短編集

著 : 会津 遊一

ストーカー女


「あー、喉が渇いた」

 青年は、気怠そうに声を上げた。

 茹だるような湿気とバイトの労働で、汗が止まらなかったのだ。

 もう口の中は、カラッカラである。

 この乾きを潤すには、缶ビールを何本か一気飲みする必要があるだろう。

 アパートの錆び付いた階段を青年は駆け上がった。


「なんだこれ」

 青年は部屋に入ろうとした所で、気が付いた。

 ドアの前に、親指ぐらいの小さな日本人形が置いてあったのだ。

 目は白く濁ったガラス玉が使われていて、触ると中の黒点が左右に揺れていた。

 頭に植えられている髪も、人毛のような艶めかしい光を帯びていた。

 つなぎ目が見えない関節だったが、手足も曲がるように出来ている。

 小さいとはいえ精巧に作られており、まるで今にも動き出しそうであった。

 こんな高価な物を自分で置いた記憶はない。

「まーた、隣の女か」

 青年は苦々しく呟きつつ、人形を拾い上げていた。


 今までも、隣人の女性からは、似たような嫌がらせを受けきたのだ。

 青年が頼んでもいないのに、帰宅に合わせて温かい晩飯が置かれたりした。

 部屋の前で奇声を叫ばれた挙げ句、のぞき穴の辺りが生臭い涎で濡れていた事もある。

 1時間毎に窓ガラスが叩かれては、隣の部屋から甲高い笑い声が聞こえくる夜さえあった。

 流石に不気味に思ったのでアパートの大家に相談したが、何故だか聞く耳を持って貰えない。

 逆に、彼女は代々ここに住んでいるんだ、と理不尽に注意される始末だった。

「なんで俺が、こんなメに合わなきゃいけないんだよ」

 青年からすれば納得できる話ではなかった。


 嫌がらせの切っ掛けは、彼女の告白を断った事だろう。

 それまで道端で顔を合わせても会釈をする程度の付き合いだった。

 会話すら殆どした記憶がない。

 にも関わらず、最後は同じ骨壺に入って欲しいと、告白されたのだ。

 意味が分からない上に、突然そんな事を言われても受け入れられる筈もない。

 薄気味悪く感じた青年は、丁寧に頭を下げて断った。

 しかし、その誠実と思った行動が彼女の怒りを買ったらしい。

 それ以後、ストーカーのように付きまとわれだしたのだった。

「もう我慢できねぇよ」

 怒りに震えた青年は、この人形を持って部屋に乗り込んでやろうと考えた。

 タイミング良く、既に女性も帰宅しているらしい。

 隣の部屋からはブツブツと奇妙な独り言が聞こえていた。

 時折、何かを振り回している音も聞こえていたが、今は気にならない。

 一刻も早くあの女の顔を見て、こんな嫌がらせをするんじゃない、と言ってやりたかった。


「おい、いるんだろ。出てこいよ!」

 青年は女性の部屋の前で叫んだ。

 だが、ドアを開ける気配はない。

 廊下に面している窓からは灯りが漏れているし、派手に動いているのが外からでも分かった。

「居留守でもしてるつもりかよ! いいから、出てこいって!」

 苛立った青年は人形を握りしめた手で、ドアを叩いた。

 ドンドン、と。

 音に驚いたのか、部屋の中からカエルが潰れたような嗄れた声が聞こえた。

「ほら、いるんじゃねーか! 出てこいよ」

 また、青年は同じ手でドアを叩いた。

 そうすると、また中から鈍い悲鳴と、ズリズリと床を転がる音が聞こえてきたのだ。

 続けて、子供のように甲高い声が廊下に響いた。

 もしかしたら彼女は、怒っている青年を嘲笑っているつもりなのだろうか。

「クソっ! 出てきて話を付けようぜ!」

 苛ついた青年はもう一度、ドアを叩いた。

 ドンドン、と。

 その力が強すぎたのか、ドアの一部が凹み、蝶番が歪んでしまう。

 握っていた人形も少し壊れてしまう。

 だが、そうまでしても彼女が部屋から出てくる事はなかった。

 それどころか、途中から奇声を叫ぶ事も無くなり、暴れる気配も消え失せていた。

「……また明日にするしかないか」

 出てこないのなら、ここにいても意味はないだろう。

 それに、アパートの廊下で騒ぎすぎたかもしれない。

 他の住人には迷惑だろうし、青年は諦めて部屋に戻るしかなかった。



 数日後。

 住民から異臭がすると騒ぎになったので、大家が女性の部屋を合い鍵で開けた。

 そこには無惨な死体が転がっていた。

 死体解剖の結果、圧死と診断された。

 まるで、青年の巨大な手で握りつぶされたかのような圧力で体が変形していたとの事だった。



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