怪談深緑山荘

著 : 秋山 恵

2日目


 康人は、その晩は殆ど寝れなかった。

 それは、すぐ近くで憧れの女性が寝息を立てている事よりも、何者か分からない何かが扉を開けて入ってくるのではないかと言う恐怖が大きい。

 部屋の扉は鍵がしまっていたし、室内に独りではない状況があったにも関わらず、想像力豊かな康人には重たい状態であったらしい。

 付きまとう緊迫感、何かあった時の為にすぐ動けるようにするための緊張感、それを交互に感じながらドアノブを見続けた。

 時々疲労で視界が歪んだりもする。

 明け方になり、東の空が淡い紫色になり始めた頃、ようやく睡魔に負けて寝息ををたて始めた。

 その少し後に、真弥は目覚める。

 床で座り込んでうつらうつらと頭を揺らす康人を見て、申し訳ない気持ちになった。

 長々とその光景を見ながら、この後どうしようか考える。

 暫くの後、さすがに明るくなり始めた事、寝覚めが良かった事、幾つかの要因が助けになり、真弥は部屋に戻る決心をした。

 ぐっすりと寝ていた康人に夏がけの布団を掛けてやると、自分の部屋に向けて忍び足で向かった。

 途中、昌司と由紀の部屋がある。

 異変に気が付いたのは、由紀の部屋の前を通った時だった。

 昨夜鍵もしまっていた筈の扉は、その時全開きになっており、部屋の中の様子が見える程になっていた。

 真弥は恐る恐る中を覗いたが、特に異変は感じられない。

 ベッドに横たわって寝ている由紀の後頭部が見え、肩が規則正しく上下している。

 規則正しいその動きは、まるで工場の機械を彷彿させた。

 まだ薄暗い建物内の雰囲気のせいか、やはり少し不気味に感じてしまい、そっとその扉を閉める。

 勘の悪い真弥でも、由紀本人が寝惚けて扉だけ開け放ったとは考えられない。

 やはり中の様子を見るべきだろうか。そう考えて、暫くドアノブを握っていた。

 何か異変があれば、また扉を開こう。そう心に決めたが、何もなかった。

 耳に入るのは、風にあおられた木々が鳴る音ばかりである。

 内心ホッとしながらドアノブから手を離し、自分の部屋へ戻って行った。

 まだ少し不安はあったが、明るくなってきていたので、カーテンを全開にしてまたベッドに収まる。

 真弥は気が付かない、由紀が涙を流しながら寝ていた事を。


 康人が起きたのは昼少し前の事だった。

 尻が痛くて目が覚めた。

 ベッドに寝ていた真弥の姿が消えている事に、言い様の無い寂しさが感じられた。

 布団が掛けられている事から優しさが見えたが、本人の願望としては起こして欲しかったのだろう。

 起きてリビングに降りると、静かな光景が広がっている。

 昨夜放置していた霊峰の成れの果ては、既に片付けられてしまっていた。

 康人は、腹の中に空間があるような感覚に動かされ、友人達を探すより先に食べる物を探す。

 キッチンへ向かうと、どう考えてもふざけて作ったであろう巨大なオニギリがラップに包まれて置いてあった。

 ソフトボールより少し大きく、ハート型の海苔が散りばめられている。

 皿の下に書き置きが挟んであった。

『まぁ、これでも食って待ってなさい』

 どこに行ったか分からない。

 リビングに戻って外を見ると、車は置いてあった。遠くには行っていないだろう。

 康人は両手に持ったままオニギリにかぶり付いた。

 米だけの味に飽きた頃、昨夜の揚げ物の残りが顔を出す。

 康人は外の風景を見ながら、巨大なオニギリを食べ続けた。

 米ばかりだと思っていたオニギリの後半は、揚げ物ばかり入っていた。

 3分の2程食べた辺りで気持ち悪くなってきたが、残すのは主義に反するので食べきる努力をする。

 外は明るく晴れており、緑に包まれた山々が見えていた。

 色々な木が生えているはずだったが、見える景色は全て同じ緑に彩られている。

 普段見慣れたビル群が背景にない自然の中に、ただ一ヶ所だけ建てられたこの建物は、人間のエゴの象徴のようにも感じられた。

 人の住む場所まで行くのは、徒歩では何時間もかかるだろう。道が無ければ、ここは陸の孤島になってしまう。

 そんな場所に居て普通に調理された物を採る、それは不自然である。

 少々哲学的になりながら、何とかオニギリを食べ切った康人は、そのまま外の風景を見続けた。

 車に僅かに掛かっていた影が地面に降りる程度の時間、ボーッと外を眺めていると、川のある方から人影が現れた。

 どうやら釣りでもしていたのだろう。

 真弥が釣竿二本と、小さなクーラーボックスを持っている。

 男手はと言うと、由紀をおんぶしていた。

 康人がノロノロと玄関まで出て扉を開けると、苦笑いして立つ真弥と昌司、むくれた顔をしている由紀が居た。

「怪我人出ました」

 昌司の言葉に由紀の顔が膨れる。

「だから、足をちょっとひねっただけだってば!昌司、私のお尻触りたいだけだろ!」

 だが、降りようとはしない。

 本当に足が痛いのか、それとも乗り心地が良いのか。怒った風な顔はしていたが、目は笑っているようにも見える。

「釣り行ってたの?何か釣れた?」

 真弥からクーラーボックスを受け取ると、蓋を開けてみる。

 中には、そんなに食えん!と言いたくなる程の川魚が入っていた。

 ただの魚でも、ここまで詰まっていると気持ちが悪い。

 よく漁を特集しているテレビ番組で見る、カメラを通したそれとは違い、一匹一匹の鱗やテカりが目の前にギッチリと収まって、時折ピクピクと動いく姿がおぞましい。

 ボックスの底が見えない程詰まった川魚は、まだ息がある。すぐに焼いたら旨いのだろうか。

「凄いんですよ、澤田さん。糸を垂らす度に釣っちゃうの」

 真弥の幸せそうな喋り方が愛らしく、その場の全員が和んだ。

 どうやら昨夜の事は気になっていないようだ。

 それは、康人も同じだった。

 喉元を過ぎれば何とやら、なのか、今の雰囲気の良さで忘れてしまっているだけなのか。

「由紀ちゃん、玄関で降りる?ソファーまで連れてく?」

「ソファーまで」

 相変わらずのムスッとした言い方だったが、やはり本人の表情は柔らかく見える。

(こいつら、付き合えば良いのに)

 康人は、何度も心で復唱した。

 昌司と由紀は、いつも普通に一緒に居る。

 由紀は昌司に対してキツい言い方をし、昌司はそれを気にも止めずに受け止め、常に優しく返事をしていた。

 昌司は、見掛けの良さや、それに伴った内容を持っている上に家が金持ちである。アプローチしてくる異性は多いが、大概は由紀とのやり取りを見て諦めた。

「二人とも、兄妹みたいですねー」

 そう感じるのは真弥だけだろう。

 二人がソファーに座るのを確認して、真弥と康人もリビングに向かった。

 由紀の左足首が少し腫れているようにも見える。

 由紀は、どちらかと言うと運動神経が良い。昌司もそれを知っていて、不思議に感じていたらしい。

「由紀ちゃんどうしたのさ、今朝から何か、ボーッとしてる感じだけど」

 幾分心配そうな表情が見え隠れする。

「ん、なんだろね。二日酔いかな?気が付くと、あれ?って感じが多くてさ。さっきも気が付いた時にはズルッと。驚いちゃった」

 捲り上げたジーンズから見える足は、見とれる程にキレイな色をしている。

 昌司がそれを掴んでグイグイと足首を動かした。

「痛い痛い!」

 由紀が平手で昌司の頭を叩く。詰まった音がした。

 昌司は何処からか救急箱を取り出してくると、由紀の腫れた足首にテーピングをした。

「ありがとう。歩けるよ」

 そう言って立ち、部屋の中を歩き回ると、その足で奥へ歩き始めた。

「由紀ちゃん、どこ行くの?」

「トイレ!聞かないでよ」

 由紀は、曲がり角を曲がった先にある目指した。

 会話が無くなり、暫くすると、まるで疲れ切って意識が朦朧とするのと同じような感覚に襲われる。

 朝から何度もこの状態に陥っていたが、ずっと昌司が側に居たお陰で引き戻されていた。

 しかし、今度はマズいと感じる。

 声すら上げられない。

 アンテナの繋がっていないテレビの、激しい砂嵐のような光景が広がる感覚、視界が暗くなり、身体の自由が奪われるような恐怖感が支配した。

 時々視界が戻るが、その度に違う物が見えた。

 その視界が戻る状況も、トイレへ行く途中の鍵のかかった扉の前に立った辺りで途絶える。

 精神はほぼ半狂乱であったが、それを表側に発揮する事はない。呼吸は出来るものの、土の中に埋められているようであった。

 自分の身体がどう動こうとしているのか分からない。

 由紀の肉体は、先程最後に目に写った扉のドアノブを掴んだ。

 鍵がかかっている。

 由紀は、その開かずの扉のドアノブをガチャガチャと動かした。心無く機械的な動きである。

 その動きは次第に狂気がかり、激しくエスカレートしていく。両手で力一杯、ドアノブを引き抜こうとするが如く引っ張った。

「由紀ちゃん、大丈夫?」

 突如聞こえる昌司の声に意識が引き戻される。

 その瞬間、呼吸が乱れて涙が止めどなく溢れ出た。

 自分が今何をしていたのかも分からなかった。

 身体の自由が解放された事への安堵が、由紀をヘタヘタとその場へ座り込ませる。

 昌司の後ろに、心配そうな顔をする康人と真弥の姿があった。

「由紀ちゃん、トイレはあっち」

 無理矢理作り笑いをする昌司に抱き付きながら、由紀は声を上げて泣いた。

 何も喋らず、口から漏れる嗚咽だけが廊下に響き渡る。

 この時、康人と真弥は昨晩の出来事を思い浮かべていた。

 康人は真弥の夢を、真弥は夢の事と由紀の部屋の扉が開いていた事を。


 由紀のおかしな行動の後、トイレには真弥が付き添い、またリビングに集まった。

 由紀は泣き腫らした眼を閉じ、ソファーに横になっている。その側には昌司が座り、手を握っていた。

 その向かいで、康人と真弥が昨夜の出来事を順番に話す。

 昌司はらしくなく、黙ってそれを聞いた。

 二人の話を聞き終わると、軽くため息を吐く。

「二人の話は分かったけどさ、それと由紀ちゃんの行動の繋がりが分からないよ」

 いつもニコニコしている昌司が、珍しく神妙な顔付きで喋っている。

 非科学的な事を全く信じない昌司も、今度ばかりは何か思うところがあるのだろう。が、そうだと決めるのも悩むような、煮え切らない様子を見せている。

「だからさ、昌司。一度東京に帰ろう。何かがここに居るなら、離れるべきじゃないかと思うんだ。それに、このままここに居たら、下手をすれば犠牲者が増えるかも知れない」

「まてまてやっさん。例えば本当に何か得体の知れない奴の仕業だったとしよう。そしたら、本当にここを離れて良いのか?もしかすると何かを訴えている可能性もある。ならば、離れる事によってどんな異変が起きるか分からない。そしたら、逆に由紀ちゃんに何かあるかもしれないじゃないか」

 非科学的な事には懐疑的でも、由紀の事があるから慎重でもあるし、非科学的な議論もする。昌司の由紀への気持ちがかいま見えていた。

 これは、いつもの、自分の楽しみの為に残ろうとしているのではない。

「離れて元に戻るかも知れないだろ。ダメならダメで戻れば良いさ。けど、その時は危険だから神田さんは置いてくる。ここに来るのは俺ら三人だ。後、準備も必要だ。無線でもなんでも、連絡をすぐ取れるように」

「待って下さい。私は由紀から離れないですよ。友達置いて自分だけ安全な所へ逃げるのは嫌です」

 真弥は康人の言葉をキッパリと拒否した。

 透き通った 心に直接響くその声に気圧され、康人は次の言葉を飲み込む。

「由紀には辛いかも知れないけれど、留まりましょう。解決の為に、調べられる事を調べたいです」

 康人の頭には、先程の扉の事が思い浮かんだ。

 何かを訴えている可能性、扉を強引に開こうとした姿。意外に早く解決するかもしれないとも考えた。

 真弥に降りかかる危険の可能性と、解決優先を天秤に掛ける。

「帰ってもらいたい。と言いたいところだけど、意外に頑固そうだ。きっと目星が付いてて、謎を解き明かすのが楽しみ。そんなとこじゃない?それがスッキリするまでテコでも動かないでしょ」

 顔には出やすいみたいで、図星を突かれたのがよく分かる複雑な表情をしている。言葉に詰まったと言うか、悪戯がバレた子供と言うか。

「昌司、建物内のカギ、全部貸してくれ。一番気になるのは小池さんが開こうとした扉の向こう側なんだけど、見れるところは全て見たい」

「分かった。俺の部屋にあるカバンを持ってきてくれるかな。俺はほら」

 由紀の方をチラリと見る。

 少し落ち着いたのか、細く眼を開けている。虚ろに近いが、意思はあるらしく、昌司の手をギュッと力強く握った。

 康人が席を立って二階へ向かい、真弥もそれに続く。

 二人は玄関先に出ると、階段を軽く駆けるように上った。

 フワリと、昨日来た時と同じ腐臭を感じる。

 見えずとも近くに居るような気がして、背中に冷風を当てられたような気持ちになる。腕を見ると鳥肌が立っていた。

 階段を上りながら二回ほど角を曲がると、上がった先に鏡が見えた。

 その中に、一瞬ボヤけた人影を見る。

 黒髪の長い女性のように見えた。

 全身が通電するかのような感覚を覚え、そこから先に足を踏み出す勇気が持てなくなる。

「どうかしました?」

「い、いや、大丈夫」

 ゆっくりと、周りを確認しながら、警戒心丸出しで二階まで上がる。

 上がった先は、左右共に突き当たりまで人の気配はない。腐臭も、今は感じなかった。

 階段上がってすぐ右が昌司の部屋だ。

 扉を開けて中を覗く。そこも特に異変は無い。

 周りを気にしながらカバンを手に取り、走り去るように部屋を出る。

 部屋の外に居る真弥へ移動するように促すと、寄り道もせずに階下へ向かう。

 途中、鏡からは目を背けた。

 恥ずかしい事に、心臓がバクバクと音を鳴らしており、後ろを付いてくる真弥に聞こえるのではないかとすら感じる。

 リビングに入るなり、昌司に向けて投げるようにしてカバンを渡した。

 鍵は直ぐに出てくる。じゃらじゃらと同じ様な鍵が房になっていた。

「どれだか分からないね。まぁ、全部見て回るだろうし、良いかな」

「ああ、全部見る」

 康人は昌司から鍵を受け取ると、足早に、先程の開かずの扉へ向かった。

 部屋に近付くに連れ、また腐臭が漂いはじめている。近くに来ているのだろう。

 緊張による鼓動の激しさに、鼻血でも出るのではないかと思われた。

 扉の前に立ち、鍵の束を持ち直す。

 強くなり続ける腐臭に康人の手は震えていた。

 一旦真弥の方を見るが、何も感じていないのだろうか、キリッとした表情で康人の方を見ている。

 この時、嗅覚によって存在を確認出来るのは自分だけだと直感する。

 鍵を一本ずつ鍵穴に合わせていく。

 刺さらないものもあれば、刺さるが回らないものもある。刺さるが回らないものはほとんどない。

 半分程試した後、また刺さるものがきた。

 ゆっくりと時計回りに力を込めると、回転してカチリと音がした。

 視界に星が飛ぶ程に緊張が高まる。

 ドアノブを回し、扉を開いた。

 他の部屋のものと違い、少し頑丈で重いようだ。

 立て付けも良く、玄関の扉を開くような感覚を覚える。

 開いた扉の向こうには、思ったよりも広い部屋があった。

 このままここで暮らしても快適ではないか、そう感じられる程に広い。

 康人の部屋よりも広く、大きなクローゼットが見える。

 入ってすぐ左手にもう一つ扉があり、そこにはユニットバスが取り付けられていた。

「客室のようですね」

「あぁ、そうみたいだな。荷物とかは全然無いけど、少し調べて見よう」

 部屋の中に足を踏み入れるが、特に異変はない。腐臭もなければ、何かの物影があるわけでもない。

 フローリングには埃も積もっていない。空気は少し淀んでいるようだ。張り替えた壁紙、それと木材の臭いだろうか。

 康人は、中まで入って気が付いた事があった。

 窓がない。

 位置的には建物の端にあると思われる。だが、窓がなかった。

「神田さん、ここ、窓がないね。何でだろう?」

 部屋全体をぐるりと見回すと、一面だけ真っ白な壁紙がはられている。

 映画でも観る部屋だったのかも知れない。

 反対側の壁を見ると、コンセントが幾つか付いている。

 他の客室と離れた場所にあるのも頷ける。

「視聴覚ルームだったのかもね」

 と言いながら、康人は自分の見解を説明する。

 次に、クローゼットに手を掛けた。

 こちらは意外に重く、何かが引っ掛かるような感じがある。溝にゴミが詰まっているのかも知れない。

 見てみると、少し髪の毛が絡まっている。本当に注意深く見なければ気付かないだろう。

 クローゼット内はやはり何も無い。

「ここには特に何もないかもね」

 そう言いながら、隅々まで細かくチェックする。普段面倒がられる几帳面な性格は、ここでは役に立った。

 クローゼットの奥に隙間があり、何かが詰め込まれているのに気が付く。紙か何かのようだ。

 爪の先で摘まんで引き抜くと、メモ用紙か何かのようだった。

 丁寧に折り畳まれ、潰したストローのような形状をしている。

 開いてみるとこう書かれていた。

『私はここに居る』

 茶色いインクか何かを使って書いたのだろうか、字の形は悪くないが、太さが整わない。ちゃんとしたペンで書いたものではないだろう。

「どのような意図があったのかは解らないですが、ただこれだけ見ると無気味ですね」

 真弥が後ろから覗きながら、耳元で呟く。

 事態は深刻な筈なのに、先程とは違う意味で鼓動が高鳴った。

 耳でも赤くなっていないだろうか、康人はそちらの方が気になる。

「このメッセージ、書いた時は、書いた主はこの部屋に居たとしか考えられないよな。怪談的な話じゃなければ、自分を確認する意味で書いたか、この部屋に居た証拠を残そうとしたのかのどちらかな気がする。この建物の中に居る何かが、これを書いた主で、このメッセージを見付けさせる為に小池さんを使ったのならば、これを見付けた今は、小池さんはもう大丈夫だろうと思うな」

「でも、これだけで解決はしませんよね。ここに居た事だけを知らせても、何も意味はないでしょうから、まだ何か起きるような気がします。それに、今の段階では、何かを伝えようとしているだけとは限りませんし」

「小池さん、まだ何かあるか。確かに言われた通りだ。自分自身の逃げたい気持ちが出てきてるな」

「仕方がないですよ。私達は既におかしな現象に巻き込まれてますし、私だって、由紀の事がなければ逃げ出してます」

 そう言ってニコリと笑う真弥の顔を、康人は暫く正面から見つめてしまった。

 逃げ出す為の方便自分を恥ずかしいと思い、真弥への気持ちに尊敬の念がプラスされていく。

 ただ一方的に一目惚れし、遠くから見るだけで会話すらした事がなかった。

 その行動だけを遠目に見て、知ったつもりになっていた。

 しかし、もっと深い。まだ何も知らない。

 その本人の内面を垣間見れた嬉しさは、康人に比類ない満足感を与えたようだった。


 康人と真弥がリビングに戻ってきたのは、一時間後だった。

 結局二人が見付けたのは、紙にしたためられたメッセージ一つである。

 謎を解く糸口にするのも難しいだろう。

「で、そのメモが唯一手掛かりになりそう、と」

 のんびりとした昌司の口調には、先程の神妙さはない。いつもニコニコした顔にメガネが似合っている。

 理由は、隣に座っている由紀だろう。

 落ち着いてしまったのか、普通の表情で焼き魚を食べている。

 決して明るいとは言えないが、虚ろなものは取り去られているようだ。

「小池さん、もう大丈夫なの?」

「うん。あの後から、自分を見失いそうなの消えたみたい」

 と言いながら、チラリと昌司を見た。当人はキョトンとした顔をしている。

 康人の勘は、昌司が由紀に何かテコ入れをした事を想像させた。

「憑き物が落ちたなら、次は対策だよね。一人は危ないのかも知れないので、二人ずつ、もしくは全員で行動しよう。勿論寝る時も。そして」

 昌司はテーブルの上に、塩の入った袋を置く。

 一週間の寝泊まりには必要も無いのに、二袋もあった。

「撒くの?」

「部屋の出入口をこれで囲うんだよ。気持ちの問題だと思うけど、こんなんでぐっすり寝れたら儲けもんでしょ」

「海外ドラマの観すぎだな」

 苦笑いしながら、皿の上に積み上がった焼き魚に手を伸ばす。

 キレイにハラワタが取られている。昌司も康人に負けず劣らず仕事が細かい。

 まだ、焼き上がって間もないようだ。先程食べたばかりだったが、香り負けて少し食欲が出てきた。

「昌司、これ焼く時に気が付いただろ。二袋あるのは意味が分からないが」

 昌司はニコリとする。図星かもしれない。

 四人はそのまま軽く食事して、夕方までの間は周辺を散策した。

 康人にしてみれば、昨日到着してからはじめての外出である。何もかもが新鮮に感じられた。

 昌司は常に由紀の手を握ってリードしている。足首を傷めた由紀は、何も言わずに付いて歩いた。

 康人と真弥は対照的に付かず離れずで、手が触れない程度の距離で歩いた。

 風は強めで、木々が常に揺り動かされている。

 すぐ近くを流れる小川を越えて数分歩くと、少し流れの強い渓流に出た。

 ここで釣りをしたのだろう。少し石を動かした形跡がある。

 皆、本当にのんびりと過ごした。

 日陰で談笑したり、ズボンの裾を折って浅瀬に入ったり、岩を持ち上げて沢蟹を捕まえたりした。

 日が傾き、光が真紅に染まる頃にはキッチンで夕食の準備を始めていた。

 ここ一日の間に起きた悪い出来事は忘れ去られていた。

 由紀はさすがに静かだったが、昌司の話題にはたまに笑顔を見せる。

 夜、全員で寝る。そんな予定だったが、由紀のごり押しで男女に分かれた。

「真弥は、獣たちと一緒には出来ません!」

 塩など忘れさっていた。

 ただ、鍵だけはどちらの部屋もしっかりかけていた。

 どちらの部屋でも、夜遅くまで話をしていた。


「なぁ、昌司。昼間のメッセージだけどさ、あれって何だったんだろう?間違いなく怪奇現象は起きてるから、昔の持ち主の悪戯って事はないだろうし、何もなければそんな事もしない訳で」

「怪奇現象ったって、何も見てない身だからなぁ。因みに、今回は変なサプライズはしてないよ。真弥ちゃん呼び込むのに全力投球したから。半分は由紀ちゃんのお陰だけどね。だから、俺の仕込みではないよ。何かを訴えようとしてるんだろうから、それを考えてみようか?」

「何も、ねぇ。まぁ、俺も完全にそうだって言えるもん見てないけどな。神田さんが見たのも、本当に夢かもしれないし。で、メッセージだけどさ、『私はここに居る』だから、あの部屋にいる時に書いたんだろ?けど、意図はなんだ?」

「自分が今そこに居る事を再確認したかったんじゃないかな?再確認をしなくちゃいけない状況があったんだろうね。例えば、やっさんならどんな状況に再確認したい?」

「分かんないな。長い時間孤独でも感じた時とか?違うな。あの部屋に居た事を誰かに知ってもらいたかったのかな。例えば…」


「あの文字、何で書いたかなんけど、あの色、見覚えない?恐らく血液。それを、何か先の尖った物で書いたと思うの。楊枝とか。そんな状況って、何が考えられる?私は、あのメッセージの主が、あの部屋に監禁されてたんじゃないかと思ったの」

「真弥、そういうの好きよね。監禁、か。こんな山奥の別荘なんか、正に適してるのかも。叫んでも絶対誰にも聞こえないもんね。もしそうだとしたら鳥肌立つわ」

「由紀に変な行動起こさせた何かは、その主ですよね。きっと、あの部屋で死んでしまった。だから、それを伝えたくてあんな事をしたのかなって。可哀想な話なんじゃないかなと思う」

「やめてよね、本当に怖かったんだから」

「ゴメンゴメン。でも、由紀、何かもう大丈夫そうじゃない?後は安心して楽しめそうだよね」

「ええっ!私もう帰りたいよ。本当に怖かったんだから。今だってビクビクしてるんだよ?明日は昌司に帰らせろってゴネるつもり。悪いけど、みんな道連れだから。そもそも、一週間とか長すぎなのよ。昌司が余計な事ばっかり考えるから」

「え?余計な事?」

「いけない、口が滑った」


 先に寝付いたのは女性陣だった。日が開けて少しした頃には寝息を立てた。

 男性陣は、昌司は同じ頃には寝ていたが、康人は寝れずに天井を見ていた。

 昌司が居るので、昨夜のような恐怖感はない。

 夜になってからは風も止み、静かになっていた。

 昨夜は、今考えると運が良かったのだ。康人は思い返す事に集中した。誰か隣に歩みよっても気付かない程に集中する。

 夜はそのまま更けていった。



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