのさ?驚いたじゃん」
「例の何か、ここに監禁されてたのではないかなと思いまして。色々考えをめぐらせていました。で、辿り着いたのがここ。知ってます?お風呂で手首を切ると血が止まらないんです」
「自殺したって言うのかい?」
「はい。例のメッセージ、あれは血で書かれているんですよ。血液は、乾くとあの色になります。どこからそれを持ってきたのかなと考えました。経血が妥当だと思います。それで、メッセージを書き残した。その後、血を見て思うんです。手首を切れば出血で死ねるだろうと」
真弥は浴槽の中から、平然とした表情で坦々と語る。
康人は、真弥の話している内容に不気味さを感じていた。過去のイメージからは絶対に予想する事が出来ない。
胸の辺りにモヤモヤを感じる。胃袋の上の方がムカムカするような感覚を覚えながら、隣接する便器に座り込んだ。
これが真弥自身なのだろうか。
変に自分の中で美化していた事に、悔やみのようなものが混じる。
嫌いなるとか、そういう感情ではない。自分の浅はかさのようなものに対する敗北感、冷めていく熱気、悔しさに力が抜けていった。
「この別荘で亡くなり、ここに縛られてしまったんです。死んでなお、ここから出る事が出来ない。さぞ辛かったでしょう」
真弥の表情に同情と、瞳からは涙が現れた。
優しい心は変わらないようだが、釈然としない。
「そう言えば、私お風呂に入ろうと思っていたんです。こんなところで何してるのかしら」
スッと立ち上がると、照れ笑いをしながら、パタパタと浴室へ向かって行った。
残された康人は放心したまま、空の浴槽を見続けた。
二階に上がろうと玄関に向かうと、由紀が降りてくるのが見えた。
康人の顔を見るなり、
「お風呂だったでしょ?」
ジッと睨むような顔をしている。
「まだ入ってなかったよ。あの、例の部屋に居た。神田さんって、あんなだったっけ?」
「あんなって何よ?何か変な事でもあったの?」
表情が曇る。
自分の事を重ねたのだろう。
「いや、悪い。何でもないんだ。それより明日なんだけど、昌司が帰ってこないからな。徒歩になるけど、帰ろうと思う。捜索願いも必要だろう。町まで歩くのは時間がかかるから、朝起きたらすぐに出るつもりだが、どうだ?」
由紀は眉の両端を下げたまま、少し黙ったが、
「そうね、それが良いわ。あれから何も無いとは言え、いつまでもここには居たくないし。そう言えば、昌司の事なんだけどさ、鈍感なの?私、便利に扱われてるだけだよね」
面倒な話になりそうだ。
由紀が昌司に気があるのは知っているが、どの程度進展しているのかは知らない。
付き合ってる事はないのは分かるが、今の話だとそこまでかと驚いた。
「昌司には、ちゃんと気持ちを伝えたのか?」
「伝えては、ないけど」
「なら伝えてみろ。アイツはきっと受け止める。ただ、分かるだろうけど、その後は大変だぜ?」
返事を待たず、二階へ上がった。