短編集

著 : 会津 遊一

あかんべい


「私は、もうすぐ死ぬ」

 と。

 祖父が、僕に言った。

 病院のスチール製パイプベッドに横たわり、まるで干し葡萄のように程よく乾燥した瞳を天井に向けたまま、僕に話し掛けてきたのである。

「……なんだって、爺ちゃん?」

 祖父の状態を確認するべく病院に訪ねてきていた僕は、思わず聞き返してしまった。寝ていた人が不意に喋りだしたものだから、聞き間違いかと思ったのだ。

 が。

 祖父は白内障にかかった黄色い眼球で僕を見据え、

「私は、もうすぐ死ぬ。だから、お前に本当の事を伝えたい」

 と、言い直したのである。

 突然の言葉に僕は戸惑う事しかできなかった。

「……何の冗談だよ、爺ちゃん」

「冗談ではない。長年入院してきた私は、自分から出ている死のニオイが分かるんだ」

「何を言ってるんだよ。そんなの神様でもなきゃ、分かるワケないだろ」

「いいや。腐りかけの肉は臭いように、死にかけた人間の細胞はニオイが――ゴホッ!」

 話していたら祖父が急苦しそうに咳き込みだした。枯れ木のように細い体がベッドの上で飛び跳ね、ぎしゃん、がしゃん、と軋む音が病室に響く。

 

 僕は慌てて近寄った。

「あんまり長く喋っちゃダメだって。身体に負担が掛かるよ」

「これぐらい大丈夫だよ」

 そう言って祖父は薄く微笑み、乾いた雑巾のようにシワシワな手で僕の頬を撫でてくれた。その力は弱々しく、触っている感触など殆どしない。

 そんな姿を見せられ、僕は余計に悲しくなっていた。

「大丈夫じゃないから咳き込んだんだろ。無理はダメだって……」

「そんな顔をしてないでおくれ。お前は優しい子だ。母親と匂いまで似ている」

「やめてよ。なんだか遺言みたいじゃないか」

「だが、私はもう直ぐ死ぬのは事実だよ」

 そう断言する父祖の表情は雄々しく、僕は何と言葉を返せば良いのか分からなかった。

「爺ちゃん……」

「私は死ぬ。だからこそ、お前に本当の事を話そうと思う。家族や女中、そして20年前の警察すらも終には知り得なかった、碌でもないお前の両親達について」

「……ぼ、僕の両親だって」

 と。

 僕は眉を顰め、祖父の事を怪訝そうに見詰め返してしまった。

 どういう事なんだろうか。

 既に、僕と親は幼い時に死別している。

 それは今から20年ぐらい前の話し、なんでも近隣の火災に巻き込まれて焼け死んでしまったらしい。その後、肉親である祖父に引き取られて二人で東京に引っ越したのが3歳の時であった。

 だから僕は両親について殆ど覚えていない。祖父も話してはくれなかったので、火災や死亡理由の情報は新聞を自分で調べたから分かった事であった。

 唯一。

 僕が現在でも印象に残っている親の姿と言えば、父親が眼を赤く光らせて笑っている所ぐらいだった。顔や髪型、服装は覚えてないが、口を開いて普通に笑ってる所だけ記憶していた。

 ただ、物理的に考えて人間の目玉が赤くなる筈もないので、きっと一つしかない思い出を僕が勘違いしているだけなのだろう。

 そんな縁遠い両親について、今更どんな話しがあるというのだろうか。

 と。

 考えていたら祖父が申し訳なさそうに尋ねてきた。

「聞いてくれないか、私の話を?」

「……爺ちゃん」

「頼む」

「……分かったよ」

 始めは戸惑ったが、僕には必死な顔をする祖父を止められなかった。

「有難う。――元々、お前の実家は東北の方で、何百年と続いている豪商の家柄だった。古い割に家屋も大きく、その屋根には大径木が乗っている光景を私は今でも覚えている」

「ん、大径木って何?」

「樹齢70年を超える唐松の木さ。その太さが150センチはある大径木を、昔の人達は屋根の上に乗せていた」

 すると祖父は自虐的に笑いだす。

「ふふ。当時の私も、その家屋を見て立派な歴史がある光景だと思っていた。いや、自惚れていた。今、考えれば権力と金に取り憑かれた悪しき風習にしか過ぎないというのにな」

「爺ちゃん……」

「そんな私が円満な家庭を作るなど、無理な話しだった。とどのつまり蝮の子は蝮。私は肉親を増やすのが事業拡大に繋がると信じて妻に5人も産ませたが、子供達は幼児期から既に仲違いをしていたのだ。いや、ある意味、私の血をより色濃く受け継いだ結果なのかもしれない」

「仲違い?」

「ああ。私の子供達は物心が付く前から喧嘩をし合い、虐め合い、餓え合い、差別し合い、殴り合うような諍いを幾度も重ねていたのだ」

「え」

 祖父の話に耳を傾けていた僕は呆然と呟いてしまう。

 信じられなかった。

 親が凶悪な犯罪者で、その子供も犯罪者になったという話しならまだ分かる。しかし、温厚そうな祖父の子供達、つまり僕の親と叔父にあたる人達がそんな危うい事を繰り返していたとは想像する事さえできなかった。

 が。

 軈て祖父は、目を丸くしている僕に優しく尋ねてきた。

「お前に、その諍いの理由が想像できるかい?」

「……いや、ゴメン。分からないよ」

「何も誤る必要はない。私もお前と同じように戸惑うだけだった。何も出来ず、どうしてこんな事になってしまったんだと、ただ嘆くだけ。まるで人間に踏みつぶされる虫螻のように、家庭という土中から事態を眺めているだけだった。しかし、何事にも転機があるように、軈て私は子供達の諍いの原因を偶然に知る事となったのだ」

「げ、原因?」

 そう僕は眉を顰めて尋ねた。

 が。

 次の瞬間。

 ゾッとした。

 祖父が僕を見詰め返す瞳は廃油缶に溜まった液体のように濁り、その姿は人間の皮下脂肪が溶けて固まった死蝋のような禍々しさを醸し出していた。

 肉親に向ける雰囲気では無い。

 雅か、そんな態度を急にされるとは思ってもいなかったので、僕の背中を幽霊が冷たい手で撫でていったような悪寒が駆け巡っていたのだ。

「……それは、蒸し暑い夜の事だった」

 と。

 僕が惚けている間に、祖父がまたゆっくりと話し出した。いつの間にか視線を戻し、何時もと同じように固いベットに身を沈めていた。

「私は厠からの帰り、5人の子供達が一つの部屋に集まっていく現場を偶さか目撃した。私は直ぐに思ったよ、こんな現象は有り得ない、と。あの啀み合っていた子供達が仲良く一緒に居るなんて不快だ、と。そう違和感を感じた私は、障子に小指ぐらいの隙間を作って子供達の部屋を覗いた。それが悪夢の始まりだと想像もせず、好奇心から私は見てしまったんだ」

「み、見たって何を?」

「……何かを知るという事がどれほど悍ましい事か。それを、当時の私は肌で理解してしまう。今も、その光景が忘れられない。忘れたくとも、忘れようが無いんだっ……」

 そ、う。

 まるで独白のように呟くと、祖父は俯いてしまった。

 その荒い呼吸は、まるで腹を空かせた野良犬のように生臭く。

 その茹でた豚肉のように灰色だった皮膚がスーっと赤くなっていく。

 軈て、祖父はもう一度、嗄れた声で呟いてから黄色い瞳を静かに閉じたのだった。

「……子供部屋では、お前の母親が残り4人の男兄弟に取り押さえられていた。家畜を繋ぐ荒縄で両足を縛られ、大股開きにされたまま天井から逆さ吊りにされていた。そして、その回りを取り囲んでいた4人の男兄弟は白濁色の体液を絞り、それを体内に流し込んでは一滴も溢させないように固定されていた。――その十月十日後に生まれたのが、お前なんだよ」




 僕は祖父の病室を飛び出し、トイレに駆け込んだ。

 そして水面台に頭を突っ込んで、蛇口を全開に捻ったのだった。

 ビシャ。

 ビシャビシャ。

 髪と服が瞬く間に水浸しになっていく。

 シャツの隙間に雫が潜り込み、背中を通り抜けて下着まで濡れそぼつ。

 軈て溶鉱炉のように火照っていた頭が冷やされた時、水面台から頭を引き上げたのであった。

「酷いツラ、してるな」

 僕は鏡を見て呟いた。

 今朝方、家を出た時は普通の顔をしていた筈なのに、映っている顔はまるで病弱のまま痩せ細った猫のようである。それなのに眼だけが爛々と輝いている姿は、自分の事なのだが不気味に思えてしかたなかった。

 バッと。

 僕は壁に備え付けられていたテッシュを乱暴に取って顔を拭い、それをゴミ箱に捨ててから呆然と呟いていた。

「……まあ、さっきのは簡単な話しだよ、な」

 要するに祖父は人様から白眼視される行為で生まれた内子という事実を長年ひた隠すも、死ぬ直前になって黙っているのが辛くなったのだ。誰だって死ぬ時は、潔く死にたい。

 ただ、僕に伝えるのは気が少し引けたから、つい歪な態度を取ってしまったのだろう、きっと。

「ふふふ。本当、簡単な話しさ」

 僕は苦笑いした。

 自分の出産秘話としては気持ちの良い話しでは無いし、事実を知ってショックを受けているのも本当だった。

 が。

 それよりも祖父の苦しみを気が付けなかった、鈍い自分に落胆していた。僕が何も知らずにのうのうと生きている間、祖父は20年も1人で耐えてきたのだ。

 折角、男手一つで育ててもらったというのに。

「ダメな奴だな、僕って……」

 そう、肩を落としてトイレの洗面台の前で立ち尽くしていると、不意に背後から声を掛けられたのであった。

「大丈夫かい、君?」

 僕が驚いた振り返ると、いつの間にか中年の男性が近寄っていた。

 印象に残らない普通の顔。そして白衣は着こなしていなかったが、どうやらこの病院の医者っぽく、胸に何とかって名前が書かれた作業員用のプレートを付けている。

「え、あ、はい、大丈夫です。すいません」

 僕は驚きと赤面した顔を隠すように頭を下げていた。

「いやいやいや、良いんだよ。それよりも君は体調が優れないようだね」

「あ、いや、大丈夫です」

「そんな青白い顔をして大丈夫と言われてもね。ちょっと、私に顔を診せてごらんなさい。なーに、手間は取らせないよ」

「……で、でも、ご迷惑でしょうし、大丈夫ですよ」

「ふふ。そんな状態じゃ、トイレを出た瞬間に倒れるかもしれないだろ。君は病院の中で騒ぎを起こす方が、迷惑だとは思わないのかい?」

 そう強く言われて僕は言葉に詰まる。

「あ、それは……」

「だろ。ほらほら、顔を上げて」

 ニッと笑った中年の男性は強引に僕の頭を触り、全体をしげしげと眺めるように調べ出す。時折、頬をさすったり、手の甲のニオイを嗅いだりしてきたので恥ずかしくもあったが、医者のやる事なので僕は素直に従う事にしたのだった。

 軈て、中年の男性は手を放す。

「どうやら一時的な心身疲労による神経麻痺だけのようだね。特に異常はないし、頭痛薬を飲めば落ち着くかな」

「あ、有難う御座います。それで診療のお代はどうすれば……」

 僕が深々とお辞儀すると、男性は爽やかに笑い返していた。

「いやー、良いんだよ。サービスって事で一つ」

「そうですか。何か、すいません」

「いやいや、礼には及ばない。っと、もう一つ、診察するのを忘れてた。ちょっと、あかんべい、をしてくれるかい」

「は?」

 僕は眉を顰めた。

「だから、あかんべい、だよ」

「なんですか、それ?」

「ほら、目の下の裏を見せて、舌を出す奴だよ。知らないのかい?」

「……もしかして、アッカンベーの事ですか」

「そうも言うのか。それ、やってみてくれないかな」

「はぁ」

 僕が怪訝そうに従うと、男性は優しく微笑み返してくれた。

「よし、診察は終わり。ストレスによる貧血もなさそうだね」

「え、今ので分かるんですか?」

「そうだよ。目の下の裏側は皮下が薄いから、血の流れが判断しやすいんだよ。貧血になると直ぐに白っぽくなってしまう。それに指と目、舌を同時に動かすのは、脳の管理や精神状態を判断するのに役立つのさ」

 アッカンベーなんか子供の遊びだとばかり思っていた僕は、素直に驚いてしまった。

「そうなんですか……。知りませんでした」

「最近は大手病院でもやらない所が増えたけど、昔からある検査法だよ。まあ、健康で何よりだったね。それじゃあ」

 と言って、中年の男性は早々にトイレから出て行ってしまった。そのあっと言う間に行動に、取り残された僕は呆気に取られて暫し動く事が出来なかった。

 だが軈て1人で笑ってしまう。

 一体、あの人は何だったんだろう、と。

 突然話し掛けてきて、突然診察をしてくれるなんて、変な人だなぁ、と。

 そう。

 笑いはするのだが、トイレから出る僕の足取りは少しだけ軽いものになっていたのだった。

「爺ちゃん、突然病室を出て行ってゴメンね」

 祖父の病室に戻った僕は、ベットの傍らに腰を掛けた。

「……いや、私こそ済まない。お前には聞き苦しい話しだっだろう」

「まぁね。でも、過去の事だし、気にしても仕方ないよ。それよりも、なんか疲れたから今日の所はこれで帰る事にするね」

 そう言って僕は病院を立ち去ろうとした。

 が。

 その時、必死な顔をした祖父に止められたのである。

「待ってくれ。話しは終わってない」

「まだ何かあるの?」

「出生の話しだけなら私は墓の下まで持っていくよ。だが、私が伝えたかったのは別にある」

 僕は訝しむ。

「……あの続きが、まだあるって事?」

「ああ。お前は20年前の大火事を覚えているか」

「うん」

「当時、全員焼死した事になっているし、警察も不審火と言う事で落ち着いている。だが遺骨を集めた結果、我が家の跡地には子供の骨が1人分だけ足りてなかったんだよ」

 僕は驚く。

「そ、それって誰か死なずに生きてるって事?

 でも新聞には全員が死んだって書いてあったよ」

「ああ、そうだな。鎮火しても姿を現す者は居なかったから、有耶無耶の内に警察が全員死亡したと判断したのさ。当時は骨からDNAを割り出す検査法もなかったし、誰の遺体がないのか判断は無理だった」

「でも、本当に生きてたとしたら、何で出てこないの?」

「――放火して家族を殺した犯人だからだと、今は確信してる」

 祖父に目を見据えて言われるも、意味が分からなかった僕は怪訝そうに声を上げてしまう。

「どういう事?

 なんで殺すの?」

「私は火事になる数日前。あの晩の行為は何だったのかと、5人の子供達を問い詰めた。結婚もせずに出産した事で世間様からはずっと白い目で見られていたし、もう3年は経つので良いだろうと我慢できずに尋ねた。すると、息子達は言った。――誰の子が生まれてくるか賭けをした、と」

「か、賭け?」

「そうだ。生まれた時から長男はお前の母の声だけを愛し、次男は母の指だけを愛し、三男は耳だけを、そして四男は皮膚だけを心から愛していた。だが、その幼年期から続く奪い合いは治まりを知らず、このままだと軈て殺し合いに発展してしまう。そう思った息子達は体液を混ぜ、生まれてきた子の親が結婚するという決まりを作ったのだ、と言っていた」

 と。

 ぎゅる。

 ぎゅるぎゅるっと。

 急に胃が捻れる音がした。体内の奥底に埋め込まれている筈の臓器達が一斉に暴れ出し、激しく脈打っている健康な心臓を圧迫していった。祖父の話を聞いた途端、まるで細胞達が宿主を憎んで反乱を起こしたような嫌悪感が僕の全身を包んでいった。

 気持ち悪い。

 何かが喉奥から出てきそうだった僕は、口元を手で隠していた。

「それ、本当なの?

 信じられないよ」

「真実だ」

「じゃあ、何で愛している人も殺すの?

 もし、仮に全てが本当だったとしても、出産したのなら母は誰かと結婚しないと変だよ!

 さっき未婚だって言ったじゃないか!」

 僕が病室という事も忘れて叫んでしまうと、祖父は暗暗たる溜息を洩らす。

「そこだよ。最後に私が話したかった、お前の両親の事とは」

「え」

「何故、お前の母親は子を産んでも、賭けの勝者と結婚しなかったのか。長年、そこに疑問を感じていた。――私が死にかかり、お前が成長するまではな」

「……どういう事?」

「全ては出産と成長の為だった。私は、お前を育てる為だけに選ばれたのだ」

「僕を育てる?」

「ああ、そうだ。母胎から新しい命が生まれた時、人間は体調が変化する事がある。食事や好み、時には人格すら変わって――」

 と。

 顔を歪めて祖父が話していた時、病室内に僕を呼び出すアナウンスが流れたのである。なんでも緊急の用件があるからと外部から電話が掛かってきているらしい。

「誰だろう?」

「急用なら会社かも知れないぞ」

「うーん。ちょっと確認してくるわ、爺ちゃん」

 そう僕は言い残して病院の受付に向かうも、ナースから取り次いでもらった電話は既に切れていた。何なんだろう。僕は訝しんだけど、また連絡があるだろと判断して直ぐに祖父の元に戻った。

 が。

 その時には、もう息をしていなかった。

 白内障の瞳を真っ赤にさせ、何かを藻掻き求めるように舌をだらしなく垂れ流したまま動かなくなっていた。その老いてしまって弾力性の無くなった皮膚が、薄紫に変色しているのを僕は見逃さなかった。

 間違いない。

 この短時間で。

 誰かに。

 部屋を少し離れた隙に、祖父は誰かの手で呼吸を止められて殺されたのだ。

 僕は目の前にある肉親の死体を、誰かが悲鳴を上げるまで呆然と眺め続けていた。




 軈て駆け付けてきた医師達に僕は担がれたまま、待合室にまで運ばれた。まるで受刑者のように引き摺られ、椅子に座らされたのである。

 その時、手続きやら警察がどうとか色々と言われた気もするが、僕にはよく分からなかった。

 今は、全てがどうでもよかった。

 ただ。

 どうして。

 なぜ。

 何でこんな事に。

 そういう言葉だけが僕の頭を支配し、呆然としていた。

 すると、じんわりと痺れていた脳の奥から祖父の姿が思い浮かんでくる。

 まだ元気に動いている頃の。

 ほんの数十分前の。

 くそ。

 僕は、つい目頭が熱くなってしまう。

 それを手で拭い、苦しみから逃れるように別の事を考えた。

「……そういえば」

 今日の祖父は何が言いたかったのだろうか。

 そう、何気なく思い返す。

 と。

 ハッとした。

 遠くの方で見知らぬ人が席に座る。

 あ。

 そう、だ。

 そういえば最後に女性は出産すると体質が変わる人が居る、と祖父は言っていた。その場合、一番最初に影響を受けやすい人間の部位は何処だろうか。何故か僕は、それが無性に気になっていた。

 それは、声か。

 違う。

 指。

 違う。

 耳。

 違う。

「……皮膚、か」

 肌荒れなら、二日酔い程度でも直ぐに現れる。

 その時、何故か遠くの方で座っている男がまた目に止まる。

 休憩室の片隅に座しているだけなのに。

 それは誰だったか。

 いや、今はそんな事を考えている時ではない。

 今は祖父の言葉だけを思い出そう。

「……もし皮膚が出産で変わってしまったら、どうする?

 もう愛する理由はない。子供は賭けの対象なので結婚はしない。なら、どうして殺す必要があった?」

 と。

 言った時。

 僕は全てを繋げる一つの馬鹿げた可能性に辿り着く。

 ジワッと汗が出た。

「……祖父は僕を育てる為に生かされたと言った。それに、ニオイも似てる、と。もしかして母の子が同じニオイになるまで待った。そして、子を独り占めする為に前もって全員を――」

 独り言は、そこで止めた。

 あまりに滑稽な考えだったので僕は残りの言葉を飲み込んでいた。

 有り得ない。

 そんな馬鹿げた話しがあるのものか。

 皮膚が好きだからと言って、そんな理由で家族や近隣の人間を皆殺しにするなんて。

「ははは」

 僕は暫し、苦笑いをしていた。

 が。

 その時、何故か遠くの方に座っている中年の男性の事がまた気になった。

 会った事があるような。

 無いような。

 そう僕は朧気な記憶を辿り、軈て誰だったのか思い出す。

 ああ、さっきトイレで診てくれた医者だったか。

 わざわざ顔とか身体を触って調べてくれた。

 そういえば、あの人も僕の皮膚のニオイを嗅いで――

「あ……」

 呆然と呟いた次の瞬間、僕の顔から血の気が引く。

 心臓が何かに鷲掴みにされる。

 あの男は。

 赤い眼をした、あの中年の男は。

 目の下を裏返し、長く舌を伸ばして笑っていた。

 遠くの方から僕をずっと見続け。

 記憶の中にある父親と同じように、あかんべい、をしていたのであった。



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