私の母が殺された時の話をしよう。
その日、母は夕飯の支度をするために近所のスーパーで材料を買い、アスファルトの輻射熱から逃れるように涼しげな河川敷を歩いて家路へとついていた。牛乳やら野菜がパンパンに詰まっているビニール袋を両手に抱えたまま長々と歩いていたので、大粒の汗を額に滲ませ、溜まりつつあった膝の関節痛を誤魔化すように身体を左右に揺らしていた。
本当なら鋪装された道路を通る方が家に早くたどり着けるし、足に掛かる負担も少ないだろう。だが、ジージージーという蝉と小さな虫達の音色に耳を傾けつつ沈み掛けた赤黒い太陽の斜光が広がっていく水辺を眺めるのが母は好きな人だった。
そうやって、水面が波打つこともない静かな水の音に母が耳を傾けていたら、唐突にビニール袋を振り回し出したのである。まるで大量に発生した藪蚊を振り払うかのように、ぶぉんぶぉんと、手を鬱血させるぐらい目の前にいる何かを狙っていた。だが、老体に無理な動きを続けられるはずもなく、また動きに疲労した身体が付いていかず。その内にバランスを崩して倒れてしまい、足下に落ちていた大きな石に頭をぶつけて死んでしまったのである。
偶然にも、その光景は川の氾濫を監視するために設置されているWEBカメラでリアルタイムに撮影されており、奇跡的に現場を目撃している人が居たのでこの話しを私は知ることが出来たのだった。
証言した人は言う。
夕方の帰宅時間なのにサラリーマンや主婦の姿は全く見当たらず。
辺りには老婆が重いビニール袋を武器にして狙うような人間は居なかった、と。
私の父が殺された時の話をしよう。
アンダーバーから激しく散る火花、真っ赤に燃えるホイール、巻き上がる黒煙、ひび割れたフロントガラス、粉々になって消えるドアミラー、変形するボディ、エンジンは4000回転、時速120キロの世界からコンマゼロ秒以下の世界へ移り変わる。車輪の付いた鉄の塊が軽やかに舞って轟々という音を立ててタイヤは空回りするが、次の瞬間にはアスファルトの上に激しく叩き付けられて転がっていく。そのまま数百キロはある鉄塊が大地に赤い爪痕を残しつつ遙か彼方にまで引き摺られていき、その後には破損したパーツと熱せられてドロドロに溶解したコールタールの黒い煙、鼻孔を刺激する異臭だけが取り残されていたのだった。
そして高速道路で横転した一台のスポーツカーは強化アルミで作られた薄いフェンスを突き破り、高さ数十メートルもある場所から落下して死んだのである。
偶然にも、その一部始終はバックミラーに設置されているカメラで撮影されており、運転が好きだったはずの父親が泥濘にハンドルを取られて慌てふためいている姿がチラホラとブラックボックスに録画されていた。車に乗っていた遺体からでは身元が判別できなかったので、所持していた免許証とその映像を元にして父だという事が分かったのだった。
現場検証をした警官は言う。
普通の自動車事故には急停止するタイヤの後が道路に必ず残る。
だが、カーレースの映画のように一切のブレーキ痕は見付からなかった、と。
私の弟が殺された時の話をしよう。
「なあ、プールの底に落ちてる白いアレ、何個取れるか競争しようぜ」
「いいよ」
「ただし、息継ぎ無しでな」
「えー。息しないのはキツイよ」
「なんだ、出来ないのかよ。なさけねーなー」
「だってプールは広いんだから、息継ぎ無しだと2か3つぐらいしか拾えないじゃん。勝負にならないよ」
「白い奴で遊んでいるのが先生に見付かるとウッセーだろ。だから、潜ってる時だけってルールにした方がバレないって」
「……それはそうだけど」
「よし、じゃあ決まりな。はい、いちにのさん!」
「あ、ずるいよ!」
その後、プールの授業を行っていた教師が生徒達を水から引き上げさせるも、1人の子供だけがいつまでも水面に顔を付けたまま浮かんでいたのである。始めは溺死の真似をした冗談だとクラスメート達は笑うも、教師が無理やり引き上げても動かずにいる姿を見て男子と女子が悲鳴を上げたのだった。
偶然にも、他のクラスの授業参観に来て教室内を撮影していたホームカメラにその二人の会話だけが録音されており、後の声は授業に遮られて聞こえなくなってしまったが遊んでいる最中までは元気だったことが伺えたのだった。
解剖医は言う。
掴まれて無理やり溺死されられたのなら、死後に浮かび上がってくる紫色の死斑が見付かる。
だが何も無かったので他殺ではない、と。
※
「どうして、それが殺された話しになるんだ?
どう聞いても事故死だろ」
と。
友人に訝しんだ目で尋ねられた。
私は口を付けていたコーヒーカップを受け皿にソッと戻す。
「考えてもみてくれ。一家の人間が立て続けてに、しかも各自が異なった場所で歪な事故死に遭うなんてあり得ると思うのか?」
「お前には悪いが、そういう不幸なメに遭う奴も世の中には居るだろうよ」
「……また、それか」
「え?」
「いや、なんでもない」
私がまたコーヒーに口を付けたので、友人は苦々しく言葉を続けていた。
「それに、誰かに殺されたというのなら、カメラにも撮影されず、警察に疑われもせずにどうやってやるんだよ?
そっちの方があり得ないだろ」
「死神なら可能さ」
私がボソッと呟くと、友人は目を丸くして驚いていた。
「それマジで言ってるのか」
「ああ」
「マジなのか……」
そう友人は言うと、いつの間にか私のことを哀れんだ瞳で見詰めていた。
それも仕方ないだろう、と私は思う。
兎角、人間というモノは好き嫌いは関係なく弱者を見逃せないように出来ており、少しでも哀れみが掛けられるのなら挙って憎らしい言葉や視線を投げかけてくる。まるで道端に落ちている吐瀉物を誰も踏まないかのように人間は弱者を無視できず、眉を顰めて避けていくしかない。
家族を亡くした時、そういった黒い哀れみを友人や知人から何度も掛けられた私には分かる。どうせ、この友人も例に漏れず、私が不幸な事故死で家族を亡くして心労が溜まっている、とでも考えているのだろう。
下らない。
もう、そんな同情は沢山だった。
私は苛立ったように言った。
「お前は死神の存在を信じていないようだな」
「当たり前だ」
「それは、その存在を見た事が無いからだろ?」
「……ああ」
「ふふふ」
「何だよ、何が可笑しい」
私は怒鳴り返した。
「それが滑稽な言いぐさだからだよ!
おまえ等みたいな奴は、揃いも揃って同じようなことを口にする。偶々、不幸が重なっただけだとか。不運な奴は他にもいるとかな。それが糞みたいな考えだって気がつかないでベラベラと囀る!
他にも不幸な事件に遭っている奴がいるから死神なんて居ないではなく、どうして不幸の数だけ死神が存在して居るんだと考えられないんだ!」
「お、おい……落ち着けよ」
「私は落ち着いてる!
お前こそ、落ち着いて考えろよ!
世の中に起こる不可思議な事故死は全て死神の仕業なんだぞ。恐ろしくないのか」
「落ち着けって。お前、どうかしてるぞ」
「どうかしているのはおまえ等だ!
どいつも此奴も、さも分かり切ったような顔をして世の中そういうモノだって言いやがる!
そうだよな、始めから諦めたフリをすれば何も考えずに楽だからな!」
「落ち着けって。――その人も怯えているじゃないか」
友人は私の背後にぴったりと座っている老婆を指さしていた。熱くなっていた時は気が付かなかったが、確かに微かに震えているのが服越しに伝わってきた。
私は鼻で笑う。
「ああ。此奴か。此奴のことは気にするな」
「いや、気になるだろ。誰なんだよ」
「名前なんか知らない。公園で寝泊まりしていた浮浪者だ。私に協力して欲しいから金で買った」
「……それって売春か?」
「違う。私が話した3つの事件を思い出してみろ。それぞれが他人を巻き込まずに1人だけが殺されている。つまり死神は周囲に大勢いようが、個人だけを狙うと言うことだ。俺は、その盲点を突こうと考えた」
友人の顔色が曇る。
「まさか、それって他人と密接していれば巻き添えになるから、簡単には死神も手出しできないだろう、って考えなのか?」
「その通りだ。だが、奴等もバカじゃないから、これは一時しのぎの作戦に過ぎない」
「……おいおい。人間を死神の盾にするって正気かよ」
「狂っているのは、死神に殺されても平気な顔をしているこの世の中の奴等だろ!
何故、考えることを止めてしまう!
それこそ死神の思うつぼだろ!
私はお前達みたいに諦めないぞ!
私の家族を殺した死神になんかには絶対に負けない!」
そう怒鳴った私は冷えたコーヒーを一気に飲み干し、懐から取り出した2枚の紙を友人に見せ付けてやった。
「これが、その証だ」
「……それが?」
「ああ」
「それって、アメリカ行きの航空チケットじゃないか」
「ああ、そうだ。私は、死神に勝つために少しの間だけ死ぬことにしたんだ。奴等にとって、私を殺せないことが最大の敗北だからな。そして、奴等の勝利である死とは、一般的に心臓と瞳孔が止まった時の事を言うだろ。だから、その状況を擬似的に作り出す為にアメリカに行くのさ。日本では、許可が下りそうにないからな」
「……え」
「いいか。人工心肺装置で血液循環や酸素などを機械で送り出し、一時的に心臓を止める技術は30年以上も昔からある。だが、それだと心臓と機械が入れ替わっただけなので、まだ死んだとは死神も思わないだろう。奴等は猜疑心の塊だ。だから、まず身体の細胞が死滅しにくい13度以下の超低体温にしてから、その人工心肺装置すらも10分だけストップさせてしまうんだよ。これなら心筋と脳を痛めないようにしたまま、ギリギリまで死に近づく事が出来る。そこまでやれば、死神だって死んだと疑わないだろう」
「……それ本気なのか?」
「ああ。本気も本気さ。死神に勝つには、この方法で死を演出するしかない!」
惚けた顔をした友人は私を見て、ごくりと唾を飲み干していた。もどかしそうに喉を鳴らしてはいるが、もう何も言えないようであった。
それも仕方ない、と私は思う。
本当にナイフを突きつけられた被害者の恐怖や行動を理解してもらうには、実際ナイフを突きつけるしかないのである。それ以外の理解者は全てまやかしであり、欺瞞でしかない。
私はスッと立ち上がり、友人に頭を下げた。
「コーヒー、ご馳走さま。落ち着けたよ。しかし、そろそろ飛行機の時間なので行かねばならない」
「……ああ」
「それでは失礼するよ」
そう言って私と浮浪者の老婆が揃って友人の部屋から出ようとした時、背後から声を掛けられた。
「……なあ、お前はその話をするためだけに今日は尋ねてきたのか?」
「いいや」
「じゃあ、何をしに俺の所へ来たんだよ」
「さっき言ったろ。誰かに接近していないと死神に殺されるかもしれないって。それは多い方が良いに決まってる」
すると友人の顔色がサッと青くなっていた。
「……お、お前、まさか友達の俺まで盾として理由したのか」
「ああ、悪かったな。空港は閑散としているし、フライトまで時間があったんだ。私は、どうしても死神に負けるわけにはいかなくてね」
「信じられない……」
そう俯いてしまった友人に背を向け、私はとっとと呼んでおいたタクシーに乗り込んで空港に向かった。そしてなるべく人混みに紛れ込み、アメリカ行きの飛行機に乗り込んだのである。
心臓停止の手術と浮浪者の老婆に金を支払っても、家族が死んだことによって手にした保険金がまだ残っていたのでファーストクラスでも良かったのだが、私は人間が密集しているビジネスクラスを選んだのだった。
最後まで気を抜いてはいけない。
私はフライトアテンダントから熱いコーヒーを受け取り、それを一口すすって微笑んでいたのだった。
※